第17話 素直に
夜の冷たさとは裏腹に、背後の店からは随分と暖かそうな光と賑やかな声が漏れてきている。
指先が冷えてきて、アルテは「はぁ」と小さな吐息で手を温めた。
酒屋の店前に置いてあった樽の上に腰掛けて、宙ぶらりんの脚をパタパタと揺さぶる。
「何やってるんだろ、わたし……」
白っぽい息とともに吐き出した。
里の外は、きっともっと楽しい場所だと思っていた。子供の頃に見た朧気な記憶の中には、煌びやかな街にお洒落なお店、様々な人種が行き交う素敵な光景が今も焼き付いていた。
彼女の夢は、いつかこの世界を自由に旅することだった。様々な地で冒険をし、きっと訪れる過酷な試練を乗り越えて、仲間との友情を育み、飽きることの無い毎日を過ごしていくのだ。そんな妄想を膨らませ生きてきた。その夢の第一歩を踏み出したところなのだ。
けれど現実は汚い酒場の真ん前で、汚れた樽に座ってひとりぼっちだ。
こんなの、私のイメージしてた冒険じゃない。
「あいつ、傷ついたかな……」
アルテはトーヤに言ったことを気にしていた。遠夜のことが嫌いかと問われて、当たり前だとそう答えた。人間なんて大っ嫌いとも言ったし、あんたと喋ってるとイライラするとも言った。
きっと傷ついたに決まっている。彼はせっかく自分の為に頑張ってくれていたのに。アルテを悪く言う店主にも怒ってくれたのに。
トーヤが悪いやつじゃないのはもう分かっている。お爺様の目なんかなくても、それくらい分かる。
旅に出る前までは、彼に変なことをされるんじゃ、なんて考えも頭の隅にあった。隷呪の鎖で主従契約が成立している以上、命令されれば拒むすべは無い。人間なんて、そも男なんて、殆どが結局は自欲に塗れた獣と一緒だと思っていたし。
けれど出会ってからこれまでの間、彼がアルテに手を出したことなど一度もない。どころか、何かを命令する気配すらない。彼がするのはお願いだけだ。自分という存在を対等な立場で見てくれている。彼は優しい人間だ。そんなのはわかっている。
「じゃあ、どうすればよかったのよ……」
そんな優しい彼だからこそ、迷惑ばかりをかけている現状が許せなかった。この街の人間の態度に腹が立ったのは確かだが、それよりもトーヤに迷惑をかけていることへの負い目の方が辛かった。
ここに辿り着くまでの間だって、彼におんぶにだっこでずっとやってきたのに、こんな所でも。
きっと呆れられたに違いない、アルテはそう思っていた。当然だ。こんなのが今後一生続くなんて、アルテがトーヤの立場だったら絶対に耐えられない。それに加えて自分はこんな性格だし、あまつさえ自分の為に頑張ってくれている彼に対して暴言を吐き捨てる始末だ。
「……ッ」
自分で考えていてハッとし、顔を上げた。
そうか、だから彼は自分をこんな場所にひとり残して行ってしまったのかも。もしかしたら、このまま帰ってこないんじゃ。
嫌な考えが頭をよぎって、同時に鼓動が早くなってくる。不安や怯えといった感情がじわじわと胸の内を覆っていく。
冷たくなった指先が震えているのを見て、思わず苦笑してしまう。
「ははっ……そっか。わたし、あいつに捨てられるのが怖かったのね」
隷呪の鎖で結ばれた主従契約は一方的なものだ。隷属された奴隷は主の元を離れることは出来ないが、主はいつでも自由に動き回ることが出来る。トーヤがアルテを見捨ててその場を離れてしまえば、アルテはここで動けなくなり、同時に鎖の呪いで絞め殺されるだろう。
あれからどれだけ時間が経っただろうか。トーヤが戻ってくる気配は未だない。
「バカみたい……」
樽の上からゆっくりと立ち上がった。
見捨てられて当然だ。こんな厄介なお荷物を抱えて旅を続けるなんて有り得ない。そんなメリットがどこにあると言うのか。勝手に根拠もなく連れて行って貰えると考えていた自分が、どれ程馬鹿だったか思い知る。本来なら頭を下げて懇願して、媚びを売って奉仕して、そうしてようやくそばに置いて貰えるような立場だろう。悪態ついて暴言撒き散らしてどうするんだ。
何だかまた泣きそうになってきた。
舗装もされていない土道をゆたゆたと俯き歩き、五歩目の足を踏み出した時だった。
「――っ!?」
突然何者かに口元を塞がれ身体を押さえ付けられた。
「ん゛んっ――――!?」
声にならない叫び声を上げながら目を見開くと、自分の身体を押さえ付ける人間の男二人の姿が目に入った。
「そっち押さえてろ……!」
男の一人が小さな声でそう言って、もう一人がアルテの手を押さえ付け、そのまま後ろ手に縄を巻き付けられた。
あっという間の早業で拘束されたアルテは、一人の太った男に軽々担ぎ上げらる。
「いくぞっ」
男たちはそのままアルテを抱えて走り出した。
間違いなく誘拐だ。そんなのわかっているが、身体が強ばって上手く動かせない。口元を押さえられているので声が出せない。せめて手に巻きついたロープさえどうにか出来れば。
――そうだ魔法……!
「ん゛ん――っ!」
暴れながら手にマナを集約させ、火の魔法を発動させようとした――その直後、全身が石のように硬直し、首元に熱を帯びた圧迫感が発生した。
隷呪が発動したのだ。
しかし男たちはそんなことは気にもしないで駆け抜けていく。
「へへっ、ついてるぜっ。こんな場所でこんな上玉の獣人が一人で彷徨いてるなんてな……!」
「売り飛ばせば大儲けだぜ……!」
男たちはアルテの状況に全く気がついていない。
アルテの首輪はなおも締まり続ける。
――苦しい…………死ぬのかなわたし。これも……罰なのかな。最後くらい、ちゃんとお礼、言えばよかった……ちょっとくらい、素直になれば……よかったな……。
薄れゆく意識の中でそんなことを思った。
涙を風に飛ばされながら、口元を微かに動かした。
「たすけて」
消えそうなくらいか細い声の直後、ぐしゃりと何かが破裂する音が聞こえて、同時にアルテを抱えて走っていた男が突然にすっ転んだ。
その瞬間アルテの全身に自由が戻り、首元の締め付けが消え失せた。
「げほっ、けほっ……っ」
激しく噎せ返り、大きく息を吸い込んだ。
涙で滲んだ目を開いて前を見ると、そこには彼がいた。
薄暗い夜道の中に、こちらを睨み付ける彼の瞳が青白く光って見えた。
「ひっ、な、なんだお前は……!?」
その覇気に気圧されたように、隣の男が震えた声を上げた。
「お前ら、そいつに何してんだ……」
その静かな声色からは、激しい怒りと明確な殺意が滲み出ている。
その見た目からは想像もつかない恐怖を感じるが、同時に凄まじい安心感を覚える。
「た、頼む許してくれっ、俺は何も――」
隣で男が倒れた。横目に血溜まりが広がっていくのが見えている。
アルテが目の前のトーヤをボーッと見つめると、すぐに彼の表情がガラッと変わり果て、慌てた様子でここまで飛んできた。
「ごめんっ、大丈夫か!? 怪我とかしてないか……!?」
トーヤはアルテの肩をがっちりと掴んで、酷く焦った様子で問いかけてきた。
アルテはまだ頭に血が戻っていないのか、何だかボーッとトーヤの顔を見つめている。すると、何故だか静かに涙が零れた。
それを見て更にトーヤは慌てふためいた。
「ご、ごめんっ……守るって約束したのに……俺のせいだ。痛いところとかないか……?」
あまりにトーヤが必死なので、何か言わなければとアルテは口を開いた。
「へ、平気――」
そう言った直後、彼に強く抱きしめられた。
「無事で良かった……」
心から安堵したような声が耳元で響く。同時に心臓の音が聞こえてくる。
これはきっと、彼のものだ。
「な、なによ……心配してたの?」
「当たり前だろ……」
「…………ふーん」
どうやら彼に見捨てられるかも、なんて考えは杞憂だったらしい。この様子だと、そんなこと一ミリも考えちゃいなかったようだ。
ばっかみたい。
「ねえ、いつまでそうしてるつもり? 早く縄解いてよ」
「えっ、ああ悪いっ」
トーヤは慌ててアルテの手に掛かった縄を解き始めた。
縄が解かれ、自由になった身体でアルテはゆっくりと立ち上がり、スカートの汚れを手で叩いて払い除ける。
――何よ、まだ心臓の音が聞こえるじゃない……。
不貞腐れたように心の中で呟いた。
「本当に無事でよかったよ……さあ、早くここを離れよう。騒ぎになったら面倒だしな」
「でも……どこに?」
「宿屋だよ。酒場で教えて貰ったんだ。ちょっとボロいけど、安い上に獣人族もちゃんと泊めてもらえるらしい」
「へぇ」
「へぇ……って、あんまり嬉しく無さそうだな」
「別に、そんなことないわよ」
「そうか? ならいいんだけど。んじゃあ行こうぜ、確か酒場を出て左に真っ直ぐって言ってたな」
トーヤが指をさしながら歩き始めた。
それを見てつい、
「ま、待って……!」
大声で呼び止めた。
自分の行動に驚きつつ、慌てて下を向く。
「……? どうした?」
耳が熱い。顔が赤くなっているかもしれない。顔を上げられない。
「その……」
「ん?」
「……ぁ、な、何でもない……」
「そ、そうか……」
トーヤは困惑した表情のあと、再び前を歩き出す。
アルテは大きく溜息を吐き出し、諦めたように歩き始めた。
土を踏み付ける硬い足音が二人分、夜道に響く。そんな最中、ついにアルテがトーヤの後ろ袖を引っ張った。
硬い足音が止み、彼が振り返る。
震える唇を微かに開いた。
「あ、」
「あ……?」
「ありがとっ……!」
少しひっくり返った自分の声を聞いて、また耳が熱くなる気がした。
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