第2話 「新しい名前、気に入った?」

 彼女が小さくうなずいた。

 その動きに手応えを感じた私は、満面の笑みを浮かべて宣言する。


「じゃあ、今日から君の名前はエニね!」


 彼女をおぶりながら森を歩く私の口から、その名前が何度も飛び出した。「エニ、可愛い名前でしょ」「エニ、お腹空いてない?」と、まるで新しいおもちゃを手に入れた子どものように繰り返した結果――。


「……うるさい」


 彼女が小さな声で呟く。

 その不機嫌そうな声に、私は思わず苦笑した。


「でも、エニって響きが良いでしょ? 気に入ったでしょ?」


 背中に感じる軽い体重と、揺れるモフモフの尻尾が可愛くてたまらない。

 時々、尻尾が私の背中をぺたぺたと叩いてくる。まるでダメ出しをされてるみたい。

 エニが名前をどう思っているのかはわからないけれど、何も言い返さないってことは、まんざらでもないんじゃないかな。

 そんな調子で会話を続けながら、森の中を進んでいった。

 

 森の中は相変わらず薄暗く、足元には無数の枝葉が散らばっている。

 エニをおぶった状態で歩くのは決して楽ではなかったが、背中に感じる彼女の体温が、不思議と疲れを和らげてくれる。


(……普段、ちゃんとご飯食べてなかったんだろうな)


 背中越しに感じる彼女の軽さが、そんな考えを浮かばせる。

 少しでも早く人がいる場所に辿り着いて、美味しいご飯を食べさせてあげたい。だけど、森はどこまでも続いていて、出口は見えそうにない。


「あ、エニ。寝ちゃダメだよ?  私も眠くなっちゃう」

「……眠くない」


 そう言いながら、私の肩に顔を埋めてくるエニ。

 その仕草に思わず笑みがこぼれる。

 

 ――どれくらい歩いた頃だろう。

 

 足元の感覚が少しずつ変わり、やがて木々の間から光が差し込むようになった。そのとき、私の目に、遠くに広がる草原と小さな村らしきものが見えた。


「エニ! 見て! 村だよ!」


 背中で眠っていたエニを揺すり起こすと、彼女は眠たげな目をこすりながら私の背中から降りた。そして、ぼんやりと村の方を見つめる。


「……ん、歩く」


 エニは寝ぼけ眼で私の少し後ろを歩き始めた。彼女の耳と尻尾がしおれている。

 村がどんな場所なのか、誰がいるのか、怖いのかもしれない。


「大丈夫だよ。一緒に行こ」


 私はエニの手を握りしめた。すると彼女は少し驚いたように私を見上げたけれど、やがて小さく頷いた。



 村の門をくぐった瞬間、焼き立てのパンの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

 どこか懐かしいような温かい香りに、ふっと力が抜ける。

 

 村は木々に囲まれた小さな集落で、どの家も手入れが行き届いている。

 窓辺には色とりどりの花が飾られ、小道では子どもたちが元気に走り回っている。


「すごいね、エニ。あの花、綺麗だよ」


 私が指をさして言うと、エニは小さく頷いた。

 でも、耳はまだ垂れたままだ。

 

 その耳が時々ピクピクと動くたび、通りすがりの子どもたちがキャッキャと声を上げる。

 エニは困ったように私の服の裾を掴んでくる。その仕草が愛おしくて、私は思わず頭を撫でてしまった。


 私たちが歩くたび、村人たちの視線がこちらに集まっているのを感じる。

 特に、エニに注がれる好奇の目が多い。

 

「獣人なんて珍しいねえ」

「ねえお母さん! あの耳、可愛い!」

「最後に見たのは……もう何年も前だったよねえ」


 そんな囁き声があちこちから聞こえるたび、エニは少しずつ私の後ろに隠れるように動いた。


「エニ、大丈夫だよ。みんな優しそうだし、気にしなくていいよ」


 私がそう言うと、彼女は少しだけ頷いた。

 村の広場近くで、野菜を売っているおばさんが声をかけてきた。


「珍しいお客さんだねえ。二人とも随分ボロボロだけど、大丈夫かい?」

「途中で変な人たちに襲われちゃって……できればご飯を食べられる場所を教えていただけたらと……」


 私が答えると、おばさんはすぐに指をさしてくれた。


「あそこに宿屋があるよ。あそこのご飯は絶品だよ! なんせ私が育てた野菜を使ってるからね!」

「ありがとうございます!」


「エニ、お腹空いた?」

「……少し」


 その声に嘘はなかった。私の後ろで、エニのお腹が小さく鳴っていたから。今は聞こえなかったふりをしておいてあげよう。

 宿屋に向かう途中、エニがそっと呟いた。


「……あたし、嫌がられてない?」


 その声には不安が滲んでいた。

 私は彼女を見下ろして、小さく笑った。


「そんなことないよ。みんな、むしろ可愛いって思ってるよ」


 エニは少しだけ頬を染め、小さく微笑んだ。

 その笑顔を見た瞬間、私の胸が温かくなるのを感じた。

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