第7章 生き様
どのくらい経ったのだろうか。
どちらももう限界だった。
その場は血と汗と土の臭いが漂っていて、刀は血で斬れ味が悪くなっていた。
希介は血を身にまとっている布で素早く拭き取ると、体制を整えた。
もう、そろそろ終わるかもしれない。
そう脳裏を過っていた。
「っ!早く死ね!」
織田兵がそう言い放ち、渾身の一撃と言わんばかりに刀を振った。
希介は策を考えた。
今気が付いたが、ここは崖の上であった。
もう体力も無い。ならばこいつを崖からどうにかして突き落とすしかないという考えだった。
「ぐっ!」
攻撃を避けたが、腕に傷をおってしまった。
「っははは!どうした!ついに終わりか!」
傷は深い。腕の神経も切れてしまったのか、腕はだらんとしている。
「あがっ!?」
希介は左足も斬られてしまった。完全に足の健が切れてしまった。もう立てない。
「ぐっ!くそっ…」
「死ね!!」
よろよろしながら刀を持って近づいてくる。頭を斬るつもりだ。
こいつを、こいつを殺さなければ。
「っなに!?」
希介は刀を左手に持ち替え、キッと睨んだ
「お前が先に死ね!!」
そう言いながら、力を込め鳩尾を刺した。
「かはっ!!!」
大量の血を吐くと同時に、
希介腹を刺されてしまった。相討ちだ。
「っぐっ!おらぁぁぁぁ!!」
力を振り絞り、死にかけている織田兵の腕を掴んだ。
そのまま自身も引き摺り、崖から落としたのだ。
下から断末魔が聞こえるが、希介ももう既に意識が朦朧としていた。
「っはぁ…頼廉様…申し訳、ありません…」
血が至る所から吹き出し、ゴボッと血を吐いた。
全身の体温が下がっていくのを感じる。
死は覚悟していた。していたのに、何故か未練が次から次へと頭に流れ込んでいた。
「石山…本願寺は…」
希介のかすれた声が、血の混じった息とともに漏れる。
目の前の景色はぼやけ、肌を刺すような痛みだけが現実を繋ぎ止めていた。
それでも、彼は最後の力を振り絞り、言葉を紡ぐ。
「……まだ…落ちてない……」
「……頼廉様が…まだ……」
「……なら、いい……」
微かに笑みを浮かべ、希介は薄れゆく意識の中で、遠い日々を思い返していた。
「……誓いは……果たした……」
そして、空に浮かんでいた星々を最後の時まで見つめていた。
享年25という短い人生であった。
火の手が上がる。
戦場は炎と血にまみれ、鉄と肉がぶつかり合う音が響いていた。織田軍の猛攻が続く中、頼廉は僧兵たちとともに槍を振るい、前線で戦い続けていた。
「敵を押し返せ! 本願寺を護るのだ!」
叫ぶと同時に、織田兵が斬りかかってくる。頼廉は身を低くして避け、相手の脇腹へ鋭く薙ぎ払った。刃が肉を裂き、血が飛び散る。だが、敵は次々と押し寄せる。
「弓兵、構え!」
遠くで号令が響いた。
次の瞬間、無数の矢が降り注ぐ。頼廉はとっさに槍を捨て、近くの盾を掴んで身を伏せた。矢が突き刺さり、地面には呻き声をあげる僧兵たちの姿があった。
「くそっ……!」
頼廉は歯を食いしばった。戦況は厳しい。織田軍の兵力は圧倒的であり、徐々に包囲されつつあった。
そのとき、馬蹄の音が響いた。
「お前が下間頼廉か!」
馬上から鋭い声が飛ぶ。
赤備えの鎧に身を包んだ男――織田家の重臣、佐久間信盛である。
「おのれ、本願寺の犬め! この場で首を刎ねてくれる!」
佐久間は馬を駆け、頼廉へ斬りかかる。
頼廉は即座に身を引き、腰の刀を抜いた。
「……ならば試すがいい。本願寺の意地を!」
刃が激しく交わる。
佐久間の剛力の一撃を受け止めながら、頼廉は反撃の機会を窺った。だが、敵は老練な武将。攻める隙を与えず、次々と斬撃を浴びせてくる。
「どうした! それで本願寺を護れるつもりか!」
嘲るように佐久間が言い放つ。
頼廉は息を整え、刃の間合いを見極めた。
(……いま!)
瞬間、頼廉は低く踏み込み、佐久間の懐へと潜り込んだ。
「なにっ――!」
刹那、頼廉の刃が閃いた。
佐久間の肩口から血が吹き出る。馬が暴れ、彼は地に転がった。
「ぐ……くそ……!」
佐久間は血まみれのまま這いずり、必死に剣を構えようとする。しかし、頼廉は動じない。
「織田の将よ、ここで討たれるがいい」
頼廉が刀を振り上げた瞬間――
「撃てええええ!!」
遠くで轟くような声が響いた。
次の瞬間、大筒の砲撃音が戦場を揺るがした。
爆音とともに、頼廉の周囲が爆ぜる。土と血が舞い、僧兵たちの叫びがこだまする。
頼廉は咄嗟に身を伏せたが、強烈な衝撃に弾き飛ばされた。視界が揺れ、耳鳴りがする。
「ぐっ……!」
立ち上がると、佐久間の姿はすでに消えていた。
戦場を見渡すと、織田の本隊がこちらへ向かっている。信長の旗がはためき、騎馬武者たちが押し寄せる。
(……まだ、終わらせはしない)
頼廉は血に濡れた刀を握りしめ、炎の中に飛び込んでいった。
織田軍の猛攻は止まらなかった。
鉄砲隊が前線を制圧し、騎馬武者たちが蹂躙する。炎が本願寺を包み、血煙と叫び声が戦場に渦巻いていた。
頼廉は血に濡れた刀を握りしめ、なおも前に出る。
「まだ終わらぬ……! 本願寺は、まだ……!」
僧兵たちも必死に抗う。だが、敵の数はあまりに多い。仲間が次々と斬り伏せられ、地に崩れ落ちていく。
そんな中、頼廉は戦場を駆けた。
(希介……どこだ……)
信長との戦に備えて、希介とは別行動を取っていた。彼は間者として敵陣に潜り込み、織田の動きを探っていたはずだ。しかし、戦が始まってから、彼の姿を見ていない。
まさか――
不吉な予感が頼廉の胸を締め付ける。
その時だった。
「――織田軍、退くぞ!」
本願寺の門前に響く大音声。
頼廉は顔を上げた。戦場の潮目が変わるのを感じる。
織田軍が退却を始めたのだ。
(……退いた? なぜだ?)
信長の旗は遠ざかり、兵たちも後退していく。
しかし、これは決して敗走ではない。戦を知る頼廉には分かった。これは「戦略的な撤退」だ。
実際、信長はこの戦において本願寺を完全に落とすつもりだったわけではない。彼の目的は本願寺の力を削ぐこと、そして顕如に圧力をかけ、和睦に追い込むことにあった。
だが、戦は長引きすぎた。
本願寺方の抵抗は信長の想定を超えていた。長期間の籠城戦によって、織田軍の兵糧は底をつきかけていた。加えて、戦線を維持するための兵たちの疲弊は激しく、加賀一向一揆や毛利家など、他の敵勢力の動きも無視できない状況となっていた。
さらに、朝廷や将軍・足利義昭を通じた外交工作が実を結び、信長に対して和睦を勧める声が高まっていたのだ。
(……そういうことか)
頼廉は戦場を見渡しながら、理解した。
本願寺は、落ちなかった。
織田軍の退却が始まった。
それを見た本願寺の僧兵たちの間に、歓声とも嗚咽ともつかぬ声が広がった。
「退いた……!」
「織田が、退いたぞ……!」
戦場に響いていた無数の怒号や悲鳴が、徐々に収まっていく。代わりに、肩で息をする僧兵たちの荒い呼吸と、剣戟が止んだあとの異様な静けさが広がっていた。
本願寺は、守られたのだ。
頼廉は血に濡れた刀を握りしめたまま、ゆっくりと織田軍の背を見送った。
(勝ったのか……?)
実感が湧かない。
つい先ほどまで、ここは地獄だった。
火矢が降り注ぎ、鉄砲が鳴り響き、無数の命が散った。信仰のために戦い、倒れた仲間たち。
その犠牲の上に、彼らは立っている。
「勝ったのだ……!」
そう叫んだ僧兵の声が耳に入った。
戦の中で生き残った者たちが、徐々に安堵の表情を見せ始める。互いの無事を確かめ、肩を叩き合い、地面にへたり込む者もいた。
頼廉もまた、力が抜けるように膝をついた。
戦が、終わったのだ。
(本願寺は、落ちなかった……)
胸に込み上げるものがあった。涙ではない。歓喜でもない。これは、安堵なのか。
それとも――
「……助かった……!」
ふと、門徒たちの間から嗚咽交じりの声が漏れる。
戦に巻き込まれた民たちも、この時を待ち望んでいたのだ。
子を抱きしめて泣く母親。傷ついた仲間を抱え、互いの無事を確かめる僧兵。
焼けた匂いが漂う中、戦が終わったという事実だけが、確かにそこにあった。
顕如が静かに歩み寄ってくる。その顔にも、疲労の色が濃く刻まれていたが、彼の目は強い光を宿していた。
「……よく、耐えたな」
「本願寺を守るのは、私の役目……」
頼廉はそう答えながら、まだどこか現実感を持てずにいた。
本願寺は織田信長の猛攻を耐え抜いた。
しかし――
(……希介……)
心のどこかが、ぽっかりと空いたままだった。
頼廉は、戦場を見渡した。
そこには、戦の爪痕だけが残されていた。
焼け焦げた大地、砕けた刀、血に染まった地面。
そして、希介の姿は、どこにもなかった。
希介の亡骸を見つけたのは、戦が終わっ刻後のことだった。
「……希介は?」
戦が終息し、僧兵たちが負傷者の手当てに追われる中、頼廉はその名を呼んだ。
しかし、誰も答えられなかった。
希介の居場所を答えられる者はいなかった。
血に濡れた地面。焼け焦げた草の匂い。折れた矢、砕けた刀、無数の亡骸。
そのどこかに、希介がいるのか。
「頼廉様!」
駆け寄ってきたのは、間者の一人だった。
「仲川殿が……!」
頼廉の胸がざわめいた。
「どこだ……?」
「こちらです……」
案内された先は、戦場の外れ。
焦げた草の上に、希介は倒れていた。
胸には深々と刀傷が刻まれ、腹には一本の刀が刺さったままだった。すでに血は乾きつつあった。
近くには崖があり、その付近には血が沢山付着していた為、希介がこの崖から織田兵を突き落としたことは間違いなかった。
希介は戦い抜いた。
そして――
頼廉はそっと膝をついた。
「希介……」
呼びかけても、返事はない。
そっとその顔を覗き込む。
頼廉の喉が詰まった。
そっと手を伸ばし、希介の手を握った。
冷たい。
「……希介……」
戦場に吹く風が、僧衣の袖を揺らした。
そのとき、希介の懐から小さな紙片がはらりと落ちた。
頼廉はそれを拾い上げ、開く。
そこには、血に滲んだ文字でこう書かれていた。
「頼廉様へ」
頼廉の指が震える。
まさか――
その紙には、希介の字でこう綴られていた。
「この戦が終わる頃、私ははこの世におりませぬやもしれません。
されど、本願寺はきっと残りましょう。頼廉様の御信念こそが、皆を導くと存じます。
拙者の命は、その力の一つとなれば本望にございます。長きにわたり、お傍に置いていただき、誠にありがとうございました。
頼廉様にお仕えできましたこと、これ以上の幸せはございませぬ。」
頼廉の視界が滲んで、手が震えた。何度読み返しても、目の前の現実は変わらない。
「……馬鹿者が……」
声がかすれる。
希介は、初めから覚悟していたのだ。
この戦が、自らの最期になることを。
この戦の先に、自分が存在する未来がないことを。
それでも、希介は何も言わず、ただ戦場へ向かった。
頼廉のために、本願寺のために。
「……すまぬ……希介……」
かすれた声が、戦場の静寂に溶けていく。
これまで、どれほどの者を見送ってきたか。
戦乱の世に生まれ、戦に身を置けば、それは避けられぬことだった。
それでも――
「お前だけは……」
頼廉は腹に突き刺さっていた刀を抜き、見開いていた目を手でそっと閉じた。
どれほどの時が経ったのか。
その場から離れることが出来ず、頼廉はずっと希介を見つめていた。
ふと、風が吹いた。
まるで、希介の魂が微笑んでいるかのように。
頼廉はそっと目を閉じた。
「……安らかに眠れ、希介」
その瞬間、遠く本願寺の鐘が鳴った。
まるで、希介の魂を弔うように。
戦火の中に生まれた絆。
それは、確かにここにあった。
た。
――信念の刃。
希介は最後まで、それを貫いたのだ。
頼廉は静かに立ち上がる。涙が頬を伝って落ちるのを感じながら、希介の亡骸を見つめた。
「誓刃」
それが、希介の生きた証だった。
己の刃を信じ、誓いのために散った男の、決して消えることのない証だった。
目の奥に焼きついた希介の姿は、いつものように笑っている。戦が始まる前の夜、灯りの下で黙々と短刀を研いでいた姿。潜入から戻った時、息も切らさずに「何とか間に合った」と笑った姿。そして、最後に見たのは、信長の兵を斬り伏せながら、なお前へ進もうとする背中だった。
もう、希介はこの世にいない。
それは揺るぎようのない現実だった。
頼廉は懐にしまった暇乞い状をそっと握りしめる。
もう二度と返事のない相手に語りかけながら、奥歯を噛み締めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます