迫る訣別
魔力の繋がりが切れた。
「あんたのこと、憎んではいないよ」
誰かの声がした。砂を擦る足音に
「――私は貴方を恨んでおります」
黒髪と黒い眼をした
「クウェアレア家
女は彼を
「私とて短剣の民
書物の民の言語で返すと、予想に反して女は薄く笑んだ。
「ならば結構です。互いに最低限の務めを果たすこととしましょう」
冷ややかに
それから三十年近い時が経ち――また、誰かの声がする。
「あんたは酷い親だったけど、ずっと酷かったわけじゃない」
シェズムーガロ・ロジェ・レドーネはかつて父親だった。短剣の民を
「――キルヴィール!」
絨毯を駆ける足音に目を覚ましたか、母親譲りの黒い両眼が寝台の上から彼を見上げた。熱で
「父さん」
幼い声が苦しげに安堵した。当時、息子は七つかそこらの歳だ。
「お前まで倒れたと聞いた時は、どうなるかと思った……」
彼もまた深く息をつく。何を恐れていたかは覚えていない。差別主義者として知られていながら王命に従い短剣の民を妻とした彼を王は重用したから、妻が病に倒れてもう長くない今、子まで失えば自らの地位が危うくなると考えたのだったか。いずれにせよ彼は一目で息子が倒れた原因を見て取った。
「魔力切れだ、愚か者。己の限界も見極められない者に魔術を扱う資格などない。二度と調子に乗るな」
朝、
「……分かった」
息子は青い顔で答えながら毛布に潜った。無理に起こしていた上体を再び横たえれば
「ならば良い。他の者から魔力を受け取る術を教えてやろう。私の後に続いて術式と詠唱を覚えろ。形になったら指輪を返して、私の魔力もくれてやる」
小さな手を開かせて、半ば握り込むように着けられていた指輪を抜き取った。思い出した術式は書物の民の魔術が八つの系統に分かれる前の極めて古いものだ。魂のごく一部を繋ぐだけの術はしかし他者の魔力を譲り受けるためには十分で、かつ術式も詠唱も
ところが子供は手を動かそうとしなかった。
「でも、父さんは?」
身を案じられているのだと理解するまでに相当の時間を要した。獣の分際で、今まさに高熱で苦しんでいる最中だというのに。湧き上がった感情の名前はもう思い出せない。
「私の魔力なら今のお前の魂など三回は満たせる」
彼はただ言い放って術式を描いた。息子は頬を緩めると弾む手つきで後に続いた。
記憶はここで途切れる。――誰かの声が、近づいてきている。
「一つ違えば、こんなことにならないで済んだかもな」
声が言ったことの意味を理解するだけの思考も、今ここで起きていることを認識するだけの知覚も、彼にはもはや残されていない。今の彼にできることがあるとすれば、誰かの声に誘われた記憶を、壊れた幻術のように繰り返すことくらいのものだった。
「――ディアリス様が亡くなられたらしいぞ」
石畳を叩くように、足早に彼はアデッサの町を行く。上官が主導して引いた道は強力な魔術で保護され、数十年が経っても造られた当時の形を留めていた。何百年でも残りつづけるに違いない
「金のために魔物に嫁入りしたとかいうあのお嬢様か?」
「
聞きたくもない言葉ばかりが耳に入った。汚らしい響きの言語で無知
「……父さん、」
獣の子が駆け寄って来た。黒髪は幼い頃よりいくらか硬く真っ直ぐに伸び、あの美しい獣の面影がまた遠のいている。陽に当てずとも透けることなく血色の良い肌も暗緑の服をひどく
「その
彼の意を受けた泥の兵が拳を振り下ろした。子供は頭を
「今はまだ子供だから家に置いてやる。だが、出て行っても不自然ではない歳になったらすぐにでも叩き出すから覚えておけ!」
腹立たしくて仕方がなかった。無知で
しかし脳裏を
「でも後戻りはできないんだ。そうだろう?」
飼っていた害獣を追い払って十年余りが過ぎた頃、アデッサが害獣の手に渡るのだと聞かされた。
魂を削って魔力に変え、魔力が枯れるまで泥の兵隊を創った。家中を埋め尽くすほど増えた意思なき兵を率いて官舎を
「――君が憎んでいるのは人族だけだと思っていたよ」
巣の主は胸から上を壁に寄せかけたまま、かつての部下を見上げ苦笑した。周囲に飛び散る血と泥と術具の残骸だけが激戦を物語る。
「害獣どもにアデッサを明け渡すつもりなら、ここで殺す」
彼は怒りを抑えて静かに告げた。まだ泥の兵は残っており、対して相手の術具は尽きている。会話に応じる意思があるなら手を下す前に
しかし返ってきたものは答えではなく押し殺した笑い声だった。
「明け渡すわけじゃない。
意味が分からなかった。所詮、あの女は獣だ。獣は書物の民の考えを理解することも、書物の民に心を寄せることもない。たとえ百年を共に過ごしても変わることなど何一つない。
「撤回するつもりはないか」
ただこの男の命は惜しかった。男は書物の民で、害獣どもに味方した罪こそあれ、第一等魔術官の名に恥じない実力が好ましかった。
「そうしたところで、僕が助かるとは思わないな」
男の胸より下は元の形を留めないほどに潰されていた。
「もう話が通じないようだから勝手に
呼吸もおぼつかない状態のはずだがよく喋る。彼がそれ以上の
「あの害獣を手元に置いて何になる」
呟けば男の青い目が一瞬、哀しみの色を帯びて、急速に光を失う。
「
最後の数語はまともに発音されず、彼には聞き取れなかった。たとえ聞き取れても届くことはなく、届いたところで彼はとうに後戻りのできない場所にいた。彼は望みどおり獣たちの敵となり――三年後、かつての上官と同じく半身を潰されて地に伏していた。誰かの荒い呼吸が聞こえた。それから、鞘から剣を抜く音も。虚ろに落ちていく視覚がふいに黒い髪をした若者の姿を
「――今、楽にしてやる」
呼吸が
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