誓刃ー戦火に咲く絆ー
葉月 彩夏
第一章 出会いの夜
「石山本願寺……か。」
織田信長は、広げられた国絵図を見下ろしていた。
安土城の天守閣。燭台の炎が、信長の顔を照らしている。
本願寺――たかが寺社勢力に過ぎぬ。だが、そこに集う門徒たちは、信仰のもとに結束し、戦国武将たちですら持ちえぬ団結力を持つ。
「やりづらい相手よ。」
信長は、隣に控える家臣である明智光秀にそう呟いた。
「本願寺は戦の手練れではありません。しかし、あの寺の軍師と呼ばれている下間頼廉《しもつまらいれん》は、決して侮れぬ人物かと。」
「ふむ。」
信長は口元に笑みを浮かべた。
「面白い。」
広がる天下の国絵図。その中で、本願寺がどこまで抗えるか――信長は、戦の未来を思い描いていた。
第一章「出会いの夜」
永禄三年(1560年)春――。
夜の石山本願寺。
琵琶湖から吹く風が、境内の松をざわめかせていた。堂塔の屋根が月明かりを受けて鈍く輝き、境内の灯籠がゆらゆらと揺れる。静寂に満ちた堂内には、灯明の炎が僧たちの影を揺らめかせている。奥の方では、低く唱えられる念仏が夜の空気に溶け込んでいた。
ここ、石山本願寺は、ただの寺ではない。
浄土真宗本願寺派の総本山であり、信仰の力によって武士や町人、農民たちを一つに束ねる強大な勢力――戦国の世において、一大名にも匹敵する軍事力を持つ宗教国家だった。
本願寺の法主、顕如のもと、信者たちは「門徒」として集い、必要とあらば武装して戦う。紀伊の雑賀衆、根来衆といった鉄砲傭兵集団とも深い繋がりを持ち、織田信長にとっては最も厄介な敵とも言える存在だった。
その本願寺の軍事を統べるのが、僧の下間頼廉である。
頼廉は、夜の静寂の中、一人机に向かっていた。
(織田信長――桶狭間で今川義元を討ち取った男か。)
目の前に広げた書状を見つめながら、頼廉は思考を巡らせる。
今川を破ったことで、織田の勢力は膨れ上がるだろう。いずれ、本願寺に牙を剥く日も来るはずだ。
(だが、こちらにも策はある。)
信長が剛なら、こちらは柔。真正面からぶつかるのではなく、敵の動きを見極め、打つべき手を打つ。
それが頼廉の流儀だった。
石山本願寺の周囲には、戦に備えて僧兵たちが訓練を続けている。
境内の一角では、槍を構える僧兵たちが号令に合わせて動いていた。
「突け!」
「はっ!」
白い法衣の裾を翻しながら、槍の穂先が一斉に前へ突き出される。彼らは戦国武将の軍勢とは異なり、「信仰のために戦う者たち」だった。
本堂の回廊では、数人の僧が木剣を振りながら武芸の稽古をつけている。その横では、門徒たちが念仏を唱え、蓮如上人の教えを学んでいた。
頼廉はそんな彼らを見守りながら、静かに息を吐いた。
(この寺を、護り抜かねばならん。)
信長が本願寺を敵視する理由は明白だった。ここが単なる宗教施設ではなく、独立した勢力だからだ。信長が天下統一を成し遂げるためには、本願寺の力を削ぐ必要がある。
(信長が我らを討つならば、迎え撃つのみ。)
頼廉はそう考えながら、筆を置いた。
その時、襖が叩かれた。
「頼廉様。」
低く落ち着いた声がする。
「入れ。」
襖が開き、一人の男が姿を現した。
黒装束に身を包み、静かに佇む影――
頼廉は、希介をじっと見つめた。
「お前が、忍びとして従うことを望んでいるという仲川希介か。」
「はい。」
希介は膝をつき、静かに頭を下げた。
「私は本願寺のために働きたい。いずれ訪れる戦に備え、私の力をお役立ていただきたく、ここへ参りました。」
頼廉は、その言葉の真意を探るように目を細める。
「お前は何者だ?」
「ただの忍びです。」
即答だった。
「ただの忍びが、なぜ本願寺に仕えたい?」
希介はすっと顔を上げ、その瞳には迷いがなかった。
「頼廉様は、命を大切にされるお方だと聞いております。」
頼廉の眉がわずかに動く。
「戦乱の世において、命を惜しむことは弱さに繋がるとも言えます。しかし、それでもなお、大切にすべきものがあると信じる。私は、その信念に共感しました。」
頼廉はしばらく黙ったまま、希介の目を見つめる。
「……その覚悟、本物かどうか確かめさせてもらおう。」
頼廉は静かに立ち上がり、壁に掛けられた一振りの刀を手に取った。
「俺と、真剣で勝負しろ。」
希介は一瞬、目を見開いた。
「ここで?」
「ああ。生半可な覚悟で忍びを申し出たわけではないだろう?」
頼廉は腰に刀を差し、堂の外へと歩き出す。
「ついてこい。」
広い境内に出ると、夜風が頼廉の頬を撫でた。上空では月が光り、あたりを蒼白く照らしている。
頼廉は月明かりの下で静かに刀を抜いた。
「手加減はしない。命が惜しければ、今すぐ逃げろ。」
希介は無言のまま、ゆっくりと自身の刀を抜いた。
夜風が静かに吹き抜ける。
頼廉は細く息を吐き、じり、と足を引いた。
次の瞬間――
二人の間に閃光が走る。
金属がぶつかり合う鋭い音。火花が散る。
頼廉の一撃を、希介は受け流していた。
(悪くない……いや、むしろ良すぎるな。)
頼廉はすぐに次の一撃を放つ。横薙ぎに走る刃。希介はそれを最小限の動きでかわし、逆に頼廉の懐へと踏み込んだ。
「――ッ!」
頼廉はとっさに後ろへ跳び、間合いを取る。
その目には、かすかな驚きが浮かんでいた。
(こいつ……刀だけではない。動きが異常に洗練されている。)
忍びの技術か。体捌きが軽く、刀の重さを一切感じさせない動き。
頼廉は唇を引き締め、さらに踏み込んだ。
再び交わる刃。互いの刀が軋み、火花が飛ぶ。
頼廉は希介の目を覗き込んだ。
(まだ……余力があるな。)
この勝負、長引かせても意味はない。
頼廉は一瞬、重心を低くし――
「……ッ!」
次の瞬間、頼廉の刀が希介の首元に突きつけられていた。
「……俺の勝ちだな。」
希介はわずかに息を整え、ゆっくりと刀を収めた。
「……さすがです。」
頼廉は微かに笑みを浮かべ、刀を鞘に納めた。
「お前の腕、確かに見せてもらった。」
頼廉は静かに希介を見つめる。
「お前を雇う。……だが、俺のために死ぬなよ。」
希介は驚いたように目を見開いた。
「……心得ております。」
頼廉は夜空を見上げた。
(お前のような男と出会うとはな。)
こうして、二人の物語は始まった――。
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