第37話 1Kのアパートで(前編)

「あら、今日は何しにいらっしゃったんですか、二児のパパの一太さん」


 黒髪ボブのスレンダーな美女が、朗らかに微笑む。あの頃と違い、あまり日に当たっていないことを感じさせる、月の光のような肌だ。


 出会ってから十二年――二十六歳になった親友の妹は、当たり前だがガキと呼べるような女の子ではなかった。有り体に言ってしまえば、郷土結菜は妖艶な、大人の女性になっていた。


 華乃さん(京子)と郷土家を訪れた数日後。ある夏の、平凡な平日。日が沈み始めた頃。仕事を終えた僕はスーツ姿のまま、結菜ちゃんが一人で暮らす1Kのアパートを訪ねていた。


「何でもう知ってるんだよ……華乃さんの妊娠が発覚したのは五日前だぞ? 柑菜ちゃんが勝手に漏らすとも思えないし」


 一方で、僕が前回ここに来たのはちょうど一週間前のはずだ。


「それは、ほら。あたしですから」

「なんてシンプルかつ納得感のある説明なんだ……」


 ちゃぶ台の前で脚を伸ばす結菜ちゃん。その口元がムズムズとしている。甘い香りを漂わせ、獲物が近寄ってくるのを今か今かと待ち構える、ファンタジーな魔物の幻覚が見えてしまい――それでも僕はまんまと罠に引き寄せられてしまう。

 今日もまた、指定席に――彼女の隣の座布団へと、腰を下ろす。すぐ後ろ、数十センチの距離にはベッドがあり――だけど当然、僕がそこに触れることはない。僕は既婚者であり、結菜ちゃんは僕にとって、親友の妹でしかないのだから。


 そんなただの親友の妹でしかない女性の家に、僕は毎週のように通っていた。誰にも言わずに。と言っても、別に隠しているわけではない。仮に知られたところで、僕と彼女は、公に非難されるようなことは、何もしていない。


 二人っきりで過ごすこの時間に、僕たちがしていること。それは、ただただ――


「気持ち良かったですか? たった一人の愛する奥さんへの、中出し種付け」

「君さぁ……そんなこと言わなくてもわかるだろ」

「わからないですよ。だってあたし、したことないですし。誰かさんのせいで、バッチバチのド処女ですし」

「そうだった。やっぱガキだったこいつ。二十六歳のバッチバチクソガキおぼこ保母さんだった」

「保育士って言ってください、時代遅れ一太さん」

「もっと不適切な部分があったと思うんだけどなぁ」

「だって、それ以外は事実ですし? さて、二十六歳のバッチバチクソガキおぼこ保育士らしく、今日もたくさん一太さんをからかっちゃおっかなー……♪」


 結菜ちゃんはクスっと上品な笑いをこぼし――ただただ、僕をからかっていた。僕は、ただただ、からかわれていた。ただただそれだけの、まさにクソガキじみた児戯が、今日も始まる。


 結菜ちゃんは、僕の肩にコテンと頭を乗せてしな垂れかかり、内ももに指を這わせてくる。


「今日こそ責任取ってもらいますからね、一太さん。おぼこのあたしに、そういうことの気持ち良さ、教えてくれますよね……?」

「バっ……! 『僕と彼女は、公に非難されるようなことは、何もしていない』って考えてたそばから何言っちゃってんだよ、君!? 君と初めて出会った時と同じ、夏の日暮れ時というシチュエーションで『僕と君のどこまでも不純でいつまでも純粋な、誰にも手出しできない関係』みたいなニュアンスの蒼灰色そうはいいろな物思いに耽りたかったんだよ、僕は!」

「相変わらず何を言っているのでしょう、この人は。蒼灰色なんて言葉ある? そんなんだから未だに二次落ちなんですよ」

「いま僕のワナビ活動は関係ないだろう。そもそも君が絶対に越えちゃいけないラインを越えようとしてきたのが悪いんだからな!?」

「は? 越えちゃいけないラインって……あたしはただ、肉体的な性交渉ってどのくらい気持ち良いものなのか、言葉で説明してくださいって言っただけなんですけど? ドスケベ不倫パパの一太さんは、一体どんなドスケベ妄想をしてしまっていたんですか……♪」

「はい、座布団一枚」

「一太さんからもらった空想上のからかい座布団、これで四千九百枚目なんですけど、五千枚集めたら何かあったりします?」

「一万枚集めたら頭撫でてあげるよ」

「このペースで行ったらあたしアラフォーなんですけど。既に今、撫でられてるんですけど。気持ち悪い」


 アラフォーになってもクソガキのままなんだろうなぁ。かわいそうだから頭撫でてあげよ。


「で、どうなんです? クソガキのあたしに、肉体的な性行為の気持ち良さ、教えてくださいよ。あたしとの『セックス』よりも、気持ち良いんですか?」

「君さぁ……そんなこと言わなくてもわかるだろ」

「そうでしたね。わかります。だってあたし、ヤリまくりですし。誰かさんをからかってイキまくっちゃうような、バッチバチのド変態さんにされちゃいましたし」


 そう言ってクスクスと笑う結菜ちゃんの顔は、恍惚に染まっていた。きっと、僕も同じだ。もうずっと、体が熱く疼いて堪らない。


 ――結菜ちゃんがこんな風に――つまり、僕をからかうことにハッキリとした快感を覚えるようになってしまったのは、十二年前のあの日の台所でのことだった。


 あれ以来、僕らは、周りの目の届かぬ場所で、「からかい」を続けてきた。そんな関係はやめなくてはいけないとわかっていて、今回を最後にやめようと毎日のように思い続けて、それでも結局、手放すことなど叶わなかった。

 特に結菜ちゃんは、どんどん「からかい」の深みにハマっていった。からかいに特別な感情を抱き始めたばかりの頃は、「からかい」への理解度がまだ完全ではなかったと思う。自分でもよくわからないまま快感に震えていただけで、その行為が、その気持ちが何なのか、言語化はできていなかったことだろう。


 しかし、わからないことをそのまま放っておくような女ではなかったのだ、郷土結菜は。その探究心、そして僕への執着は、並大抵のものではなかった。

 結菜ちゃんは、僕にとってのからかいとは何なのかを、僕と同じ価値基準を持つ人間――奥野楓に説明してもらっていたのだった。あの不審者も、講師役を進んで受け入れた。僕と結菜ちゃんをからかいパートナーとしてくっつけることは、奴にとっても利益であったからだ。あいつはずっと――未だに、華乃さんからのからかいに飢え、華乃さんのからかいを独り占めすることを望んでいるのだ。


 結果として結菜ちゃんは、僕らと同じ高校に入学するまでには、からかいを理解し、そして、からかいに対し、僕と同じ価値観を持つに至ってしまったというわけだ。


 つまり、それからずっと――


「一太さんも今、イっちゃってくれていますか……? あたしとの不倫セックスで、気持ち良くなってくれていますか……♪」

「ダメだって、マジで……! からかわないでくれ……!」

「クスクス……♪」


 ずっと――僕らにとって、からかいはセックスだった。

 それは間違いなく、僕と結菜ちゃんの共通認識だ。十二年前、あの台所で二つ結びの少女が言ったように、いや、あの頃よりも確かな意思を持って、僕らは、不倫セックスをしている。民法ではどうやったって責任を追及することができない、しかし僕らにとってはどんな行為よりも罪の重い、明らかな不貞行為を犯している。


 「僕ら」に含まれる人間は、きっとこの世に四人しかいないのだろうけど。すなわち、僕と結菜ちゃんと奥野楓と、そして華乃さんだ。


 そう、だから。僕は間違いなく、華乃さんを裏切っている。絶対に許されざる、裏切りをしている。


 でも、僕にだって言い分はある。


「そもそも体の関係の気持ち良さとか言ったって、男の僕と女とじゃ、また違うものだろ。教えようがないよ」

「確かにそうですね。じゃあ、柑菜に聞きます。姉としては恥ずかしいですけど」

「そうしなよ。だいたい……え?」

「あっ」

「柑菜ちゃんに、聞く……?」

「あー……一太さんには言っちゃダメなやつでしたね、これ……あの子、先月、高校の先輩の家にお泊まりして、」

「やめろやめろやめろやめろ。やめてくれ。脳が……壊れる……っ!」

「お泊まりして、乙女たちの恋バナに花を咲かせてきたみたいでして。経験済みの先輩がいたから、そういうお話も聞いてきたみたいですよ♪」

「騙したなぁああああ!! よかったぁああああ! 僕の柑菜ちゃん処女だったぁああああ!」

「さすがにキモすぎる。十二個も歳の離れた親友の妹の貞操に何でそんな執着できるんですか?」

「可愛いから」

「きも」

「だって可愛いだろ!!」

「そうですか? でも、今の柑菜、あの頃のあたしにそっくり過ぎじゃないですか?」

「…………うん。台所に立つ柑菜ちゃんの後ろ姿とか見てると何かいろいろ思い出しちゃう」

「きもっ。あっ、そっか、そういうことですか」

「うん、そういうことだから、いちいちそれ以上言わなくていいよ」


 重ねちゃうだろ、そりゃ。


「クスっ……♪ あの頃のあたしのように、悪い人に誑かされたりしなければいいんですけど♪」

「ホントだよ……あの頃と違って、豪樹も過保護グリズリーじゃなくなっちゃったし」

「なくなっちゃったって、一太さんがそうしたんじゃないですか。お兄ちゃんを実家依存から解放して、自分の人生を歩めるようしてくれたのは、あなたです。それだけが、あたしが一太さんに感謝できる唯一の出来事だっていうのに」

「まぁ、それは確かに良かったと思うけど。こうなったら、あとは柚樹くんに任せるしかないか……」


 顔も性格も未だに可愛いけど、身長だけは豪樹クラスになってくれたからな。


「どうでしょうね、あの子もバスケに夢中ですし。今は壁にぶつかって悩んでいるようですし。あたしとしては、もっと勉強を頑張ってほしいんですが」

「はぁ……あのね、結菜ちゃん。男ってのはそうやって成長するもんなんだよ。思春期にぶつかった大きな壁を乗り越えることで、たくましくなっていくんだ」

「十七歳の一太さんにはどんな壁があったんですか」

「余り皮」

「じゃあ乗り越えてないじゃないですか。乗り越えてないから未だに全然たくましくないんじゃないですか」

「黙れよ陥没乳首」

「はいはい、陥没陥没」

「…………。……ちょ、何してんの、結菜ちゃん。僕がスマホいじってる時にはムキになってからかってくるくせに」

「んー? 華乃さんへのライン打ってるだけですけど。一太さんに陥没乳首を馬鹿にされたって」

「いやいやいや。え? は? ダメだろそれはマジで」


 結菜ちゃんの手からスマホを取り上げる。

 画面には、『嘘に決まってるじゃないですか、陥没亀頭カリ低お粗末最低孕ませ専用ゴミ不倫シコシコ臭ちんぽパパ笑』と打ち込まれていた。

 この短時間でどうやってそれを。カリ低なんて絶対一発で変換できないわけだが、わざわざ僕を煽るためだけに辞書登録してたのか、この陥没乳首デカ乳輪お貧乳最低オナニー専用ゴミ不倫シコシコ良い匂い処女(笑)。


 陥没乳首デカ乳輪お貧乳最低オナニー専用ゴミ不倫シコシコ良い匂い処女(笑)は、相も変わらず小悪魔めいた微笑で僕を見上げ、


「別にいいじゃないですか。会ってること、あえて隠してるわけじゃないんでしょう? 『僕と彼女は、公に非難されるようなことは、何もしていない』だとか何とかキモくてキザったらしいこと言っていたじゃないですか」

「……いや、隠してるよ。バレちゃマズい。そりゃ家族ぐるみの付き合いがあるんだから、会うこと自体に問題があるわけじゃないけど……このやり取りだけはダメだ。華乃さんだけには知られるわけにいかない」


 そんなこと、結菜ちゃんが一番よくわかっているはずだ。今まさに、この瞬間にも、僕らは互いを求め合ってしまっているのだから。僕はもう絶頂寸前だし、結菜ちゃんは、顔を蕩けさせ、内ももをモジモジと擦り合わせ、甘い吐息を漏らし続けている。とっくに、このからかいという不貞行為に、僕らは溺れているのだ。


 それを自覚した上でなお、僕にも言い分がある――華乃さんだって、ずっと僕を裏切っているのだ。

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