第48話 ただそれだけが怖い

 空は赤い。暗い紅が続いて、山の陰に隠れた街は一足早く夜になる。

 ぼんやり流れる飛行機雲を見上げながら、笹佐間は路地の間にある小さな石階段へ体育座りしていた。


「みんなのとこ、戻らないとねー」



 スーパーの袋に詰めたお菓子は二戸坂たちの好きなものばかり。一緒に買ったオレンジジュースは温くなっていたが、彼女はそれをチビチビ飲む。

 夕暮れ空を見ながら、早く時間が経つことを願って。



「……これなら皆、さささちゃんのこと気にならないよね」



 ――練習する彼女たちと同じ空間で一人、笹佐間だけが楽器に触れていなかった。全員で揃える時以外に、やるべき練習がなかった。全ては一度で


 振舞い方を知らない笹佐間は一人になることを選んだ。もうする必要はないと思っていた、誰もいないところで隠れているということを。



「今度こそ、仲良くなれたんだけどな~。でも、この方がいつもみたいに上手く……」


「さささちゃんっ!!」



 聞こえる筈がないと思っていた声に、笹佐間は幻聴を疑った。

 階段の石の粒を眺めていた目はピント調整まで数秒要した。目線を上げて、焦点がはっきりあった時、笹佐間は彼女がたしかにいることを確かめる。



「――にこぴ?」



 肩で呼吸し、額から汗を噴き出して、ホッした顔を見せる二戸坂結香が目の前に立っていたのだ。



「どう、して?」



 笹佐間は純粋な疑問を口にした。だがその返答が来る前に、二戸坂がダウンする。咽て息を飲み込むように吸いながら彼女は笹佐間に寄り掛かった。



「さ、さささちゃん、スマっ……ハァ、ヒュー……」


「息上がってるね。ゆぅっくり、深呼吸~」


「あり、がっ、ケホッケホ。もう、大丈夫、息吸えてきたよ」



 二戸坂は慣れない全力疾走で体力を消耗していた。ほんの八分程度走っただけであったが。


 胸をドンドンと手で叩く一方で、二戸坂はスマホを目の前に差し出す。



「さささちゃん、スマホ忘れてたでしょ?」


「あっ、そういえば忘れちゃってた……」


「さささちゃんなら帰ってこれる気がしたけど、念のためにね」


「うん、地理は大丈夫~。実はここ、さささちゃん昔住んでたんだ~」


「うえええそうだったの!? え、こんな高級住宅街住みだったってことは、実はさささちゃんってイイとこのお嬢さん!?」


「わかんないけどー、幼稚園の時に引っ越したんだぁ。パパがホンシャ勤務になって~」


「今度聞きたいな……けど土地勘あったんだね。それなら良かったぁ」



 安心と疲労困憊状態になった二戸坂は萎んだ風船のようにふにゃふにゃになって、休憩も兼ねて笹佐間の横に並んで座った。


 二戸坂の顔はすっかりほぐれていたが、笹佐間は不安の色を面に塗っていた。



「……にこぴ、練習中だったよね?」



 恐る恐る笹佐間は尋ねる。彼女は二戸坂の目を見れず、自分の膝に向かって声を発した。


 だが二戸坂はなんてことのように無邪気に笑っていた。その裏に後ろ向きな感情は全くない。



「うん。でもさささちゃんに万が一があったら嫌だし、来て正解だったよ!」



 二戸坂は心から友の無事を喜んでいるだけだった。だからこそ、笹佐間の胸はかつてなく張り裂けそうになっていた。


 これまで積み重ねてきた感情が、ここにきて雪崩を起こす。



「……そっか」


「さささちゃん?」


「――さささちゃん、また間違えちゃった。にこぴに、みんなに、迷惑かけちゃった……」



 詰まった声がしゃくりあげる。長い橙色の髪の隙間から、水が滴り落ちる様が見えている。

 小さな子供のように膝を抱えて、顔を埋めて、笹佐間は咽び泣いていた。今にも消えてしまいそうなほどに、彼女は小さくなっていった。



「さささちゃんっ、お。落ち着いて」



 突然のことに二戸坂も理解が追い付いてはいなかったが、考える間もなく笹佐間を抱きしめ、その背中を擦った。


 時折ポンポンと優しく叩いてやりながら、声を上げて泣く笹佐間から二戸坂は離れなかった。



「大丈夫、ゆっくりね。さっきしてくれたみたいに、深呼吸」



 涙は止まらず、二戸坂の首元からシャツまで段々と染みていく。だが震えは少しづつではあるが弱くなっていった。


 母のように抱擁する二戸坂を抱き締め返し、笹佐間は何度も言葉を繰り返す。



「ごめん、ごめんね、にこぴ、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……」


「謝ることじゃないよ」


「さささちゃん、にこぴ達に嫌われたくない……にこぴ達にだけは」



 二戸坂が抱き締める少女は、これまで我慢してきた涙を一気に流していた。


 それは天才、万能ともてはやされた『さささちゃん』ではない。

 ただ寂しがり屋で、友達が大好きな女の子、笹佐間さくらだ。


 包み込む二戸坂の慈愛に救われた彼女は、幽霊の囁きのように消え入る声で呟いた。



「もう、ひとりぼっちになりたくないの……」

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