第7話 暴行予定日
渋滞にはまった車の窓を無数の水滴が埋め尽くしていく。流れ落ちる水の玉を眺めながら、私はスマホの画面を確認した。
7月3日。私の記憶ではイロハが襲われるのは5日。
その日は映画の顔合わせがあって、イロハは一人で仕事だったのだ。
もう、その仕事はずらしてもらっている。私が映画の仕事にに行く日はイロハは休み。
無理を言って頼みこんだ。
それでも私の中の焦燥感は消えない。だって、結局、あの男の姿を捉えられたわけではないから。
(もうすぐ、あの日が来る……)
じとじとと湿った空気が肌にまとわりつき、車内の空気もどこか重い気がした。
戻ってきてからイロハとは毎日一緒にいた。休憩時間もなるべく目を離さないようにした。いや、話したくなかったともいえる。
それは過保護な親のようで、実際、イロハには「この頃、たくさん構ってくれて嬉しい」とからかい半分に伝えられた。その喜ぶ顔を見ていると、もっと構っておけばよかったと今更思う。
「今日は二人でのショット撮影でしたっけ?」
「そうです。イロハさんはすでに入っています」
イロハのことを考えていると、キリがなくなる。私は仕事に頭を切り替えるために砂川さんに話かけた。
砂川さんはハンドルを握りながら頷いた。
渋滞とはいえ、今イロハは楽屋に一人でいる。それだけで、考えれば考えるほど不安が押し寄せてくる。
「スタッフの人がついてくれているんですよね?」
「ええ、今日は次のイベントのための撮影ですから。他のスタッフもいますよ」
「良かった」
砂川さんが私の顔をちらりと見た。
私はスマホの画面をつける。イロハから「どこ?」メッセージが届いていた。すぐに「まだかかりそう」と返す。
既読マークがすぐに着く。ちょっと安心した。
砂川さんは話題を帰るように、他の仕事について口に出した。
「二人の仕事が増えたので、写真集も出せそうですよ」
「ありがたいですね」
イロハといるためにねじ込んだ仕事は思ったより好評だった。
イロハと一緒にいれるなら何でも良かった。私は仕事が増えた分イロハが疲れないかだけ、少し心配だった。
まるで砂川さんが私の心を読んだかのように言ってくる。
「イロハさんも機嫌が良さそうで、この頃は昼寝している時間も少ないんですよ」
「イロハが? あんなに寝るの大好きなのに」
「立夏さんと一緒にいる時間を楽しみたいみたいですね」
「……そうなんですね」
私は複雑な気持ちを唇に乗せながら、苦笑するしかない。
イロハはよく寝る子だった。
ひとりにするとすぐに寝る。それが彼女の体力の問題なのか、起きている間のエネルギー消費が大きいからなのかはわからない。
だけど、そのイロハが起きて私といる時間を優先してくれている事実に胸が暖かくなる。
嬉しさと、前ももっと一緒にいてあげればよかったと言う傲慢な申し訳なさが入り混じる。
だが、この事件さえ防げれば、イロハともっとずっと一緒にいられるはずなのだ。
私は気合を入れるように唇を引き結び、視線を落とした。
「ありがとうございます」
「車を駐車場に止めて来るので、先に行っていてください」
「わかりました」
車がやっと目的地に着いた頃には、すでに予定の時間を過ぎていた。
私はハンドバッグを手に取りながら砂川さんに頷いた。
外はまだ霧雨のような雨が降り続いていたが、関係者入り口には屋根があり濡れることは無い。
小走りでビルの中に駆け込む。エントランスの照明がどこか冷たく感じた。
いつもなら何も感じない撮影所への道が、今日はやけに不気味に思えた。
何度も使っていたスタジオ。楽屋へと続く道は見慣れたもので迷うことはない。
私の足音だけが響き、妙に静かに感じた。
「いやっ、やめて!」
そこに急に響いた女の子の声。聞き間違えるはずもない、イロハのものだった。
「イロハっ!」
頭が真っ白になった。 足が勝手に早く動く。
心臓が焼けているんじゃいなかと思うほど胸が痛い。
不安が加速度的に広がっていった。
(今日じゃなかったわよねっ)
なぜが胸の中をすり潰していく。
たどり着いた楽屋のドアを開けた瞬間、視界に映ったのはイロハに覆いかぶさった状態の男だった。
細い体に、黒いシャツとズボン。
「っ、何してるの!」
私の声が怒号のように響く。
男がこちらを振り返る。表情は驚きに染まっていたが、あの男だった。
その下にいるイロハの瞳が涙に濡れている。
「立夏!」
「ちっ」
男が舌打ちする。
次の瞬間、男はイロハから離れると私に向かって勢いよく走りだす。
逃げる気だ。ここで捕まえる!
私は咄嗟に腕を伸ばし、入り口を塞ごうとした。
「立夏、危ない!」
だけど、イロハの悲鳴のような声に一瞬だけ動きが止まる。
その隙を逃さず男はさらに加速すると、するりと私の横をすり抜けていく。
「誰か!」
しまった。胸に苦さが広がる。叫びながら私は後を追った。
イロハを振り返ることは出来なかった。
楽屋の外に飛び出し、廊下を駆け抜ける。これだけ騒いでいるのに誰も来ない。
おかしいと思いながら、私は逃げる男の後ろ姿をひたすら見つめた。
(間違いない、この男だわ……!)
以前も私はこの男の背中を追いかけている。季節の違い、格好の違いはあっても見違えることはない。
イロハを襲った男が、私を突き落とした男だったのだ。
「やっぱり、あなただった!」
「なんのことだ?」
男は立ち止まらずに走り続ける。
このまま進めば廊下は突き当たり、階段になるはずだ。
違う階に行けば、流石に誰かいるだろう。そう思っていたら、階段の表示が現れた。
「こっちの話よ!」
男は階段の前で足を止めると、上と下を交互に見つめる。
私はそのままの勢いで距離を詰め、必死で手を伸ばす。あと少しでやっと捕まえられる。
私の手が、男の腕に触れるかどうか。その瞬間に男は身体を反転させた。
「きゃっ!」
「……考えなしの行動は命をなくすよ?」
そのまま真横に押される。
体がバランスを崩し、私は階段に放り投げられた。
男の冷たい声が頭上から降ってくる。
「立夏!」
「イロハ……」
男がいなくなった視界にイロハが走り込んでくる。
驚きと恐怖に染まったイロハの姿があった。
途端に申し訳なさが込み上げてくる。
(ごめん……)
そう言いたかったけど言葉が出ない。
だん、だん、だんと身体に今まで受けたことがない衝撃が走り、暗闇がゆっくりと広がっていく。
不思議なことに痛みはなかった。
ただイロハが私の名前を呼ぶ声だけ耳に残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます