第5話
彼女は、母親が用意してくれたマグロ丼を前に、少し熱い湯呑みの日本茶を手に取っていた。湯気が立たったお茶は、深く濃い味わいを保っていて、ひと口飲むと彼女の心にじんわりと染み込むようだった。目の前には、彩りよく並べられた赤々としたマグロの切り身と、ツヤツヤと輝く白いご飯。わさびが小さく添えられているのを見て、彼女は少し微笑んだ。母親のこういう気遣いが、何気ない日常の中でも温かさを感じさせてくれる。
「最近、作詞の方はどうなの?」母親が箸を手にしたまま、何気なく問いかけてきた。その声は柔らかいけれど、どこか期待を込めているようだった。「この前、ピアプロの月間作詞家人気投票でナンバーワンになったじゃない。もっと書きなさいって言われてるんじゃないの?」
彼女は箸を止め、少し考え込むように視線を落とした。白いご飯の間に隠れている海苔の切れ端を見つけて、無意識に箸先で動かしながら、ゆっくりと答えた。
「最近は、作詞の方はお休みしてるの。」彼女の声は、どこか申し訳なさそうだった。
「どうして?」母親は驚いたように眉を少し上げた。
「なんか……詞が、書けなくなっちゃったの。」彼女は正直に言葉を紡ぎ出した。視線はまだ丼の中に向けられていたけれど、その声には自分の中で整理しようとする思いがにじんでいた。「私ね、作詞は作詞のことばっかり考えてたら、かえって作詞なんてできない、って思ってるの。」
母親は少し首をかしげながら、「難しいのね。」と答えた。その言葉には、どこか理解しきれないけれど娘の言葉を尊重しようとする優しさが含まれていた。
彼女は箸を少し持ち直して、マグロをひと切れ口に運んだ。そして噛みしめながら、少し視線を母親の方へ向けた。「小説だってそうだよ。」彼女は続けた。「小説のことばっかり考えてたら、小説なんて書けない。結局、創作系のことはみんな同じだと思うんだ。」
母親は彼女の言葉に耳を傾けながら、小さく頷いた。「そう、そういうものなのね。」
彼女は湯呑みに残っていたお茶を飲み干してから、少し笑顔を見せた。「作詞ができないならできないで、ちょっと休んでる間に他のことを楽しめばいいかなって。」
母親はその言葉に安心したのか、小さく笑みを浮かべながら「いいんじゃない。」と応えた。
「それより、マグロ丼おかわりある?」彼女は少し声を弾ませながら箸を置いた。母親は笑顔で「もちろんあるわよ。」と答え、立ち上がってキッチンへ向かった。
その後ろ姿を見つめながら、彼女は少しだけ深呼吸をした。頭の中ではまだ、作詞のことがぐるぐると渦巻いていたけれど、今日は少し距離を置いて、この穏やかな時間を楽しむことに決めたのだった。
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