ふたりのフラグメント 竜の心臓

立石 凜

01

   ***


「昔の昔。そのまた大昔のことです――」

 静かな夜だった。

 まず、ふたつの影が在った。

 石造りの堅牢な建築。直方体の広い空間。高い天井に、吹き抜けに面した2階の廊下には、扉がずらりと並んでいる。

 一方の影は、分厚い本を開いて音読をしている。おとぎ話のようだ。もう一方は、身じろぎもせず聞き手に徹している。

 たくさんの長椅子が2列に配置され、その間にできた通路に毛足の短い絨毯が敷かれている。俯瞰すればそれはまるで、人の背骨と肋骨のようにも見えた。

 聞き手の影は、左の列を前から4番目、その中央に座っていた。左右の壁際には2階の廊下を支える柱があり、奥に並んだ窓は縦長で上部が弧状アーチになって、濃い夜の景色を切り取っている。

 話し手と、建物の外で囁かれる夜の虫の声とを除けば、室内は静寂に包まれていた。長椅子の列の先、その正面は少しの空間があって床が一段高くなり、背の高い講壇が列を見下ろすように置かれていた。

 話し手は講壇に立ち、壇上の書見台に置かれた分厚い本を繰る。

 その背後は、窓だ。彩色硝子ステンドグラスのそれが吹き抜けを、壁の高い位置から天井にまで届く、巨大な3枚の絵画を現していた。中天にかかる月の明かりが、彩色硝子を透過して色とりどりに、ふたつの影の間に落ちる。

 巨大な窓の下はさらに床が高くなって、大きな祭壇が聳えていた。

 月が真上にあるからか、弧状の窓から射し込む明かりは弱い。逆に彩色硝子の窓から射し込む明かりはとても強烈で、壇に立つ影は逆光になりその表情を窺い知ることはできない。

 その降り注ぐような月明りは、照らした場所だけを色彩豊かに、それ以外の影をより一層に暗く、闇の存在を際立たせていた。聞き手の影は、月明りを嫌うようにして窓から離れたその場所にいる。

「――こうして世界は、ふたつに別たれたのです」

 少しの間があり、分厚い本は閉じられた。話す影は軽く息を吐き、聞く影は立ち上がった。逆光と暗闇にありながら、確かに視線を交わした。そして消えた。

あとに残ったのは、色とりどりの月明かりと、虫の声だけ。


   1


「ぶぎゃっ!?」

 集合住宅アパートメントの林立する、狭い裏路地。

 男の下顎に、踵が勢いよく直撃した音だ。もともと人相の悪い男の顔はさらに歪み、口から黄ばんだ臼歯が1本飛び出した。そしてそのまま、住宅の外壁に激突して崩れ落ちる。

「おいっ、生け捕りにするんだよな!?」「あっ!? 生死は問わないんだろ!」「っるせえ!! とにかくやりゃ良いんだろうやりゃあ!」「つーか今あいつ、どうやってあの体勢からあんな蹴りいったんだ……?」「びびってんのかお前!」「ざけんな! 違げーよっ!」「とにかく囲め囲めぇ!! 逃げられたら金になんねぇぞっっ!」

 これは、怒号で恐怖をかき消そうとしているだけのようだった。迷路のように入り組んだ路地に、屈強な身体つきの、あるいは痩せぎすの男たちが集まっていた。さらに、曲がり角という曲がり角から追加で現れる。

 連中が距離をとって取り囲む中心には、ひとりの男がいた。

 連中の身なりは汚れ、ぼろ切れを継ぎ接ぎしたようでみすぼらしく、髪もろくに洗っていないようで、食生活も乱れているのか血色が悪い。対して、取り囲まれている男は見た目よりも動きやすさを優先した、しかし小奇麗な服装に身を包んでいる。そして何処から見ても目立つ、赤を赤で染め上げたような長髪を後頭部でひとつに結んでいる。

「はぁ、まだ来んのかよ……」

 短くため息を吐き、諦めたように弱々しく呟くと、片手で前髪をかき上げた。

「ぉらあっ!」

 集団の中から、雄叫びを上げてひとりの男が飛び出す。続けて、複数の方向から数人が駆け出した。最初に飛び出した男の手に握られているのは、鉈だ。

(さすがに、正々堂々1対1で戦おうとするほど子供じゃないか)

 斜め上からの大振りの一撃を、半身に踏み込んで避け、振り下ろされた上腕を掴んですれ違うようにして引き込む。と同時に、足をひっかけると、男は受け身も取れずに顔面から地に伏せた。追加で、その後頭部へ足裏を叩き込む。鼻骨が折れる音がし、沈黙する。

 次は、正面と右からふたり、細身と坊主がやってくる。細身の方は短い直剣。坊主は端が直角に折れた鉄製の配管パイプを持っていた。

 まず、声も上げずに突進する坊主が鉄管を振りかぶる。その瞬間に懐へ入り、

「っ!?」

 あまりに滑らかで素早い動きに驚いた坊主の、振り上げた肘と襟元を掴むと、反転しながら腰を落とし、投げる。鮮やかな背負い投げを食らった坊主は宙を舞い、連中の中に落ちて数人をなぎ倒した。

「死ねぇぇあっ!!」

 左後ろから放たれた細身による横薙ぎの一撃を、振り返りつつ、一歩下がって回避。返す手による二撃目も同じように避けると、腕を広げてがら空きになった懐へすかさず踏み込み、掌底打ちで顎を突き上げる――べぎっ。乾いた木材が割れるような音がして、後退った細身は血を吐き尻餅をついてそのまま倒れた。

「どけっ!」

 連中は一定の距離を保って格闘を見守っていたが、背後から集団を押し退け、頭ひとつ以上抜けた筋骨隆々の大男が躍り出る。

(時間がないってのに!)

 頭を鷲掴みにしようと突き出された手を寸前で掻い潜り、素早く背後へ廻る。男の膝裏を踏むように蹴ると、片膝をついて仰け反ったところへ首に腕を廻し、

「ぬおおっ!!」

 引き倒そうとするが、雄叫びを上げた男が逆に引っ張り投げようとする。腕を掴まれ脱することもできない。だが、その力に逆らわず、投げられるままに背中を丸めて大男の顔面へ、遠心力の乗った爪先をめり込ませた。

「ごぶばっ!?」

 鼻腔から血が噴き出す。たまらず手を放し顔面を覆う大男の首へ、今度は両脚を絡ませる。身体を伸ばして地面へ手をつくと、逆さ吊りの状態から思いっきり腰を曲げた。すると脚を絡ませた首がついてきて、大男は顔面から硬い地面に墜落した。

 この場の誰よりも強力な膂力を持つであろう巨漢が、ごく標準的な体格のひとりの男によって崩れ落ちた事実は、連中に大きな衝撃を与えた。連中の間には赤髪の男に対する恐怖心が芽生え始め、張り詰めた緊張感が漂い始める。だからなのか、

「ぅうおりゃああっっしょりゃゃああっっ!!?!?」

 恐怖心に耐えかねたひとりの男が、言語中枢に混乱を来した奇声を発しながら突っ込んできた。さらに、その男の両隣にいるふたりが触発され、大声を出して虚勢を張り走り出す。

 これ以上、時間を取られるのはまずい――赤髪はすぐに立ち上がり、先頭の男へ向けて走る。勢いを落とさず滑り込みながら足を払った。肩から倒れたそいつが腰に差していた短剣を抜き取り、太ももを軽く刺す。さらに抜き取り、そのまま2人目の太ももへ投げつけた。男は転び、太ももを押さえて顔面を苦痛に歪ませる。3人目は角材を持っていた。それを大きく振りかぶったところへ、手を伸ばし肘を押さえる。角材を振り下ろせず困惑する男の鳩尾を拳で突き上げ、下顎を裏拳で払い、最後に鼻面を殴る。男は膝から崩れ落ちた。

 赤髪の男は焦っていた。

(ただの浮気調査……のはずだったんだけどな)


 数時間前。

 何でも屋の事務所――と言っても、自宅を兼ねた一軒家の1階部分だけだが。その外観はともかく、応接室風に調度した内装。安楽椅子ソファに詰め込まれた綿はとうに潰れていたが、構わず座ったのは気弱そうな青年だった。彼女の浮気を疑っているらしい。

 学生時代からの付き合いで、今は別々の企業に勤めている青年と彼女。彼はひとり暮らしで彼女は実家住まい。仕事があっても毎日のように会っていた彼女だが、最近は一緒にいても妙によそよそしく、青年を避けているようだった。

 そんな彼女の様子を不審に思った青年は、何度かそれとなく探りを入れて見たものの、手応えはない。

 出かける彼女の後をつけようともしたが、社会的立場を持つ身としては憚られた。次第に探偵や興信所を頼るようにるようになったが、これもまた、空振りに終わる。その間、彼女の態度は変わらず。そして最後に頼ったのが……。

(俺だった)

 『何でも』屋。などと大言壮語に謳っているが、実態はそこらへんの探偵や興信所とさしたる違いはないだろう。それでも違いを述べるなら、探偵は猫探しをしないし、興信所はちらし配りの手伝いをしないくらいか。

 何をしても、彼女の青年に対する態度の真意は判らず。彼の話を聞くうちに、それはただの倦怠期ではないか――という、仮にも依頼を受ける側が言ってはならない、依頼の内容を頭から否定する文言が出かかったものの、浮気調査にしては多すぎる金額を積まれてしまったため、断れるはずもなく。

(痴話喧嘩はよそでやってくれないかな……。なんて言い出したら、何でも屋が務まるはずもないか)

 迷子の犬猫探しすらままならないだろう。だが実際、あれは意外と簡単な仕事で――背後からの大振りな一撃を、素早く足を踏み変え身体を捻って避ける。

 びゅんっ! と、諸刃の直剣が空を斬り、石畳の地面へ叩きつけられて爆ぜる。

「ぉらっ」

 捻りを回転に移行し跳び上がり、遠心力を乗せた踵を顎へ放つ。こきゃっ、と小気味よい音がして、男は尻を天へ突き出すように倒れた。

(ん? ……なんだ?)

 頬に違和を感じて触れると、鋭い痛みが走る。見ると、指先は血に染まっていた。背後からの攻撃とはいえ、余裕を持って避けたはずだった。今しがた倒した男が持っていた直剣を拾い上げ眺める。周囲を取り囲む連中は、相手に武器を与えてしまった失態に臆しているのか、再び攻めの手が止まる。

 剣は、これまでの連中が持っていたような廃材とは違い、研がれ、磨かれ、鍔や握りや柄頭には最低限の装飾が施されている。明らかに分不相応な持ち物だ。集中し、強く握る――しゅんっ。と、空気を裂くような鋭い音がして、剣身の周囲の空気が揺らいだ。それは陽炎が立ち上っているようにも見えたが、熱はない。剣身が纏うのは、だ。

(『魔術』か)

 魔術。それも、必要とされる手順の少なさにおいて、最も簡単で単純な部類。おそらく、握りに施された装飾の一部が、『元素文字の陣』を構成しているのだろう。この剣を握った者の魔力を原動力エネルギーとして、魔術を発動させる仕組みだ。頬を傷つけられたのも、剣身を避けたつもりで、そこに纏わる風の魔術には気付かなかったから。そして先ほど振り下ろされた一撃は、石畳の硬い地面を、まるで果物を斬るようにして深く抉っていた。

「おい!」

 ひとつ大きな声を出して連中を睨み付ける。奴らはたじろいで、冷や汗を流し萎縮している。

「これ、お前らのもんじゃないだろ? 誰に貰ったんだよ!」

 返事はない。皆、次の標的にされたくないからか、あちこちを見渡して誰かに責任を押しつけようとしている。

「まあ、いいか。ほらっ」

 赤髪は剣を投げ――握りが手から離れた瞬間、剣身が纏っていた風は消失した――からからと乾いた音を立てて落ちると、連中からどよめきが起こった。自ら強力な武器を手放したのだ。赤髪の不可解な行動に、理解が追いつかないのだろう。

(こんな代物、俺にはもったいない)

「馬鹿がっ! 死にてぇのか!?」

 連中の中から、ひとりの男が飛び出す。その手に握られているのは、たった今、赤髪が手放した剣と同じものだ。まさかこの数がいて、1本しか持っていないわけがなかった。まとまった数を支給されているのだろう。……誰に? それは、この寄せ集め集団よりも上位の組織。それも、手作りではなく、大量生産の既製品を大量に手に入れられる組織だ。

「しぇあっ!!」

 真っ直ぐに突っ込んできた、風を纏う剣を振りかぶった男。振り下ろされるそれに抵抗を与えるはずの空気すら巻き込んで、最終的に人間には繰り出せないほどまで加速していた。上段からの一振りは、肩口から袈裟懸けに深く斬り込まれた。はずだった。

「……………………。あれ?」

 血飛沫の代わりに飛んだのは、地面に叩きつけられた反動で手から離れた、剣だった。宙に浮いた剣は魔力の供給源を失い、ただの剣に戻りくるくると回っている。

 ぱしっ。赤髪は回転する剣を掴み、前に突き出す。空気を裂く滑らかな音がして、目の前の男の耳を片方、抉り取った。

「――ひっ、ぎゅわああぁぁぁっっ!??」

 男が転げ回る。ぽとりと落ちる耳。かつてそれがくっついていた場所を両手で押さえるが、指の隙間から血液が噴水のように迸る。

(練度が低い。宝の持ち腐れだな。慣れない事をするから、魔術に振り回されてる)

 武器を与えられただけの単なる数合わせにすぎないようだ。赤髪が再び手に持った剣を放り投げると、1本目に投げたものの真横に落ちる。それを急いで拾い上げようとする男がふたり。前屈みに手を伸ばしたところへ、ひとりの顔面に爪先を食い込ませ、もうひとりが顔を上げたところへ、脳天に踵を直撃させた。二振りの剣は再び地面に転がる。

 赤髪は挑発するように大きく手を広げ、清々しい表情で首を傾げた。

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