迫る訣別

 魔力の繋がりが切れた。まばゆい光炎に術式を焼き尽くされた巨兵が砂へかえり崩れ落ちる。眼下の熱と、浮遊感を覚えた時には遅かった。舞台櫓の倒壊に巻き込まれたシェズムーガロ・ロジェ・レドーネは彼の身体が潰れる感触に視界と思考と意識の大半を奪われた。

「あんたのこと、憎んではいないよ」

 誰かの声がした。砂を擦る足音にまぎれることなく奇妙に響き渡る若い男の声はしばらく止んで、しかし別の声の記憶を呼び起こす。

「――私は貴方を恨んでおります」

 黒髪と黒い眼をしたはかつて傲然と言い放った。書物の民ベルディアの格式にまるでそぐわない重厚なあんりょくの衣装が、この女とそのけつぞくいんしゅうを示していた。

「クウェアレア家さいこうのために私は売られたのです。さもなくば貴方のような魔族の小役人にとつぐことなど決してあり得ません」

 女は彼をにらみ獣の言葉でえる。書物の民のほとんどはこの言語を理解しており、彼もまた例にれず女の種族の言語を知っていたが、あの汚らしい発音を口にしてやる義理はない。

「私とて短剣の民ごときをめとるなど願い下げだ。お前を買った者は私ではない。人族を妻にしろとの陛下のご命令がなければ、今頃お前の全身は凍りついていると思え」

 書物の民の言語で返すと、予想に反して女は薄く笑んだ。

「ならば結構です。互いに最低限の務めを果たすこととしましょう」

 冷ややかにやわらいだ表情をなぞる肌はけるほどに青白く、くろとりの羽根に似て柔らかに巻く髪は高くくくられて、ほおからくびすじへ続く曲線を隠さない。これは獣だ、と彼は思った。しかし美しい獣だ。ほんのひととき彼を映した両のまなこは夜闇のように深く暗くそして白銀に光っていた。めいもうの森の奥深くから彷徨さまよい出たこの獣を叩き折る様を一瞬思い浮かべた彼はまどいに身を震わせた。

 それから三十年近い時が経ち――また、誰かの声がする。

「あんたは酷い親だったけど、ずっと酷かったわけじゃない」

 シェズムーガロ・ロジェ・レドーネはかつて父親だった。短剣の民をってしまった彼の子は当然に切り落とされた頁シャルガ・セトルウィスで、しかし彼はその子のもとへと急いだことがある。

「――キルヴィール!」

 絨毯を駆ける足音に目を覚ましたか、母親譲りの黒い両眼が寝台の上から彼を見上げた。熱でる頬だけが似ていない。

「父さん」

 幼い声が苦しげに安堵した。当時、息子は七つかそこらの歳だ。

「お前まで倒れたと聞いた時は、どうなるかと思った……」

 彼もまた深く息をつく。何を恐れていたかは覚えていない。差別主義者として知られていながら王命に従い短剣の民を妻とした彼を王は重用したから、妻が病に倒れてもう長くない今、子まで失えば自らの地位が危うくなると考えたのだったか。いずれにせよ彼は一目で息子が倒れた原因を見て取った。

「魔力切れだ、愚か者。己の限界も見極められない者に魔術を扱う資格などない。二度と調子に乗るな」

 朝、たわむれに息子の魔力を測った時はもっと強かった。だからじゅつの指輪を与えて魔術のほどきまでしたのだ。獣の子にしては驚くべきことに息子はすぐに第一階位の初等魔術をとくした。ただ何が面白いのか繰り返し魔術を見せてきて、飽きて少し部屋を離れればこの様だ。

「……分かった」

 息子は青い顔で答えながら毛布に潜った。無理に起こしていた上体を再び横たえればやわい黒髪が枕元に広がる。羽が散るようなその光景は父の心持ちをいくらかなぐさめた。

「ならば良い。他の者から魔力を受け取る術を教えてやろう。私の後に続いて術式と詠唱を覚えろ。形になったら指輪を返して、私の魔力もくれてやる」

 小さな手を開かせて、半ば握り込むように着けられていた指輪を抜き取った。思い出した術式は書物の民の魔術が八つの系統に分かれる前の極めて古いものだ。魂のごく一部を繋ぐだけの術はしかし他者の魔力を譲り受けるためには十分で、かつ術式も詠唱もやさしい。獣の子でもすぐ覚えられることだろう。

 ところが子供は手を動かそうとしなかった。

「でも、父さんは?」

 身を案じられているのだと理解するまでに相当の時間を要した。獣の分際で、今まさに高熱で苦しんでいる最中だというのに。湧き上がった感情の名前はもう思い出せない。

「私の魔力なら今のお前の魂など三回は満たせる」

 彼はただ言い放って術式を描いた。息子は頬を緩めると弾む手つきで後に続いた。

 記憶はここで途切れる。――誰かの声が、近づいてきている。

「一つ違えば、こんなことにならないで済んだかもな」

 声が言ったことの意味を理解するだけの思考も、今ここで起きていることを認識するだけの知覚も、彼にはもはや残されていない。今の彼にできることがあるとすれば、誰かの声に誘われた記憶を、壊れた幻術のように繰り返すことくらいのものだった。

「――ディアリス様が亡くなられたらしいぞ」

 石畳を叩くように、足早に彼はアデッサの町を行く。上官が主導して引いた道は強力な魔術で保護され、数十年が経っても造られた当時の形を留めていた。何百年でも残りつづけるに違いないえいの結晶が、今や煩い獣どもに踏み荒らされている。

「金のために魔物に嫁入りしたとかいうあのお嬢様か?」

はらわたを喰われたという噂は本当かね」

 聞きたくもない言葉ばかりが耳に入った。汚らしい響きの言語で無知もうまい極まるふうぶんを垂れ流す害獣どもには書物の民と魔物の区別すらつかないらしい。

 ていに戻ればようやく獣の声が聞こえなくなった。警護に残した泥の兵たちが音もなく動いてあるじを迎え、彼の意のまま扉を押し開けた。彼が望んだ静かで整然とした空間を、軽く不規則な足音が壊す。

「……父さん、」

 獣の子が駆け寄って来た。黒髪は幼い頃よりいくらか硬く真っ直ぐに伸び、あの美しい獣の面影がまた遠のいている。陽に当てずとも透けることなく血色の良い肌も暗緑の服をひどくかっこうに見せ、しかし何より許せないものはその眼だった。死んだ女と同じ夜の色がなまぬるうわづかいをするさまが心の底からまわしくて彼は叫んだ。

「そので――私に媚びるなと、何度言ったら理解するのだ!」

 彼の意を受けた泥の兵が拳を振り下ろした。子供は頭をかばおうとするが受け止め切れるはずもない。殴り飛ばされ転がっていった小さな体がざまに震えていた。

「今はまだ子供だから家に置いてやる。だが、出て行っても不自然ではない歳になったらすぐにでも叩き出すから覚えておけ!」

 腹立たしくて仕方がなかった。無知でまいで脆弱な獣どもは数ばかり多くアデッサをけがし、クウェアレアの女をろうする。書物の民はあれらを狩るがいを持たないどころか、口を開けば共生などとまいごとをほざく。害獣との共存に何の利があるのか。現にこれが道理を弁えないから床はまた泥で汚れたというのに。

 しかし脳裏をぎるいきどおりは遠く――誰かの声は、もう間近だ。

「でも後戻りはできないんだ。そうだろう?」

 飼っていた害獣を追い払って十年余りが過ぎた頃、アデッサが害獣の手に渡るのだと聞かされた。ぞうちょうして国を求めた愚か者がおり、陛下は今に至ってなおあれらを甘やかすのだという。彼にはもはや何もかもが許せなかった。

 魂を削って魔力に変え、魔力が枯れるまで泥の兵隊を創った。家中を埋め尽くすほど増えた意思なき兵を率いて官舎をきょうしゅうした。そこは害獣と害獣に与する裏切り者のそうくつだ。

「――君が憎んでいるのは人族だけだと思っていたよ」

 巣の主は胸から上を壁に寄せかけたまま、かつての部下を見上げ苦笑した。周囲に飛び散る血と泥と術具の残骸だけが激戦を物語る。

「害獣どもにアデッサを明け渡すつもりなら、ここで殺す」

 彼は怒りを抑えて静かに告げた。まだ泥の兵は残っており、対して相手の術具は尽きている。会話に応じる意思があるなら手を下す前にはたいろくらいは問いただしてやっても良い。

 しかし返ってきたものは答えではなく押し殺した笑い声だった。

「明け渡すわけじゃない。たとえるなら、育った子供に家のことを任せて隠居するようなものだ。人族はもう世界と向き合う彼らなりのすべを身につけている。君は十年クウェアレアと共に過ごして、何も思うところがなかったのか?」

 意味が分からなかった。所詮、あの女は獣だ。獣は書物の民の考えを理解することも、書物の民に心を寄せることもない。たとえ百年を共に過ごしても変わることなど何一つない。

「撤回するつもりはないか」

 ただこの男の命は惜しかった。男は書物の民で、害獣どもに味方した罪こそあれ、第一等魔術官の名に恥じない実力が好ましかった。

「そうしたところで、僕が助かるとは思わないな」

 男の胸より下は元の形を留めないほどに潰されていた。

「もう話が通じないようだから勝手にしゃべるよ。僕は知ってのとおり堅物で、それを気にしているからね、なんだかんだで君の身勝手なところが嫌いになれなかった。君の人族嫌いのせいで死にそうな今もね。おくがたが僕の妻と同じ病で倒れた頃には君の行いが彼女を追い詰めたのだという噂を否定するのにずいぶん苦労したものだし、君が息子を追い出したと知った時なんてひそかに彼を連れ戻そうとしたんだよ。これは遅すぎたようだけど……」

 呼吸もおぼつかない状態のはずだがよく喋る。彼がそれ以上のかんがいを抱くことはなかった。命乞いには聞こえない。では何が狙いか。本気でそんなことを考えていた。

「あの害獣を手元に置いて何になる」

 呟けば男の青い目が一瞬、哀しみの色を帯びて、急速に光を失う。

にごったね……君も。昔の君は、もっと……」

 最後の数語はまともに発音されず、彼には聞き取れなかった。たとえ聞き取れても届くことはなく、届いたところで彼はとうに後戻りのできない場所にいた。彼は望みどおり獣たちの敵となり――三年後、かつての上官と同じく半身を潰されて地に伏していた。誰かの荒い呼吸が聞こえた。それから、鞘から剣を抜く音も。虚ろに落ちていく視覚がふいに黒い髪をした若者の姿をとらえて、意識にたくした。あれは――。

「――今、楽にしてやる」

 呼吸がのどを震わせようとしたその時、黒い刃が彼の息をった。

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