第2話 知らなかった事件
火葬場に足を踏み入れると、印象とは正反対の清潔さに足が止まった。
まるで人の死とは正反対の静謐な空間は、それでも独特な雰囲気に満ちている。低く流れる読経の声が、どこからからかすかに聞こえてきた。
未だイロハが入っているとは信じられない棺が火葬炉に入れられるのを見送り、組んだ指先をきつく握る。
ここまで来ても、私はまだ実感が湧いてこなかった。
「立夏ちゃん、今、大丈夫かしら?」
床をただ見つめていた私は優しい声に顔を上げる。イロハのお母さんだ。
まだかけるべき言葉は見つからない。
私は少しの間を置いて、声を絞り出すようにして答えた。
「はい、大丈夫です。何もお手伝いできず、すみません」
親族でもない私とイロハの関係は、言葉にしてしまえばただの同僚。
それなのに、こんなところまで来てしまったのが場違いだったのかもしれない。
私の言葉にイロハのお母さんは静かに微笑んでくれた。その目は赤く腫れているのに、まっすぐ前を見ていて、どこかイロハを思い出させた。
「いいのよ、立夏ちゃんはただでさえ忙しいんだから。イロハだって立夏ちゃんの迷惑にならないようにって、よく言ってたもの」
「迷惑だなんて……」
ぱたぱたと顔の前で手を振る仕草がイロハと被り、胸の奥が締め付けられる。
私は言葉を探しながらイロハのお母さんの言葉を受け止める。 何か返さなければと思うのに良い言葉が見つからなかった。
俯く私にイロハのお母さんは見慣れたスマホを取り出した——イロハのスマホだ。
「これ、立夏ちゃんに持っていてもらいたいの」
「イロハのスマホですよね? そんな大切なもの、貰えません」
こちら向きに差し出された画面。ロック画面は私とイロハの写真だ。
こんな大切な私物を差し出されたことに驚いて、慌ててお母さんの手ごと押し返す。
イロハはまめな人間だった。写真もよく撮っていたし、きっとイロハ自身の人生が色濃く詰まっている。
それを受け取るのは、イロハの死を認めることになりそうで怖かった。もうこの中にしかイロハはいない気がしてしまう。
だけど、私の逡巡を断つようにイロハのお母さんはもう一度スマホを私に手渡してくる。
「イロハも立夏ちゃんに持っててもらったほうが喜ぶと思うし、ね」
「……わかりました。ありがとう、ございます」
震える手を支えるように両手でスマホを受け取る。
イロハのお母さんは「お願いね」と静かに微笑んで、再び人々の輪の中へ戻っていった。
私はしばらくロック画面の幸せそうな二人を見つめるしかできなかった。
*
火葬場の入口近くには数個のソファと自販機、テレビが置いてある。
誰も見ることがないのに、明るい話題をまき散らすテレビ放送はただ空間を流れていった。
私は端のソファに腰を下ろし、手の中のスマホを見つめる。
イロハのスマホ。
そっと触れれば画面が点いた。
「イロハ……」
ぽつりと名前を呟く。
ロック画面をスライドさせる。
暗証番号を入力する画面が出てきて、私は手を止めた。
イロハの誕生日や好きなものなどいろいろな候補が頭に浮かぶ。
だけど、うぬぼれていいなら、イロハの一番好きなものは私だ。
手を動かす。エンター代わりの矢印を押せば、画面が切り替わった。
「私の誕生日って、もう少しパスワード考えなよ」
私は苦笑するしかできない。
またうぬぼれてしまう。死んでからも、うぬぼれさせるなんて、どんな恋人なんだか。
イロハはいつもそうだった。
怖がられることの多い私にキラキラした笑顔で慕ってくれた。
『立夏!』
目をつむれば、すぐにイロハの声と表情が浮かんでくる。イロハと過ごした時間は思い出すだけで胸が暖かくなった。
ふーと一つため息をついてから、私は恐る恐る写真アプリを開く。
アルバム分けもきちんとされていて、私はとりあえず「立夏♡」と書かれていたフォルダを開けた。
そこには私の写真がぎっしりと並んでいた。
驚くほど多くの写真があった。気づかないうちに撮られていたものばかりだ。
「こんな写真、いつ撮ったんだろう」
カメラ目線のものもあったが、明らかに隠し撮りのものもあった。
スクロールする指が止まらない。
笑顔の自分、真剣な顔の自分、ふざける自分——すべての瞬間を、イロハはこっそり記録していた。
よく自撮りしている子だと思っていたのだけれど、この分ではイロハの写真より私の写真の方が多そうだ。
私は何とも言えないむず痒さに口元を動かしながら、一度アプリを閉じる。
イロハと私の待ち受け画面に日記アプリがあるのを見つけた。
「これ……」
どくんと心臓が大きく高鳴った。
イロハは記録するのが好きな子だった。
SNSもよく更新していたし、ユニット活動に関する宣伝もほぼイロハがしてくれてた。日々のちょっとした出来事でも、まるで特別な日のように言葉にするのが得意で、明るい性格と反対のように見える繊細な部分も多かった。
この日記にはイロハのすべてが詰まっているかもしれない。
見るべきか迷いながらも、私は開かずにはいられなかった。
「なんで、自殺なんてしたのよ」
結局、私が知りたいのはそれ。
自殺なんてするとは思えなかった。最後に会ったのは映画の試写会前。
とても喜んでくれたのに——なんで。
私は唇をかみしめて、イロハが最後に残した言葉を探す。
最後の日記を開くと、そこには私の主演映画の公開についての喜びの言葉が並んでいた。 まるで、自分のことのように誇らしげに笑うイロハの声が聞こえてくるみたい。
「……泣きそう」
イロハはいつも私を応援してくれた。
だから、差がついて自殺したなんて、私は微塵も思っていない。
大体、私とイロハの間にそんな大きな差はなかった。愛想もよくて演技も上手な彼女は、もう少しすれば私よりずっと売れっ子になっていただろうから。
何か私の知らない自殺の理由があるのではないか。
認めたくない私は、日記を次々に捲っていく。
過去へ、過去へとスクロールしていく。
そして——手が止まる。
「最悪……?」
ポジティブなことばかり書かれていた中で、その言葉はまるで孤島のように浮いていた。
目が吸い寄せられるように、その言葉を見つけ続きを読む。
「嘘でしょ、これ」
出た声は震えていた。
そこに書かれていたのは、楽屋で男に襲われ、キスされたという内容だった。
日付を確認する。
七月六日。その日、自分は何をしていたのか。きっと映画の仕事だ。一番撮影が込み入っていた時期だから。
私はスマホを握りしめ、画面を穴が開くほど見つめる。
「寅川さん、そろそろ時間ですよ」
どうして、知らなかったのか。知っていたら、ケアができていたのに。
なんでイロハは相談してくれなかったのか。
思考が散り散りになり、まともに頭が動かない。
そんな私を現実に引き戻したのは、私を呼ぶ声だった。はっと我に返り、スマホを慌ててしまい立ち上がる。
「あ、はい! 今行きます」
誰かも知らない人だった。咄嗟に浮かんだ愛想笑いでやり過ごし。
鼓動が早い。全身に冷たい汗がにじむ気がした。
強く唇を噛みしめながら、私は葬儀場の奥へと歩き出した。
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