『呪いには理由がある ―現代科学で解く不可思議な事件―』

ソコニ

第1話「視える理由」



桜の花びらが舞う四月の朝。橘芽生は鏡の前で深く息を吸った。指先が微かに震えているのに気づき、両手を強く握りしめる。母が仕事で不在の静かなアパートで、芽生は何度も制服の襟元を確認した。


「大丈夫。今度は違う」

独り言のように呟いて、芽生は玄関に向かう。去年の今頃、高校の入学式で同じように緊張していたことを思い出す。あの日から、どれだけ成長できただろう。白いブラウスの襟を整え、長い黒髪を後ろで一つに束ねる。昨夜は緊張で眠れず、目の下にうっすらと隈が見える。新生活への期待と不安が入り混じる中、芽生は玄関を出た。


電車の中で、芽生は高校時代の担任からもらった手紙を取り出した。「大学では、きっと君の居場所が見つかるはず」。そう書かれた言葉を何度も読み返す。中学時代から不可解な現象を見る経験があった芽生は、周囲との距離感に悩んできた。しかし、大学では違うかもしれない。そう願いながら、駅のホームに降り立つ。


青葉大学の正門は、百年以上の歴史を物語るように威厳を漂わせていた。苔むした石垣の隙間から、つる草が不気味に這い出している。芽生は案内図を確認しながら、歴史ある建物が立ち並ぶ構内を進んでいく。


古びた赤レンガの建物の影で、一瞬、人影のようなものが動いたような気がした。振り返ると、そこには誰もいない。ただ桜の花びらが、渦を巻くように舞い落ちているだけだった。新入生オリエンテーションの会場である講堂は、構内で最も古い建物だという。その尖塔には、長年の風雨に曝された青錆びた風見鶏が、軋むような音を立てて回っていた。講堂に入ると、すでに半数以上の席が埋まっていた。後方の空席を見つけ、階段を上がって腰を下ろす。隣では、スマートフォンとノートパソコンを器用に操作する男子学生が、何やら作業に没頭していた。


学長の挨拶が始まり、講堂内が静まり返る。蛍光灯の光が不自然に明滅し、一瞬、芽生の背筋が凍る。講壇の周りの空気が歪むように見え、そこから黒い靄が滲み出していく。最初は煙のような曖昧な形だったものが、次第に濃度を増していく。目を凝らすと、その靄は不規則な動きを見せ、時折人の形を模すように揺らめいていた。まるで誰かが水面下で身悶えているような、不穏な動きだった。


芽生の額に冷や汾が浮かぶ。中学二年の夏、保健室で見た光景が蘇る。あの日も同じように空気が歪み、担任の先生が突然意識を失った。誰にも見えない何かが、確かにそこにいた。でも、今回はあの時よりもずっと生々しい存在感がある。


靄の中心では、人の指のような形が幾つも伸縮している。その動きに合わせるように、講堂内の温度が徐々に下がっていくのを感じる。芽生の吐く息が、かすかに白く靄となって消えていく。


中学時代から時折見えていた「アレ」に似ている。でも、今までこれほどはっきりとは―。


「あの、見えますか?」思わず隣の学生に声をかけた。

「何が?」パソコンから目を離さず、彼は素っ気なく返す。

「あそこの、黒い...」


言葉を終える前、突然の悲鳴が講堂内に響き渡った。最前列で一人の学生が倒れ、まるで何かに引きずられるように床を転がっていく。パニックが起きた。学生たちが我先にと出口に向かって走り出す中、芽生は倒れた学生の周りにうごめく黒い靄を、はっきりと見ることができた。


「動かないで!」

隣にいた男子学生が立ち上がり、声を張り上げた。パニックになりかけていた学生たちが一瞬立ち止まる。

「全員、その場で止まって。スマートフォンのライトを点けてください。今すぐに」


彼の声には不思議な説得力があった。学生たちが言われた通りにスマートフォンのライトを点けると、黒い靄が徐々に薄れていくのが見えた。混乱は収まったものの、倒れた学生は意識を失ったまま保健室に運ばれた。


その後、芽生も念のため保健室で検査を受けることになった。「急性のストレス反応かもしれません」と言う医師の言葉に、芽生は曖昧に頷いた。すでに幾度となく聞いた診断だった。


保健室を出ようとした時、先ほどの男子学生が待っていた。

「佐倉陽斗です。さっきのこと、話を聞かせてもらえませんか?」


陽斗は、芽生が黒い靄を目撃したことに強い関心を示した。二人は大学の中庭のベンチに移動。桜の花びらが時折舞い落ちる中、陽斗はノートパソコンを開いた。


「実は、大学内で最近、原因不明の事故が続いているんです」

画面には詳細なデータが表示されていた。過去三ヶ月の間に起きた七件の事故。場所、時間、被害状況が細かく記録されている。

「そして、それぞれの事故の前には、黒い靄のような現象が目撃されているんです」


陽斗は自身の体験を語った。昨年の秋、図書館で同じような現象を目にしたという。しかし、それは影のように曖昧で、確信が持てなかった。

「でも、君は違った。はっきりと見えていたんでしょう?」


芽生は頷いた。そして、中学時代から時折、不可解な現象が見えることがあったと打ち明けた。

「これは呪いです」芽生は確信を持って言った。「そして、この呪いには理由がある」


陽斗は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに真剣な眼差しに戻った。

「証明できる?」

「はい。あなたの力を貸してくれれば」


その日から、芽生と陽斗による呪いの調査が始まった。二人は放課後、図書館やパソコン室に籠もって情報を集めた。陽斗はキーボードを叩く手を止めることなく、ネット上の書き込みや学内の事故記録を丹念に調べ上げていく。芽生は黒い靄が現れた場所を地図上にマークし、そのパターンを分析した。


「ここに気づきました」芽生が地図を指さす。「事故の場所、時系列で見ると...」

「円を描いている」陽斗が言葉を継ぐ。「中心点は...」

「図書館の裏庭です。丸山航が最後に目撃された場所」最初の事故の被害者である山下俊介。彼について調べていくと、意外な事実が浮かび上がってきた。


図書館の古い新聞記事からは、衝撃的な事実が浮かび上がった。丸山航の事故の三ヶ月前、学内SNSで「消えろ」タグを付けた画像が大量に拡散されていた。その投稿者を特定しようとすると、アカウントは全て削除済み。しかし、キャッシュデータの中に、かすかな痕跡が残されていた。


「投稿時間、全て深夜の3時33分」陽斗がパソコンの画面を指さす。「同時に、学内ネットワークのトラフィックに異常な暗号化パケットが記録されている」


芽生は画面に映る数値の波形を見つめた。その揺らぎ方が、黒い靄の動きと完全に一致している。現代の技術と呪いが、不可思議な形で結びついていた。


「これは...デジタルの呪い」


さらに調べを進めると、最近の事故の被害者たちも、同じグループに属していたことが判明する。彼らの集合写真には、どこか不自然な影が写り込んでいた。よく見ると、その影は写真が撮られるたびに少しずつ大きくなっている。最新の写真では、その影は人の形を成していた。


「これ、最後の写真の日付...」陽斗の声が震える。「丸山が亡くなった日だ」


事故の被害者たちは皆、同じような症状を訴えていた。急な寒気、背後に誰かがいる感覚、そして耳元で囁かれる「なぜ」という声。医師には原因不明の神経症状として片付けられていたが、芽生には分かった。これは丸山航からのメッセージだった。


「呪いは、単なる恨みや怨念じゃありません」夕暮れの図書館で、芽生は黒い靄の動きをスケッチしながら言った。「これは...メッセージなんです」


「どういうこと?」陽斗が画面から目を上げる。


「このパターン、見てください」芽生はスケッチを広げた。「靄の動きには規則性があります。まるで...誰かが必死に何かを伝えようとしているみたい」


二人は被害者たちの過去を丹念に調べ上げた。そこには、隠された真実があった。いじめの加害者たちは、丸山航の死後も反省の色を見せず、むしろ自分たちの行為を正当化し続けていたのだ。SNS上には、その証拠が残されていた。


「最後の一件が終わった後、みんなで飲みに行った写真だ」陽斗がスマートフォンの画面を示す。「投稿は丸山が亡くなった日...」


夜の講堂は、月明かりだけが頼りだった。古い木の床が足音に反応して軋む。芽生と陽斗は、懐中電灯の光を頼りに中央の通路を進んでいく。


突然、すべての窓が一斉に開く音が響き、冷たい風が吹き込んだ。懐中電灯の光が不規則に明滅し始める。芽生は、黒い靄が床から立ち上る様子をはっきりと見ていた。


「来たな」陽斗がパソコンを開く。画面には丸山航の笑顔の写真が表示されている。その瞬間、靄が激しく揺らめき、悲痛な叫び声が講堂内に響き渡る。


「やめて...見ないで...」

黒い靄の中から、複数の声が重なり合って聞こえてきた。丸山航の最期の記憶が、靄となって空間を満たしていく。図書館裏庭での出来事、グループLINEでの会話、そして...陰湿な嫌がらせの数々。


「お願い...もう十分だ」

芽生は一歩前に進み出た。背後で陽斗がキーボードを叩く音が響く。

「丸山航くん。あなたの気持ち、私たちにはちゃんと伝わっています」


靄の中心が次第に凝縮され、一つの人型を形作っていく。制服姿の少年。その表情は苦悶と悲しみが入り混じっている。少年の周りには、無数の言葉の断片が光となって漂っていた。


「なぜ」「気づいて」「助けて」「痛いよ」...心の叫びが、空間を満たしていく。


芽生は、靄の中心めがけてゆっくりと歩みを進めた。周囲の温度が急激に低下し、息が白く凍る。床には霜が張り始めている。


「もう、一人じゃないよ」

芽生の言葉に呼応するように、陽斗のパソコンから光が放たれた。スクリーンには、文化祭での演劇の写真が次々と映し出される。笑顔の丸山航。仲間と談笑する姿。本来あるべき、彼の日常の断片。


少年の形をした靄が、徐々に光を帯び始める。怨念に歪んでいた表情が、かつての穏やかな笑顔に戻っていく。


「ありがとう...」

かすかな声が響き、光の粒子となった靄が天井へと昇っていく。最後の一片が消えるまで、芽生と陽斗は静かに見守っていた。陽斗がパソコンに残されていた写真を開く。そこには、文化祭で演劇の衣装を着て、明るく笑う丸山航の姿があった。


「あなたの声は、確かに届きました」芽生の言葉に、少年の形をした靄が光を放ち、静かに消えていく。最後の瞬間、かすかに「ありがとう」という声が聞こえた気がした。


被害者の一人、村田茜は保健室のベッドで震えながら語った。

「毎晩同じ夢を見るんです。図書館の裏庭にいて...誰かが後ろから近づいてくる。振り返ると、丸山君が...でも、顔が...」

彼女は言葉を詰まらせる。他の被害者たちも同様の夢を見ていた。暗い廊下、後ろから聞こえる足音、振り返った時の歪んだ笑顔。そして必ず、「なぜ、気づかなかったの?」という囁き声で目が覚める。


山下は病院のベッドで、虚ろな目で天井を見つめていた。

「僕たちは、何も間違ったことはしていない。ただの悪ふざけだった。でも、あいつは...あいつは...」

その時、病室の温度が急激に下がり、モニターが不規則な波形を描き始めた。芽生と陽斗は、この出来事を「第一の理由」として記録に残した。


事件解決から数日後、陽斗のノートパソコンには新しいファイルが作成されていた。


『呪いの理由 - Case #1』

発生日時:4月X日

現象:黒い靄の出現、物理的な力の作用

被害状況:軽傷7名

原因:過去の未解決の事案(いじめ)による心的エネルギーの集積

解決方法:真相の解明と適切な措置の実施

備考:橘芽生の能力が決定的な役割を果たした


「記録は大事だからね」陽斗は新しいフォルダを作成しながら言った。「これからも似たような事件があるかもしれない」


下校時、夕暮れの構内で陽斗は芽生に尋ねた。

「私にだけ見える、デジタルノイズのような歪み」

芽生は自分のスマートフォンに映った画面を陽斗に見せた。写真の中で、黒い靄は独特のグリッチとなって映り込んでいる。まるでデジタルデータが壊れたように、画素が歪んで踊っている。


「これ、面白い」陽斗が食いつくように画面を覗き込む。「通常のデジタルノイズとは明らかに違う。データ自体が...生きているみたいだ」


芽生の能力は、現代のデジタル社会に特異な形で反応していた。SNSに投稿された写真、防犯カメラの映像、スマートフォンの画面。それらすべてに、目に見える「歪み」として呪いが記録されていく。人々の悪意は、デジタルの痕跡となって永遠にネットの海を漂うのだ。


その言葉には、まだ語られていない物語の予感が込められていた。二人の「理由を探す旅」は、ここから始まったのだ。

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