「23時のレシピは、呪われている」 ─料理で視聴者が徐々に消えていく─

ソコニ

第1話 異界への配信



奥州街道沿いに百年以上続いた老舗料理旅館「榊原屋」。その最後の当主となった祖母は、他界する前日、美咲にこう告げた。


「この包丁はな、代々の料理人の想いが込められておる。深き縁のある者にしか、その真価は分からん。美咲、お前なら理解できるじゃろう」


翌日、祖母は静かに息を引き取った。不思議なことに、遺体の手には包丁を握りしめていた痕が残されていた。警察は事故死として処理したが、美咲は今でも覚えている。祖母の顔に浮かんでいた、どこか達観したような微笑みを。


広告代理店のコピーライターとして働く榊原美咲(32歳)は、本来なら料理人になるはずだった。幼い頃から祖母の料理人としての背中を見て育ち、調理師専門学校への進学も決めていた。しかし、両親の離婚と父の事業の失敗で、より安定した職を選ばざるを得なかった。


それでも料理への情熱は消えなかった。8年前から始めた料理ブログは、徐々に人気を集め、昨年からはインスタグラムのフォロワーも10万人を超えた。そして半年前、祖母の死をきっかけに始めた深夜の料理配信。当初は視聴者数十人程度だった配信は、今では数百人が集まる人気コンテンツへと成長していた。


「榊原さん、この企画書の締め切り、明日の朝一番でお願いできる?」


夕暮れ時のオフィス。美咲は疲れた目をこすりながら、上司からの追加業務を受け入れた。残業は日常茶飯事だったが、最近は深夜の料理配信との両立で、心身ともに限界を感じていた。


「了解です。今日中に仕上げておきます」


「ところで、榊原さんって料理の配信やってるって本当?うちの娘が見てるみたいで」


同僚の何気ない質問に、美咲は僅かに体を強張らせた。近頃、深夜の料理配信を巡って、不可解な噂が広がっていた。視聴者が意識を失う、画面から香りがする、記憶を失う——。


夜の帳が落ちた頃、美咲は最後の確認メールを送信し、オフィスを後にした。駅へ向かう雑踏の中、スマートフォンには視聴者からのメッセージが続々と届いている。


『今夜も配信ありますか?』

『美咲さんの深夜レシピ、毎回楽しみにしてます』

『仕事終わりの癒しです』


自宅マンションに戻った美咲は、キッチンスタジオとして改装した部屋の準備に取り掛かる。黒い背景布と業務用LEDライト、高性能カメラ。この空間は、彼女の夢への入り口だった。


料理の準備をしながら、美咲は祖母との思い出に浸る。榊原屋は、明治時代から続く由緒ある料理旅館だった。しかし、その歴史には不可解な出来事が幾度となく記録されている。


ほぼ30年周期で、料理人や宿泊客が失踪する事件が起きていた。しかも不思議なことに、その度に旅館は一層の繁盛を見せたという。祖母は生前、それを「料理の神様の気まぐれ」と笑って済ませていたが、その目は何かを隠すように曇っていた。


美咲は棚から祖母の形見の包丁を取り出す。刃渡り21センチの見事な片刃。黒檀の柄には、かすかに金の象嵌が施されている。伝説では、江戸時代末期、ある名工が月光の下で打ったという。


「今日も深夜のクッキングタイムにお付き合いください」


23時。美咲は、いつものように笑顔でカメラに向かって語りかけた。画面の向こうでは、すでに300人を超える視聴者が待ち構えている。


「本日のメニューは、伝統的な精進料理をアレンジした『闇夜の精進カレー』です。祖母から教わった特別なレシピをベースに、現代風にアレンジしてみました」


まな板の上には、厳選された野菜が並ぶ。玉ねぎ、人参、茄子。すべて地元の無農薬農家から取り寄せた食材だ。美咲が包丁を手に取ると、コメント欄が賑わいを見せる。


『美咲さんの深夜配信、毎回楽しみです』

『包丁さばきが見事ですね』

『この時間帯の料理、なんか神秘的』

『音もいいですね、ASMRみたい』


玉ねぎを刻む音がマイクに拾われ、心地よいASMRとなって視聴者たちの耳に届く。包丁が野菜を切り裂く音は、深夜の静けさの中で不思議な存在感を放っていた。


「この包丁は祖母が料理旅館で使っていたものなんです。伝統的な技法で打たれた名品だとか。切れ味が素晴らしくて…」


説明しながら野菜を刻む手が、一瞬止まる。包丁の刃に、見覚えのない模様が浮かび上がったような気がした。波打つような紋様は、まるで人の顔のようにも見える。しかし、確認しようとすると、それは消えていた。


その時、コメント欄に異変が起きた。


『背後に何か見えます』

『黒い影…動いてる?』


突然現れたそのコメントに、美咲は思わず振り返る。しかし、料理スタジオの奥には何もない。ただ、いつもの黒い背景シートが広がっているだけだ。


『影が揺れてる…』

『なんか動いてませんか?』

『美咲さん、後ろ…危険』


似たようなコメントが増え始める。しかし、美咲には何も見えない。背後の違和感を振り払うように、彼女は料理に集中した。


「みなさん、照明の具合じゃないですか? それより、このカレーのスパイスの配合が重要なんです。祖母は」


平静を装って料理を続ける美咲。しかし、画面の隅に映る影が、確かに揺らめいているような気がした。モニターには、背後の空間が少しずつ歪んでいく様子が映っている。


フライパンで玉ねぎを炒める音が響く。香ばしい香りが立ち込める。その瞬間、コメント欄が異様な盛り上がりを見せ始めた。


『この香り、懐かしい』

『なんで画面越しなのに匂いがするの?』

『私の亡くなった母の料理の香り…そっくり』

『これって、あの都市伝説?』


美咲は困惑する。配信で香りが伝わるはずがない。しかし、コメントは増える一方だ。視聴者数のカウンターが急上昇する。400人、500人、600人…。


『目が回る』

『意識が…遠く』

『どこかに誘われる』

『懐かしい人の声が…』


そして、カウンターは666で突然停止した。


「え?」


美咲が画面を確認した瞬間、配信用のLEDライトが激しく明滅する。カレーを炒める鍋から、まるで渦巻くような黒い煙が立ち昇る。


「ちょっと、何が…」


その時、包丁が不気味な青白い輝きを放った。刃身に映る美咲の顔が、別の顔に重なって見える。それは、半年前に他界した祖母の面影だった。しかし、その表情は生前の優しい祖母のものとは違っていた。


『私にも見える』

『老女の顔が…怖い』

『これって、あの噂の儀式?』

『逃げて!』


コメント欄が狂ったように流れる。美咲は包丁を置こうとするが、手が震えて離せない。包丁に触れた手首に、じわじわと痛みが広がる。


「皆さん、ちょっと配信を中断させていただきます。これは…」


しかし、配信停止ボタンが反応しない。画面の向こうで、視聴者たちが次々とコメントを残していく。


『意識が遠のく…』

『何かが見えます…黒い人影』

『助けて…引きずり込まれ』

『美咲さんの後ろ!』


突然、配信画面全体が激しいノイズに包まれた。美咲の悲鳴が、マイクを通して鋭く響く。


次の瞬間、画面が真っ暗になる。


数秒後、配信が再開された時、そこには誰もいなかった。ただ、まな板の上の包丁だけが、不気味な光を放っていた。画面の隅には、黒い影が蠢いている。


コメント欄には最後の一行が表示されている。


『次回の配信をお楽しみに…』


翌朝のニュースは、その夜の配信を見ていた27人が意識不明となり、3人が行方不明になったと報じた。警察は配信内容の精査を始めたが、保存されていた動画データからは、最後の10分間が完全に消失していた。


事件を担当した刑事は、不可解な現象に頭を抱えていた。現場に残された証拠は、黒く焦げたカレーと、まな板の上の一本の包丁のみ。しかし、防犯カメラには美咲が部屋から出た形跡はなく、窓やドアは内側から施錠されたままだった。


捜査員たちは、配信アーカイブに残された数千件のコメントを分析した。そこには、行方不明になった視聴者たちの最期の言葉が、しっかりと記録されていた。


『美味しそう』

『懐かしい香り』

『もっと近くで見たい』

『母の味がする』

『帰りたくない』

『向こうで待ってる』


特別捜査班の報告書には、こう記されていた。


「配信終了後、現場に残されていた包丁の刃には、人の魂を吸い込んだかのような異様な模様が浮かび上がっていた。また、防犯カメラの映像には、配信者の姿が最後まで記録されていたにも関わらず、配信画面上では姿が消失している。本件は現代のテクノロジーでは説明のつかない現象として、特別調査案件に分類される」


その夜以降、深夜の料理配信は新たな都市伝説として語られるようになった。警察の特別調査資料には、こんな書き込みが残されていた。


「注意:深夜の料理配信を視聴した際、画面越しに香りを感じたら、即座に視聴を中止すること。視聴を続けた場合、画面の向こう側へと誘われる可能性あり。現在までに、同様の事例が全国で63件確認されている」


事件から一週間後、美咲の配信アカウントに一つの投稿が現れた。


「次回の深夜料理配信で、皆様をおもてなしいたします。祖母直伝の『魂の料理』を、ぜひご賞味ください——榊原美咲」


投稿時間は深夜3時33分。その投稿を見た人々は、画面越しに漂う不思議な香りに誘われ、今も新たな配信の開始を待ち続けているという。そして、深夜になると、時折、配信画面の向こうから聞こえてくる包丁の音と、誰かの囁き声に耳を澄ませているのだ。

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