海に沈むジグラート 第77話【馬に笑む貴婦人】

七海ポルカ

第1話 馬に笑む貴婦人




「ようこそいらっしゃいました」




 シャルタナ家の入り口に馬車が止まると、執事と従僕が恭しく出迎えた。

「お世話になります」

 アデライードが差し出された手を借り、ゆっくり馬車から降りて会釈した。

「ご当主はただいま参ります。今日はあちらの別邸を休憩場所に整えてありますので、ご案内致しましょう。湿地帯に面しておりますので、お仕事には都合が良いかと」

 ネーリが絵を描きに来たことは、ちゃんと知っているらしかった。

「お荷物は私どもが持ちましょう」

 三人の従僕が進み出てくれたので、遠慮するのも悪く思い、お願いした。

「別邸の準備、どうもありがとうございます。

 でも先にシャルタナ公にご挨拶してから参りたく思いますわ。泊まらせていただくだけでも光栄ですのに、先に別邸で寛いで公爵様がお越しになるのをそちらで待つのは少し……。私から、公にご挨拶に参ります。そうご厚意に甘えてばかりだと、兄に叱られますので……」

 ネーリはこういう時はあまり口を出さないようにしていた。立場では自分は人にも知られてない単なる絵描きで、アデライードはフランス海軍総司令官にしてフランスの名門公爵の妹だ。

 しかし、彼女がそう言っている間に、笑い声が聞こえてきた。


「と言っても、もう来てしまったからなあ」


「シャルタナ公。本日はお招き下さり、どうもありがとうございます」

 アデライードが低い段差を悠然と下りてくるドラクマに、深く会釈をした。ネーリも彼女に倣う。

「ラファエル殿は寛容な方だから、そんなことで目くじらを立てるような方ではないさ。

 私も今日を楽しみにしていたんだ。この春先に目覚める前の湿地帯を描いて貰えると思ってね。

 実は最近、あまり贔屓の画家がヴェネトにいないのだよ。

 昔から描かせている画家なら何人もいるんだが、私は真新しいもの好きだから、世にまだ出てない画家というのも好きなんだ。小さなアトリエなどもよく顔を出して作品を見せてもらうこともあるよ。若い画家の作品はいい。技術が未熟でも何というか……瑞々しい力を感じる。

 出来れば年に数人、そういう人間を見つけ出したいとは思っているんだけど、最近はどうも、心を動かされる人材が少なくて困ってる。

 妹が外国に知り合いの多い人なので、外国の新人の絵なども送って貰ってはいるんだが……やはりヴェネトの画家を見出したくてね」

「まあ。そのお話は聞いていませんでしたわ。ドラクマ様のように目が肥えた方は、技術の見方もきっと鋭くて、若い方の絵では物足りなく思われるのかと」

「いや。上手な絵は日々見せてもらっているからね。どうせなら新しい感動をいつも求めてるよ」


 丁度、馬の足音が聞こえてきた。


「レイファ様、お招き下さりありがとうございます」

 黒馬を軽やかに駆らせてやって来たレイファは、馬上からアデライードとネーリに微笑みかけた。

「アデライード様。ネーリ様。お越しいただけて嬉しいですわ。

 まぁ今日はお揃いの出で立ちで。お似合いです。可愛らしい」

「兄がお世話になっている店でネーリ様のお洋服を仕立てていただいたのですが……この上着とお帽子がとても素敵で、私も揃えて貰いました」

「お二人ともお似合いですわよ。あら……」

 合図もしていない馬が数歩歩き出して、ネーリの前髪の辺りを鼻先で触った。


「まあ珍しい。ツァベルが私以外に懐くなんて」


「本当だなあ。妹の馬は私にも懐かないんだよ。飼い主に似て気位が高くてね」

「見て、お兄様。じゃれていますわ。こんなの初めて」

 レイファは本当に驚いたようで目を丸くしている。

 アデライードは笑った。


「ネーリ様は本当に不思議な方なのです。

 大きい動物も小さい動物も、陸の動物も空の動物も、不思議とネーリ様に懐くのです。きっと海の動物もここにいたら、同じですわ」


 ネーリはしきりに寄って来る馬を可愛く思って、鼻筋を優しく撫でてやっている。

「扱いが上手だ。慣れているのかね?」

 ドラクマも感心して頷いている。


「教会の馬に乗せて貰ったり、世話をしています。馬は好きです。とても美しい動物だから」


 自分が誉められたのが分かったように、馬がブルル……と小さく鳴いた。

 それを明るい表情で眺めていたレイファが、思いついたように手を合わせる。

「そうだわ。着いてすぐに描き出すのも何でしょう? どうせですし、屋敷と湿地帯の方をぐるりと馬で一周してきましょうよ、ネーリ様。ツァベルが貴方を乗せたそうにしています。お貸ししますから」

「こらこら、レイファ。ネーリ君が疲れてしまうじゃないか。それにお前の馬は乱暴だ。振り落とされて腕でも折ったらどうするんだ。彼の腕は大切な商売道具なんだぞ」

 やんわりとドラクマが注意したが、レイファはつん、と首を逸らしている。

「あら。私はツァーには一度も振り落とされたことなんてありませんわよ」

「それはお前が子馬の頃から育てたからだろう……」

「ほらご覧になって。こんなにいい子にしています。きっとネーリ様のことが好きなのよ」

レイファは馬から下りた。

 乗れます? とネーリを招く。

 ドラクマはまだ心配そうだ。

「多分。大丈夫だと思います」

 ネーリは「乗せてね」というように馬の首筋を撫でてから、ひらりと跨がった。

「思った通り。手慣れていらっしゃいますわ。これなら大丈夫。アデル様もいかが?」

「あ……私は、……まだあまり乗馬が」


 正直に言って、彼女はしまったと思った。

 どんな時でもネーリの側にいると誓ったのに。

 自分の失敗に気付いてネーリの顔を見たが、彼は優しい顔で見返してくれた。

 これは「大丈夫だよ」という顔だ。

 アデライードは安心した。

確かにレイファは女性であるし、心配ないだろう。

 折角屋敷に招かれても何もかも警戒して断っていては、何かを探り出すどころか、普通の人間関係も築くことは出来ない。


「ネーリ様、楽しかったら私にも今度乗馬を教えて下さい」

「喜んで」


 栗毛の馬が連れてこられる。それにレイファがすぐに跨がった。

「やれやれ……、レイファはこうなったら絶対に引き下がらないんだ。

 ネーリ君。悪いが一周だけ付き合ってやってくれるかな?

 アデライード殿は私達がきちんと別邸に案内しておくよ」

 侍女達も美しい食器や、菓子類を籠に入れて別邸に向かい始めた。あれならばアデライードもシャルタナと二人きりで息が詰まるということもないだろう。

 ネーリも安心した。

「回ってくるね」

「はい。美しかったらあとで私も案内して下さいませ」

「行きましょうか、ネーリ様」

 レイファが馬に合図を出し、ネーリはすぐ彼女について行く。

 アデライードは手を振って見送った。

 馬は落ち着いていて、大丈夫そうだ。


(そういえば、竜もネーリ様にすぐ懐いたと言っていたわ)


 ふと、気付いた。


(あのフェリックスという白い竜は、ネーリ様が幼い頃に会ったことがあるから特別に懐いたとは仰っていたけれど、他の竜もネーリ様には懐いたとフェルディナント様も言っていらした)


 ネーリは特別ですよ、と。

 ラファエルも同じようなことを言っていたことがある。

 幼い頃、ローマの城で暮らした時も、見たことも無い動物がネーリには一目で懐いたと。

 王統の血に人間が傅いても、動物は王族だからと簡単に懐いたりはしないものだ。


(ネーリ様が【扉を開く者】でいらっしゃることと何か関係があるのかしら……?)


 そんなことを考えてみる。

 考えたところで、答えなどは出なかったが。


「妹がはしゃいでいるから、小一時間戻らなそうだ。我々もゆっくりと行こうか」

「はい。本当にいいお天気で良かったです」

「そうなんだよ。天気は心配だったから。あの別邸は湿地帯に面して大きな温室テラスがあるから、雨が降ってもそこから絵は描けないことはないけれど、やっぱり直に空気を感じながら描いて欲しかったからね。

 雨が降ってしまったら霧が出て、一気に気温が下がってしまう。春めいては来たけれど、さすがに長時間そんな中で描いていたら風邪を引いてしまうよ。だから心配した」


「これなら大丈夫ですわ。それにシャルタナ公、ネーリ様はどんな風景でも美しく描き出されますからどうぞご安心を。

 雨が降り、霧が出たら、その景色を目を輝かせて描いて下さいます。

 この前ヴェネトに雪が降った時も、街に出て一日中、絵を描いていらっしゃったそうにございます」


 ドラクマが笑っている。

「そうか。それなら何も心配要らないね。画家は多少そういうセッティングには神経質な者もいるんだが、ネーリ殿はどうやらそうではないらしい。素晴らしいよ」


(こうして見ていると、シャルタナ公は本当に、良いお人に見えるのだけど……)


 しかし人間の心は計り知れないものだ。

 それだけは忘れないでおこう、とアデライードは思った。



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