第2話 あんたのすべてをもらう代わりに、あんたを愛する



『アタシが、あんたを幸せにしてあげる』



 ……咲波 由利さきば ゆりは今、確かにそう言った。その言葉に、枯山 紅かれやま こうはきょとんとした表情を浮かべていた。

 先ほどまで無であったその表情に、わずかばかりの感情が浮かんだような気がして、由利は笑みを浮かべた。


 しかしそれは、純粋な笑顔ではない。いや、ある意味では純粋だ。

 まるで獲物を前に舌なめずりをする、肉食獣のよう。


「しあ……わせ?」


「そ。約束したでしょ」


 パチパチとまぶたを動かす紅に、由利は言葉を返す。

 それは、自分たちの間に交わされた『約束』……忘れるはずもない。なにせ、紅自身が口にした言葉だったからだ。


「……私の全部、あげるから……私を、愛して」


 自分の言葉を、一言一句間違うことなく、繰り返す。

 それを聞いた由利は、満足そうにうなずいた。


 しかし、紅はいまいちピンと来ていない。


「確かに、約束した……けど、それは愛してって言ったはず。幸せになんて、言ってない」


「はぁー?」


 一言一句間違っていないのだから、二人の間に交わされた『約束』に紅の幸せは含まれていない。


 紅の言葉に、しかし由利は眉を寄せる。

 なに言ってんだこいつ……とでも言いたげな表情だ。


「なに言ってんのあんた。バカなの」


 実際に言った。しかも罵りのおまけつきだ。


「あんた、幸せになりたいから愛して、って言ったんじゃないの?」


「?」


「? じゃないわよ! なんでアタシがおかしいみたいになってんのよ!」


 由利の言葉に、紅は首を傾げるのみ。「幸せになりたいから愛して」……? いや、違う。そんな気持ちは、紅の中にはまったくなかった。


 ただ……愛されたいとは、思っている。誰からも愛されない自分が、誰かに愛されるためにはこれしかないと、そう思ったのは事実だ。

 事実だが、そこにイコール幸せなんて考えはない。


「はぁー、こりゃ重症ね。愛してって言うのは幸せになりたいからで……いや、いいか」


 愛して。その本質は、幸せになりたいからであるはずだ。幸せになりたいから愛してほしい。少なくとも由利はそう考えていた。

 しかし、由利は説明を放棄した。面倒になったからだ。わざわざ、懇切丁寧に説明してやる義理はない。

 それに、これは由利の考えだ。自分の考えを他人に押し付けるつもりはない。


 そんな理屈なんか、どうだっていい。


「これは、アタシのためなの」


「……咲波さんの、ため?」


 愛されたいというのなら、愛してやる。それが『約束』だ。

 だが、同時に幸せにもなってもらわないといけない。そしてそれは、由利自身のため。


「そう、アタシのため。あのね、血って……同じ人間でも、その時の感情によって、味が変わるの。そんで、いっちばん美味しい血が、そいつが"幸せ"の絶頂にある時」


「……だから、幸せ……ってこと?」


 血の味は感情により左右する。それは、吸血鬼仲間も言っていたし、なにより由利自身の経験則だ。

 吸血鬼を前に恐怖に震える人間にだって、恐怖という感情のスパイスが血に影響を与える。


 ようやく理解したか、と言うように、由利はうなずいた。

 それを受けて、しかし紅は首を振る。


「……でも、それだと約束が違う。約束は、私の全部あげるから、愛してって……」


 そう、約束はこうだ。『私のすべてをあげる、だから私を愛して』……紅のすべてをあげる代わりに、愛してくれという意味だ。


 約束は覚えているが、今度は由利が首を振る。

 髪をかきむしるように頭をかくおまけ付きで。


「あー、融通きかないわね! そういうところくそ真面目だなぁ。だいたい、そんなの言葉のあやでしょうが。

 いい、順序の問題よ。先にあんたのドブみたいな血を吸ってからあんたを幸せにするより、あんたを幸せにしてさいっこうに美味しい血を吸ったほうが断然いい!」


 きれいに長く伸びた由利の指先が、ビシッと紅に突きつけられる。


「……幸せ、に……」


「そう! あんたのすべてをもらう代わりに、あんたを愛する……これが約束。そんで、私の考えは愛するイコールつまり幸せにする。だから、あんたの血をいただいてから幸せにしようが、幸せにしてから血をいただこうが、結論としては同じことなの。

 だったら私は後者を選ぶ! 結論は同じでも、過程が大きく違うからね。やる気の問題よ。そう、すべては美味しい血を手に入れるために!」


 それは、由利の本音だ。

 そこには決して、紅を励まそうとかいった思惑はない。由利にとっては、彼女はただの餌だ。


 正直な話、無理矢理血を吸う……ということは簡単だ。さっきだって、実際に押し倒せたのだから。

 だが、そこもやはり感情の話。無の気持ちよりもなにかしらの感情があったほうが。そしてその感情はマイナスのものであるより、プラスのものであるほうが。より美味となる。


 それに加えて、紅は高校生になったばかりの、みずみずしい肉体の持ち主だ。彼女が幸せの感情を抱いたとき、その血の味がどれほどとなるのか、想像もつかない。


「……ええと……」


「要は、あんたを幸せにするのはアタシ自身のため。オーケー?」


「お、おーけー……」


 言葉をまくし立てる由利の様子に、自分のことを言われているはずの紅はただただ唖然としていた。

 しかし、要点を纏めた由利……そこだけは、なんとなく理解できた。


 この吸血鬼は、約束は守ると言ってくれた。自分を愛してくれると言った。ならば、自分も彼女の言葉に従おう。

 自分が幸せになれば、彼女の役に立てると言うのだから。


「はぁー……けど、寸止めしたせいでムラムラしてるわ。ねぇ、トマトジュースない?」


 一通り言いたいことは言い終えたのか、由利はベッドの上に座り直す。

 そこで我に返れば、先ほどまでの雰囲気に呑まれていた自分がいたことを思い出す。


 もはやあの雰囲気は消え去り、自分もその気持ちはなくなった。はずだ。

 だが、悲しき吸血鬼の性。気持ちがなくなっても身体の火照りとは、また別の問題だ。


「えっと……どう、だったかな。冷蔵庫、見てくるね」


 由利の要求に、紅は少し考えた後に立ち上がる。一言告げて、部屋から出ていく。

 残されたのは、由利一人……と、ベッドの上に脱ぎ散らかされた紅のブレザーだ。


 由利はそれをじっと見つめた後、ゆっくりと手を伸ばす。誰も見ていないのを確認するように、キョロキョロと首を動かす。

 この部屋には、元々二人だけ。そして紅が出ていった結果、他には誰もいないのはわかっているのに。


「……」


 ついにブレザーを手にし、引き寄せ、それをぎゅっと抱きしめる。先ほどいろいろ言ったが、やはり……


 ……胸にかき抱くそれは、ほんのりとぬくもりが残っている。

 いや、残っているのはぬくもりだけではない……


「……すぅ……」


 ブレザーに顔を押し付け、思い切り息を吸い込む。その瞬間、鼻の中に吸い込まれるほんのりと甘い香り……鼻孔をくすぐるのはまさしく甘美の味。


 ブレザーに残っている紅の香りを楽しみ、由利は感嘆のため息を漏らす。

 クンカクンカスーハースーハーと……紅のいないうちに堪能するため、由利は呼吸も忘れる勢いで香りを嗅ぐ。


 吸血鬼にとって、においというものもまた重要だ。人よりも鼻が利く吸血鬼は、近くに自分好みの血を持った人物が来ればビクンと……いやビビンと来る。

 血の味は感情などで変わるとは言うが、その人が持つ本質的な味というのもまた存在する。そして本質の味こそ、吸血鬼にとってタイプかどうかが分かれる。


「やっぱ、いいにおい……」


 そう、由利にとって紅は、一目惚れならぬ一嗅ひとかぎ惚れ。彼女を目撃した瞬間、まるで脳内に……身体全体に電撃が走った気分だ。

 思わず道端で膝をついてしまうほど、それはとんでもない衝撃だった。


 まさに自分好みの味。それがわかったからこそ、面倒な約束まで取り付けたのだ。

 無理矢理よりも、合意の上で血を吸いたい。吸血鬼だが、乙女的な思考もあるのだ一応は。


「あー……血ぃ吸いたいぃ……でも我慢ん……」


 身体の火照りを収めるには、やはり血を吸うこと。だが、最近発見したことだが、トマトジュースでも症状を和らげることはできるのだ。

 他の人間の血を吸うことも考えたが、紅の存在を知ってからは他はすべて雄豚雌豚に見える。ちなみに自分の血を吸おうなんて考えはない。


 由利は紅の残り香を楽しみつつ、ブレザーを抱きしめていた。そして、ふと思い出す。

 こうして紅と近づくことになったのも……きっかけは、彼女のにおいだったことを。



 ――――――



 第一章はここまでです。始まった吸血鬼と少女の関係…その出会いとは!? そして少女が抱える心の闇とは……!?

 次回から、第二章 吸血鬼と少女の出会いが始まります。

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