●第四章 香りの調べ

 七月に入り、プロジェクトは大詰めを迎えていた。


 完成した試作品は、予想以上の反響を呼んでいた。社内のテストでも、高い評価を得ることができた。


「霧島さん、すごいじゃないですか!」


 麻衣子が、興奮した様子で声をかけてきた。


「ありがとう。でも、まだ課題はあるのよ」


 確かに、基本的な方向性は固まった。しかし、商品として世に出すためには、まだいくつかの壁を越えなければならない。


 その最大の課題は、量産化だった。


 伝統的な手法と現代的な技術を組み合わせた新しい製法は、安定した品質を保つことが難しい。特に、季節の移ろいを表現する繊細な香りの部分は、わずかな製造条件の違いで大きく変化してしまう。


「どうすれば……」


 研究所で資料と向き合いながら、沙耶は頭を抱えていた。


 そんな時、思いがけない協力者が現れた。


「お困りのようですね」


 声をかけてきたのは、研究開発部の古株・佐伯昭一だった。定年間近の彼は、会社の技術開発の歴史を知る貴重な存在だった。


「佐伯さん……」


「実は、私も若い頃に似たような課題に直面したことがあるんです」


 佐伯は、自身の経験を語り始めた。80年代に、天然香料と合成香料を組み合わせた新しい製法の開発に携わった時の苦労話。そして、その課題をどのように克服したのか。


「結局のところ、完璧な再現性を求めすぎるのは間違いなんです。自然の香りというのは、本来、微妙な揺らぎを持っているものなんですから」


 その言葉に、沙耶は目を見開いた。


「そうか……私たちは、そのこそを、製品の特徴として打ち出せばいいんだ」


 佐伯は満足そうに頷いた。


「その通りです。同じロットでも、わずかに異なる表情を持つ。それこそが、自然の香りの本質なんですから」


 その日から、製造方法の見直しが始まった。完璧な再現性を追求するのではなく、一定の範囲内での自然な揺らぎを許容する。そして、その揺らぎこそが製品の魅力であることを、はっきりとコンセプトに組み込んでいく。


 企画書の修正作業は、深夜まで続いた。


 帰り際、沙耶は研究所の窓から夜景を眺めていた。湿度の高い夜空に、ネオンの光が滲んでいる。


 そこに、懐かしい香りが漂ってきた。


「あら、まだ残っていたの?」


 母の美奈子が、手提げ袋を持って立っていた。


「お母さん? どうして……」


「心配になってね。それに、これを持ってきたかったの」


 袋の中から、祖母の形見の香水の瓶が取り出された。


「これがあった方が、きっと良いアイデアが浮かぶと思って」


 沙耶は、静かに瓶を受け取った。


「ありがとう」


 その夜、沙耶は祖母の香水の香りを、あらためて確かめていた。不思議なことに、以前とはまた違う表情が感じられる。同じ香りなのに、その時々で、少しずつ違う物語を語りかけてくるような。


 そして、その発見が新たなひらめきを生んだ。


 翌朝、沙耶は早速スタッフを集めて、新しいアイデアを説明した。香水の表情が時とともに変化していくことを、むしろ積極的に商品の特徴として打ち出す。それは、着物が光の加減で表情を変えるように、あるいは茶碗が使い込むほどに味わいを増すように、使う人との関係の中で深まっていく香りを提案すること。


 スタッフたちの目が、だんだんと輝きを増していくのが分かった。


「面白い提案ですね」


 上司も、珍しく前向きな反応を示した。


「これなら、従来の香水とは完全に差別化できます」


 その日から、プロジェクトは新たな段階に入った。製品の完成に向けて、チーム全体が一丸となって動き始めた。


 夏の終わりが近づく頃、ついに最終製品が完成した。


 透明なガラスの瓶に入った琥珀色の液体。シンプルでありながら、どこか凛とした佇まいのデザイン。


 沙耶は、おそるおそる蓋を開けた。


 立ち上る香りは、まさに日本の四季そのものだった。しかし、それは決して観光的な四季ではない。静かに、しかし確実に移ろいゆく自然の呼吸。その中に、現代を生きる都会人の感性が、さりげなく織り込まれている。


「これで、いいんです」


 千里が、静かに頷いた。


「ええ、素晴らしい香水になりました」


 商品名は「詩季」。日本の詩歌と四季を組み合わせた言葉だ。


 発売日まで、あと一ヶ月。沙耶の新しい挑戦は、まだ始まったばかりだった。

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