ラムネソーダに溶かした夏
伊野千景
第1話 出会い
むしむしとした暑い夏に、そのカフェは突然現れた。学校からの帰り道、少し山の斜面を登ったところに建物ができていた。今まで建物を建設する工事なんかしていただろうか。あんなところに建物はあっただろうか。友達と一緒に登下校することが少ない私は、下を向いてばかりで気づいていなかったのかもしれない。
一人で探検をすることが好きな私は、山の斜面をのぼり始めていた。誰かの家だったら失礼だから見るだけにしようと思い、足場の悪い坂を登る。だんだんと七月の暑さやセミの鳴き声もなくなり、心地よい風が吹いてきた。下から見上げていた時はさほど遠くには見えなかったが、いざ登ってみるとなかなか遠い。左手につけた腕時計を確認するともう十分もたっていた。まだ着かないのかと顔を上げた時、濃い青色をした木製の建物がちらりと見えた。早足に進み、建物全貌が見える位置まで来る。家かと思ったがそうではないようだ。その証拠に入り口と思われる扉にはOPENの看板がかかっていた。ここまで来て入らないわけにはいかないと、普段は発揮しない好奇心がうずく。入り口のドアのガラスから中をのぞけば、中はカフェだということが分かった。入りたいが中に他の人がいたら嫌だなと思い、ドアに手をかけ入ろうか入らまいか悩んでいた。その時、背後の草むらからカサカサと音がして反射的に振り返る。しかし誰もいない。再びドアの方を向いた時、ふいに肩をたたかれた。
「うわぁぁ!」
女子高校生から発せられた悲鳴とは思えない叫び声をあげ、後ろを向いたままドアにぶつかる。その拍子にドアが開いて店内に尻もちをついてしまった。驚きで言葉を発せないでいると肩をたたいたであろう相手が話し出した。
「驚かせてしまってごめんね。中に入りたそうにしていたからお客様かと」
眼鏡をかけた色白の男性だ。ここの店主だろうか。中性的で表情が読めなかった。
「あ、す、すいません。学校からの帰りで、ここに建物なんてあったかなって、気になって来てしまいました。お仕事中でしたよね、すいません。今すぐ帰ります」
立ち上がって体勢を立て直した私は、初対面の人間にまくしたてるように話した後、そさくさと帰ろうとした。しかし、腕をつかまれて引き戻されてしまった。困惑していると男性が話し始めた。
「これも何かの縁だから、遠慮しないでゆっくりしていってほしいな。うちはカフェ兼図書館のようなものだから、ね?」
のようなものとはどういうことだろうか。図書館ではないということか。変なことに疑問を持ったが、せっかく男性が進めているのだ。入ってみようか。そう思ったのだが、今さっき出会った名前も知らない男性に進められて入る者がいるか? 危うく事件に巻き込まれるところだったと想像をしていると、相手にも伝わったのか、私の顔に出ていたのか、
「あぁ、こんな初対面の者に進められても乗り気がしないよね。申し遅れました。白柏(しらかし)といいます。ここの店主をしているんだ。よろしく」
すごく丁寧なあいさつをされてしまった。これではこちらも名乗らないといけないではないか。
「えぇと、三宮です。よろしくお願いします」
おずおずと答えた。まだ疑いがとけないような顔をしていたのであろうか。白柏さんは笑顔で
「下の名前はなんていうの?」
とさらに質問をする。
「碧(あおい)です」
そう答えると白柏さんは少しこちらに顔を近づけてきた。彼の目は濃い緑だった。
「そうか。僕のことは好きなように呼んでくれてかまわないよ。僕は君のことをアオイちゃんと呼びたいんだけど、いいかな?」
初対面でちゃん呼びかよ、さっきまでの礼儀正しさはどこに行ったんだ、なんて考えはすぐに飛んでいき、私は白柏さんの目にくぎ付けになっていた。暗い色をしている目はどこか引き付けられるような美しさを持っていた。
私の瞳は茶色だ。しかし、角度を少し変えると緑のように見えると他人に言われたことがある。自分ではわからない。それが残念だ。
「聞いてる?」
白柏さんの声で我に返った。
「僕の顔に何かついているかな?」
要らぬ心配をかけてしまった。異性の目をじっと見つめるなんて初めてだ。何だか顔が熱かった。
「あ、え、えと、ちがくて、なんの話でしたっけ?」
なんと失礼極まりないのだろうか。人の顔をまじまじと見つめておいて話まで聞いていないとは。
「アオイちゃんって呼んでもいいかな?」
アオイちゃんと呼ばれることなどそうめったにないことだからここはまあ、ありがたく呼んでもらうことにした。
立ち話もなんだからと店内に入れてもらうことにした。もとよりここの建物が気になっていたのだから、入店できたことがうれしかった。
そのお店は「フィーカ」という名のカフェであった。先ほど白柏さんが言っていたようにカフェ兼図書館である。店内は木造になっており、適度な植物、海や山の写真、絵画などが壁に飾ってあるところを見れば、市内のカフェとほとんど変わりない。しかし、一つだけ図書館らしくない所があるとすれば、それはこのカフェの中に所蔵されている本は貸出できないということだ。本を読みたいならまた来いということだろう。
「今はお客さんが誰もいないから好きなところに座ってゆっくりしていってよ」
白柏さんは屈託のない笑顔でそう告げた。私は一番奥の壁際の席に座ることにした。 ほどなくして白柏さんが二杯のコーヒーを持ってやってきた。そして、私の前の席に座り、一杯のコーヒーを私の方へ、もう一杯を自分の前に置いた。
「私、今日お金持ってきてないんですけど」
今日に限ったことではなく、毎日持ってきていない。なぜなら帰りに寄り道するところなどないからだ。
「大丈夫、今回はサービスだから」
そう言って白柏さんはテーブルに肘をついてこちらを見つめた。先ほど私が白柏さんの瞳を見つめたように、白柏さんは私の瞳を見つめる。
「なるほど」
「何ですか?」
純粋な疑問だ。私の瞳をまじまじと見つめた後に何か意味を込めたような言葉を発するなんて。この人も同じか、と思ってしまった。
「アオイちゃんさ。今まで目のこと言われたこと、あるでしょ」
「……どうしてわかるんですか」
「目を見ればわかるさ」
目を逸らして、それからは何も言葉を発さなかった。
「誰かに相談したことあるの?」
「あなたに話すようなことじゃありません」
なぜ今日会ったばかりの人間に話さなければいけないのか。ズケズケとプライベートに入ってくる人なのか。
「帰ります」
そう言って席を立った。白柏さんにいただいたコーヒーは一口も飲まなかった。
「待って」
また手をつかまれた。放してほしくて白柏さんを睨んだ。
「これ。困ったらまたここに来て」
そう言って渡されたのは名刺だった。今は早く帰りたくて名刺はカバンの中に入れて早足で家に帰った。
家に帰って自分の部屋に戻り、布団をかぶって先ほどのことを考えた。私のような根暗な女子にかまう物好きな人などいるものか。どうせからかっているに違いない。ふと、帰り際にもらった名刺のことを思い出した。ベッドから起き上がり、床に投げ捨てるように置かれたカバンのもとに向かう。カバンの中から名刺を取り出すと、ぐちゃぐちゃになっていた。
「相談なんて」
できるのだろうか。今まで誰にも相談などしたことがない。相談する相手がいないのだ。自分の心の中に閉じ込めておくことが普通になってしまっていた。だから毎日夜中に思い出して泣いていた。この傷は癒えるどころか深まるばかりだった。
「わかんないな」
再び布団にもぐりこんだ。
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