夏の日 (完結)
孤舟 一
第1話 たどり着いた温泉地
もう60年くらい昔になるが、16歳の誕生日の月に初めての免許証、軽自動車の免許を取得した。事故を起こして壊れても惜しくないようにと、直ぐに中古の軽自動車を買ってもらった。地図も持たず、もちろんナビやスマホなどは無く、地方には公衆電話さえ見つからない時代で、それでも休日になると一日中、ただ闇雲に走っていた。薄暗くなる頃には不思議と自宅に帰れたのだから、方向感覚は良かったのかも知れない。
バブル期よりもずっと前の、古風で大きな日本旅館が多かった温泉街、鬼怒川温泉を目指したときに、どこで間違えたのかしだいに山間部の狭い道に入り、「温泉」とだけ書かれた小さな板の看板を目当てに、川の流れと並行して走り続けた。20軒にも満たなかったと記憶してる、小さな集落まで来て、それを過ぎると突然道が途絶えるように狭くなった。その最後の集落が湯西川温泉だった。当時は湯西川温泉などという名前さえ知らなかった。
小さな集落内の主要道路は狭く、舗装もされてない小石だらけの街道に、駐車場といえるような空き地も無く、休めるような店も見つからず、ただウロウロとしていた。車がせいぜい十台と少し分の空き地が一つあり、そこに入った。休むためと方向転換で入った所が、本家伴久萬久旅館の駐車場だった。駐車場の掃除をしてる人に聞くと、この先はまだ続くが、道幅はかなり狭くなり、少し集落はあるけど他には何も無いと言う。何よりもここが何処だかも分からず、どう帰れば良いのか迷ってると話すと、中に招かれて地図を書きながら鬼怒川までの道を聞いた。その先は日光を目指せば帰れるようだった。
小さな家が並ぶ小さな集落と思っていたが、初めて此処が道中にあった立看板の「温泉」の地である事を知った。ここ湯西川温泉の中でも、この駐車場の奥に建つ、古めかしい大庄屋の屋敷のような家が、この温泉地の中で最も古い宿だと聞いた。庭の掃除をしていたゴツい恐い印象の人だったが、掃除の手を休めこの地に伝わる平家落人伝説なども話してくれた。車を庭の端に寄せて、裏の川に湧く温泉を見ると良いよと言われ、横の狭い道を通り湯西川に架かる橋に出た。
宿の前の狭い道の集落とは違い、川を挟んで数軒の藁葺き屋根が並んでいた。メインの街道と違い、湯西川を挟んだ集落は、如何にも「落人伝説」がピッタリの小さな家並みが、映画のセットのように見えた。まだ護岸工事などの整備も全くされてない、昔から続く自然のままの湯西川と、その横には川と同じ高さで、石で周囲を囲っただけの共同温泉があった。今なら源泉掛け流しと喜ばれるのだろうが、作りはただ流れを堰き止めて、十人弱が入れそうな広さになっているだけだ。これが自然に出来上がった本来の共同風呂、坪湯の原型なのだろう。
深い森の木々や太い蔦に覆い包まれるような川の流れと、橋の下流にわずかに開けた狭い土地に並ぶ藁葺きの家々、土産物屋もなく人影も少ない、不思議な空間をだった。先ほど聞いた温泉宿の建物は川に迫り、よほど湧き出る温泉の量が多いのか、建物の下からドバドバとムダに温泉を川に捨てていた。
今の歳になるまで目的も定めない一人旅と温泉が好きで、思い立つと出掛けてしまう様になったのは、湯西川を挟んだ幻想的な異世界にとつぜん引き込まれた、この時の感動が強かったのかも知れない。
残念な事に、まだこの当時は「日帰り温泉」とか「立ち寄り湯」などという言葉も無く、温泉は湯治が目的であり、宿は日常から離れた心の癒やしと病気治療の場であった。秘湯の温泉地の光景に感激しながらも、温泉に入ることもなく、宿の人に礼を言って帰ってきた。
この湯西川温泉へオンボロ車で行った日の武勇伝を、芸大大学院を卒業後、仕事もせず家業も手伝わずにいた姉さんに話した。この人は父の友人の娘で、幼い頃に父と一緒にこの家に行くと、姉さんは自室に呼んで遊び相手になってくれた。確か七歳か八歳くらい上だったと思う。目鼻立ちがハッキリした、それでいて童顔の可愛らしい小柄な人で、歳の近い姉と弟に見えた。五人兄妹の一番末の女の一人っ子で、僕のことを弟のような、遊び相手に思ってたのだろう。
姉さんの部屋では、あの頃は珍しい良く弾む大きなベッドがあった。その上で馬乗りに抑えられくすぐられたり、流行っていたプロレスを真似て、顔を姉さんの胸に強く抱かれて振り回され、息が出来なくなるようにイジメられたりしてた。身体の弱かった子供の頃に、いつも側で面倒をみていた子守りのネエ達よりも少し年下で、いつ頃からか本当の姉弟のように親しくなっていた。身近に見る人達の中でも、如何にもお金持ちのワガママな一人娘らしい周囲を気にしない行動と、大きくて少しキツい目つきだが、でも僕には優しい可愛い顔の姉だった。
姉さんと会うのは久し振りで、僕が中学生になる前、芸大受験のために美術専門の塾に通い始めて、行くのを控えた。戻っていたことも知らず、父に運転の技術を見てもらうために同乗してもらい、たまたま寄ったものだった。姉さんも久し振りの訪問に驚いて、昔のように自室に招いてくれた。
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