神様も彼を待っていた

 彼女の手を取ろうとした時、汗でしとどに濡れた腕がもたれかかっていた柵をすべった。柵は人が落ちないように備えられたものだ。その上を滑ったのであれば、後に待つのは落下の定めしかない。

 大きな水門が残像のように見えた――ことを認識した時には、もう水中にぼっしていた。真っ暗だ。俺と一緒に引きずり込まれた空気が、俺を置いて丸い気泡となって登っていく。泳ぎたいのに、腕も足も上手く動かない。疲れが冥府めいふの使いとなって、俺の手足を縛っている。ヘリウムガスが半端に抜けた風船のように、水中を漂う。のろのろと動く手足が水をかき回し、俺の身体に隠れていた気泡が我がを得たとばかりに飛び出していく。細かな気泡さえ離れてしまった時、喉にせんをして留めようとした空気が、我も我もと喉を殴りつけ――ついに唇を突き破って飛び出して行った。

 口の中に水が入り込む。潮だ。暗い温度の水が喉を犯し、肺に水が振れた瞬間、身体ががくがくと痙攣けいれんした。身体は反射的に空気を吸おうとし、更に肺に水を送り込んだ。俺から解き放たれた気泡達が水面に向かうのと対照的に、俺は遂にヘリウムガスが抜けきった風船のように落下していく。

 酸素を失った脳が、ついに苦しみさえ手放した。安らぎが俺を包み、ほんの一瞬だけ思考力が戻って来る。


(もしかしたら)


 俺はその一瞬の思考力で、全てを思い返し、そして、


(すべて本当に夢だったのかもしれない)


 結論に達した。須佐なんて少女はいなかったのではないか。神様が現代にいるなんてことはないのではないか。神様と遊んでいるうちに、憧れの人にも出逢い、その手伝いもした。恵まれていた。よくよく考えてみれば、出会う人全てが都合よく思えた。

 だとしたら俺はとんだおまぬけさんだ。自分の夢の中で笑っていたのか。


(だけど、わるいゆめれらなか……)


 意識が闇に落ちた。


――――

ニカツが落下する瞬間、矢のように身体が動いた。

あれは失ってはいけない。

その手を引けば容易に繋がり、

その手を離せば永遠に戻ってこない。

そんな刹那な存在に。

心を託したのはなぜだろう。

遠くに星が見える。

乃子の心の炎も星のように燃えている。

その星は……


「――ニカツに預けてしもうた」


星から逃げればきっとうまくいかない。


「ニカツ、乃子を置いていってくれるな」

――  ――――   ・


 酷く間抜けな音が聞こえる。アホウドリが鳴いたら、きっとこんな調子なんだろう。


「ぼぇ、ぼぇぇ」


「しようのない奴じゃの」


 須佐の指が俺の口に入り、喉の奥をくすぐる。途端に、海辺の町が地震で液状化するように、俺の身体の管すべてから水が逆流して出ていく。荒川の潮っぽい水、自販機の硬水、喫茶店で飲んだクリームソーダ……


「なんじゃ、飯食っとらんかったんか。どうりでバテておると……」


「じゃあ止まれよ!? なに逃げてん――おおおおおお!?」


 咄嗟とっさに突っ込みつつ顔をあげると、須佐が水面に浮いていた。おどろきながら辺りを見渡すと、大きな水門がある。潮で少し赤く錆びた鉄の門だ。

 俺たちは水門の前にいた。下はもちろん水だ。俺のゲロがちゃぷちゃぷと漂っている。普通なら沈んでいるし、現に俺の下半身は水の中だ。軽く足を動かしても、底についたような感覚はない。水面に腰掛けた須佐が、俺の身体を引き摺りあげているからだ。摩訶不思議まかふしぎな光景を前にして、俺は口を暫く開閉し、やっと声を絞り出した。


「須佐、なんで逃げた」


 橋の上で俺を見て逃げた、だけではない。橋に居たということは、須佐は、配信中に飛び込んで来た姫ちゃんからも逃げてきたはずだ。スマートフォンの電池が切れる寸前にコメント欄を見た。その時、コメント欄は膨大なアンチコメントに溢れながらも、〝死ね〟とか〝消えろ〟とか、行き過ぎたコメントは粛々と削除されていた。姫ちゃんはまだ建て直そうとしていた。なのに、須佐は建て直しからさえ――もっと言えばVTuberから逃げたからこそ、あの橋の上で管を巻くことができたのだ。


「お前は逃げちゃダメだろ」


 あるいは、VTuber活動を放り出すというなら。というより、放り出せるくらい軽いものだったのなら。


「俺らに一言あってから、いや、ちゃんと捨ててくれよ。大事じゃないって、ちゃんと伝えてくれよ。じゃないとずっと気持ちが引っ張られちゃうんだよ」


「大事だから逃げた。信じてくれるかの?」


 須佐は水面で身じろぎすると、俺の身体を引っ張って自分の太ももの上に寝かせた。須佐の顔が嵐の前の黒雲こくうんのように陰っている。御簾みすのように垂らされた長い髪が、ひどく煩わしいものに感じられた。


「乃子がみんなを集めたのに、乃子がいちばん何もしてない。みんなが作ってくれたものを、乃子は美味しくいただいているだけだった。評価されればされるほど嬉しく、それと共に焦った――」


 なぜなら。


「乃子がいなくとも、活動はできる。むしろ、居ない方が……そう思われるのが怖かった。何かしたかった。本当にそれだけなんじゃ。ごめん……ごめんよぉ。やってしまって、後始末もできん、失敗を重ねるのが恐ろしく、でも、ただ黙って座っていたら、その時こそみんなの目に留まり――〝ああコイツ、いらんなぁ〟――そう思われるのが怖かった」


 須佐の髪に囲われて、空にあるはずの月は見えない。須佐の唇が震え、壊れかけの機械のように調子の狂った声音で言う。


「下手でごめん。狡くてごめん。……ニカツから逃げてごめん。でも、追いかけてくれて嬉しかった。追いかけてもらえるだけの何かが、例え怒りだったとして……卑しくてごめん……」


(そんな風に思っていたのか)


 正直、意外だった。須佐はもっと人間関係なんか気を使わない奴かと思っていた。須佐の嘆きも焦りも、俺にはピンとこない。だって俺は、須佐に誘われたからVTuber活動を始めたのだ。


(お前が居たから始まったことなのに、お前が居なくてどうするんだ?)


 そんな当たり前の前提が、しかし須佐にとって当たり前でなかったのなら、今伝えたところで信じてもらえないだろう。

 だから、俺は、俺の正直な気持ちを伝えることにした。


「俺はお前と活動しているのが人生で1番楽しかった。嘘じゃない」


 そう言いながらも、俺は自分の心情が不思議だった。ほんの数時間前までは絶望していたのに、なぜ今は、それら全てを踏まえて楽しいと言えるのか。


(ウズメさんにも、向こうの企業さんにも筋を通しているからかも)


 視聴者に許してもらえるかはこれからにしても、関係者は形式上にしろ〝もういいよ〟と言ってくれているのだ。禊は半分済んでいるのだ。だから今、前を向ける。


(そうか。だからウズメさんは俺を呼んだのか……)


 嫌がらせや小言を言うためではなく、可能な限り早く立ち直らせる手段として謝りに来させたのだ。だとしたら、俺はこの許しを須佐に与えなくてはならない。ウズメがどうとかではなく、一緒に歩むものとして寄り添わなければならない。


「人生でRTAしている訳じゃないから、失敗も寄り道もあったっていいじゃん」


 俺の人生は失敗が多かったよ。部活の後輩と揉めた時、バイトを上手くできなかった時。でもお前が引っ張ってくれたおかげで、バイトを辞めることは辛い思い出ではなくなったし、辞めるまでの過程も〝アホだったな俺〟で済むものになっている。

 手を伸ばして、須佐の唇を横に引っ張る。


「笑えよ、須佐」


 俺の手に触れて、須佐の髪が揺れる。髪を透かして月光が差し込む。須佐の顔はまだ見えない。


「俺、お前が笑ってるの好きなんだよ。その笑顔で、顔も知らない誰かを幸せにしてやろうよ。お前が俺に居場所をくれたように、俺たちが誰かの居場所になってやろうぜ」


 俺たちは氷雨コンコンのような光にはなれないかもしれない。それでも海のように広く色々なものを受け入れていれば、いつか誰かがそのコミュニティを名付けてくれるだろう。その時はじめて、名前のなかった全てのものが何かになれるのだ。

 須佐は兎が草を食むようにもごもごと口を動かす。


「乃子の楽しいようにやると、みんな上手くいかん。結局乃子は、何かを壊し、たおす……それ以外の在り方が出来ぬ荒魂すさみたまに過ぎないのかもしれん…………それでも乃子は、笑ってていいのかな?」


 俺は指先を須佐の唇から、頭へと動かした。須佐の目尻を撫でると、顔に百合ゆりのように白くてハッキリとした光が当たる。須佐は困ったような目で、それでも俺が引っ張った口のまま、歪に笑っていた。俺は須佐の頭から手を離さない。触れて居なければまた消えてしまうように、手の届かないところに行ってしまうような気がしたからだ。

 以前、俺があの橋で須佐から逃げた時は、須佐が俺を捕まえた。さっきは逃げた須佐を俺が捕まえた。恐らく先刻、俺は神の手を離すところだったのだ。


「いいよ。俺、まだ続けたいんだよ。こういうのを」


 俺の言葉に、須佐は歪な笑みを深めた。影は深いが、闇ではない。須佐は俺の願いを受けて、仕方ないと言うように頷いた。水滴が須佐の笑みを滑って玉となる。玉は綺麗きれいで尖った顎から落ちて、俺の額で弾けた。


益荒男ますらおと思へる我やかくばかりみつれにみつれ……手弱女たおやめごと


「なんて?」


(……? つみれ? どういうこと? 暗号とか短歌とか俳句とかそういうの?)


 文乃なら解読できたかもしれないが、奴は午後9時には寝ている健康優良児だ。夢に落ちてまでここに来てはくれまい。身体がぶるりと震える。水に浸かったままの半身からどんどん熱が奪われているのだ。夏とはいえ、夜の川は流石に冷たい。そろそろ陸に戻りたい。総括的なことを言って、それで終いにしよう。


「それにしても……きっつい1日だったわ……炎上も川に漬け込んで沈下できればいいのになー……まぁもう川に落ちる夜なんていらねぇけどさ、2度とごめんだよ」


「死ね」


 須佐の足がぱっと開き、なんの準備もしていなかった俺は再度川に沈んだ。


 ニカツが川に沈んだ刹那、須佐がぽつりと漏らす。


「乃子は、こんな夜ならあと百万篇あっても良いがの」

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