タンポポ
「それでは次は、ケッペンの気候区分についてみていきたいと思います。皆さんは明日までにプリントの空欄を埋めておいてください」
号令と同時に、教室にいる生徒全員が立ち上がる。愛もその声に従い、「礼」の掛け声と同時に教員へと頭を下げた。
妙な感覚だ。先生たちの声も、時計の針が進む間隔も、いつもと変わらないはずなのに、今日は時間の流れがいつもより早く感じる。それだけ、私自身が落ち着いているということなのだろうか。
4限目の授業を終え、生徒たちが1年3組の教室から出ていく。愛も教科書とノートをしまうため、廊下にある自分のロッカーへと向かい始めた。
梨深と約束した、昼休みの時間だ。私もそろそろ、覚悟を決めなければ。
教材をロッカーの中へ収め、愛は一度立ち止まって辺りを見渡した。周囲へ眼を向けると、そこには愛のことを不気味がって距離をおいている学生たちが大勢いた。
こうもあからさまな態度をとられると、なんだかこちらも
愛は「ふっ」と小さく笑いを浮かべ、1年1組の先にある階段へと歩き出した。
梨深たちが結葉の写真を消してくれる保証なんてない。けれど、それでも私はいかなくてはならない。だって結葉は、私のたった一人の親友なのだから。
階段を一段ずつ踏みしめ、屋上へと向かっていく。その間、多くの学生がそばを横切っていったが、愛はそのことに気を留めず、ただひたすらに前を見つめていた。
迷いはない。けれど、やっぱり少し怖い。いや、当たり前か。だって私も、こんな雑草でも、ちゃんと生きているのだから。
屋上の扉を開き、雨上がりの青空が目に入る。すぐそばからは水滴の滴る音が聞こえ、地面には大きな水たまりが出来ている。愛は唐突な陽の光に一度目をくらませたが、その後、奥に4人の人影があることに気づいた。その中には、愛の知らない顔が一人紛れ込んでいた。
あれは、誰だろう。梨深とその取り巻きの二人は分かるが、あれは……男子生徒だろうか。濃い眉毛と、それに見合うほどにいかつい面の顔。Yシャツの袖は両手とも捲られており、服の下からは発達した筋肉が顔を覗かせている。梨深の彼氏だろうか? いや、それはどうでもいい。問題なのは、なぜ彼がここにいるのかだ。
愛は予想外の光景に一瞬驚いたが、すぐさま心の安定をはかった。足踏みに沿って、ピシャンという音とともに水しぶきが上がる。
「ねぇ、どうして部外者が1人増えてるの?」
その質問を待っていたかように、梨深の口が開く。
「は? 何言ってるのあんた。海人は私の彼氏だし」
そういえば、そんな噂もあったな。苗字は確か、近藤だっただろうか。「梨深と2年の
「お前が、俺の彼女をいじめたのか」
海人がくぐもった声を発しながら、ぎらついた目で愛を威嚇する。
「はい、先輩の言う通りです。私が梨深をいじめました」
愛の無気力な一言に妙な恐怖感を覚え、梨深たちの足が一歩退く。けれどそれも束の間の出来事であり、すぐさま海斗が愛の方へと近寄ってきた。
「私がいじめました」というのは、あまりにもユーモアのない言い方だったかもしれない。けれど、近藤先輩を挑発するには十分すぎる一言だったようだ。
海斗が愛の制服の襟を掴み、鬼のような形相で怒りの視線を投げつける。
「お前、自分が何をしたか分かっているんだろうな」
「はい。もちろんわかっています」
海人の振りかぶった右手が、愛の顔面に直撃する。同時に、頬へジンジンとした痛みが伝わってきた。
痛い。やっぱり、かなり痛いな。まぁ、それもそうか。女同士でなく、男性に頬を叩かれたのだから。けれど、これでいい。父から殴られた時と比べれば、全然軽いものだ。
海人に突き飛ばされ、愛が勢いよく尻もちをつく。梨深たちはその様子を面白がり、くすくすと笑い声をあげていた。
あぁ、結葉もきっと、同じような目にあっていたんだろうな。痛かっただろうな……。苦しかっただろうな……。私がもっと早くに駆け付けていれば……。
残悔の念が、愛の薔薇を漆黒に染めていく。海人は倒れた愛のことを見下し、にやりと微笑みながら目元を緩ませた。
「女には、女にしか分からない苦しみを与えないとなぁ」
歪んだ顔をした海人が、制服へと手を伸ばす。愛は咄嗟にその手を振り払い、なんとか体を起こして立ち上がった。
「大人しくしてくれるなら、悪いようにはしねぇ」
海人から発せられた薄気味悪い声と同時に、愛は逆方向へと駆け出した。息を切らしながら入り口近くにある屋上の柵へ背中をつき、後ろから梨深たちが後を追ってきているのを確認する。
これでいい。私はエサであり、あいつらは獣だ。梨深たちがこの機を見逃すはずがない。
愛は梨深たちがこちらへ近づくのを見計らって、屋上の柵を大きく跨いだ。わずかに柵からはみ出した細い地面へと足をつき、神妙な面持ちで梨深たちを見つめる。獣たちは愛のとった行動に驚き、すぐさまエサが逃げるのを防ごうと声を荒げた。
「おいお前……何をやってるんだ!?」
「見てわかりませんか? 私、今から死ぬんですよ」
赤く腫れた頬と、風でなびいた髪が重なる。空には七色の虹が現れ、愛がこれからたどる運命を示唆していた。
「おい、待て! 早まるな!」
「そうよ! お願い、早く戻って!」
愛の言葉に反応し、梨深と海人が急におざなりな態度を見せ始める。
そんな声に、私が今更耳を貸すとでも思っているのだろうか。屋上という誰もいない場所を選んだのは、おまえたち自身だ。目撃者が梨深たちしかいない以上、当然ながら、今この場にいる者が私を突き落とした犯人として怪しまれることだろう。あいつらは、それが怖くて私を止めているに違いない。
海人が反逆を止めようと、一歩ずつ愛のそばへ近寄っていく。
「な、なぁ……俺が悪かった! だから考え直してくれ! お前が死んだら、悲しむ人だってきっといるだろう!」
「悲しむ人」と聞き、愛は該当する人物を頭に3人思い浮かべた。
お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、ごめんね。私は頭が悪いから、こんな方法しか思いつかなかったよ。こんな弱い私を、どうか許してください。そして、結葉。守ってあげられなくてごめんね。私のせいで、あなたへ苦しみを招いてしまった。本当に、ごめんなさい。
体をのけぞらせ、全身で天を仰ぐ。その瞬間、愛は屋上の入り口からわずかに漏れ出たシャッター音を聞き取り、小さく安堵の笑みをこぼした。
母さん、私ね、ちゃんと友達作れたよ。こんな嫌われ者にも、親友が出来たんだよ。本当に、嬉しかった。友達なんか一緒できるわけがないって思ってたけど、人生って案外、何が起こるか分からないものだね。母さんが「友達を作れ」って言ってた意味、今ならちゃんとわかる気がするよ。
重力に従い、愛の体は少しずつ地上へと近づいていく。不意に捉えた学校の頂上からは、すべてを諦めたかのような表情の梨深が顔を覗かせていた。
それでいい。梨深が結葉にトラウマを植え付けたように、私もあなたへ呪いという種を植え付ける。私を突き落としたのは、まごうことなくお前自身だ。その意味を、後でじっくり噛みしめるといい。
……それにしても、今日は空が綺麗だな。さっきまであんなに雨が降っていたというのに、今はその面影すら見当たらない。蒼に染まった空と、消えかかった七色の虹。そして、3匹の鳥が仲良く空を飛んでいる様子も見える。けれど、すごく遅いな。まるで、スローモーションの映像を見ているみたいだ。
途切れかかる意識の中で愛が最後に目にしたのは、ゆらゆらと宙で舞い踊るタンポポの種だった。
タンポポ 花言葉は「幸せ」
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