剪断(12)

 まだ誰もいない研ぎ澄まされた教室に満遍なく陽の光が広がる。クリーム色のカーテンの周りに細かな埃が漂っているのが気になった。大きく湾曲したプラスチックは世界をこぢんまりと歪ませて、僕にチューニングを合わせた知覚を与える。レンズがきらりと反射して、号令を掛けたように精密に結ばれる焦点は、これまでよりも繊細で鋭い。痛みを伴って越えられない隔たりを実感させるのに役立った。


 昨日のこと、中谷さんはギプス姿の僕に憐憫れんびんの眼差しを向けながら、おろしたての眼鏡を持ってきた。小さな楕円型の深緑色をしたメタルフレーム。僕が選んだときにはクールで華やかだったそれに、収まり切らない厚いレンズが嵌められていた。ギラギラと渦を光らせ、医療器具の装いを全面に出す。折り畳まれた細い蔓は、レンズ越しに見ると歪んでいて一段と頼りない。僕が世界を見るのには、こんなにも著しい屈折を必要とするのだと身にみて、その頼りなさにえたいの知れない不安を覚えた。中谷さんはギプスに触れないように、殊更ことさら丁重に眼鏡を掛けてくれる。瞳孔の中心や耳の当たる位置を入念に調べて、何度か掛け外しを繰り返した。混沌と秩序を行ったり来たり。真剣な表情にピントが合うたび、あまりの鮮明さに眼球が刺されるようだった。


 きりりと主張する輪郭。教室の中央で机を片付けて不自然に並べられた椅子に腰掛ける。端から埋めるべきだろうが、右から二番目が僕の椅子であったから、それに座った。座面の傷の付き方で判る。後ろから入ってきた父さんは、やや腰を屈めていて客人らしくしていた。親子二人でいる教室。表と裏をひっくり返したシャツのように不均衡が生じる。どんなことを話そうかと打ち合わせもできたはずだが、面と向かって赤裸々に晒すことは気が引けた。父さんが今日初めて知る内容があったところで構わないと思えるだけの覚悟は、痛みに堪えるベッドの中で存分にしたはずだ。

 休日も部活動の音で校庭なんかは騒がしい。それに引き換え、教室のある校舎は穏やかだった。野球部が出す大声や、金管楽器の音の端くれだけが弱々しく届くのが余計にゆるんだ空気を演出する。父さんと一緒に職員玄関から迎えられるのは落ち着かなかったが、資料を取りに行くと言った担任を置いて、先んじて入った教室は清々しかった。よくなった視力のおかげか、掃除されていることに気が付く。

 バタバタと音を立てて入って来た担任が、申し訳なさそうな顔をして向かいに着席した。かしこまった社会人のふりをして、父さんを労ってから、僕の怪我にも配慮した物言いをする。絶えず疼くギプスの中へと意識が向かないように、一切をはぐらかしておいた。集合時間に先立ってやって来たのが原因かもしれないが、並木家はいまだ到着していない。もっと遅れて来れば悪印象をほしいままにするのに、担任と話す暇もなく彼らは姿を見せた。金曜に見た母親に加えて、スーツ姿の父親もいる。マリンスポーツでもしているのだろうと想像に易しい焼けた肌と整髪料できつく固められた髪型は、並木くんの父親らしいと合点がいった。顔もよく似ている。そんな成功者の風貌の男は、空いた席に着くより前に「この度は、申し訳ありません。」と二回りは図体の小さい僕に目を合わせながら言って、深々と頭を下げた。父さんの方にも、再び同じようにする。腰を低くしてなだめる父さんに比べて、僕は何も言えないで硬直していた。後追いで並木くんも詫びようとしているのが見えて、それには反射的にそっぽを向く。病院の外で謝罪の形を見せたときよりもずっと弱々しい。僕が骨の折れた痛みに耐えていたこの週末、並木くんはどんな叱責を受けたのだろう。それが生半可ではなかったろうと確信できるくらいには、いつもの並木くんと懸け離れた表情だった。とりあえず座るようにと促した担任が、些か偉そうに間を取り持つ。


「学級内で聞き取りをしたところ、今回の怪我の原因は、数人のクラスメイトによる高平くんへの常習的な嫌がらせにあると考えるのが妥当だと結論付けました。教員一同、または担任として、このような事態に至る前に、対処や予防をできなっかった監督不行き届きを、猛省しております。」


 父さんから視線を逸らさないまま、何かを読み上げているみたいに言い切る様は、よそよそしかった。もしくは、機械音声のそれを彷彿とさせる。真面目なことだけを言う父さんの横顔を見てから、僕は息を吐き切ってうつむいてしまった。あの日の踊り場で、僕から殴ろうとしたことや、勝手に足を滑らせたことは事実だ。しかし、そんなことは誰も気にしていないようだった。事故であろうが、事件であろうが、悪者は並木くんやその取り巻きであるとされた。大切なのは日常の学校生活が、僕にどんな心理的ダメージを与えたかということ。その話になってしまうと、僕には反駁はんばくする材料がなかった。無駄に置かれた何脚かの椅子。そこに母さんが座ることもできたろうと考える。威勢よく相手方に謝罪する父と、隣で背中に手を回している母に挟まれた並木くんをレンズの向こうに捉えた。慣れない強い屈折に目が眩んでしまう。やはり下を向いたままでいることにした。

 静かに怒り、静かに責任を追及する父さんには気迫がある。温度の高い炎が青く見えるように、声を荒らげなくても高いエネルギーを持っていた。その咎め方が美しくあればあるほど、血液が暴れ、口内が苦くなっていくような錯覚をする。担任からこれまでのいじめをあれこれ紹介され、本当のことかと確かめられた。そのなかで眼鏡を壊したのも並木くんだったのかと問われ、面倒くさくなって肯定した。並木くんの家族は一つ一つに水飲み鳥の要領で頭を下げ、いちいち小さくなっている息子を叱る。金でどうにかなる問題でもないけれど、弁償はさせてもらうとすぐに表明した。僕はもちろん苦痛であった。何のために今日ここにやって来たのか、今になるとはっきりしない。

 しばらく話を続けて、並木くんが自分の言葉で謝罪をしようという流れになった。集まった視線に溺れそうになって、なんとか言葉を繋ごうとしているのが、果てしない罪悪感への救済に思えてならない。我慢ならずに、遮るように「別に大丈夫です。」とだけ漏らす。すると並木くんは動揺の表情を見せ、充血した瞳にみるみる涙を溜めた。誰にも縛られないと言わんばかりに、馬鹿げたことで笑い、人を貶めてそれも笑い、女子に応援されて笑って返す。そんな並木くんが、きっともうすぐ泣く。感情を動かさないようにそれを見つめていたが、密かに口角が上がった。


「本当にごめんなさい。」


 最後はそんな単純な言葉だった。高潔な悪者でいられなくなった並木くんが気の毒だ。どうしてかそんな感想を抱く。「いじめられっ子」として見世物にされた自分にも同じような声掛けがしたい。謝れたことを褒めるように、幼児みたいに泣いている並木くんの背中を父親が優しく撫でていた。言葉では同調して僕らに誠意を見せ、息子を叱るのも欠かさないが、その優しい手つきだけは違った。


 十六時を過ぎて教室を離れても、お辞儀のラリーは続いた。そのせいで、追い出されるように車へと向かう。父さんと二人きりになる。僕は二人で何かを話すのが耐え難く、靴を履き替えるところだったが、せっかちに言った。


「金曜日の放課後に部活があって、ポップを提出しなきゃいけなかったんだよね。せっかく作ったのに提出できなくて……それ、出してから帰りたい。あと、読書部の友だちも図書室にいると思うから、心配かけちゃったと思うし、ちょっとみんなと話しながら帰りたくてさ。怪我は大丈夫だから、先に帰っておいてくれないかな。」


 まだまだ嘘が滑らかに出てくるようで安心する。父さんがいくつかの代替案を出したところで僕は頑なに一緒に帰るのを拒んだから、心配そうな顔を見せながらも一旦折れてくれた。腕や胸の中の痺れを気にしないで、微笑みを浮かべ手を振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る