ばあちゃんの味の仕舞い方~七夜の味供養~

ミラ

味供養

 90歳のばあちゃんが死んだ。


 それほど驚くことでもない。


 静かな晩年で、苦しむこともなく、ゆっくりと老衰だった。あまりに受け入れやすい自然な最期。


 絶対に人に迷惑をかけたくないと豪語し続けたばあちゃんの、見事な贈り物だった。だから、ばあちゃんを悼む家族の中で、立てないほどに嘆き悲しむものはいなかった。


 私も少し、泣いただけ。



 滞りなく葬式は終わり、日常が戻った。


 築四十年を迎えようという歴の入った二階建ての中古物件で、私たち五人家族は慎ましく暮らしている。


 もうすぐ三学期の終わりが見える冬の底。私の子どもたち三人はランドセルを背負い、マフラーを巻いて玄関で私を呼んだ。


 我が家のいってきますの決まり文句が響く。


「事故はナーシ!」

「いってきまーす!」

「まーす!」


 まるでウルトラマンの変身ポーズのように右手を斜め上にあげたポーズもお決まりだ。子どもたち三人のポーズがそろうと可愛い。私も一緒にポーズを取った。


「ママ、ご飯ちゃんと食べや!」


 私がついご飯を食べ忘れがちなことを知っている長男の奏太かなたから注意が飛ぶ。


「まかせとき」

「それ絶対食べへんやつやん」

「そうやでママ、泣いてたらあかんで!痩せるで!」


 奏太のツッコミを軽く受け流すと、末っ子の愛花がポニーテールを揺らして奏太のマネっ子をする。


「ママ、ちゅーしてちゅー!晃生が最初やで!」


 常に我が一番の次男、晃生こうきから順に、三人の子どもたちの頬に決まった順番でキスをして見送った。いつだって彼らの明るさには、救われる。


 しばらくしてから、今度は夫を玄関で見送る。玄関に立った仁志さとしは、私をまじまじと見つめた。


「七緒ちゃん、ひとりでいける?」


 まだ眉毛も描いていない私が、よほどくたびれて見えたのだろう。仁志から心配そうな声がかかった。私は頷く。


「大丈夫や」

「全然大丈夫じゃない感じで、順調やな!おっけーおっけー!」

「なにが順調やねん」


 中肉中背。ツーブロックで額を見せるヘアースタイルと黒縁眼鏡をかけた夫の仁志は、どこにでもいると評判の顔だ。


 量産型仁志なんて家族の中で呼ばれていて「あの日にあの店で見かけたんだけど?」なんてよく言われる親しみやすい男である。


 私は仁志にもいってきますのポーズを促す。


「事故はナーシ!」

「いってきまーす!」


 二人でポーズを取るお見送り習慣は結婚当初から始まり、今ではもう十五年続いている。仁志はスマホをふりふりして見せて笑う。


「なんかあったら、すぐ連絡して」

「うん」


 仁志を見送った私はさっそく仕事に取り掛かる。黄色いタイルが映える壁付けキッチンが丸見えのリビングで、パソコンを開いた。


 私専用のデスクはなく、家族で囲む羊羹色の座卓の上にノートパソコンをぽつんと乗せるだけだ。


 メンタル面でやや難があり外で働くのが苦手な私は、自宅で細々と事務の仕事を請け負っている。給料は少ないが、私に向いた働き方をさせてくれる仁志には感謝していた。


「今日のお仕事は……」


 いつものようにソフトを開いて打ち込もうとする。


「……」


 だが、何を打ち込めばいいのかわからなくなってしまった。しばらく画面を見て考えるのだが、何も打てない。無意味にaaaaと同じキーを押しては消してを繰り返した。


 そんなことを続けるうちに、はっと気がつくともうすぐ子どもたちが帰ってくる時間だった。もちろんご飯も食べていない。


「……あ、これはヤバいやつや」


 私は慌ててスマホで仁志に電話をかけた。


 仁志は福祉系の仕事をしているが、連携を主とする職種なのでスマホを常時握っている。なので、割とすぐに連絡がつくことが多い。やはりすぐに電話に出てくれた。


「もしもし、仁志?」

「どうしたん?なんかあった?」

「朝から今までパソコンの前に座ってただけのことに、今気づいたねん」

「あーそれな。あるある」

「ないやろ」


 仁志の動じない声に、つい私がツッコミに回ってしまう。


「あるやろ。ばあちゃん死んだばっかりやで?記憶も時間も飛ぶくらいぼんやりしてて当然や。三か月くらい寝て暮らしてもええ」

「心広すぎるやろ」


 忌引きなんて三日が通常の世の中で、仁志の大らかさは貴重だと思う。


 仕事柄、時間の概念を飛び越えた人と接することが多いので余計にそうなのかもと、以前に仁志が言っていた。


「はよ帰るから、寝とき」


 仁志との電話で少し落ち着いた私は、玄関で子どもたちを迎えた。


 日が暮れて、仁志が帰るまでに夕飯の支度をしなくてはと台所に立った。黄色のタイルが映えるレトロな壁付けの台所は、私のお気に入りの場所。シンクの前に立ち、蛇口を捻って鍋に水を入れ始めた。


「七緒ちゃん、ただいま」

「……え?」


 気がつくと私の後ろには仁志が立っていた。彼の後ろにはリビングの横にある子ども部屋で、アニメを見ていたはずの子どもたちがわらわら三人そろっていた。


 末っ子の愛花と、次男の晃生こうきが仁志の背中にひっついて甘えている。仁志が帰って来るまで、まだ一時間はあったはずなのに。


「ママ、ヤバすぎ」


 長男の奏太は両腕を組んで、口を曲げていた。奏太より仁志へ報告が入る。彼はもうすぐ中学生なので証言が的確だ。


「パパ聞いて。ママずっと鍋に水入れたまま止まってんねん。さすがに俺が水止めたで」

「え、あ……ごめん」


 長時間、水を出しっぱなしにして呆けていたらしい。しかも奏太が止めてくれたのも知らなかった。情けなくて俯くと、仁志が私の頭をぽんと撫でながら子どもたちに号令を出した。


「ママは悲しいから休憩や。俺らでがんばるで!」

「何したらええ?」

「晃生がお風呂のお湯はりボタン押したいー!」

「よし!進め晃生!」


 張り切る男たちの間を縫って、私の背中にぎゅうと抱きついた愛花が私を見上げた。愛花のリボンのついたポニーテールと、まんまるの目が揺れる。


「ママ?しんどかったら、あーちゃんにしんどいって言いや?」

「……ありがとう、あーちゃん」


 私はそっと愛花の頭を撫でた。


 仁志に夕飯の支度から子どもたちの世話も全部任せて、子どもたちが寝静まった夜。私と仁志は淡い橙色の光が灯るリビングの、座卓前に横並びで座った。私は項垂れる。


「迷惑かけてごめん」

「ええよ、こんなん迷惑ちゃうから」


 仁志が淹れてくれた温かいほうじ茶の入ったマグカップの水面を見つめる私に、彼は明るい声をくれる。


「七緒ちゃん、すぐ元気にならんでええんやで?悲しいもんは悲しいんやから」

「……でも、90歳のばあちゃんが死ぬなんて自然なことやん。あんまりショック受けて、いつもできてることもでけへん自分にショックやわ」

「七緒ちゃん真面目やからな。ええやん別に、悲しいことの受け取り方に決まりとかないやん」


 私と仁志は一緒にほうじ茶をすすった。


 私と仁志は23時によく話す。私のしたいこと、仁志のしたいことにひと段落がつく時間でちょうど話したくなる時間。


 いつしか決まりなく、夜のほうじ茶ティータイムをするようになった。


「ばあちゃんな、入院してからもうずっと料理できてなかったやん?あんなに料理好きやったのに」


 仁志がゆっくり頷く。ばあちゃんは食べるのが大好きで、人に食べさせるのが大好きだった。


「ばあちゃんが寝たきりになって、あの料理ってもう食べられへんねんな……ってぼんやりは思っててん」


 私が家族を連れてばあちゃんの家を訪ねると、大盤振る舞いの料理が並んだ。あの料理の数々が今でも思い浮かぶ。


「けど、そこにばあちゃんが生きてたから、あの味はまだそこにある気がしてた」


 ほうじ茶のマグカップを握る指先が白くなるほど力が入った。目の奥が熱くて、声が震える。


「でもばあちゃんが死んで。あの味も一緒に死んだんやなって思ったらもう、なんかもう……」


 私の人生の一部が死んだ。その感覚を言葉に表すことはできなくて、ぼろぼろ泣き始めた私の肩を仁志が抱き寄せる。


「せやな。ばあちゃんのご飯、美味しかったもんな。七緒ちゃんは小さい頃から食べてたから……もっと辛いよな」


 私は言葉にならない涙を零しながらこくこく頷いた。


 ばあちゃんは私が小さいころから、ばあちゃんの容貌だった。すでに薄茶色のふわっとパンチパーマで、ヒョウ柄のド迫力Tシャツを愛用し、顔はシワシワ。


 ばあちゃんは幼稚園のお迎えによく自転車で来て、私を自転車の後ろに乗せて爆走して家まで連れて帰ってくれた。


 私が幼稚園に通っていた頃の記憶は、自分の家よりもばあちゃんの家の方が多い。


 ばあちゃんの家は、大きな田んぼの前の細道の奥にあった。


 古い木造で、青瓦の長屋。立てつけの悪い裏口の硝子戸をがらがら開けて長屋に入ると、じゃらじゃらと珠暖簾の音。くぐった先で、ばあちゃんがシワシワの顔で笑うのだ。


「ななちゃん、お腹空いてるやろ!何食べる?ななちゃんの好きな物、何でもあるで!」


 今でもばあちゃんの声が聞こえる気がする。ばあちゃんは私のお腹を常にいっぱいにしようとしてくれた。


 私はばあちゃんの味と、生きてきたのだ。


「七緒ちゃん、俺と一緒に味供養やってみる?」

「……味供養って何?」


 私にティッシュを手渡しながら、仁志がスマホの画面を見せて説明する。


「ほんまは故人のために美味しい物をお供えすることらしいんやけど、俺と七緒ちゃんオリジナルバージョンで。ばあちゃんの味を思い出しながら、一緒に食べて語るってのはどう?」


 私は鼻をかんで、ぽかんとした。


「でも……ばあちゃんの味なんて、再現でけへんで。私は料理下手やし」

「ええやん。思い出しながら、ああやったなこうやったなって語りたいだけや」

「そういう意味か……私いちいち間違うな」

「俺は七緒ちゃんの、ちゃんとせなってとこ好きやで。何より信用できる」


 仁志は私が「ちゃんとしなきゃ」と思いがちなことを知っていて、完璧にやる必要はないと軌道修正してくれる。


「七緒ちゃんは早く立ち直ろうとして沼ってるから、一旦、存分に浸ろう」


 仁志は私の鼻水が垂れる顔にティッシュを押し当てて、柔らかく笑う。


「ばあちゃんが七緒ちゃんのこと、ななちゃんって呼んでたから。それにちなんで七日間だけ。どう?」


 仁志の突拍子もない提案。しかし私も、今日のような状態が続くのは良くないと思う。次は水を出しっぱなしにするどころか、火を点けっぱなしにしてしまうかもしれない。


 私は鼻をふんとかんで首を上げ、仁志の量産型の顔を見つめた。


「ぼーっとし続けて、子どもらに心配かけるよりええな。やってみよか」


 仁志がにっこりと笑い、二人でほうじ茶で乾杯をして、七夜の味供養をやってみることにした。

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