Episode10:ドバイに行こう

結局、青年は僕らを港まで送り返してくれ、そのまま金を取りに行った。僕は、心から彼の航海の無事を祈った。そして、僕らは『始まりの駅』で電車に乗り、再び井戸駅へと向かった。電車に乗っている時、ミアは疲れて眠ってしまったので、僕とミホは二人でドバイ行きの飛行機の時間を確認した。

僕らは、知らない人の車にこっそりヒッチハイクさせてもらい、成田国際空港空港に着いた。休日だったこともあり、空港は旅行を楽しみにしている家族連れでいっぱいだった。ふと、僕は自分の家族のことを思い出した。両親は、僕が突然姿を消してしまったので、きっと心配しているだろう。おそらく、警察に捜索届くらいは出されていると思う。友達も、僕が学校に来ないので何があったのかと、今頃気にかけてくれているはずだ。そのことを考えると、僕は急に申し訳ない気持ちになった。自分の選択は正しいと思ってここまで進んできたが、正しさが人を傷つけることだってある。やはり。僕は心に誓った。全てが終わったら、まずは家に帰ろう。そして、家族に全てを話すんだ。おそらく、信じてもらえないと思うけれど、それでも僕はこの旅を誰かに話さなければいけない。そうすることが必要なのだ。

僕らは、成田国際空港からスリランカ航空の飛行機に乗って、バンダラナイケ国際空港を経由し、ドバイ国際空港に辿り着いた。およそ半日ほどの旅だったが、ミアは飛行機の座席モニターで映画を見ていたし、ミホはぐっすりと眠っていた。僕はこれまでの旅を振り返って、いろいろな場所での出来事をスマホにメモしていた。小説は書けなくなっても、実際に経験したことを文字にして残すことはできる。

ドバイ。そこは中東屈指の経済都市と呼ばれている。アラブ首長国連邦における最大の都市であり、観光において根強い人気を誇っている。元々は、商人たちの拠点となりうる中継貿易港としての色合いが強かったが、イギリスからの独立、産業の発展などを経て、超高層ビルや巨大ショッピングモールの立ち並ぶメトロポリスへと進化を遂げた。

そんなドバイにおける近代化の波の中で、他国へのアピールと投資の呼び込みを念頭に計画されたのが、ブルジュハリファの建設だ。それは、商業、居住、娯楽など、あらゆる面においてのサービスを提供する複合施設だった。建設には5年もの歳月を費やしたが、2009年に外装が完成すると、瞬く間にギネス世界記録を塗り替えた。「世界で最も高い建築物」であることはもちろん、「最も階数が多い建物」「昇降行程世界最長のエレベーター」「世界最高地点に据えられた垂直型コンクリートポンプ」「最も高い位置にナイトクラブを備える」「最も高い位置にレストランを備える」「最も高い位置で新年を祝う花火が使われた」などなど、全ての記録をわかりやすく一つにまとめた。ちなみに、名前の由来は「ブルジュ→アラビア語で塔、ハリファ→アブダビ首長国アミールのファーストネーム」ということだ。ブルジュハリファよりも高いタワーの建設は、今も世界中で計画されているということだが、ここしばらくはまだ、この「複合商業施設」が玉座に座り続けるだろう。

僕らは、人類の叡智とも言えるその建造物を見上げた時、驚きのあまり空いた口を塞ぐことができなかった。もちろん、その高さに圧倒された、というのもある。だが、僕らを真に驚かせたのは、建物そのものではなかった。むしろ、その上に浮かぶ巨大な緑の林檎に心を揺り動かされたのだ。

それは、まさしく林檎だった。

緑色の苔のように群生した植物は、その天空の物体に色をつけ、まるで青リンゴのように見せていた。所々に、色とりどりの花が咲き乱れており、林檎の皮の模様を創り出していた。ヘタがあるべき林檎の頂点には、巨大な城が建っていた。その林檎は、微動だにせず、ただブルジュハリファの真上に浮遊していた。まるで、人間たちの社会を隅から隅まで監視するように。

ミアが感嘆の声を漏らした。

「これが...」

そうだ。これが『楽園。」

貴族たちの作り上げた理想郷。

あの花々も、幽霊たちの亡骸で創られているのだろうか。

僕たちは、老人に言われた通りの手順を踏んで、最後のエレベーターに乗り込んだ。アラビア語の発音は想像以上に難しく、犬を連れた人間はなかなか見つからなかった(どうしてだろう。ドバイの人々は、猫の方が好きなのであろうか。)《メタファー》は、小型のオヴィラプトルを殺して、薬とガラス瓶を使い、剥製にした。すばしっこくて、部屋中を逃げ回ったが、ミアが一撃で仕留めた。

老人は言った。

「軍隊が必要になった時は、《メタファー》の剥製にありったけの創造力をこめるんじゃ。ワシの同胞たちが、すぐにお主らを助けに向かうだろう。」

そして、夜景を見ながら、僕らはキスをした。

「いくよ!」

ミホは、軽い感じで僕の唇に自分の唇を重ねた。彼女は、経験がかなり豊富らしく、キスをするのがとてもうまかった。なぜか分からないが、ミホとキスをして僕が味わったのは、恥じらいや喜びというよりは、幼い頃、母に抱かれていたのと同じような安心感だった。

「私たちも...するのよね。」

そう言って、ミアはしばらく夜景を眺めた。

僕も硝子窓の外に広がるその虹の光彩に目を輝かせながら、ミアの隣に並んだ。

そして、沈黙があたりを満たした。

ミホは、空気を和ませるために、ギターで静かに聴き覚えのあるバラードを奏でた。どうやら、創造力をこめなければ普通のギターとしても使えるらしい。

「じゃあ、するね...。」

そして、ミアが僕の方に歩を進めてくる。

彼女は、無表情で僕の目を見つめ続けている。今日、彼女の髪は肩までの長さのピンク色のショートヘアだった。それは、僕が初めてミアを見た時と同じだった。

ミアの小さな口が僕の胸に吐息を吹き付ける。僕は、少し屈んで彼女の身長に合わせようとしたが、ミアは小さく首を振ってそれをやめさせた。彼女の瞳の中で、ドバイの夜景と星々が煌めいている。

そして、ミアは背伸びをした。

彼女のつるりとした唇が、僕の唇の上にわずかに触れる。

ミアの息が僕の口の中に入る。

僕の震えがミアの唇を震わせる。

彼女の歯が僕の歯と当たるコツンという音がする。僕らは少し離れて、お互いに「ごめん!」と言う。二人とも、キスなんてしたことがなかったのだ。そして、僕らは再び唇を重ね合わせる。ミアの舌が僕の中に入ってくる。僕の舌は、少し遠慮がちにそれを受容する。そして、僕らは互いを貪り合うように舌を絡め合う。僕は、曖昧な思考世界の中で疑問を抱く。本当に、今の僕らには肉体がないのだろうか。これは、魂と魂の小さな戯れ合いに過ぎないのだろうか。僕は確かに、ミアの抱く「熱」を感じている。彼女は顔を火照らせ、まるで夢の中に浸るように瞼を閉じている。長いまつ毛は、彼女の絶え間ない生命活動を象徴しているように思える。でも、僕は彼女が既に命を持たないことを知っている。彼女は、幽霊なのだ。どこまでも愛おしくて、気まぐれな幽霊少女。

長いキスを終えると、僕らは無言で職員用のエレベーターを探し求めた。壁をすり抜けたら、案の定、それはすぐに見つかった。僕らは、上に昇るボタンを押して、エレベーターの扉が開くのを待った。それは、なかなか開かなかったが、扉の向こうからは確実にコンベアの動く音が聞こえてきた。ながて、ゆっくりと扉が開くと、僕らはまず、ボタンを確認した。204、205、206、そして...207!

やった!やはり、老人の言った通りだったのだ。そして、僕らは、巧妙に張られた仕掛けを潜り抜け、幻の『207階』にたどり着くことに成功したのだった。

丸い林檎の形をした、『楽園。』

それは、一つの巨大な神殿だった。

花園の間を縫って、何層にも分かれた城壁が天空に突き出していた。

207階からみえる林檎の真下の窪みには、帝国の巨大な赤い国旗が吊るされ、風に靡いていた。207階や天空の城は、もちろん人間たちには見えない場所だ。彼らから見れば、そこにはただぽっかりと空白が広がっているようにしか見えないだろう。

207階からは、赤と青、二つの長い階段が空に向かって突き出していた。それは、二重螺旋の形に絡まり、林檎から突き出た石造りのベランダに繋がっていた。僕らは、特に理由もなく赤い方の階段を上った。

「体がないんだから、理論的には疲れることはない。あとは、精神的な問題だね。気を張っていこう。」

ミアがそう言って僕らを元気づけたが、

僕とミホは息をザーザーと切らしながら、一段一段が高いその階段に足が棒になる想いだった。

僕とミホが、これ以上はもう上れない、と思った時、そこで唐突に階段は終わった。目の前には、松明が光る洞窟が広がっていた。間違いない、これが『楽園』への入り口だ。僕は、門番がいないことを少し警戒した。もしかして、どこかで僕らはずっと監視されているのではないか?そう言うと、ミアは「大丈夫よ。」と答えた。

「何せ、ここは一部の上級貴族しか辿り着けない、秘密のルートなんだから。そんなところに兵隊を置くわけないでしょ。それに、あのお爺さんが言ってたじゃない。貴族がやってるのは、所詮人間たちの真似事だって。『灯台下暗し』と言う言葉があるように、人間たちだって自分たち自身のことにおいては、大抵爪が甘いものよ。」

僕は、彼女の説明にいまいち納得できなかったが、ここでグズグズしていてもしょうがないので、結局そのまま小さな洞窟に入った。

洞窟の中は所々に小さな穴が空いていて、とても風通しが良かった。おそらく、ジメジメとした空気が篭らないように、空から新鮮な空気を取り入れているのだろう。そのせいか、洞窟の地面はパラパラと乾燥しており、虫1匹いなかった。虚に響く僕らの足音以外に、物音は何一つ聞こえなかった。僕は、静かすぎることを少し警戒したが、ミアとミホは靴を大きな音でコツコツと響かせ続けた。

洞窟の中には、小さな泉がいくつか掘られていたので、僕らはそこで水を飲んだ。それは、まるで人間の眼球のように透き通った水だった。そして、今まで飲んだことがないくらい美味しかった。これが本当に水かと思えるくらい甘く、それでいて硬さも絶妙だった。僕らが夢中になって乾いた喉を潤していると、ミアが急に顔を上げて後ろを振り向いた。ミホが驚いて、「どうしたの、ミア?」と聞いても、彼女は目を細めて、無言のまま今まで辿ってきた道の方を眺めていた。

「何か、音が聞こえる。」

僕は、耳を澄ませる。

カツカツカツ。確かに、微かだが、どこか遠くの方でヒールのような音が聞こえる。まさか、人間世界に行っていた貴族が戻ってきたのか?僕らがこの秘密の道を知っていることがバレたら、まずいことになりそうな気がする。

「とにかく、見に行ってみよう。」

ミアが先頭に立って、僕らは音のする方へと向かった。僕らは、念の為武器をいつでも取り出せるように準備していた。

そこには、ミアとそっくりな、肩までの紫色の髪をした少女がトランクケースを持って立っていた。彼女も、僕らの足音を聞きつけて警戒したのか、片手をライフルケースにかけていた。しかし、彼女は僕らの姿を見ると、驚いたように目を開き、ポトンとトランクケースを落とした。なぜかは分からないが、ミアも同じように驚いて、口をぽっかりと開けていた。しばらく沈黙が続いたが、やがてミアが空の封筒をちぎるように言った。

「ニコ...なんでここにいるの?」

しかし、その少女は何も答えず、ただずっとミアのことを見つめていた。

ミホがとんとんとミアの肩を叩いて尋ねる。

「ミア、知り合い?」

ミアは、まだ今の状況が信じられないというように頷いた。

「うん、この子の名前はニコ。『始まりの駅』にいた時からずっと一緒で、二人でいつもお風呂に入りながら店長の話を聴いていたの。あの貧民街に行ってからも、私たちはずっと姉妹のように助け合って暮らしてきた。でも、ある日突然姿が見えなくなって、私は図書館とか、『始まりの駅』を必死に探したんだけど、彼女はどこにもいなかった。でも、今こうしてニコは私の目の前にいる。ニコ!何でここにいるの?」

すると、ニコと呼ばれる少女は顔を少し歪めて、ミアのことを睨みつける。

「それはこっちのセリフだよ、ミア。

あなたこそ何でここにいるの?」

ミアは微笑んで答える。

「私たちは、『宝』を手に入れるために、

ここまで旅をしてきたの。この二人は、私が人間の世界から連れてきた仲間たちよ。もしかして、ニコも同じ目的でここにきたの?私たち、よく二人で『楽園』に行ってみたいって話をしてたよね。まあ、何にせよ、キミにもう一度会えて良かった。私、心配してたんだよ。」

すると、ニコは舌打ちをする。

そして、ミアから目を逸らし、大きな声で叫ぶ。

「黙って!」

ミアは驚いたように彼女のことを見つめる。

ニコは、腹の底から恨みのこもった声を振り絞る。

「あなたは、何で変わらないの?

なんで、いつも私の先を行くの?

やっと私は一人になれたと思ったのに!」

ミアは、久しぶりに会えた妹に何故こんなことを言われなければいけないのか分からないという風に、口を閉じている。

ニコは語る。

「私は、ずっとあんたの世話になって生きてきた。あんたが危険な《メタファー》狩りをして、私のためにお金を稼いでくれていたことは知ってる。あんたは、うまく隠してたつもりかもしれないけどね。ずっと、一緒にいたんだから、そんなことくらいすぐにわかるよ。でも、私はずっとそんなあんたのことが嫌いだった。そして、あんたの世話になり続ける私自身のことも、大嫌いだった!私は、早くあんたから解放されたかったの。自分のことは、全部自分で決めたかった!だから、あんたには内緒で旅に出た。『宝』を持って帰って、あんたをギャフンと言わせるために。『どうだ、参ったか!』ってね。それなのに、あんたは今、私の先にいる。私は、それを許さない!」

そして、ニコはミアに向かって拳銃を向ける。だが、ミアは彼女の言ったことにすごくショックを受けたらしく、ただ呆然と立ち尽くしている。

そして、

ニコは拳銃の引き金を引こうとする。

僕は、咄嗟に剣を引き抜いて、彼女の前に立ちはだかる。ミホも、ピックを手に持って、今にもギターを鳴らそうとしている。

僕は剣に想像力を込める。

「さあ、来るならこい!」

しかし、ニコは僕の緑に光る剣を見て、引きかけた引き金を元に戻す。

「なんであんたがそれを持っているの!?

それは、私たちのもの。返してよ!」

しかし、僕は剣先を彼女に向け続ける。

「この刀は、ミアがくれたんだ。

そして、武器の方から僕を選んだ。

これは、僕だけが扱うことのできる刀だ!

君のものじゃない。それに、もしミアのことを傷つけるというなら、僕は容赦しない。」

それを聞くと、ニコは激昂する。

「はぁ!?意味わかんない。

必死になってミアのこと守っちゃってさ。

そんな女、どこがいいっていうのよ!

分かった...どうやら、戦うしかないようね。」

そして、今にも戦いの火蓋が切って落とされそうになる。ニコはもう一つのバックルから、二つ目の拳銃を取り出し、それぞれ銃口を僕とミホの方に向ける。僕は、創造力をたぎらせてニコの魂の位置を見定める。そして今にも飛びかかろうとしたその時...。

「やめて!」

ミアが叫んだ。

彼女は、レーザーガンをガコンと地面に落とし、声を震わせて僕らに訴えかける。

「やめてよ...私の好きな人同士で戦わないで。ニコ...私は、自分がキミのことを知らずのうちに傷つけていたなんて、ちっとも理解していなかった。でも、お願いだから、その二人のことだけは傷つけないで。ユウとミホは、私にとって、ニコ...キミと同じくらい大切な人たちなの!だから、もう憎み合うのはやめて、一緒に『楽園』へ行こうよ。私たち、今からならまだやり直せるでしょ?」

「ミア...」

僕とミホは武器をしまう。

そうだ。ニコと争うことは、何よりも彼女を傷つけることになるのだ。僕は、何もわかっていなかった。また、知らず知らずのうちに大切な人を失うところだった。

そして、ニコも「はぁっ」とため息をついて

二丁拳銃をケースに戻す。そして、彼女は呆れたように言う。

「ミア...あんたってば、やっぱりお人よしだね。お仲間の方も、それは同じ。私は、あんたたちを殺そうとしたのに。」

そして、彼女は首を振る。

「...私は、とてもじゃないけど、あんたらみたいな人とは一緒に行けない。そこまでお人好しにはなれない。でも、『宝』を狙っているのは、自分たちだけだと思わない方がいいよ。冒険者は、あんたたちだけじゃないから。二人とも、出てきて。」

すると、ニコは地面に放り出されたトランクケースの留め金を外して、パカっと開けた。しばらくして、ガサゴソという物音が聞こえ始めた、まず、中から一人の背の高い男が出てきた。耳にピアスを開けて、髪はパーマでチリチリに乱れている。背中には、ミホと同じようにギターケースを下げており、彼は気だるそうに僕たちのことを見つめた。

「あん?ニコ、こいつらは誰だ?」

彼は、ドスの効いた低い声でそう尋ねた。

ニコは、「ふん!」と鼻息を鳴らして、腕を組む。

「どうやら、私たちの旅を邪魔する輩みたいよ。」

すると、男は「ケッケッケ」と笑い、頭をぽりぽりと掻く。よく見れば、彼の着ているブカブカの服は、ところどころほつれてつぎ当てがなされていた。それをオシャレだと思っているのか、ただ単に服への興味が疎いだけなのか、僕にはよく分からなかった。

「へぇ〜、何だか面白そうじゃん。

おい、出てこいよ!外はすごいことになってるぜ!」

彼が、開いたトランクケースの中に向かってそう叫ぶと、次に青色の頭がひょっこりと姿を見せた。中から出てきたのは、ミホと同じくらいの背丈の、短い髪の少年だった。

「え〜、何...」

そう言いかけて、彼は突然言葉を失う。

そして、僕のことをじっと見つめてくる。

僕はなぜ自分がそんなに凝視されなければいけないのか分からなかったが、男にしては高い声だな、と思いながら彼のことを見ていた。

「ユウ、くん...?」

なぜか、彼は僕の名前を呟いた。

「え?君、どこかで会ったことあったっけ?」

僕は首を捻る。う〜ん、それなりに関わったことのある人の顔は、そう簡単に忘れないんだけどな...。

すると、彼は胸に手を当てて、嬉しそうに言う。

「私よ、私!リクの妹のヒカリ!」

「え...!?」

見た目があまりにも変わっていたので、

最初、僕は誰だか気づかなかった。

僕は唖然として、

口を開けることができない。

ヒカリちゃん。僕がリクの家に遊びに行くと、いつもTVゲームに「混ぜて〜!」とねだってきたヒカリちゃん。中学生になって、思春期に入ってからは、あまり話すこともなくなってしまったけれど。それでも、リクはずっと妹のことを可愛がっていた。だからこそ、彼は最期に妹のことを守ったのだ。

でも、彼女はもっと髪が長かったはずだ。それに、綺麗な茶髪の地毛を持っていたのに...。

しかし、彼女は何も気にしない様子で言った。

「びっくりした、ユウくんもあの世に来ていたなんて...。当然、お兄ちゃんに会いに来たんだよね!」

すると、ニコはびっくりしたように言う。

「え、なになに?あんたたち知り合いなの?」

そして、ずっと黙って何かを考え込んでいたミホが、男の方を指さして、突然声を上げる。

「思い出した!あなたは、マルチアーティストのRit0じゃないですか?」

すると、男は目をきょとんとさせる。

「え、何?キミ、俺のこと知ってるの?」

すると、ミホは胸を叩く。

「やだな〜、忘れちゃったんですか?

私、SATOMIですよ!」

男は、思い出したように声を上げる。

「おお!そうか、SATOMIか〜!

すっかり忘れてたよ、大きくなったなー!」

SATOMIは「やれやれ。」と言う風に首を振る。

「もう、最後に会ってから、1年も経ってないのに!」

Rit0(リト)、その名前なら、僕も知っている。自分の曲のMVから、ライブ、アルバムジャケットなど全部一人で手がける、若い世代に人気のマルチアーティストだ。テレビなどにはほとんど顔出しをせず、口が悪いことで有名だった。僕はよく、リクと彼の楽曲の持つ、独特の魅力を語り合ったものだ。彼の作るラップ調の音楽は、一見脈絡のない言葉遊びのように聞こえるが、実は世の中への批判、風刺に満ちた鋭いメッセージ性を秘めているということだった。僕は彼の「不眠症」という歌が好きだった。リクは、初期の方のかなり尖った曲である、「ちょうめちゃくちゃ」という歌が好きだった。

「刺激的なんだよ、リトの歌は。

あれこそ、本当のロックだな。」

リクは、よくそう話したものだ。

確か、ヒカリちゃんも、兄に影響されて、彼の大ファンだったはずだ。

そして、SATOMIとRit0は親交が深いことで有名だった。どちらかと言うと、二人ともクセのあるアーティストではあったが、Rit0がSATOMIに自分の作った楽曲を提供したり、対バンのライブでは、コラボ曲を披露したりもしていた。僕は、リクに一度、二人の出てくる夏フェスに連れて行かれたことがある。そこらじゅうで暴言を吐きまくるファンはかなり熱狂的で、宗教みたいな雰囲気さえ感じられた。どれもこれも、ミホとRit0のパフォーマンスが激しすぎたせいだ。彼らの曲には、人間の理性のたがを外す何かがあった。

彼らの曲に影響されて、軽音部に入る生徒だって、僕の高校には何人もいた。そんな二人が、今僕と自分の妹の目の前にいる。これを見たら、リクはどんな反応をするだろうか。

ニコは、「はぁ〜。」とため息を吐き、腕をだらんと垂らす。

「これじゃあ、せっかくのバチバチした雰囲気が台無しじゃん。まるで、同窓会だよ。どうぞ、ゆっくり話してくださーい。」

ミアは驚いて、やっと口を開く。

「ねぇ、ニコはどうやって彼らと出会ったの?あれは、私のスマホだけの偶然だと思っていたのに...。」

すると、ニコは腕を組んで言う。

「私も、スマホで彼らに連絡をつけたんだ。どうやら、私たちの住んでた部屋ごと、人間の世界のインターネットに繋がっちゃったみたいだね。」

ミアはニコのトランクケースを指差して尋ねる。

「それは、どこで手に入れたの?そんなトランクケース、貧民街にはなかったはずだけど。」

ニコは答える。

「このトランクケースは、金がザックザックととれる、砂漠の街の闇市場で手に入れたの。中は、イデアを拡張する四次元空間につながっていて、どんなものでも詰め込むことができる。幸い、この二人もとてつもない創造力を持っていたから、すごいお金はかかったけれど、取引には困らなかった。」

金の取れる街、それはおそらく、航海士の青年が向かった大陸のことだ。

すると、ニコたちは僕たちとは違うルートで旅をしていたことになる。

彼女は真面目な顔をして続ける。

「私たちも、ミアと同じように長い長い旅をしてきたんだよ。主人公は、あんたらだけじゃない。色んな苦難もあったけど、何とかここまでやってきた。何としてでも、『宝』を手に入れるために。」

ミアとニコ、ミホとリトがそれぞれ思い出話を始めると(もっとも、雰囲気はまるで対照的だった)、僕とヒカリちゃんも、二人で少し話しながら散歩をして、さっきの泉のほとりに向かった。彼女は、真珠のように光り輝く水を美味しそうにしばらくごくごくと飲むと、地面にあぐらをかいて話し始めた。

「私の心は、お兄ちゃんが殺されてからおかしくなった。女らしさとか、学校とか、全てどうでも良くなって、髪は自分でバッサリ切り落として、校則違反だけど、スプレーで青色に染めた。私は毎日部屋にこもって、意味のないネットサーフィンをするようになった。そうでもして現実から目を背けないと、私の心はすぐにくしゃっと潰れてしまいそうだった。毎夜、リクが殺された時の夢を見た。私たちは電車に乗っていて、いつも彼が刃物を持った男から私を庇って死ぬ夢。私は、犯人に対する怒りというよりも、心臓を冷たい手でぎゅっと掴まれるような恐怖を覚えた。心にぽっかりと穴が空いて、そこからいろんなものが飛び出してきた。私には、不思議な幻覚が見えるようになった。恐竜みたいな生き物とか、宙を舞う魚たちとか。私は、ついに自分の頭が狂ったんだと思った。でも、それは幻覚じゃなかった。」

僕は驚いた。それはまさしく、僕の体験した世界と同じだったからだ。僕は自分一人だけなぜこんな理不尽な目に遭っているのかと嘆いたが、僕の知らないすぐ近くで、こんなにか弱い少女もずっと苦しみ続けていたのだった。

「いつもと同じように、私がネットを漁っていると(行くところまで行ったわ、到底人には言えないような言葉も覚えたし、腐りかけのカラスの死骸みたいな画像をいくつも見た)、私は『NICO』という名前の人がとある水面下の裏サイトで、虎みたいな顔をした人と、ツノの生えた恐竜の殺し合いの動画を投稿していているのを見つけた。その動画の再生ボタンを押した時、私は一瞬で理解したわ。それは、血みどろの恐ろしい戦いだった。私は、その動画を見た時、なぜかリクが殺された時のあの景色を思い出した。私は怖かった、本当に怖かったの。でも、それと同時に私は確信していた。ああ、これはこの世界で起こっていることではない、それだけは間違いないって。」

僕は彼女の顔を見つめる。

「そして、君はニコと出会い、リクを連れ戻すためにあの世へと旅立ったんだね。」

少女は膝に顔をうずくめ、小さな声で言う。

「うん、だって、それしか私にできることはなかったから...」

僕は、彼女の体が震えているのに気づいていた。できるかぎり優しく彼女の肩に手を乗せたが、僕も溢れる涙を抑えることができなかった。

「よく頑張ったね。」

そして、僕らはその静かな空間で、音もなく涙を流した。


ある時点で、洞窟が二つに分かれている場所に僕らは突き当たったのだが、そこでミアとニコは別の道を進むことに決めた。どちらも同じ道を進んで、罠に引っかかったり迷ったりしてしまっては埒が開かないし、何よりニコはこのままミアと一緒に旅を続けることを拒んだ。一緒に旅をするということは、また自分がミアの擁護のもとに置かれるということだ。それだけは避けなくてはいけない、この旅は、自分の力でどうにかしなければいけないのだ。ミアはもうそんなことしないと言ったが、彼女は首を振り、僕のことを指差した。

「それじゃあ、さっき私がこの男に殺されそうになっていたら、あんたはどうした?きっと、あんたがそう望まなくても、あんたの体は勝手に動いて、私のことを守っていたでしょう。私は、そういうのが「本当に」嫌なの。だから、どちらかが『宝』を手に入れるまで、私はあんたに会いたくない。ほんとは、あんたが知らないうちに『宝』を持って帰って驚かせるつもりだったんだけど..まあ、出会ってしまったものは仕方ないわ。分かった?ここからは早い者勝ちの勝負よ。どちらが先に『宝』を手に入れるか。私たちは今、宿命的なライバルになったのよ。」

ミアは何かを言いたそうだったが、ニコはそれを無視してズンズンと右の道に進んでしまった。ミホとリトは「じゃーねー。」と軽い感じで手を振り合い、僕とヒカリちゃんは握手をして別れた。

「いい?私たちで、何としてもリクを取り戻しましょ。そして、また元の楽しい暮らしを取り戻すの。そう、3人でうちの家でゲームをしていたあの時のように。」

僕は頷く。

「うん、絶対だよ。」

ニコに言われたことが相当ショックだったらしく、彼女たちと別れた後もミアはずっと落ち込んで黙りこくっていた。僕とミホは、彼女を何とかして慰めてあげたかったが、その傷が回復するには、時間以外の薬はないだろうと思い、そっとしておいた。洞窟は何度も複雑に曲がりくねった後(まるで、あの路地みたいだった)、突然終わりを見せた。どうやら、『楽園』ではキリが良いことを美しさとしているらしい。

洞窟が終わると、そこはとても広い空間になっていた。吹き抜けのように果てが見えない、縦に長い空間。そこには、いくつもの角ばった祠の建った地面が浮かび、積み重なるように上へ上へと続いていた。そして、それらは今にもちぎれそうな細い蔦で繋がっていた。僕らは、仕方なく一人ずつ交代でその蔦を登り、上へ上へと登って行った。僕の足は、階段で酷使しすぎたことによりものすごく痛んだ。ミアに言わせれば、それはただ自分の心が生み出した錯覚、人間社会でいうところの「PLACEBO」だということだったが、僕にはどうしてもそうは思えなかった。だって、事実として、本当に痛いのだ。それは、ミホも同じようだった。彼女も、腕をプルプルと振るわせながら、下を見ないように必死に蔦を登っていた。僕らは、中層あたりにあった大きな祠の前で一休みした。ミアは相変わらず、ぼーっとして地面を眺めていた。

彼女はしばらく地面の芝生を靴先でいじっていたが、やがて胃の中に溜まった水を少しずつ蒸気に戻すかのように話し始めた。それはまるで、聞こうとしなければ聞こえない精霊のひとりごとのようにか細い声だった。

「私、ニコのことをほんとに何も分かっていなかった。小さい時からずっと一緒だったから、私はあの子のこと、何でも知ってるつもりだった。あの子の抱えてる悩みも、喜びも、夢も、思い出も、私は全部自分に都合の良いように解釈してた。でも、他人のことなんて理解できるがない。だって、自分のことすら本当にはわからないんだから。私たちは、それぞれ違う世界を持っていて、自分の中に別の自分を飼っている。それがある時には自分に見えなくて他人だけに見えたり、あるいはその逆だったりする。所詮この世界は絵の具で色付けされた場所なのよ、どんな絵の具も塗ってない、無色の世界なんて私たちにはわからない。私にとってニコは『青』でも、ニコにとって私は『黒』だったり、自分自身は『赤』だったりしたのね。それじゃあ、なぜ人は絵の具を混ぜようとするんだろう。そのままでも、十分綺麗なのに。なんて、私たちはお互いを想い合うんだろう?」

僕は、彼女の話を聞いて思った。

間違いない。これは、彼女が自分自身に向かって語りかけている言葉だ。僕らに話す、という形をとってるが、それはそうする必要があるからであり、彼女は今、自分をうまく押さえ込もうとしている。言葉にしないとうまく整理のつかない事柄があり、あるいは誰かに語りかけないとやりきれない気持ちだってあるのだ。今、僕らにできるのは、彼女の話をありのままに受け止めることだけだった。そう。読者がお気に入りの作家の小説を、静かに読み耽るように。

しかし、ミホはそんな僕の省察すら無視して、ミアの肩を思いっきり叩き、大きな声で彼女に言った。

「何で人と人が関わるか?

そんなの、決まってるじゃない!

それが自分にとって必要だからだよ。

そこに理由なんて求めなくていい。

自己中心的でも、色があってもなくてもどっちでもいい。この世が夢に溢れた楽園でも、鉄のように冷たい氷の国でも、そんなのどっちだっていい。私はミアが好きだからここまでついてきたし、ミアの髪の毛を愛してるから生きてこれた(正確には死んでるけど。)だから、ニコがミアのことをどれだけ憎んでいても、たとえあなたのいない人生を望んだとしても!ミアはこれまで通りニコを愛し続ければいい、守り続ければいい。ニコのいる人生だけを望めばいい!これは私の意見、私だけの絵の具で塗りつけた、私だけの色彩。あなたには違う色が見えるかもしれない。でも、それが素敵な色かもしれない。赤を憎む人もいれば、愛する人だっているのよ。私は、そんな想いをミアと共有したい。だから、話して。そして、これ以上落ち込まないで。」

ミアはミホの顔を見つめる。

そこには、諦観と精神的ディストピアが深い傷跡をつけていた。

「でも、言葉じゃ何も伝わらないよ。

言葉なんて、下手な画家の書くデッサンみたいなものだよ。小説も、歌も、そして映画も、全部ぼやけたモノクロ写真みたいなんだよ。」

ミアは首を振る。

「それはそうかもしれない。

でも、もしそうだとしても、言葉だって自分の好きな絵の具で色付けしちゃえばいいじゃない。

葉っぱなんだから、赤くなったり黄色くなったりするし、どうせいつか茶色になるでしょ。

だったら、たっぷり絵の具を塗り込んで、ピンク色の葉っぱにしちゃえばいい。

そして、それを誰かにプレゼントすればいい。」

それを聞いて、突然ミアは叫ぶ。

「けど、キミは歌うのをやめたじゃない!

なんで?私は、キミの歌、大好きだったのに。キミが私の髪の毛を好きなようにね。そんなこともわからないのに、どうして私のことが理解できるっていうの?そんなの、無責任じゃない!」

僕は、黙って二人のやりとりを見ていた。

そんなこと言われたら、他人とは何も話せなくなっちゃうじゃないか。そう思いながらも僕は、ミアの言いたいことをどうしても否定することはできなかった。人は所詮孤独であり、どこまでも自立した存在なのだ。そう思う自分が心のどこかにいた。あるいは、自分の知らない自分が。

そう言われると、ミホは少したじろいだ。

彼女は唇に人差し指を当てる。

「確かに...。」

そして、「うんうん。」と頷き始める。

彼女はしばらく考え込んだ後、地面を見つめるミアに向かって堂々と言った。

「分かった!じゃあ、この旅が終わったら、私、また歌を歌うよ。できるかわからないけど、死にそうになっても、地べたに這いつくばってでもやってみる。どうせ、死んでもあの世にはミアがいるんだしね。人生、どこまでもやる気よ、やる気。ね!そうだよね、ユウ?」

僕には、無責任にその言葉を肯定することはできなかった。でも、ミホの言ったことはどこまでも彼女だけの色であざやかに飾られていた。僕は、それを素敵だと思った。たとえ、それが葉っぱそのものの色ではなく、人工の絵の具がつくり出した色であっても。

僕は頷いた。

そして、僕らはミアのことを見つめる。

彼女は、まるで稲妻に打たれたかのように静止していた。生死がよくわからないくらい、彼女の目は色を持たなかった。でも、それすら無色という、彼女だけの色かもしれない。あるいは、僕の絵の具の色かも。

やがて、ミアは声を振り絞る。

「それ、約束できる...」

「?」

ミホは眉を上げる。

「だから、また歌をつくるってこと。

またあの声を聴かせてくれるってこと。」

すると、ミホは嬉しそうな顔になって、グーサインをする。力を込めすぎて、拳がプルプルと震えていたが、それはそれでいいなと僕は思った。

「もちろん、待ってて!びっくりさせてあげるから!」

そして、ミホはミアにハグをした。

ミアは、しばらくミホの胸に顔を埋めて、手をダランとしていたが、やがて爪をたてるくらいの強さで、がっしりとミホの背中を抱きしめ返した。

僕は、そんな二人を芝生に座りながら眺めていた。虫一匹いない、よく手入れされた緑。

こんなところ、誰が芝刈りにくるというのだろう?いや、そんなことどうでもいい。何だっけ?うん、そうだ。言葉にしか伝えられないものだってあるんだ。だから、人は歌を聴くし、小説を読む、そして話をする。僕は、これからも小説を書こうと思った。今度は、読書中毒の代わりではなく、自分だけの鉛筆を使って。

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