記憶の都市伝説 〜帰れない故郷の三日間〜

ソコニ

第1話 # おかえりなさい 〜三日だけ帰れる町〜帰らざるもの



画面の光が目に突き刺さる。午後11時45分。オフィスの窓の外では、東京の夜景が無機質に煌めいていた。机の上には積み重なる資料の山。画面に映る未読メールは三百を超えている。それらは一つ一つが、私を縛り付ける鎖のように感じられた。


七年前、この会社に入社した時は違った。新卒で配属された営業部で、私——佐々木真知子は「若手のホープ」と呼ばれていた。地方出身でも、コミュニケーション能力と企画力を買われ、重要なプロジェクトを次々と任されるようになった。昇進も早く、今では営業企画課の課長として、十人のチームを率いている。


「憧れの存在です」

後輩たちはそう言ってくれる。けれど、その言葉が最近は重荷でしかない。


「佐々木さん、まだ残ってたんですね」

突然声をかけられ、画面から目を離した。人事部の山田さんが、疲れた表情で立っていた。彼も終電近くまで残業らしく、スーツは随分としわになっている。


「ああ、はい。来週のプレゼン資料の最終確認を...」

「また徹夜ですか?さすがに無理しすぎじゃないですか」


その言葉に、少し笑みを浮かべかける。でも、顔の筋肉が言うことを聞かない。


この三ヶ月、帰宅時間が午前様なのは当たり前。休日出勤も月に二回は余儀なくされている。新規プロジェクトの立ち上げ、海外クライアントとの深夜のミーティング、部下の教育...。すべてが私の肩にのしかかっていた。


昼食を取る時間さえ、最近は怪しい。デスクの引き出しには、食べかけの栄養補助食品が詰まっている。「夢の外資系企業で、バリバリ働く女性」。高校の同窓会で、そんな風に自分を紹介していた日々が懐かしい。


でも、これが都会の日常なんだと思っていた。むしろ、思い込もうとしていた。父が「東京なんかに行って」と反対したときの言葉が、今になって耳に蘇る。


「大丈夫です。あとちょっとで...」

言葉の途中で、視界が歪んだ。瞬間的な目眩。まるで、誰かが世界の電源を切ったように、景色が歪んで暗くなる。


これは危険な兆候だと、どこかで分かっていた。先週も、クライアントとの打ち合わせ中に同じような症状が出た。でも、その時は気合いで乗り切った。今回も、きっと——。


「佐々木さん!」

山田さんの声が遠くなる。次の瞬間、私は机に突っ伏していた。救急車のサイレンを聞いたのは、意識が途切れる直前だった。



「過労による急性のストレス反応です」

救急搬送先の病院で、医師はそう告げた。中年の男性医師の表情は厳しい。


「このまま働き続けると、取り返しのつかないことになりますよ」

血圧は異常に高く、血液検査の数値も芳しくない。不眠、めまい、動悸。すべての症状が、限界を示していた。


「最低でも二週間は安静が必要です」

診断書を受け取りながら、スマートフォンが震える。プロジェクトの締め切り、クライアントとの約束、部下たちへの指示。それらが、まるで嘲笑うように連続して通知を送ってくる。


白い天井を見つめながら、ふと笑みがこぼれた。

「これって、案外いいタイミングかも」




病室の窓から見える夜空には、かすかな星が瞬いていた。高層ビルの間から覗く小さな光。実家の町なら、もっと綺麗な星空が見えるはずだ。


夏の夜、縁側で祖父と一緒に見た天の川。屋根の上で智子と星座を探した思い出。線香花火が消えていく瞬間の切なさ。すべてが、遠い過去のように感じられる。


「帰ろうかな」

独り言のように呟いた言葉が、妙にしっくりときた。


最後に帰ったのは、祖父母の供養の時。もう五年は経つ。あの町を出て早15年。当時は「田舎には何もない」と思っていたのに、今はその「何もない」風景が懐かしくてたまらない。


白い病室の天井を見つめながら、考えた。このまま東京で働き続けることに、どれほどの意味があるのだろう。毎日のように深夜まで働いて、休日は疲れて寝て過ごして、誰のために、何のために...。


スマートフォンを手に取り、実家に電話をかけた。何度かコールが鳴ったあと、母の声が聞こえた。相変わらずの、少し疲れたような優しい声。


「もしもし、真知子?こんな遅くにどうしたの?」

受話器越しに聞こえる母の声に、突然、涙が込み上げてきた。

「ただいま」

「え?」

「帰らせて」

「真知子...」


電話の向こうで、母は一瞬黙り込んだ。その沈黙が、心を締め付けた。


「おかえりなさい」

その一言で、堰を切ったように涙が溢れた。十五年分の疲れが、一気に解き放たれたような気がした。


一週間後、会社に辞表を提出した。上司は「こんな優秀な社員を失うのは残念だ」と言い、「いつでも戻ってきていい」とも告げた。同僚たちは驚いた様子だったが、「佐々木さんの選択なら、きっと正しいんでしょう」と送り出してくれた。


マンションの退去手続きをしながら、15年分の荷物を整理した。高価なスーツ、化粧品、ブランドバッグ。それらの多くを、近所のリサイクルショップに持ち込んだ。残したのは、本当に必要なものだけ。写真アルバムと、故郷の友人たちとの手紙。そして、智子との最後の写真。




実家行きのバスに揺られながら、窓の外を眺めていた。景色が、徐々に見覚えのあるものに変わっていく。コンビニやファストフード店が減り、代わりに古い商店や民家が増えていく。道は細くなり、山々が迫ってくる。


空気も、少しずつ変わっていく。東京の乾いた空気から、懐かしい里山の湿った空気へ。窓を少し開けると、土の香りが漂ってきた。懐かしい匂いに、目頭が熱くなる。


記憶の中の風景が、一つずつ現実となって目の前に現れる。子供の頃に自転車で駆け回った道。高校時代、友達と下校しながらアイスを食べた商店街。すべてが、少しずつ色褪せながらも、確かにそこにあった。


バスが山道を曲がった時、懐かしい景色が広がった。まるで時が止まったような古い町並み。15年前と変わらない八百屋の看板。そして、あの坂を上がれば——。


「まっちゃん!おかえり!」


突然聞こえた声に振り返ると、そこには信じられない光景があった。


制服姿の智子が、15年前と同じ笑顔で手を振っていた。短い黒髪、少し歪んだリボン、膝上のスカート。すべてが、あの日のままだった。


智子——私の親友であり、高校卒業直後に交通事故で亡くなったはずの智子が。


「智子...あなた、どうして...」

言葉が出ない。頭の中が真っ白になる。手足が震え、背筋が凍るような感覚に襲われる。時計の針が、一瞬逆回転したように見えた。


「何言ってるの?早く、みんなが待ってるよ」

智子は楽しそうに笑う。その姿が、夕陽に透けて見えた気がした。まるで古い写真のような、どこか色褪せた存在感。笑顔の向こうに、何か別のものが見え隠れするような不気味さ。


混乱する私をよそに、智子は軽やかに坂道を駆け上がっていく。その背中は、まるで卒業アルバムの中から抜け出してきたかのようだった。制服のスカートが風になびく様子まで、あの頃と寸分違わない。


しかし、その足音は地面に届いていなかった。


実家に着くと、さらに信じられない光景が待っていた。


「おかえりなさい、真知子」


玄関に立っていたのは、5年前に他界したはずの祖母だった。紫陽花柄の着物姿も、優しい笑顔も、記憶の中のままだ。少しだけ白髪が目立つ髪型も、背中の少しの曲がり具合も、すべてが私の記憶と完璧に一致している。


台所からは味噌汁の香りが漂い、居間からは祖父の好きな時代劇の音が聞こえる。縁側に置かれた植木鉢には、祖母が大切にしていた朝顔が咲いている。まるで、あの頃の時間が切り取られて、そのまま現在に貼り付けられたかのよう。


すべてが自然で、違和感がない。

それが、最大の違和感だった。


「真知子、お風呂沸かしてあるわよ」

祖母の声は、昔と同じように優しい。その声に温かさと恐怖が同時に走る。声が部屋に響くと、空気が少しだけ歪むような気がした。


「あ、ありがとう...」

返事をする私の声は震えていた。


玄関を上がり、廊下を歩く。足音が妙に響く。畳の感触が異様に鮮明だ。壁に掛かった家族写真は、15年前に撮影されたものばかり。その後に撮った写真は、一枚もない。写真の中の笑顔が、どこか不自然に感じられる。


実家の中を歩きながら、不思議な感覚に襲われた。まるで、記憶の中を歩いているような。それとも、夢の中?でも、これが夢だとしたら、なぜこんなにも鮮明なのだろう。匂いも、音も、触感も、すべてが生々しいほど現実的だ。


そして、部屋の隅々から、何かがこちらを見ているような気配。


夜になって近所の森田さんと出会った時、その違和感は確信に変わった。


森田さんは普段通りに世間話をしてくれた。農作物の出来のこと、最近の天気のこと。話の内容も、口調も、立ち姿も、すべてが記憶の中の森田さんそのものだった。でも、別れ際にこう言ったのだ。


「そうそう、まっちゃん。この町は、あと三日しかないのよ」


まるで明日の天気を予報するような、何気ない口調だった。その言葉に、背筋が凍る。時計の秒針の音が、一瞬止まったように感じた。


「三日...って、どういうことですか?」

「ただの三日よ。それ以上でも、それ以下でもない」

森田さんは、そう言って微笑んだ。その表情には、どこか諦めのような色が混じっていた。笑顔の裏に、何か言いたげな影が見える。


そして、もう一つ気づいてしまった。

森田さんの姿も、15年前のままだった——。


その夜、私は眠れなかった。

二階の自室のベッドに横たわり、天井を見つめながら、さまざまな思いが渦を巻いた。


智子の姿。

祖父母の存在。

森田さんの言葉。

そして、この町全体に漂う違和感。


窓の外を見ると、懐かしい星空が広がっていた。東京では決して見られない、無数の星々。子供の頃、智子と一緒に星座を探した思い出が蘇る。でも、その星々は、本物なのだろうか。よく見ると、星の配置が少しずつ変わっているような気がする。


部屋の空気も、どこかおかしい。まるで時間が止まったような、淀んだ感覚。壁に掛けた古い時計の音だけが、異様に大きく響く。


カチッ、カチッ、カチッ。


枕元に置いた目覚まし時計が、午前0時を指す。

その瞬間、家中の時計が一斉に鳴り始めた。


カチッ————。


一階の古時計。

台所の柱時計。

祖父の部屋の置き時計。


それらが重なり合い、まるで生き物のような音を奏でる。そして、その音が突然止んだ。


静寂が訪れた次の瞬間、私の目覚まし時計だけが、再び動き始めた。


カチッ。


まるで、何かの合図のように。


一日目が始まった。

残り、二日と二十四時間。


この町に残された時間は、刻一刻と過ぎていく。私の知らない何かが、確実に近づいてくる。それを、私は知らなければならない。


部屋の隅から、誰かの視線を感じた気がした。振り向くと、そこには古いアルバムが置かれていた。表紙には見覚えがある。高校最後の文化祭の写真を収めたもの。でも、それは確か——。


「あのアルバム、東京のアパートに置いてきたはずでは...?」


その疑問が頭をよぎった時、二階の廊下から、かすかな足音が聞こえ始めた。


軽い、女の子の足音。

どこか弾むような、懐かしい響き。


「智子...?」


声を潜めて呼びかけると、足音が一瞬止まった。そして、また歩き始める。今度は、ゆっくりと。私の部屋に近づいてくるような方向に。


アルバムに手を伸ばそうとした瞬間、表紙が自然と開いた。

ページがめくれていく。

風もないのに。


そこには、文化祭最後の写真。クラスメイト全員で撮った記念写真。

でも、何かがおかしい。


私は急いでスマートフォンのライトを点けた。

写真をよく見ると、人々の表情が、記憶とは違っている。

全員が、不自然な笑顔で、同じ方向を見ている。

そして智子は——。


廊下の足音が、部屋の前で止まった。

ドアノブが、ゆっくりと回り始める。

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