【百合短編小説】花蕾(つぼみ)が綻ぶとき(約10,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1章: 束縛からの解放

 春風が桜の花びらを舞わせる中、静華は新しい生活への一歩を踏み出そうとしていた。化粧っ気のない素顔に、黒髪をきっちりと後ろで束ねた姿は、まるで高校生のようだった。着ているのは、母が選んでくれた紺のワンピース。スカート丈は膝下で、襟元はきちんと詰まっている。足元はストラップ付きの黒のローヒールパンプス。バッグは同じく紺のレザートートで、すべてが几帳面に揃えられていた。


「お嬢様、こちらが新生活を始めるお部屋になります」


 不動産会社の担当者が開けた扉の向こうには、20平米ほどの1Kの部屋が広がっていた。白を基調としたインテリアに、木目調のフローリング。南向きの窓からは明るい陽射しが差し込み、小さいながらも清潔感のある空間だった。


 静華は玄関に立ったまま、深くため息をついた。


「ご心配なく。このマンションはセキュリティもしっかりしていますし、女子大生の一人暮らしには最適な環境です」


 担当者の言葉に、静華は小さく頷いた。確かにセキュリティは申し分ない。オートロックはもちろん、各階に防犯カメラが設置され、夜間は警備員が巡回する。家賃は少し高めだが、それだけの価値はある。


 しかし、静華の不安は別のところにあった。


 これまでの18年間、静華は両親の庇護のもと、まるでガラスの温室で育てられた花のように大切に育てられてきた。特に母は、「淑女たるもの」という言葉を口癖に、静華の言動のすべてに目を光らせていた。


 服装、言葉遣い、交友関係――。すべてが母の厳しい審査の対象だった。


「こちらが契約書になります。ご確認いただけますでしょうか」


 担当者の声に我に返り、静華は差し出された書類に目を通した。


「はい、ありがとうございます」


 静華の声は小さく、しかし確かな意志を秘めていた。


 契約を済ませ、部屋の鍵を受け取った静華は、初めて自分だけの空間に足を踏み入れた。玄関を入ってすぐ右手にコンパクトなキッチン、左手に浴室とトイレ。正面には6畳ほどの居室。窓際には小さな机が置かれ、その横にクローゼット。すべてが必要最小限のサイズだが、一人暮らしには十分な広さだった。


「やっと……」


 静華は窓際まで歩き、外の景色を眺めた。マンションの4階から見下ろす街並みは、どこか非現実的に感じられた。


 これまでの生活とは、まるで違う世界。


 静華は、母が選んだワンピースの襟元に手をやった。少しだけ、ボタンを外してみる。途端に、首筋に心地よい風を感じた。


 小さな、でも確かな解放感。


 翌日から始まる大学生活。不安と期待が入り混じる中、静華は新しい自分との出会いを予感していた。


 引っ越しの準備は、すべて計画通りに進んだ。母が細かく書き出したリストに従って、必要な家具や生活用品を揃えていく。シンプルで機能的な家具たち。白のカーテン、グレーのラグ、木目調の収納ケース。色使いは抑えめで、どれも実用的なものばかり。


 母の選んだ家具たちは、確かに使いやすく、整然としていた。しかし、どこか息苦しさを感じる。静華は、自分の好みで選んだものが、この部屋には一つもないことに気がついた。


 夜が更けていく。


 窓の外では、街灯が静かに揺れている。初めて迎える、自分だけの夜。


 静華はベッドに腰掛け、スマートフォンを手に取った。画面には、母からのメッセージが並んでいる。


「お布団は敷けましたか?」

「夜は必ず鍵を二重にかけるのよ」

「明日の朝食は、作り置きしたおにぎりを忘れずに」


 一つ一つに丁寧に返信をしながら、静華は少しずつ、自分の中の何かが変わっていくのを感じていた。


 明日から始まる大学生活。


 新入生オリエンテーションの案内を見つめながら、静華は初めて自分で選んだ道を歩き始める決意を固めた。


 窓を開けると、春の夜風が部屋に流れ込んでくる。心地よい風に、静華は深く目を閉じた。


 これが、私の選んだ自由――。

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