ひとりごと
忘れることのできない、十八歳の誕生日の夜、アネットがあの秘密を打ち明けてくれたあと、あたしはずっと黙っていた。そして涙も出なかった。体が機械だからじゃなくて、感情がどこかに浮いていて、実感がどこにも降りてこなかった。
でも、夜が更けて、部屋に一人で戻って、ベッドに腰掛けたとき、急に「あの日」のことが蘇ってきた。あの白い部屋。目を覚ましたら、見知らぬ天井で、知らない匂いのする空気。白衣の女性がそっと笑って、言った。
「おかえりなさい」
あの時は、ただの「入院していた患者への優しい言葉」くらいに思っていた。でも、本当の意味は、違ったんだ。
そのときはピンと来なかった「おかえりなさい」の言葉。理由もわからず、自分の「亡骸」をホールで見せられて、そして地中に吸い込まれていくのを呆然と見送った、あの瞬間。あれはあたしの「葬式」だったんだ。あたしが確かに「いったん死んだ」ことの、証だったんだ。
そうか。あの時、確かに死んだ「あたし」がいて。そして今、ここにいる「あたし」は、そこから戻ってきた、「もうひとりのあたし」なんだ。そう思った時、点と点が、音もなく、でも確かに、つながって線になった。
バラバラだった思い出のピースが、静かに、きれいに、はまっていく。あたしの中のパズルが、ようやく、全体像を見せてくれる。
あたしは、戻ってきたんだ。それは奇跡みたいなことだったのかもしれない。でも、ちゃんと、私は「帰ってきた」んだ。そして、あの「おかえりなさい」は、誰よりも早く、「新しいあたし」に贈られた、最初の言葉だったんだ。それが今、ようやくわかった。十八歳の誕生日。それは、私が「ほんとうに」この体と共に生き始めた日だった。
夜も深くなって、家の中が静まり返ったころ。廊下の明かりだけを頼りに、あたしはゆっくりとアネットの部屋をノックした。
「ねえ、まだ起きてる?」
「うん。入って」
ベッドに腰かけた彼女は、少し眠たそうな顔をしてたけど、あたしを見るとすぐに姿勢を正した。あたし私はその横にそっと腰を下ろして、しばらく黙っていた。言葉にするのが、怖かったのかもしれない。
「ねえ、ありがとう」
小さな声で、ようやく口を開いた。
「今日、話してくれて、本当にありがとう。すぐにうまく受け止められたわけじゃないけど、でも、ちゃんと、わかったよ。あたし、もう“前のあたし”じゃないって」
アネットは何も言わず、ただ静かにうなずいた。
「でもね……ずっと思ってたの。もし、あの事故のあと、戻ってこられなかったら……私は、もう誰の手も握れなかったし、アネットの声も聞けなかった。パパやママと笑うこともなかった。何もかも、なくなってたはずだった」
あたしは自分の胸に手を当てた。
「この心臓がどういう仕組みかなんて、もうどうでもいいの。ただ、こうして『誰かを想える』ってことが、たぶん『生きてる』ってことなんだと思う」
アネットの目に、じわっと涙がにじんだ。
「うん。あたしも、そう思ってた」
あたしはアネットの手をそっと取った。
「聞いた直後はね、『機械の体なんて聞いてなんとなく嫌だ』って思ったよ。普通じゃない自分が、こわくて。でもね、今なら思える。『命』って、こうして誰かとつながれることなんだって」
「うん」
「アネット、ずっと黙ってて苦しかったでしょ。ごめんね。でも、あなたが見守ってくれてたから、あたしは気づかないまま、安心して過ごせた。あなたの嘘は、優しい嘘だった」
「苦しかったよ。でも、ううん、苦しかったけど……毎日、話してくれるお姉ちゃんがそこにいてくれたから、それだけで良かった」
あたしは思わず笑った。
「じゃあ、これからは、もう隠し事はなしで、ね。少しずつでいいから、もっとちゃんと「あたし」を受け入れていくから」
アネットはぎゅっと私に抱きついてきた。
「お姉ちゃんは、お姉ちゃんだよ。最初からずっと、私の、大切なお姉ちゃんだよ」
彼女の柔らかい体温が、あたしの頬に触れた。そしてゆっくり目を閉じた。機械の体でも、こうして人のぬくもりを感じられる。たとえ人工の皮膚でも、そこにこぼれた涙は、確かに心を潤す。
「ありがとう。生きてて、よかった」
それはきっと、あたしにとっての“再出発”の言葉だった。
そして、あたしはいま、鏡の前に立っている。心臓、いや体内を冷やすための冷却水ポンプの音がたまに響く。心なしか、それも以前よりも「自分のもの」に感じられるようになってきた。この体で、あたしはなにができるんだろう。この体だからこそ、できることって、あるんだろうか?
事故の前、あたしは「普通の高校生」だった。得意なことも、苦手なことも、特に大きな夢もなかった。でも、いまは違う。あたしは、もう一度「生きる」ことを選ばれた存在だ。その意味を、少しずつだけど、自分の中で考えるようになった。
大学では、人の心について学んでいる。感情とは何か。意識とは何か。機械は人の心を持てるのか。ふと気づけば、自分自身の問いに直結するようなテーマばかりを選んでいた。
ある日、授業で「クオリア」についてのディスカッションがあった。定説ではつい最近まで「痛み」や「喜び」といった主観的な感覚は、数値化できないといわれていた。機械には再現できないと断言する教授の言葉に、私は、そっと手を上げた。
「あたし、機械の体で生きてます。でも、いまここにいて、あなたの声を聞いて、緊張して、心臓が高鳴って。それが「心」じゃないと言われたら、すごく、さみしいです」
その場は少し静まりかえった。でも、私は不思議と怖くなかった。
その夜、アネットに言った。「ねえ、あたし、将来、人の心を「理解する」仕事がしたいなって思ってる」
「カウンセラーとか?」
「それもいいなって思う。あるいは、人工知能とか、人間と機械のあいだをつなぐ分野。あたし、たぶんその「あいだ」にいるから」
アネットは、ふっと微笑んだ。
「いいじゃん、お姉ちゃん。それって、すごく“お姉ちゃんらしい”と思う」
「お姉ちゃんらしい」
アネットのその言葉が、なによりうれしかった。あの事故で一度、あたしの「時間」は止まった。でも、いままた動き出している。機械の体で目覚めたあたしは、「前と同じように」生きてきた。でも、これからは、「前とは違う」からこそ、生きていける自分になりたい。
この体で、誰かを救えたら。この体で、誰かの苦しみに寄り添えたら。この体で、私の「心」が、誰かの「心」に届いたら。それが、きっと、あたしがここにいる意味なんだと思う。未来は、まだ遠くて、形もはっきり見えないけど。でも、もうあたしは、胸を張って言えるの。「この体で、生きていくよ」って。
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