君がいた、あの夏の光

千明 詩空

第1話 海辺の町にて

 海の香りがする風が吹き抜ける。青く澄んだ空の下、ゆるやかに波が打ち寄せる音が、静かな昼下がりの空気に溶け込んでいた。陽射しを受けてきらめく水面を見ていると、時間の流れが穏やかになるような錯覚を覚える。


 橘美羽は防波堤に腰掛け、頬杖をつきながら水平線を眺めていた。この町で生まれ育ち、子どもの頃から何度も見てきたはずの景色。けれど、それはいつも変わらないようで、どこか遠い場所のもののように思える。潮の香りを深く吸い込みながら、美羽はぼんやりと考えていた。


 遠くの漁船のエンジン音がかすかに聞こえてくる。カモメが低く飛び、海面に影を落とした。波の音が単調に繰り返されるなかで、どこか遠くに行きたいという気持ちが、夏の空とともに膨らんでいく。


 そのとき、学校の屋上の方から何かの音が聞こえた。強い風が吹いたのか、金属の軋むような音とともに、小さな衝撃音が混ざった。何気なく振り返ると、校舎の向こう側にある柵の近くに人影が見えた。


 「……誰かいる?」


 美羽は気になって立ち上がり、ゆっくりと学校へ向かった。校門の鍵は開いていた。部活の生徒が出入りする時間帯なのかもしれない。夏の日差しを浴びながら、校舎の裏手を回り、ゆっくりと階段を上がる。手すりに触れると、熱がこもっていて、思わず手を引っ込めた。


 屋上の扉をそっと開けると、そこには制服姿の少女がいた。


 陽射しを受けたその姿は、どこか儚げだった。肩まで伸びた黒髪が風に揺れ、白い指がぎゅっとスカートの裾を握りしめている。風に乗って、彼女のかすかなため息が聞こえた。


 少女は美羽に気づくと、少し驚いたように目を見開いた。大きな瞳が、美羽の姿をじっと捉える。


 「……誰?」


 透き通るような声だった。どこか都会的な雰囲気をまとった少女。美羽はふと、この町にはいなかった種類の人間だと思った。


 「こっちの台詞だよ。あんた、転校生?」


 少女はわずかに戸惑いながらも、静かに頷いた。


 「……篠宮朱莉。今日からこの学校に通うことになったの。」


 名前を聞いた瞬間、美羽の胸の奥で何かが動いた気がした。けれど、それが何なのかはまだわからなかった。


 「私は橘美羽。この町で生まれ育った。」


 朱莉は、美羽の言葉に何かを感じたのか、ゆっくりと目を伏せた。制服の袖口を指先でつまむ仕草が、どこか不安げに見えた。


 「ここに来たくて来たわけじゃないのに……」


 その言葉は、海風に紛れるほど小さな声だった。けれど、美羽にははっきりと聞こえた。


 「……私も、ここにいたくているわけじゃない」


 ぽつりと、そんな言葉がこぼれた。


 その瞬間、美羽と朱莉の目が合った。まるで、お互いの孤独を映し合うように——。


 夏の始まりに出会った二人の少女。


 この特別な夏が、二人の運命を変えることを、このときはまだ知らなかった——。

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