剪断(10)

 上腕骨骨幹部骨折。医者から聞いても頭の中で漢字に変換できなかった。けれど、骨の真ん中が横に切れたように折れているレントゲン写真は、状態を理解するための専門知識を要しなかった。



 確か、内田先生に支えられながら、自分で歩いて保健室の椅子まで行ったと思う。落ちた場所が保健室の目の前だったからなんとか辿り着いたが、もう少し遠かったらその場に座り込んでいたかもしれない。保健室の先生は、内田先生よりは落ち着いていて、若さの割に頼もしかった。涙を浮かべて悶え続けている僕に何があったのか訊くが、声が上擦って上手く答えられなかった。子どもっぽいのはしゃくだったが、そのときだけは背の低い僕を小学生扱いでもすればよいと思った。左手で押さえていても、右腕が丸ごと取れてしまうんじゃないかと感じる。力こぶのできる場所で腕の中身が不自然に動く。ジャージの上からでもそれは判った。応急処置として添え木をして大袈裟に包帯で固め、右腕がびくともしないようにされる。振動が伝わるたびに女々しい声を上げ、血の気が引く。かなり大きな怪我をしてしまったと、そのとき初めて理解した。

 整形外科は学校に面した道の裏にある。内田先生はいち早く自分の車で送ると言った。救急車を呼ぶよりもその方が早かった。先生の車を待つ間、養護の先生はひっきりなしに電話をしていた。病院や僕の保護者にだと言う。家には誰もいないから、名簿には記載のない父さんの携帯電話を記憶からなんとか引っ張り出して教えた。繋がらなかった。遠くで電話をしている先生を見ていると、誰も支えてくれる人がいないのが不安になる。持っておくように言われた氷嚢ひょうのうは、左手には異常に冷たい。担任の先生が息切れをしながらやって来たとき、保健室のすぐそばに車が付けられた。ネクタイを苦しそうにして動揺している担任を気にも止めないで、僕は後部座席に乗せられた。我が家の車よりも数段階は高級そうだ。怪我をして汚らしい僕が乗るのは忍びなく思われた。


 腕の痛みでそれ以外の感情が吹き飛んでしまっていたが、内田先生と二人きりの車中はいくらか緊張する。すぐ着くから大丈夫だとしきりに繰り返す様子は、人間味が伝わってくる気がした。車窓を見ると先週母さんと洋食屋に行ったのを思い出した。そういえば、今日は眼鏡は壊れなかった。頭を打たなかったのはよかったと言われたが、もうちょっと運動神経がよければ受け身も取れるものなんじゃないだろうか。眼鏡の蔓が折れたり、腕が折れたり、最近は忙しい。病院に着くと内田先生は一挙手一投足をすべて介助しようとしてくれた。でも、足の悪い先生にもたれるように歩くのは、気が乗らないものだ。お爺さんが一人、長椅子に座っている。僕はその三つ隣、入り口からすぐの椅子に座った。消毒液の匂いがして、異様に緊張してきた。学校にいたときより腕に血が溜まっていくような感覚がある。明確に骨の折れている箇所がわかるような気がした。受付で一通り話してから隣に座った先生に「もう少しだ。がんばろう。」と背中を弱い力で撫でられる。


 半分泣きながらレントゲンを撮って、さっきの席に戻ると、保健室の先生も来ていた。別に反対側に座れば済むのに、僕のために自分の座っていた椅子を空けて、ここに座れと促される。次は麻酔を使ってギプスで固定するらしい。かなり綺麗に折れていたから、手術は必要ないと言われた。それを幸福なことであるように説明され、極めて違和感があった。僕にとっては今から行うことだけで、災難には満足できる。準備に少し時間が掛かると言うので、先生たちに僕は震え上がったような声を出してみた。そうした方が可愛げがある気がしたからだ。静かな待合室に、しばらく沈黙が続く。それは今、誰もおもんぱかる必要はなかったが、内田先生は重苦しく口を開いた。


あきらさんに蹴られたのかい?」


 スクールバッグに並木くんの足跡がくっきり付いていた。階段を落ちてから並木くんの声はちっとも聞かなかったが、内田先生はそれを退けて僕のところまで来たんだろう。そう思うのも真っ当だった。


「僕が先に殴りかかったんです。並木くんはそれを振り払っただけで……。」


 状況を詳述することができない。久しぶりに出した言葉は弱々しかった。痛みのせいだと思うことにした。「天音さんがそんなことをするようには見えないけどな。」と独り言のように言ったのには、聞こえないふりをした。僕は目を合わせなかったけれど、内田先生は僕の方を向いて話している。一つ一つ慎重に言葉を探しているみたいだった。


「悪者になってみるのも必要だよ。天音さんは、お家でも弟さんのことで頑張っているんだろうし、勉強も頑張っている。作文が選ばれたことも聞いたよ。クラスメイトを僕らに悪く言うくらいのことは、しても罰は当たらないんじゃないかな。」


 眼鏡の端の方で内田先生を捉えてみる。悔しいほどに優しい笑顔をしていた。


「もし、本当に君が先に殴ったとしてもね、君だけがこんなに痛い思いをしたんだ。教師には、あいつが一方的に殴って来たんだって言うくらいでもいいんだよ。嘘は自分のために使いなさい。」


 こういうときに教師らしくない発言をするのはイメージに合う。ただ、その声を校舎でない場所で聞くのはミスマッチだった。僕が話すのも例外ではない。学校での自分の塑像の表面が乾き切って、はらりと剥がれ落ちていくような気がした。腕に激しい疼痛とうつうを感じているのに、なぜかそこまで気にならない。蜃気楼しんきろうを見ているみたいだった。


「自分のためです。」


 一言だけ呟くと、看護師さんがやって来た。ギプスが怖いのは本当だったのに、またピントが合わなくなった。僕の心が何を見たいのか理解できない。

 処置室の硬くて狭いベッドに寝かされる。腫れ上がって内出血で変色している自分の腕を見るのは気分が悪かった。肩に刺された麻酔で右腕全体の感覚が消失する。昔に歯医者で打たれたときよりもずっと広く強く効いた。見ていると怖いが、痛みがなくなってむしろ楽になった。さっきまで触るのも痛かったのに、医者は腕を掴んで動かしているみたいだ。骨が動くような感覚だけがあって、自分のものではないみたいだ。他人事の痛みを視野の外側になおざりにした。

 ギプスを付けるのは時間が掛かった。手首から肩付近まで、すべてが硬いギプスに覆われていく。緊張感にも慣れて、ずっと横になっていると眠たくなった。そんな感覚も懐かしい気がした。


 全身の半分くらいが白くなって、肩を落として処置室を出ると、母さんがいた。後ろで髪を一つに結んで、メイクもしていない。血色が悪く実に疲れているように見えた。「ひどい。大丈夫?」と駆け寄る母さんに「来てよかったの?真宙は?」と慌てて訊く。「おばあちゃんに頼めたから、そんなこといいの。」と中腰になって腕を触らないように腰あたりに手を回された。僕をじっと見つめている。母さんも決して背は高くないのに、僕の方が明白に小さい。ボロボロの体が恥ずかしかった。


「本当にごめんね。」


 母さんが無理に笑おうとする表情と裏腹な涙を流していた。


 処方された痛み止めの薬と会計を待つ間に、母さんは先生たちに頭を下げて見送った。僕も真似して会釈をする。内田先生は深く一礼してから、僕に向かって握り拳で「がんばれ」とサインを送った。

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