2話 転生前夜
「主人と奥方が着席したならば、もう料理を運んでも良いな?」
アレスターが運んできてくれたのは、パンとスープ、ほんの少しのチーズと野菜のソテー。それに、メインディッシュは小さな魚のフライ一切れ。
「……あれ?」
領主の食事がこんなに質素なのか――やはり私の夢、細部がおかしい。しかし今はそれを問い詰めている場合ではない。
「確認なんですけど、あなたはドラグマン・グロウサリア卿ですよね?」
「そうだけど……君のそれは冗談なの? 昨日結婚した夫の名前を忘れるとか」
夫。
「推しとの初夜イベント」という、あまりに衝撃的な事案の発生で忘れかけていたが、彼とは夫婦という設定だった。しかし新婚1日目にして、このよそよそしい態度は何なのだろう――。
「おわっとっと!」
突然の大声とガラスの擦れる音に、振り返ると――料理の入った大皿が宙を舞っていた。息を呑む間もなく、皿が真っ直ぐ頭上に落ちてくる。
とっさに身を縮めた瞬間。
「危ない!」
突風が髪をさらっていった。静寂の中、おそるおそる目を開けると――頭上に伸びる黒い腕が、湯気を立てた大皿を掴んでいる。
「だっ、大丈夫? 火傷は……してなさそう、かな」
驚いた――どうやら一瞬の間に、向かいの席にいたドラグ様(?)が助けてくれたようだ。
「大丈夫です……あ、ありがとうございます」
彼が掴んでいる大皿の縁にひびが入っている。気弱な声とは裏腹に、とてつもない力を秘めているのだろう。また黒い鱗に覆われた手の甲には、細かい傷がたくさんついている。
「アレスターも平気? 君がつまずくなんて、珍しいな……」
「すまんのぅ奥方殿、主人。ワシももう年でな」
アレスターのわざとらしい口調が気にかかるが――人の失敗を責めるより先に心配する、彼のこういうところも推しとは違うが、自分の上司だとしたら好感がもてる。
「怪我がなくて良かった。残り少ない皿も無事だったし……っと、とにかく食べようか」
食事を再開しても、目の前のドラゴンは黙々と食器を動かしていた。所作が美しいが、やはり手指に刻まれている傷が目立つ。
「ええと。最後に例の件だけど……とにかく部屋で待ってるから……また今夜」
「あっ! まっ」
逃げるように去る推しの背中へ手を伸ばしたが、引き留めるには遅かった。
やはり「初夜」の件については、気のせいではなかったようだ。
マズい。非常に。焦って食堂を飛び出したは良いが。夢はいつも勝手に終わるもので、「醒めよう」と意識したことは一度もない。しかしこのままでは、「推しとの初夜」という心臓に悪いイベントが発生してしまう。
「おぉ奥方殿、探したぞ。廊下の隅で何を……ってお主、何をしとるんじゃ!」
「止めないでください。シビュラの夢は惜しいけど、私はガチ恋夢女じゃありませんので」
それにしても、セルフ平手の威力が思ったより強い。頬の熱もやけにリアルだ。
「気でも狂ったのか! そんなにドラグとの婚姻が嫌だったとは」
「ドラグ様のせいじゃありません。個人的な都合でこうしているだけなので、放っておいてください」
「そうもいくまい」、と腕を掴もうとするアレスターから逃れ、ドレスの裾をつまみ走り出した瞬間。高窓から射し込む光が飽和して、視界一面が白くなっていった。
「なに……!?」
『匡花――いえ、今はエメルレッテと呼ぶべきでしょうか』
どこかで聞き覚えのある、厳かな声が頭の中に響いた。
手足が動かない。そのまま瞬きさえできずにいると。真っ白な空間に、顔のない女性が現れた。神々しい彼女は、見覚えのある刺繍のウェディングドレスを纏っている。
『私は
「勘違いって?」
夢でなければ何だというのか。
『ここは数多の種が生きる現実世界、「幻想国家シビュラ」――竜の夫とともに、其方がこの地を救うのです。この国の頂点まで登り詰めた、「廃課金げーまー」の力を発揮して――』
やけに壮大な言葉が、空っぽになった頭へ反響する――そうするうちに浮かんできたのは、幼なじみとのサシ飲みに向かう前の記憶だった。
「あわわ、
この半年間、『結婚式を控えたカップル』のために心身を砕いてきた。青と白を基調としたナチュラルな内装は完璧。そして式までのムードを盛り上げるために重要なウェディングドレスの展示――純白の薔薇が濃茶色に染まった瞬間。100点満点目前だった私の企画が、音を立てて崩れていった。
「オープンまで2時間弱……大丈夫、どうにかなる」
床のコーヒーを拭いている後輩女子を、責めている時間はない。リニューアルイベント開始までに手を打たなければ。
プロジェクトメンバーが不安げにこちらを見つめる中、深く息を吸った。
「坂下、式場近くのドレスショップって今開いてる?」
「休業日ですリーダー」
近くには一軒しかない。どこから代わりを持ってくれば良いか――『困った時の坂下
「どうすれば……ん?」
今、何か大きな影が通ったような――ふと窓辺に視線を向けると。
「えっ……なに、あれ」
鳥でも飛行機でもない。晴天の空を裂く黒い翼――漆黒のドラゴンが、ビルの上を旋回している。残業のし過ぎで、幻覚を見ているのだろうか。それとも『
「ドラグ、さま……?」
「リーダー……桐生!」
数人の声で我に帰ると同時に、ビルを震わせるような鐘の音が鳴り渡った。もう一度窓の外を確認したが、ドラゴンの姿はない。
「そっか。隣の式場、午前1組入ってるんだっけ。プロジェクションマッピングの演出……?」
しかし確かに、質量のありそうな物体が飛んでいた気がする。それも「推し」と非常に似たドラゴンが。
「
いつの間にか隣にいた数人の耳打ちで、頭のもやが晴れた。先ほどの鐘は、午前のカップルが式を終えた音だ。
「坂下、式場に連絡して。交渉力があるあなたなら、新婦さんに事情を説明して代わりのドレスをお願いできるはず」
微笑んだ数人はすぐさまスマホを取り出した。
あとは汚れたドレスの対処だ。まだ床にこぼれたコーヒーを拭いている後輩女子の肩を、そっと叩いた。
「ありがとう、でも汚れたドレスの方が先。私も手伝うから」
新しい布巾をひとつ手渡すと。彼女は細い指先を器用に使って、刺繍が傷つかないように拭き取り始めた。
「私のせいで、すみませぇん」
「大丈夫、失敗は誰にでもあるよ。あなたはこういう丁寧な作業が得意なんだから、次は期待してるね」
泣きそうな顔に対し、今できる最大限の微笑みで応えると。
「……リーダー、頼もしいですぅ」
彼女の笑顔を胡散臭く感じつつも、「手を止めないで」と言う気がなくなった。
そうしてオープンまで息を吐く暇もなく声を出し続け、気づけば座敷でビールジョッキを掲げていたのだ。
「我らが『ニゲル・ハウジング』のチーム桐生、半年間のイベント企画お疲れ様でした〜、乾杯!」
誰かの音頭から数秒遅れて、やっと「乾杯」と呟いた。イベント開始から、居酒屋に入るまでの記憶が飛んでいる。
「リーダー、大丈夫?」
隣の数人が、疲れた顔でこちらを覗き込んできた。
「……ちょっと顔洗ってくる」
この様子では、一杯飲んだだけで眠ってしまいそうだ。
冷水で顔を洗い、軽く化粧を直して座敷へ戻ると。
「さすがでしたよねぇ、隣の式場から新婦のドレス借りてくるなんて」
あの声はコーヒーをこぼした張本人か――何となく嫌な予感がして、
「でもぉ、桐生さんって怖いですよねぇ」
「分かる! なんかズバッと見抜くじゃない? アドバイスも的確だけどさ……正直、ちょっと怖いんだよね」
あぁ、やはり――『リーダー頼もしいですぅ』、とか言っていた時の笑顔は嘘だったのか。
「でしょ? なんか、『あなたはこれが向いてる』とか言ってくるんだけど、こっちの気持ちはどうでもいいのかって思いますよね」
薄々分かっていた。自分の言葉が、裏ではどう取られていたかくらい――が、直接聞くと胸の奥が冷たくなる。
先にこっそり会計して帰ろうか、と襖から手を離した、その時。
「でもこの前桐生に言われた通りやったら、部長に褒められたよ。時々ムカつくけどね」
聞き慣れた声――数人だ。
「時々ムカつく」は余計だが、私を庇ってくれたのか。しかしコーヒー女が、また笑みを浮かべている――嫌な予感がする。
「坂下さんって、桐生さんと同期なんですよねぇ。彼女、仕事が恋人って感じだし、純白のドレスとは一生縁がなさそう――」
「余計な心配どうも!」
ほぼ反射で声が喉を通った直後。賑わっていたお座敷が、いっせいに静まり返った。
しまった――言いたい放題の後輩女子と数人はもちろん、チーム全員が襖の隙間に注目している。
「あ……」
終わった。羞恥と疲労の涙がこぼれる前に、店を出なければ。財布の現金をすべて会計テーブルに置き、逃げるようにその場を後にした。
「匡花!」
繁華街を抜ける間、ずっと足音がついてきている。
「幼なじみだけの二次会、しない? 匡花さん最推し『ドラグ様』の話、いくらでも聞くからさ」
「……する」
息を切らしながら微笑む数人に手を引かれ、気づけばテキーラのグラスを傾けていた。
「『シビュラ』……ねぇ。エルフとか人魚が住んでる国の運営? 妬いちゃうくらいハマってるよね」
今日だって本当は、重要な仕事さえなければリアルのイベントに参加する予定だった。
「推しが尊いのはもちろんだけど、『シビュラ』はただのゲームじゃないんだからね」
領地経営の腕はもちろん、政治の知識まで必要になる、本格的な国家運営シミュレーションだ。溜めた国家予算を見せびらかすと、わざとらしい感嘆の声が上がった。
「現実だと手取り350万なのに、ゲームでは億万長者なんだ~」
「喧嘩売るなら高くつく……って、なんで数人が私の給料把握してるわけ?」
その調子で幼なじみだけの二次会が続き、バーを出たのは2時半過ぎ。とっくに終電はないが、「穴があったら入りたい」衝動からは抜け出せた。
「話聞いてくれてありがと。ゲームの話遠慮なくできるの、数人だけだよ」
「はいはい、車道側行かないでよ。ゲームと違って、何かあっても取り返しつかないんだからさ」
さり気なく引かれた手が熱い。数人は顔に出ないから分かりにくいが、酔っているのだろう。
「あー、明日会社行きたくないなぁ」
業務もシビュラのためと思えば耐えられるが、今回は事情が違う。チーム全員の前であんな醜態を晒して、どの面下げて出社すれば良いのか。
「匡花は悪くないんだから、堂々と行けばいいよ」
「うぅイヤだ……現実じゃ煙たがられるだけだけどさ。もしシビュラの世界だったら、能力を見抜く力だけで
「それ本気? 世界が違えば、平社員も国のトップになれるって?」
ムカつく言い回しだが、数人の言う通りだ。現実はトップどころか平社員。プロジェクトのリーダーを務めても、すぐに給料や地位が上がるわけではない。ましてや会社の運営権を握ることなんて、多分永遠にできそうにない。
「
「え?」
妙な口ぶりに対し、顔を上げると。「でもさ」、と数人は真顔で振り返った。
「お前が別の世界に行ったら、オレは誰と一緒になればいいわけ?」
いつものように「なんてね」、と続けるのを待っていたのだが。車のライトを反射する目は、瞬きもせずこちらを見据えている。
「そもそも私たち、付き合ってないよね」
「そうだっけ?」
冷たい汗が額を伝う。
幼なじみの初めて見る表情から視線を逸らし、車道を振り返った瞬間。突然身体が傾いた。
いつの間にこんな酔っていたのか――足元の道路が消え、逆さまになった山麓と青空の原風景が見える。
「え。私、浮いて――」
「匡花!」
激しい衝撃を感じるのと同時に、目の前が真っ暗になった。
『目覚めなさい匡花。じきにヴァンパイアが来ます』
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