苹果先輩とおれのタルト・タタンにうってつけの日
入相アンジュ
タルト・タタンの野望①
口から勝手にため息が出た。
西日、空っぽの青いマグカップ、二〇点満点中十二点の英単語の小テスト。パトカーのサイレン。
ひとつ一つの事象を拾い上げると、追い打ちのようにもう一度ため息が出た。だって、おれは、目の前の光景に飽き飽きしていたから。頭の中で記憶をなぞる。いち、に、さん、よん。これを見るのはもう五回目になる。
「
瞬きを三回。西日に目を慣らす。それからおれは壁にかかった時計を見た。丸い時計の中で長針と短針はそれぞれ二と三を示している。現在時刻三時十分。
「突然どうしたの? あまりにもなさすぎるでしょ、脈絡ってもんが。……
「いくらなんでも失礼ですよ」
「いやあでも、SFだなあとしか。好きでしょ? インセプションもブレードランナーも夏への扉も」
「そりゃ好きですけど、そういうことじゃなくて。あの、おれ今すごく真面目に話してるんですよ」
おれの真正面で苹果先輩が首を傾げた。
おれは、この光景を見るのは初めてじゃない。それでも、だいすきな人が今も元気でおれの前にいることがうれしかった。
一瞬俯いて、おれはそっと両方の手のひらを開く。おれの右手と左手の手ひらのつけねが擦りむいている。いま、ちょうど傷ついたというように。膝も確認する。折り目のついたグレーのスラックス。ついているのは皺だけだった。赤いシミはなくなっていた。
そう、未来____今からせいぜい二十分と少し先のおれのスラックスは膝が赤くなっていたはずだ。だって、血溜まりに、膝をついたから。
「おれ、未来から来たんです」
苹果先輩は、今日、二月十四日、“現在”から二十分後に、死んだ。近所で起きた強盗殺人犯の逃走中に遭遇し、すれ違いざまに強盗犯が握っていたナイフに腹部を刺された。そして最後階段から落ちて頭部を強打した。この世で最も最悪なピタゴラスイッチだった。
「今日の放課後、苹果先輩は階段から降ちて死にます」
榛色に呆れが浮かぶ。
「じゃあ何? 螢くん……
苹果先輩の芝居がかった抑揚におれは眉ひとつうごかさず黙っていた。小さく、呼吸をするので精一杯だった。
「……しょーがないな、聞いてあげる。その代わり今日は帰り、研究に付き合ってもらうから」
「信じてませんよね?」
「今日はタルト・タタン!【十三月】の絶品りんごをふんだんに使ったタルト・タタン。これに会うコーヒーを探す今日……十四日の活動目標はこれね」
「ケーキが食べたいだけですよね」
「失敬な。ただのケーキじゃないのよ? タルト・タタン! タルト・タタンだよ、ついつい口ずさみたくなるお菓子の名前ランキングがあったら間違いなくトップ五には入る名前だよ」
苹果先輩は立ち上がり、椅子の背中に欠けていたダッフルコートと真っ赤なマフラーを手に取る。思い立ったが吉日。苹果先輩らしい行動力だが、個人的にはもう少し待ってほしい。
「あの、もう少しここで待ちませんか? 苹果先輩が死ぬのって今から二十分くらい後なんですけど。せめてそこは越えてから……」
「嫌だよ。早く行かないとタルトタタン売り切れちゃうじゃない……【十三月】の営業時間って午後五時だよ? ウカウカしていられないの!」
「それは……そうなんですが……」
よくない流れだ。苹果先輩の口から【十三月】というフレーズが踊る。本当に、これはよくない。
【喫茶・十三月】。喫茶店。おれも何度も苹果先輩に連れられていったことはある。隠れ家的な喫茶店で一才のSNSをやっていないという小さな喫茶店だ。だからこそ在庫は少なく、営業時間にも厳しい。おれだって【十三月】は好きだ。コーヒーの匂いも、スコーンを焼き上げる甘い匂いも、喫煙席から漏れる細い紫煙もトータルで居心地がいい。
だが、問題はそこにはない。
苹果先輩は高校から【十三月】に向かう道すがら強盗犯に殺されるのだ。つーか、なんで自分が死ぬって言われているのにこんなに冷静なんだ。
苹果先輩は瞳の色とお揃いのヘーゼルカラーのダッフルコートに腕を通して、マフラーをぐるりと巻く。
「ごめんね、螢くん。わたし、今、タルト・タタンで頭がいっぱい。タルト・タタン、のテンポで頭がいっぱい! どんなバンドの新譜もこのたった一言で埋められやしないわ!」
「……おれはクラッカーの方が口ずさみたいです」
実質的な敗北宣言だった。
「わかる。クラッカーもシンプルで王道ながらいい。王者だ」
苹果先輩が少し悔しそうに頷いた。
未来からだってわかってるのに、なんの対策もしなきゃ苹果先輩は死ぬのに、やっぱりおれはこの人のこの勢いに勝てない。嵐のような衝動に身を委ねてしまう。
それが惚れた側の弱みってものだ。
おれもすぐ隣の席に置いていたエナメルバックを持ちあげる。揺らさないように、そっと。不安になって、チャックを開く。
クリアファイル、数学Aと生物基礎のワーク、ノート。表紙が折れたターゲット1900、諸々の勉強用具を押しのけて紙袋が入っていた。ハートマークのあしらわれた紙袋はやっぱりおれが持つにはファンシーすぎる。
《Persephone399》
刻印された金色の文字をなぞる。
____ひと粒食べればアナタも虜。ちょっと大人な本命チョコレート。
キャッチコピーを思い出しながら、おれはため息をついた。おれにこれを渡せるんだろうか?
「螢くん、早くしないと鍵しめちゃうよー」
教室の引き戸の前で苹果先輩がくるくると鍵を回している。
「すいません。今すぐいきます」
いつもより大股で床を蹴った。おれの思考はカバンの中にある、バレンタイン・チョコレートのことでいっぱいになる。どういうチョコレートなのかおれにはわかる。真っ赤なりんご型の缶に入ったボンボンショコラ。コーヒーとの相性が二重丸。おれは苹果先輩のマフラーに埋もれた横顔を眺める。
「じゃあ行こうか。わたし職員室に鍵返してくるから……正門で集合ね」
これは、苹果先輩に渡す本命チョコレートだ。
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