第9話

 カチンと一華いちかさまがスイッチを叩けば、キッチンが光に包まれる。闇に浮かびあがっているかのようで、目がチカチカする。


 突っ立ってるあたしをよそに、一華さまはてきぱき働いていた。冷蔵庫から牛乳を取り出し鍋に投入。その鍋を火にかけてる間に、マグカップを2つ取り出して、ココアの粉末を入れていく。


 ちょっと待っててね、という言葉にあたしはなんとか頷く。


 一華さまと2人きり――お風呂に入る前と似たようなシチュエーションだけれど、深夜っていう付加価値がついている。


 何かが起こりそう。そう思ってしまうのは、あたしは、その何かってやつを求めてるからなんだろうか。


 こぽこぽ牛乳が熱される音だけが響く。


 一華さまは何も言わずに笑ってる。あたしはそれを見てるだけで満足だ。


 あたたまった牛乳をマグカップへ注げば、その飲み物は完成。


「はいできた」


 あたしの前に置かれたのは、ホットココア。


「ありがとうございます……」


「どーいたしまして」


 あたしはブラウン色の液体をのぞきこむ。向こうからはこわばった表情のあたしが見つめ返してくる。


 なんて顔をしてるんだろ。もっと喜べばいいのに。


 でも不思議と、喜ぶ気持ちにはなれない。


 ココアを飲んでみたら、ちょっとはマシになるかなって思ったんだけど、そうでもない。


 砂糖の入ってないココアはちょっと苦かった。


 なんだか落ち着かない。さっきよりもずっと胸がドキドキしてる。


「悪い夢でも見ちゃった?」


「そうじゃないんですけど」


 まさか、一華さまのせいだなんて言えなくて。あたしはココアを飲む。


「やっぱりかわいい」


「かわっ」


 ゴクリ。ちびちび飲んでいたココアを一気に飲みこんでしまった。アツアツの液体がのどを焼き、胃の中を蹂躙じゅうりんしていく。


 熱さを感じなくなってから、あたしは一華さまのことを見た。今の言葉はなにかの間違いか、ううん、きっとそうに違いない。


 でも、一華さまはあたしをあざ笑ってはなかった。


 ――あたしをとり囲んできたあいつらとは違う、やさしい笑み。


 そっと、まるで空中から舞い降りてくるかのように一華さまはあたしに近づいてきて、右手でもってあたしの頬に触れる。


 熱い。


 今しがた火傷しかけたココアよりもずっとたぎっていて、その熱が、あたしの頭をであげていく。


「うん、かわいいな。エリちゃんのお友達ってことを抜きにしても」


 なぜ、そこでアイツの名前が出てくるんだろう。


 そんな疑問は、一華さまの指先から伝わってくる熱と鼓動に流されていく。


 一華さまがほんのすぐそばにいる。鼻先と鼻先とがキスしてしまいそうなほどの距離に。


 吐息が、熱が、あたしという氷を溶かしてダメにしていく。


「私のものになってほしいんだ、ダメかな」


 一華さんの視線が、あたしの目に突きささる。


 とろけるような唇。彫像のような顔。神はきぬのように滑らかで、手足は締まっていて無駄なところがどこにもない。胸もお尻も一度見たら目を離すことができないほどに魅力的。


 そんな人が、あたしを求めてくれている。


 一華さまの右手が頬をで、左手もまたあたしを求めて伸びてくる。


 ぴとっと触れたのはあたしの左手。


 包帯のある場所を撫でてくる。


 細い指先から迸る熱に呼応するかのように手首の傷が痛みはじめた。


 ふっと、あたしをイジめてきたやつらの顔がありありと浮かんでくる。


 そのくせして、声だけは一華さんと同じで甘ったるい。


 悪夢そのものだった。でも、現実に味わったことでもあった。


 幻はすぐに消えさって、別の声が聞こえはじめる。一華さまとそっくりな声なのに、まったく別のもののように聞こえるその声があたしに訴えかける。


 それは、ここにはいない人の声で。


 ここにはいない人の、今にも崩れ落ちてしまいそうな表情で。


 そのかすかに震える声音に、荒れ狂う心の海がいでいくような気がした。


 手首はもう、痛くはなかった。


「ご、ごめんなさい」


 飛びだした言葉とともに、あたしは小さく後ずさる。その拍子に、一華さまの手があたしから離れていく。


 その指は、名残惜しそうにうごめていた。


 顔を見てられない。


 たぶん、あたしは取り返しのつかないことをしてしまった。


「ココアおいしかったですっ!」


 あたしはそう言って、寝室へと駆け出す。


 待って、という声が聞こえた気がするけれど、ホントに聞こえたのかは自信がない。あたしの心が見せた幻聴かもしれないし。


 寝室へと戻ってきて、やっと息をつく。


 胸に手を当てるとバクバクバクバク鼓動を打っている。こんなに速くて大丈夫なのかと心配になる。


 でもそれよりも心配なのは、一華さまは戻ってくるんじゃないかってことだった。でも、戻ってこなかった。たぶん、ココアを飲んでるんだろう。追いかけてきてないことにあたしはホッとしていた。


 捕まってたら、たぶん……。


 首を振って、あたしは布団にへ滑りこむ。


 向こうの方には変わらずアイツが眠ってて、スヤスヤ寝息を立てている。


「……アンタのせいなんだから」


 たぶんきっと、絶対そうに決まってる。


 あたしは毛布をかぶって、目を閉じる。


 思ったよりも早く訪れた眠りに、深く深く落ちていった。






 ばたんと寝室の扉が閉まる音が、遠く聞こえてくる。


 私の前にはふたつのマグカップ。


 私のと、あんずちゃんのだ。あんずちゃんのは半分くらい残ってる。もしかして、おいしくなかったんだろうか。エリちゃんは喜んで飲んでくれるんだけど。


「あーあ」


 それにしても残念なことをしちゃった。というか、あんな反応をされるとはちょっと想像してなかったなあ。


 あんずちゃんってば私のことじっと見つめてくるし、そのくせ目が合ったら合ったで逃げてく。


「絶対、私のことが好きだと思ったんだけど」


 仮に好きじゃなくても、そう仕向けるつもりだった。


 緊張しいなあの子が、お泊り会で誰かと一緒に眠るなんてことができるわけがない。それを見越して話しかけたんだけどなあ。うーん、ダメか。


「まさか逃げられるなんて」


 わたしは飲みかけのマグカップを指で弾く。


 ガチガチに固まってたなら、なんとかできたと思うんだけど。そんなに簡単じゃないってことか。エリちゃんと一緒で。


 エリちゃん。


 そういえば、今日のあの2人ってなんかぎこちなかったよね。2人の間を行きかう視線にもなんとなくトゲがあったし。


「あ、エリちゃん、私のことを話したの……?」


 ココアを一口飲む。うん、ちょっぴり苦くて私は大好きだ。


「なるほどなるほど。エリちゃんがまさかねえ。いや、はっきり言ったわけでもないのかな」


 思考を整理するためだけの独り言がキッチンに響く。こんなこと、エリちゃんにもあんずちゃんにだって聞かれたくないけれど、あの2人は絶対に来ない。


 エリちゃんは眠りが深い方で、あんずちゃんは今の今で戻ってこれるようなメンタルしてない。してたらリストカットなんてやらないよ。


 そういうわけなので、独り言をつぶいても何も問題ありません。


「エリちゃん」


 眠りの底にいる妹に、私は呼びかけてみる。


 あの子はめちゃくちゃ大きな決断をしたわけだけれど、それはちょっと中途半端。私に彼氏がいることを伝えたんだとしたら、あんずちゃんはうちに来れるわけがないし、最悪、心が壊れただろう。それがわからないエリちゃんじゃない。


 だから、私は好きになるに値しない存在だ、だとかなんとか言ったんじゃないかな。で、あんずちゃんは当然怒ったわけだけれど、遅効性の毒みたいにあんずちゃんの頭を冷静にさせたってわけ。


 うん、ざっとこんなところなんじゃない?


「でもさあ。そうするためにエリちゃんはどんな葛藤かっとうをしたの?」


 見たかったなあ、その時のエリちゃんの顔。


 一緒の学校に一緒に行って、一緒に帰って、一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入り、一緒に眠るのも、学力テストで1位になったのも、陸上で好成績を残したのも、生徒会長になったのも、好きでもない人と付き合ってるのだってそう。


 あんずちゃんに迫ったのだってさ、そのためなんだよ?


 全部全部、エリちゃんを困らせるため。


 私はエリちゃんが好きだ。誰よりも――彼氏よりは当然としても、あんずちゃんもそこらの人よりかは好きだけど、それでも全然足りない。


 エリちゃんの顔が、からだが、心が、何もかもが好き。


 喜んでる姿も、怒ってる姿も、悲しんでる姿も、楽しんでる姿もみんなみんな。


 でも、苦しんでいるエリちゃんがなによりも大好き。


 その顔を想像するだけで、ぞくぞくしてきちゃう。


 これからのことを考えるだけで、心の中にともった炎がぜたみたいに膨らんでいく。


「あんずちゃんごめんね?」


 これからもちょっかいかけると思うから、先に謝っておくね。

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