神様も彼を待っていた
彼女の手を取ろうとした時、汗でしとどに濡れた腕がもたれかかっていた柵を
大きな水門が残像のように見えた――ことを認識した時には、もう水中に
口の中に水が入り込む。潮だ。暗い温度の水が喉を犯し、肺に水が振れた瞬間、身体ががくがくと
酸素を失った脳が、ついに苦しみさえ手放した。安らぎが俺を包み、ほんの一瞬だけ思考力が戻って来る。
(もしかしたら)
俺はその一瞬の思考力で、全てを思い返し、そして、
(すべて本当に夢だったのかもしれない)
結論に達した。須佐なんて少女はいなかったのではないか。神様が現代にいるなんてことはないのではないか。神様と遊んでいるうちに、憧れの人にも出逢い、その手伝いもした。恵まれていた。よくよく考えてみれば、出会う人全てが都合よく思えた。
だとしたら俺はとんだおまぬけさんだ。自分の夢の中で笑っていたのか。
(だけど、わるいゆめれらなか……)
意識が闇に落ちた。
――――
ニカツが落下する瞬間、矢のように身体が動いた。
あれは失ってはいけない。
その手を引けば容易に繋がり、
その手を離せば永遠に戻ってこない。
そんな刹那な存在に。
心を託したのはなぜだろう。
遠くに星が見える。
乃子の心の炎も星のように燃えている。
その星は……
「――ニカツに預けてしもうた」
星から逃げればきっとうまくいかない。
「ニカツ、乃子を置いていってくれるな」
―― ―――― ・
酷く間抜けな音が聞こえる。アホウドリが鳴いたら、きっとこんな調子なんだろう。
「ぼぇ、ぼぇぇ」
「しようのない奴じゃの」
須佐の指が俺の口に入り、喉の奥をくすぐる。途端に、海辺の町が地震で液状化するように、俺の身体の管すべてから水が逆流して出ていく。荒川の潮っぽい水、自販機の硬水、喫茶店で飲んだクリームソーダ……
「なんじゃ、飯食っとらんかったんか。どうりでバテておると……」
「じゃあ止まれよ!? なに逃げてん――おおおおおお!?」
俺たちは水門の前にいた。下はもちろん水だ。俺のゲロがちゃぷちゃぷと漂っている。普通なら沈んでいるし、現に俺の下半身は水の中だ。軽く足を動かしても、底についたような感覚はない。水面に腰掛けた須佐が、俺の身体を引き摺りあげているからだ。
「須佐、なんで逃げた」
橋の上で俺を見て逃げた、だけではない。橋に居たということは、須佐は、配信中に飛び込んで来た姫ちゃんからも逃げてきたはずだ。スマートフォンの電池が切れる寸前にコメント欄を見た。その時、コメント欄は膨大なアンチコメントに溢れながらも、〝死ね〟とか〝消えろ〟とか、行き過ぎたコメントは粛々と削除されていた。姫ちゃんはまだ建て直そうとしていた。なのに、須佐は建て直しからさえ――もっと言えばVTuberから逃げたからこそ、あの橋の上で管を巻くことができたのだ。
「お前は逃げちゃダメだろ」
あるいは、VTuber活動を放り出すというなら。というより、放り出せるくらい軽いものだったのなら。
「俺らに一言あってから、いや、ちゃんと捨ててくれよ。大事じゃないって、ちゃんと伝えてくれよ。じゃないとずっと気持ちが引っ張られちゃうんだよ」
「大事だから逃げた。信じてくれるかの?」
須佐は水面で身じろぎすると、俺の身体を引っ張って自分の太ももの上に寝かせた。須佐の顔が嵐の前の
「乃子がみんなを集めたのに、乃子がいちばん何もしてない。みんなが作ってくれたものを、乃子は美味しくいただいているだけだった。評価されればされるほど嬉しく、それと共に焦った――」
なぜなら。
「乃子がいなくとも、活動はできる。むしろ、居ない方が……そう思われるのが怖かった。何かしたかった。本当にそれだけなんじゃ。ごめん……ごめんよぉ。やってしまって、後始末もできん、失敗を重ねるのが恐ろしく、でも、ただ黙って座っていたら、その時こそみんなの目に留まり――〝ああコイツ、いらんなぁ〟――そう思われるのが怖かった」
須佐の髪に囲われて、空にあるはずの月は見えない。須佐の唇が震え、壊れかけの機械のように調子の狂った声音で言う。
「下手でごめん。狡くてごめん。……ニカツから逃げてごめん。でも、追いかけてくれて嬉しかった。追いかけてもらえるだけの何かが、例え怒りだったとして……卑しくてごめん……」
(そんな風に思っていたのか)
正直、意外だった。須佐はもっと人間関係なんか気を使わない奴かと思っていた。須佐の嘆きも焦りも、俺にはピンとこない。だって俺は、須佐に誘われたからVTuber活動を始めたのだ。
(お前が居たから始まったことなのに、お前が居なくてどうするんだ?)
そんな当たり前の前提が、しかし須佐にとって当たり前でなかったのなら、今伝えたところで信じてもらえないだろう。
だから、俺は、俺の正直な気持ちを伝えることにした。
「俺はお前と活動しているのが人生で1番楽しかった。嘘じゃない」
そう言いながらも、俺は自分の心情が不思議だった。ほんの数時間前までは絶望していたのに、なぜ今は、それら全てを踏まえて楽しいと言えるのか。
(ウズメさんにも、向こうの企業さんにも筋を通しているからかも)
視聴者に許してもらえるかはこれからにしても、関係者は形式上にしろ〝もういいよ〟と言ってくれているのだ。禊は半分済んでいるのだ。だから今、前を向ける。
(そうか。だからウズメさんは俺を呼んだのか……)
嫌がらせや小言を言うためではなく、可能な限り早く立ち直らせる手段として謝りに来させたのだ。だとしたら、俺はこの許しを須佐に与えなくてはならない。ウズメがどうとかではなく、一緒に歩むものとして寄り添わなければならない。
「人生でRTAしている訳じゃないから、失敗も寄り道もあったっていいじゃん」
俺の人生は失敗が多かったよ。部活の後輩と揉めた時、バイトを上手くできなかった時。でもお前が引っ張ってくれたおかげで、バイトを辞めることは辛い思い出ではなくなったし、辞めるまでの過程も〝アホだったな俺〟で済むものになっている。
手を伸ばして、須佐の唇を横に引っ張る。
「笑えよ、須佐」
俺の手に触れて、須佐の髪が揺れる。髪を透かして月光が差し込む。須佐の顔はまだ見えない。
「俺、お前が笑ってるの好きなんだよ。その笑顔で、顔も知らない誰かを幸せにしてやろうよ。お前が俺に居場所をくれたように、俺たちが誰かの居場所になってやろうぜ」
俺たちは氷雨コンコンのような光にはなれないかもしれない。それでも海のように広く色々なものを受け入れていれば、いつか誰かがそのコミュニティを名付けてくれるだろう。その時はじめて、名前のなかった全てのものが何かになれるのだ。
須佐は兎が草を食むようにもごもごと口を動かす。
「乃子の楽しいようにやると、みんな上手くいかん。結局乃子は、何かを壊し、
俺は指先を須佐の唇から、頭へと動かした。須佐の目尻を撫でると、顔に
以前、俺があの橋で須佐から逃げた時は、須佐が俺を捕まえた。さっきは逃げた須佐を俺が捕まえた。恐らく先刻、俺は神の手を離すところだったのだ。
「いいよ。俺、まだ続けたいんだよ。こういうのを」
俺の言葉に、須佐は歪な笑みを深めた。影は深いが、闇ではない。須佐は俺の願いを受けて、仕方ないと言うように頷いた。水滴が須佐の笑みを滑って玉となる。玉は
「
「なんて?」
(……? つみれ? どういうこと? 暗号とか短歌とか俳句とかそういうの?)
文乃なら解読できたかもしれないが、奴は午後9時には寝ている健康優良児だ。夢に落ちてまでここに来てはくれまい。身体がぶるりと震える。水に浸かったままの半身からどんどん熱が奪われているのだ。夏とはいえ、夜の川は流石に冷たい。そろそろ陸に戻りたい。総括的なことを言って、それで終いにしよう。
「それにしても……きっつい1日だったわ……炎上も川に漬け込んで沈下できればいいのになー……まぁもう川に落ちる夜なんていらねぇけどさ、2度とごめんだよ」
「死ね」
須佐の足がぱっと開き、なんの準備もしていなかった俺は再度川に沈んだ。
ニカツが川に沈んだ刹那、須佐がぽつりと漏らす。
「乃子は、こんな夜ならあと百万篇あっても良いがの」
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