○第一章

 <置鮎 利紗(おきあゆ りさ)>

 

 緩やかな風が吹いた。

 日に僅かに茜色が混じり、もうすぐ夕暮れと言えるような時間帯に吹くその風は、優しく私の頬を撫でる。

 心地よさを感じさせる風は、涼しさを保健室に運ぶように、カーテンをゆらゆらと揺らしていた。

 私が通う私立古矢井高等学校(ふるやいこうとうがっこう)の校舎はお世辞にも新しいとはいえず、空調も古い。

 それ故冷房は肌寒いか、暖房は蒸し暑くなるか、丁度いい温度の設定が出来なかった。

 元々田舎の学校なので生徒数も多くなく、更に少子化の煽りを受けて、建て替えの予定も延期になったという。

 だから、春と言うには遅すぎて、夏と言うには早すぎる今のこの季節に吹き込む涼し気な風というのは、私にとって非常にありがたい存在だった。

 

 後輩にベッドに押し倒され、馬乗りになられている今は、特に。

 

「やっぱり、素敵です……」

 呟く二年生の汐湯 莉里(しおゆ りり)の体温がダイレクトに腹部に伝わり、熱い。

 同性の私から見ても、莉里は可愛らしい顔立ちをしていた。

 そんな莉里の左右に結った髪が、風に吹かれてサラサラと揺れる。

 リップを先程塗ったであろう艷やかな唇からは、熱っぽい吐息が零れ落ちた。

 私の方に吐き出さされたそれの後を追うように、莉里がこちらの前髪を触る。

 熱に浮かされ、自分の内側から生まれ出る情動に従っているような莉里の表情とは裏腹に、髪に触る彼女の指は震えていた。

 まるで、触れたら割れてしまうとわかっているシャボン玉に触れるように、莉里は細心の注意を払っているみたいだ。

 先程風が撫でた私の頬をなぞるように、彼女は震える指を動かした。

「お姉様。お慕いしております……」

「いや、誰がお姉様か」

 喘ぎながら伸ばされた指を、私は鬱陶しそうに払いのける。

 その瞬間、莉里の可愛らしい顔が、点数の低かった小テストの答案を丸めたように、くしゃくしゃになる。

「あぁ、もうっ、どうしてボクの想いを受け入れてくれないんですか? 利紗先輩っ!」

「放課後に保健室にやって来て早々ベッドに押し倒して来るような奴の想いを、どうして私が受け入れると思えるのよ?」

「え? 一緒のベッドに入ったら、それはもう最後まで致しても構わない、という合意が取れた事になるんじゃないんですか?」

「思考が野蛮人過ぎるでしょ。ほら、早くどきなさい。あんた、体温高くて熱いのよ」

「それなら、ボクの体温以上に熱い時間を過ごしましょうよっ!」

「その両耳は飾りかな?」

「じゃれ合うのは、それぐらいにしてもらえるかしら?」

 聞こえてきた声は、私のものでも、もちろん莉里のものでもない。

 冷たさを伴ったその声色は、保健室にいるもう一人の人物から発せられたものだった。

 私よりも年上のその女性は、卸し立てのように綺麗な白衣を着込んでいる。

 その純白が氷に錯覚する程の凍える美貌を持つ彼女は、人差し指でフルリムフレームのメガネの位置を直す。

「勤務中、しかも私の眼の前で不順同性交遊をされるのは、流石に止めざるを得ないのだけれど」

「梨湖先生っ!」

「きゃっ!」

 莉里を押しのけ、私は古矢井高校の保健師、二之夕 梨湖(にのゆ りこ)先生に向き直る。

 ベッドから降りた時にセーラー服のシワに気づき、慌ててそれを手で伸ばした。

 ……ああ、もう! 先生の前なのに、みっともないっ!

「違うんです、先生! 今のは莉里が勝手にやった事で――」

「ちっ、出やがりましたね」

 自分でも顔が真っ赤になっているとわかる私の声を遮って、莉里が忌々しげに口元を歪める。

「後からやって来て利紗先輩とボクのむつみごとを邪魔しようだなんて、一体どんな権限があってそんな事をするのさっ」

「保健師として通常の用途以外で保健室を使うのを止める権限は持っていますし、そもそも私は貴女がやって来る前から保健室にいましたが?」

 ……あぁ、莉里を注意する梨湖先生も、素敵っ。

 うっとりと先生を見つめる私を見て、莉里は苦虫を噛み潰したように表情を歪める。

「やっぱり、不公平ですよ。ボクはこんなにも利紗先輩の事を想っているのに、二之夕先生は朝から晩まで、ずっと先輩と一緒にいるなんて」

「三年生と二年生で学年が違うので、そもそも置鮎さんと汐湯さんが休憩時間や放課後以外で一緒にいられるわけがないと思うのですが」

「ボク、そういう正論嫌いっ!」

「それに加えて」

 そう言って、梨湖先生は見られたこちらが震える様な瞳をこちらに向ける。

「置鮎さんが保健室登校をしている以上、彼女が登校から下校までの間、保健室にいるのは仕方がない事だと思いますが」

 その言葉を聞き、莉里が鬼の首を取ったかの様に笑う。

「利紗先輩、聞きましたか? わざわざ保健室登校の話をするだなんて、今の発言はどう考えても、先輩をディスって――」

「……そういう目も素敵です、先生」

「ちょっと、先輩! 二之夕先生に対して判定甘すぎませんか? その半分でもいいからボクにも優しくして下さいよっ!」

 莉里が体を揺するが、そう言われても梨湖先生は何も間違った事は言っていない。

 先生が今述べたように、実際私は三年生に進級して少し経った後(・・・・・・)から保健室登校をしている。

 保健室登校というと、非常にネガティブな印象を持つ人もいるだろう。

 ……でも、二年生の終わりから引きこもっていた事を考えると、それでも私にとっては大きな前進なんだけどね。

 引きこもっていた理由は、何か特別なものではなく、この世にありふれているものだ。

 つまりは、イジメだった。

 イジメられた理由も、そんな劇的なものではない。

 昨年の三学期の途中、私は両親の仕事の都合で都心から古矢井高校に転校してきた。

 そして――

「もう放課後だし、そろそろ帰ったらどうかしら?」

 梨湖先生がスマホを取り出しながら、そう呟く。

 ワイヤレスのイヤホンを耳に挿す先生の姿を見て、私も少し焦った。

 ……しまった。もうそんな時間か。

「えぇ、もう少しぐらい良いじゃないんですか」

「駄目よ。養護教諭の九曜(くよう)先生にここの鍵を渡しに行かないといけないんだから」

 莉里にピシャリとそう言って、梨湖先生は足を引きずりながら(・・・・・・・・・)で机に向かう。

 型落ちのノートパソコンを操作して、今日の仕事の締め作業を行おうとしているのだろう。

 今年の一学期が始まるのと時を同じくして古矢井高校に赴任してきた梨湖先生の事を、生徒の中には冷たく、近寄りがたいと言う人もいるらしい。

 確かにキーボードを叩く先生の横顔は、凛々しさを通り越して、触れれば凍えてしまいそうなありもしない冷気を感じてしまう。

 でも、その冷たさそのものが、私にはたまらなく愛おしたかった。

 だって保健室とはいえ、私がまた学校に通えるようになったのは、この人のおかげだから。

「ちょっと、先輩? 利紗せんぱーい?」

 先生を熱っぽく見ていた私の視線を切るように手を振る後輩に、抗議するようにジト目を向ける。

「……何? 莉里、まだいたの?」

「流石に酷すぎませんか? それっ!」

 莉里は不満が収まらないのか、ぷくーっ、と頬を膨らませる。

「もーっ、どうしてボクの方を見てくれないんですか? ボク、お姉様のためなら何だって出来るのにっ」

「だから、誰がお姉様か」

 そう言いながら、私も帰り支度を始める。

 わざわざ先生の机の近くに移動させた机に広げた教科書やノートを鞄にしまいながら、後ろを振り返りもせず口を開いた。

「莉里も、無理して保健室に来る必要ないわよ。私の事は気にせず、あんたは友達と――」

「無理なんてしてません! ボクは先輩に会いたいから来てるんですっ!」

 私の言葉を遮るように、莉里が声を上げる。

 そこに込められた悲痛さを空気に溶かしていくように、その声は保健室に反響した。

 その余韻に浸るでもなく、後輩は更に言葉を重ねる。

「それに、ボクには先輩がいてくれれば十分ですから。いえ、先輩がいてくれる事が、重要で――」

「もう、十分でしょう?」

 作業を終えたのか、梨湖先生がノートパソコンを閉じる。

 スマホを操作しながら、先生が事務的な口調で言葉を紡いだ。

「今日は、用事があってね。定時で帰りたいのよ。まだ保健室に残っていきたいなら、職員室にいる九曜先生と相談して頂戴」

「ちょっと、そんな言い方――」

「あっ、私も用事があるんで、もう帰りますっ」

 筆箱とスマホをしまい込んだ鞄を背負い直す私を見て、渋々といった様子で莉里が口を噤んだ。

 しかし、結局まだ喋りたりなかったのか、こちらに向かって口を開く。

「利紗先輩の用事って、あれですか?」

「そう。転校する前からやってる、趣味みたいなものなのよ」

「……結局何なんですか? その、趣味みたいなもの、って。それって、ボクと一緒にいるより重要な事なんですか?」

「何であんたと一緒にいるのが当たり前みたいになってるのよ」

「当たり前にして下さいよっ」

「無茶苦茶言うわね、本当に。でも、これは私には必要な事なのよ。引きこもってた時にも、それがあったから変にうじうじせずに、こうやって学校に戻ってこれたと思うしね」

 そう言うとうるさかった莉里は、流石に黙る。

 一瞬梨湖先生が私を一瞥したけど、その流し目の冷たさに背筋がゾクゾクして最高だった。

 結局莉里も観念して、私をベッドに押し倒す時に床に放り投げた鞄を肩にかけると、すぐに保健室の出口に向かっていく。

 そのまま帰るのかと思いきや、彼女は扉の前で振り返った。

「見ててくださいね? 明日こそ絶対、ボクがお姉様にとって必要な存在だって認めさせてみせますからっ!」

「だから、誰がお姉、って、もういっちゃった」

「廊下を走るのは感心しませんが、置鮎さんもそろそろ」

「あっ、す、すみませんっ」

 頭を下げて、私はすぐに保健室を出る。

 失礼しました、ともう一度梨湖先生に頭を下げて、下駄箱の方へと向かっていった。

 廊下を歩いていると、部活動に励む生徒達の声が聞こえてくる。

 グラウンドからは野球部やサッカー部の掛け声が、音楽室からは吹奏楽部と合唱部の演奏が、所々ひび割れたコンクリートの校舎に響いていた。

 窓から差し込む日差しは完全に茜色になっており、どういうわけだかこの校舎どころか、世界にいるのは私一人だけなのではないか? と錯覚する。

 夕日に伸ばされた影だけが目について、その中で動く影を生み出しているのが、私だけだからなのかもしれない。

 でもその孤独感が、今は嬉しかった。

 ……他の生徒に、会わなくても済むしね。

 授業後、すぐに保健室を出ていたら、部活に向かう他の生徒と顔を合わせる事になっていただろう。

 逆に時間が遅すぎれば、部活を終えた生徒達の帰宅時間と重なってしまう。

 保健室登校の私が、気兼ねなく帰るのに、今は丁度いい時間帯だった。

 その時間を調節してくれたのは、他でもない梨湖先生だ。

 先生が締め作業をする前に私と莉里を保健室から帰していたら、他の生徒とすれ違う確率も上がっていただろう。

 莉里は、そんな事はない、絶対偶然だ、っと言って聞かないが、私はそうは思わない。

 先生は、私が引きこもりになった理由を知っている。

 だからこの時間帯なら、あいつ(・・・)が部活に行っているから、顔を合わせる心配も――

 

「あっれー? そこにいるのってー、ひょっとしてー、置鮎じゃない?」

 

 その声に、私は自分の心臓が張り裂けたのではないか? と錯覚した。

 声をかけられたのは、下駄箱で上履きを履き替え、駐車場に続く裏門から、丁度出ようとした所だった。

 私の足はその場に遥か昔から根を張っていた幹の様に、ピクリとも動かなくなっている。

 木になったのならそのまま二度と動かなくなってくれればよかったのに、どういうわけだか私の顔は見たくもないその声の主の方へと向けられた。

 そして、私をイジメていた首謀者の名前が、勝手に口からこぼれ落ちる。

「明治 恵(めいじ めぐみ)……」

「なーんだ、やっぱり置鮎じゃんかー」

「どう、して? 部活は?」

「それがさー、今日は急遽顧問が早退して、休みになったんだー」

 他の女子二人と共に壁に寄りかかっていた明治は、人の良さそうな笑顔を浮かべる。

 バスケ部の主将にして生徒会長を務める彼女は、文武両道の権化と言ってもいいだろう。

 教師の覚えがいいだけでなく、生徒達からの人気も高い。

 だから皆、彼女の言う事を信じるし、彼女に嫌われたくなくて、彼女の話を鵜呑みにする。

 まるで明治の言葉が、絶対的に正しいとでも言うかのように。

 しかし、文武両道で誰からの人気があったとしても、それでその人物が善良であるという証明には一切ならないという事を、私は嫌という程理解していた。

 明治は周りを見渡し、教師や大人が辺りにいない事を確認すると、先程とは違う笑みを浮かべる。

 それは夕日が沈んでいく毎に濃さを増していく、闇の様な色合いのものだった。

「ちょーど暇してたし、いい所に来てくれたじゃんかー?」

「っていうか、そいつ誰だっけ? 恵」

「ほら、二年の終わりに転校してきたやつ、いたでしょ?」

「……あー、思い出した。なんかすぐ学校来なくなったやつだよね?」

「そーそー。ちょっとウチらが軽く小突いたら、ヘコんじゃってさー。ホント、根性ないよねー、都会の子って」

 明治が取り巻きの同級生と共に、ゲラゲラと笑う。

「最後にやったのって、何だっけ? 弁当が味気ないからってご飯にチョークの粉のフリカケかけてあげたやつだっけ?」

「違うっしょ。トイレに入ってた時、どうせ手を洗うんだったら、ってバケツで全身水洗いしてあげたやつ」

「そーそー。あれ、まだ二月だったし、寒そーだったよねー。見てるウチらの方が寒かったもん」

 そうだ。

 コイツらにやられたイジメは、それが最後だった。

 何故ならそれ以降、私は引きこもりになったのだから。

 その時の事を思い出し、冬でもないのに体が震えてくる。

 そんな私をよそに、明治の取り巻きが首を傾げた。

「でも、一回不登校になったのに、何でこいつここにいんの?」

「確か最近、保健室登校するようになったんだよね? 恵」

「そーそー。新しく赴任してきた保健師かなんかが、余計な事したんだよねー」

 梨湖先生の話になり、私は僅かに顔を上げた。

 それに気付いた様子もなく、明治達の会話は続いていく。

「何それ? うっざ」

「っていうか、登校してるのわかってんなら、保健室まで乗り込んで、またこいつやっちゃえばいいのに」

「そうだよね。皆で口裏あわせれば、先生も恵の話信じるし。らしくないじゃん?」

「いやー、流石に保健室はマズいでしょー。トイレと違って利用者少ないし、見られたらウチら一発でアウトだよー」

「なるほど! 流石恵、賢いね」

「って、おい、何勝手に行こうとしてんだよ!」

 その場から無言で立ち去ろうとしている私を追って、明治の取り巻きが回り込んでくる。

 さっきまでは身が竦んでいたのだけれど、今は相手の目を見て話せるぐらいの余裕が持てていた。

「……別に。私抜きで楽しそうに話してたから、もう行ってもいいのかな? って」

「はぁ? そんなわけねぇだろ!」

「舐めてんのか? てめぇ!」

「まぁーまぁー、和泉(いずみ)ちゃんもはじめちゃんも、それぐらいにしてあげなよー」

「でも、恵!」

「置鮎はさー、きっと春休みの間に、忘れちゃったんだってー。どっちが上で、どっちが下なのかを、さぁ」

 そう言って明治が、こちらを睥睨する様に私の眼の前に立つ。

「忘れてるなら、思い出さてあげよーよ。自分が、下なんだ、ってゆー事を、さぁ」

 その言葉を聞いて、取り巻き二人が下卑た笑いを浮かべる。

 でも、笑みを浮かべたのは私も同じだった。

 ……不思議だ。先生の事を思い浮かべると、勇気が湧いてくる。

 そんな私を取り巻き達は怪訝そうな表情を浮かべるが、明治だけは煩わし気に口元を歪める。

「なーに? それ? わかってんの? この状況。それとも、怖すぎて頭おかしくなっちゃったー?」

「いいえ、私も思い出しただけよ。あんたが、大した事ない奴だて、っ」

 明治に胸ぐらを捕まれ、一瞬息が詰まる。

 怒りを両目に宿した相手の顔が、私の瞳いっぱいに広がった。

「あんた、殺すわよ?」

「梨湖先生にビビってるあんたに、そんな事出来る度胸ないでしょ」

 図星だったのか、胸元を握る手の力が弱まる。

 その隙を逃さず、私は明治の手を払い除けた。

「先生、確かに見た目怖いものね。私がいるってわかってるのに保健室に来ないのは、それが本当の理由でしょ?」

「はぁ? 先生に守ってもらわないと学校に来れないよーなやつが、何イキがってんのー?」

「でも、事実でしょ?」

「……本当に、もう一回自分の立場をわからせないと、駄目みたいねー」

 明治の言葉に、逃げられないよう取り巻き達が私を囲む。

 それを確認しながら、私の視界は緊張でチカチカしていた。

 正直、怖くて仕方がない。

 一人だったら、絶対に明治達に歯向かおうとは思わなかったはずだ。

 イジメられていた二年の三学期だったら、絶対にこんな行動をしたりしない。

 ……でも今は、梨湖先生がいるから。

『今まで、よく頑張りましたね』

 私の前に現れた梨湖先生の第一声が、それだった。

 そしてそれから先生は何度も家に訪れて、その度に色んな話をした。

『置鮎さんは、今まで頑張って走り過ぎてしまったのでしょう』

『疲れて足が動かなくなってしまったのなら、無理に動かす必要はありません。ゆっくり休むのも、貴女にとっては大切な一歩につながるんです』

『一歩を踏み出したいと思ったのなら、いつでも言ってください。私の足はこんな感じですので置鮎さんの体を支えれませんが、置鮎さんが前に進むための応援は出来ます』

『置鮎さんが一度歩き出せば、私なんてあっという間に置いていってしまうでしょう。ですが優しい貴女は、歩みの遅い私を気にかけてくれるかもしれませんね。でも気にせず、貴女は貴女のペースで歩いてっください』

『優しい貴女に、私は約束します。貴女が自分の意志で前に進もうとするのなら、応援し続けると』

『私は、貴女の味方ですよ。置鮎さん』

 あの人がくれた言葉があるから、私はまた学校に戻ってこれたし。

 今こうして、明治に向き合うことが出来る。

 多勢に無勢いで、喧嘩になったら勝てるわけない相手を前に、私は自分の震えを押し殺すように、胸を張る。

「そんなに凄んだって、無駄よ。言ったでしょ? あんたなんて、大した事ない、って。大体、自分の惚れた相手が他の女子に告白した腹いせで――」

「和泉(・・)、はじめ(・・・)。そいつ、押さえといて」

 身動きが取れないように、両脇に腕を入れられる。

 必死に抵抗するが、取り巻き二人の拘束を抜け出すことは敵わない。

 帰宅せず、明治と裏門近くで話して時間を潰していた事から、この二人もバスケ部なんだという事に、遅まきながら気がついた。

 引きこもりを脱却したばかりの私が、女子とはいえ運動部の二人を振り払う腕力を、持ち合わせているわけがなかったのだ。

「おい、動くなって!」

「調子に乗ってるお前が悪いんだぞ!」

 取り巻き相手に無駄な抵抗を続けるこちらに、明治が握りしめた拳をこれみよがしに掲げて見せる。

 それを見て、取り巻き達が笑った。

「いいぞ、恵。一発やっちまえ!」

「服の上からなら、傷も見え辛いって」

「ウチが、何の腹いせをしたってー? それに、保健師にウチがビビってる? そんなわけないでしょーが。あんな障害者相手に、どーしてウチが――」

 

「私が、どうかしましたか?」

 

 その言葉にギョッとして、明治達が振り返った。

 逆に私は、安堵の溜息を吐く。

 私達の視線の先には、先程顔を上げた時に視界に入った(・・・・・・・・・・・・・・・)、梨湖先生の姿があった。

 ……よ、よかったぁ。間に合ってくれて。

 梨湖先生がこちらに向かっているのがわかっていても、足の悪い先生が間に合うかは微妙だった。

 なんとか明治を挑発して時間を稼いだのだけれど、本当に間に合ってくれてよかった。

 安堵で腰を抜かしそうになっっている私とは対象的に、明治の取り巻き達は慌てたように私の脇から腕を抜く。

 しかし、彼女達に指示を出していた主犯はすぐによそ行きの笑顔を浮かべて、先生の方へ振り向いている。

「あー、二之夕先生ー。今お帰りですかー?」

「ええ。そう思っていたのですが、皆さんはどうしてここに?」

「それはー、これから置鮎さんの歓迎会を開こうと思っていてー」

「……歓迎会、ですか?」

「そーなんですよー。だって、せっかくこうして登校出来るようになったわけじゃないですかー。だから、お祝いしよーと思って。ねー? 和泉ちゃん、はじめちゃん?」

 そこだけ聞けば、不登校だった生徒を、無事学校に復帰できるよう配慮する優等生の発言にしか聞こえないだろう。

 教師達はもちろん、明治の外面しか知らない生徒達も、それを疑うものはいない。

 だから、彼女が誰かをイジメているだなんて、気付きもしないのだ。

 文武両道という明治のイメージが、事実を歪めてそれを隠してしまう。

 そして狡猾な明治がイジメの証拠を残さない事も、それに拍車をかけている。

 違和感があったとしても、あえてそれを見ようとしないのだ。

 それが、奴の取り巻き達もわかっているのだろう。

 明治の言葉に同調すれば、周りが勝手に良く見てもらえるとわかっているのだ。

 だから、その様な言葉を口にする。

「そうなんですよ、先生!」

「不登校の生徒の復帰を祝ってあげるなんて、私達、めちゃくちゃ優しくないですか?」

「いいえ、全くそう思いません」

 間髪入れずにそう言った梨湖先生の言葉に、明治達の表情が凍りつく。

 しかし、凍りついた彼女達よりも冷たい先生の極寒の眼差しが、私の心を貫いた。

「置鮎さんは、本日用事があると言って保健室を後にしました。それなのに無理に予定をねじ込むのは、果たして優しさと言えるのでしょうか?」

「だ、だからその用事が私達の歓迎会なんだって!」

「そうそう! それとも先生は、私達の言ってる事が嘘だっていうの?」

「はい、そうです」

 バッサリとそう切り捨てて、なおも先生は口を開く。

「置鮎さんの用事とは、転校前から実施しているものだと、そう言っていました。それならば、やはり用事が歓迎会というのはおかしい。文脈(・・)に合いません」

 これだ、と私は思った。

 これがあるから、私は梨湖先生に憧れているのだ。

 引きこもりになる前、私は自分がイジメられている事を、学校の先生に相談していた。

 それは、ある意味当たり前とも言える行動だろう。

 だって私は引っ越してきたばかりで、頼れる友達なんてこの学校にはいなかったのだから。

 でも、先生達は、全員明治の味方だった。

 認知が歪んでいる相手にどれだけ訴えても、事実は常に捻じ曲げられ、相手が信じたい真実に書き換えられてしまう。

 だから私は、引きこもる事でしか、自分の身を守れないと思ったのだ。

 敵の敵は味方に成り得るかもしれないけれど、敵の味方は全員敵だ。

 でも、梨湖先生だけは、別だった。

 赴任してきたばかりだという事もあるのだけれど、先生だけは何の偏見もなく、真っ直ぐに私の身に起きた出来事を受け入れてくれた。

 取り巻き達は、困ったように明治の顔色を伺っている。

 だが当の本人も、ヘビを前にしたカエルの様に、やり辛い相手を前にどう話をすればいいのか、わからないようだった。

 さっき、明治が梨湖先生にビビっていると言ったのだけれど、あれば別に誇張でも強がりでもなんでもない。

 学校で唯一偏見なく、ただ事実だけを積み重ねる先生は、ある意味明治の天敵だった。

 だから私は梨湖先生を信じて、先生だけを信じて、保健室登校をするようになったのだ。

 ……後は、イジメの明確な証拠があれば、明治を黙らせられるんだけれど。

「もー、二之夕先生ったらー。えこひいきしないでくださいよー。いくら保健室登校してるからって、置鮎さんの言い分だけ信じるなんてー」

「信じるのではなく、聞いた文脈から導いた事実だけで話しているつもりですが? それとも、私の認識に何か誤っている所がありますか? あるのであれば、客観的な事実を元に指摘してもらいたいのですが」

「……ったく、これだから話の通じないヨソモンは嫌いなんだっつーの」

 苦し紛れの言葉もあっさりと撃ち返され、明治が出来たのは憎々しげに呟くことぐらいだった。

 これ以上問答を続けても分が悪いと察したのか、彼女は取り巻き達を一瞥する。

「なるほどー。どーやら置鮎さんは、ウチらに気を使って別の用事があるって言い出し辛かったみたいですねー」

「いえ、私が見た所、置鮎さんは――」

「それじゃーこれ以上引き止めるのも悪いんで、ウチらはこの辺りで帰りますねー」

「ちょ、恵」

「いいの?」

「いーから、いくよー。和泉、はじめ」

 去り際、射殺さんばかりに私を睨んでから、明治は背を向けて歩き出す。

 それを見て、取り巻き二人も慌てて立ち去っていった。

「置鮎さん」

「は、はいっ」

 梨湖先生に名前を呼ばれ、思わず飛び上がってしまいそうになる。

 明治達の姿が見えなくなるまで視線を送っていたので、ここでようやく私は一息つくことが出来た。

「な、なんでしょうか? 先生」

「一人で帰れますか?」

「は、はい。だ、大丈夫です」

「……そうですか。では、お気をつけて」

 そう言った後、先生は私に背を向けて、何事もなかったかのようにゆっくりとこの場から立ち去っていく。

 それを見送っている途中、遅まきながらある事に気がついた。

 ……ひょ、ひょっとして、今送って欲しいって言ったら、梨湖先生に家まで送ってもらえたんじゃ?

 自分の失態に、私はその場に崩れ落ちそうになる程後悔をする。

 だって、憧れの人の運転で、ひょっとしたら助手席に座れるかもしれない機会なんて早々ない。

 それを今、私は自分の手でみすみす捨てしまったのだ。

 ……わ、私は今、なんて勿体ないことをっ。

 頭を抱えるが、それで時間が巻き戻ってくれる様な事はない。

 こんな時、莉里であれば後先考えずに『今のやっぱりなしで!』と叫べるんだろうけれど、私にはそれは出来なかった。

 梨湖先生のあの眼差しを向けられると、浅ましい自分の心の底を、詳らかにされてしまいそうだったから。

 真正面から事実を見つめる先生に、自分の心の中のドロっとした醜い欲望を見られたくない。

 今更、という言葉が脳裏に浮かぶが、駄目なものは駄目だった。

 ……それに、流石にもう帰らないと。

 後ろ髪引かれる思いは確かにあるけれど、用事があるというのも嘘ではない。

 私は女々しくも二回も校舎を振り向いた後、自分の家に向かうのだった。

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

「ただいまー」

「おかえりなさい」

 玄関に入ると、すぐにお母さんの声が聞こえてくる。

 引きこもりから脱したとはいえ、まだ心配なのだろう。

 自分達の都合で越してきてから引きこもりになったので、両親は責任を感じているようでもあった。

 ……本当に、全く二人のせいじゃないから、気にしなくてもいいのに。

 だからなるべく、親には心配をかけたくない。

 今日はたまたま明治達に声をかけられたけど、梨湖先生がいるから大丈夫だ。

 ……それに私には、まだこれがあるし。

「それじゃあ、準備ができたら始まるから、お母さんは――」

「はいはい、部屋に入らないようにするから、頑張ってね」

「ありがとう」

 そう言って自分の部屋に入り、手早くセーラー服を脱ぎ、ハンガーにかけてから部屋着に着替える。

 そして、デスクトップPCのボタンを押した。

 タワー型の筐体から、ファンの唸り声が聞こえてくる。

 ディスプレイにOSのログが浮かんでくる間に、私はカメラとマイクの位置を微調整した。

 必要なアプリをいくつか立ち上げ、顔を左右に向けてみる。

 ……うん、アバターは、ちゃんと連動してくれてるね。

 あーあーあー、と声を出すと、ヘッドホンから自分の声が聞こえてきた。

 マイクも、ちゃんと音を拾ってくれているようだ。

 準備が整ったのを確認し、よしっ、と呟いていから、私は配信(・・)を開始する。

 自分のスマホで配信が行えている事を確認すると、大きく頷いてから口を開いた。

「どもども。いつもの冴えない皆様の毎日に、ちょっとしたおっ、という驚きをお届けするVtuber、御雪(おゆき)サリアです。配信遅れちゃってごめんなさい。皆さんお待たせしちゃいましたよね?」

 そう言うと、早速コメントが流れてくる。

『全然大丈夫』

『お疲れー』

『事故ってないかって心配してた』

「ごめんなさい。でも私はこの通り、ピンピンしてますよ」

 予告していた時間より二十分以上遅れてしまったけれど、コメント欄がそこまで荒れていない事に、ひとまず私は胸を撫で下ろす。

 保健室で言っていた私の用事とは、Vtuberの御雪サリアとしての配信だった。

 中学生の時から動画配信に興味を持ち、高校に進学してから親に頼み込んで初めて、気づけばもう三年も活動している。

 と、言っても、チャンネルの登録者数はようやく三千人に行ったぐらいで、どこかの事務所からスカウトが来るわけでもなく、転校する前からズルズルと続けている趣味みたいなものだった。

 ……でも、Vtuberを続けてたから、引きこもっている間もなんとかなったんだよね。

 不登校になってからというもの、時間を持て余した私の動画配信は、自然と数を増やしていた。

 引きこもる前後の配信は、正直やるのも億劫で、暗い配信も多かった。

 イジメに負けた、学校から逃げ出したという劣等感で、自分が全くの無価値な存在だと思ってしまっていたのだ。

 そんな自分のやる事なんて、何の価値もない。

 それこそ、自分が消えたって世の中には何の影響も与えないのだ。

 だから消えてしまおうかと、夜な夜な何度も考えた。

 ……でもその度に、何度も皆に元気づけられたんだよね。

『待ってたよー』

『サリアの配信楽しみにしてた!』

『配信リアタイで参加できるの嬉しい!』

 送られてくるコメントに、心が温かくなる。

 自分の承認欲求を満たしているだけだ、と言われれば、その通りだ。

 でも、絶望のどん底にいた自分にとって、誰かに認めてもらえる事が、待ち望んでいる人がいる事が、どれだけ心の支えになったのかわからない。

 だからもう駄目だと思いながらも、後一日配信を続けよう、もう一日配信を続けようと、Vtuberとしての活動を続けてきたのだ。

 そしてそれを続けていたおかげで、梨湖先生が家に訪ねて来た時に、すんなりと話す事が出来たのだ。

 リスナーの皆の言葉がなければ、今の私は存在していなかっただろう。

 ……もちろん、リスナーの皆にも支えられたけど、一番支えてくれたのは、歌(・)だよね。

 そう思いながら、私は配信を続けていく。

「それじゃあ、予定していた通り、今日はゲーム配信を始めるよ。今日やるのはサバイバルホラーゲームの――」

 そこまで言って、私の目はとあるコメントに引き寄せられる。

 その内容は、私には到底無視できないものだった。

「嘘っ! 百合(ゆり)しおりさん、新しい曲アップしたの!」

『出た、サリアのゲーム配信やるやる詐欺w』

『サリア、しおり推してるからなぁ』

「いや、推すでしょ! 神曲ばっかりじゃん! ちょっと待って! 聞きに行くからっ!」

『マジで配信放り出すのワロタ』

『リスナーに届ける驚きが、おっ、どころじゃないのよ、毎回』

 色々コメントが流れていくが、今はそれどころではない。

 確かに梨湖先生のおかげで保健室登校まで出来るようになったし、それが出来たのはVtuberを続けてきたおかげだ。

 そして絶望し、引きこもり、最低のドン底にいる中で、それでもVtuberを続けようと思えたのは――

 ……歌い手の百合しおりさんの、おかげだよねぇ。

 昨年から活動を始めた彼女のチャンネル登録者数は、先日一万五千人を突破した。

 大台突破のお祝いを当たり前にするためにしおりさんの動画には先日コメントしにいったばかりなのだけれど、新曲がアップされたというのであれば百万回再生しなければならない。

 動画サイトに配信されるしおりさんの曲は、凝ったムービーは付いておらず、一枚絵に歌詞が描かれたシンプルなもの。

 ……でも、これがいいのよ。これでいいのよ。

 しおりさんの澄んだ声には、ゴテゴテとした装飾品は必要ない。

 彼女の瑞々しい歌詞には、このシンプルさこそが似合っている。

 そう、歌詞だ。

 私がこれだけしおりさんにドハマリしている理由は、彼女の歌声も素晴らしいけれども、何より歌詞が胸に刺さる。

 たとえばある歌には、こんなフレーズがある。

 

 見ていることしか、出来なかった私

 その間に優しいあなたは、一人になることを選んだね

 でも、逃げ出したっていいんだよ

 逃げる一歩も、進んだことには違いない

 前を向いている方が、『前』なんだよ

 大丈夫

 あなたはちゃんと『前』に進めているから

 だから、大丈夫

 本当に進みたい道が見つかれば

 あなたはいつだって、『前』に進めるから

 

 ……完全に自意識過剰なんだけど、どの曲を聞いても、自分のために歌ってもらっている曲にしか聞こえないんだよねぇ。

 自分の弱さを綴ったものや、逃げ出してしまった後悔を綴ったものもある。

 何も出来ない無力感や、どうする事も出来ないもどかしさに、全てが無意味に見える絶望を綴った歌詞もあった。

 でも彼女の歌詞は、絶望では終わらないのだ。

 いや、そこに来て、しおりさんの歌声がようやく映えて来ると行ってもいいだろう。

 辛く、苦しい想いを歌っているはずなのに、どこか希望を感じる様な余韻を感じさせるのだ。

 誤解を恐れずに言えば。

 どんな時にでも生きていいのだと、傍に寄り添ってくれるような、そんな声だった。

「いやぁ、今回の曲も神曲でした」

 思わず呟いたセリフを、そのまま動画サイトのコメント欄へ即時に書き込む。

 本当に、どうすれば毎回こんな神曲を生み出せるというのだろう?

 百合しおりさんは顔出しをしていないので詳細はわからないのだけれど、噂の中には私の一個下という眉唾なものもあった。

 私の一個下といえば、あの後輩の事が思い浮かぶのだけれど――

 ……莉里としおりさんじゃ、どう考えても同い年だとは思えないわね。

 顔を見る度にまとわりついてくる、あの願望が理性というフィルターを通さずに即時行動につながる後輩は、ぜひともしおりさんの爪の垢を煎じて飲んでもらいたいと思う。

「さて、もう一度しおりさんの新曲を聞こうかな?」

 そう呟いた瞬間、コメント欄に長文が投下された。

『サリアたん。拙者、サリアたんが楽しまれているのは非常に喜ばしい事だと安心するのでありますが、そもそもこの配信枠はゲーム配信様に設けているものかと存じます。拙者、愚考致しますに、ここに集まったリスナーの御仁達はサリアたんのゲームを堪能するために集まったものかと。故に他の歌い手の話はこれぐらいにしておいて、本筋に戻っていただくのが吉かと存じます』

『出たよ、《こりのゆに》の投げ銭長文』

『もはやサリアの配信では名物になってるよな、《こりのゆに》』

 そのコメントに、私は思わず苦笑いを浮かべる。

《こりのゆに》。

 私が引きこもった後からコメントを書き込んでくれている、ウザさ的な意味で有名なるリスナーだ。

 ……引きこもった時も積極的にコメントしてくれて、盛り上げようとしてくれていたから、すっごい助かったのは事実、なんだけど。

「流石に長文でコメント欄を埋められると、他のリスナーさんのコメントが拾えなくてウザいわね」

『おお、サリアたんにコメントを読んで頂けるとは、これ以上喜ばしい事はこの世にはありませんな! うひょひょひょひょっ!』

「いや、そのコメントは流石に気持ち悪いよ……」

 そう言うが、《こりのゆに》は私に貶されて、心の底から喜んでいる様なコメントを連投していた。

 流石にコメント欄が汚れすぎて、ウザったい。

 かといって、辛かった時に支えてくれた恩があるので、本気で突き放し辛い。

 ……全く。変にべったりせず、付かず離れず見守ってくれる梨湖先生のせめて百分の一見習ってくれたら良いんだけど。

 そう思うが、確かにゲーム配信と予告しているのにゲームをしないのはおかしいのも事実だった。

「それじゃあ、そろそろゲームを始めましょうか」

《こりのゆに》がまた過剰に反応するが、塩対応をしながら配信を続けていく。

 ゲームをし始める頃には、不思議ともう明治達とあった事は、頭の中から綺麗さっぱり消え去っていた。

 

 <二之夕 梨湖>

 

「それでは、保健室の戸締まりをした後、鍵を持ってきますので」

 そう言った私は、おっとりとシワだらけの顔で頷く九曜先生に見送られて職員室を後にする。

 教室を出た後、足を引きずって廊下を歩き出した。

 放課後を告げるチャイムの音を聞きながら、私は窓際を沿うようにして保健室に向かっていく。

 春と夏の間の様な季節の廊下は、ホームルームのために生徒の行き来がなかったからか、心なしかひんやりしていた。

 しかし、それが終わって生徒達が教室から飛び出てきた瞬間、一気にその冷気が霧散していく。

 部活に向かおうと、生徒達が廊下を足早に駆けていく。

 予め窓際に寄っていた私の脇を通り抜ける彼らを見て、私は内心嘆息していた。

 ……良いですね。自由に走り回れるって。

 こんな風にしか歩けない自分の足に視線を落とし、私は四月からこの私立古矢井高等学校に保健師として赴任する事になった理由を思い出す。

 といっても、そこまで複雑な事情ではない。

 簡単に言えば、事故にあったのだ。

 そこそこ酷い交通事故で、私は怪我を負った。

 元々看護師として働いていたのだけれど、怪我の後遺症でそのまま病院で勤務するのを悩むこととなったのだ。

 後遺症が残った場所は、足。

 そして、耳だ。

 急いで移動できないので、急患に対応するのは難しい。

 耳は、言葉を聞き取る分には問題ない。

 しかし、別の部分で致命的な欠陥を抱える事になった。

 

 先生、さようなら。

 

 生徒の一人が、そんな言葉(・・)を口にした。

 最初それが自分に向けられていると気づかず、その言葉の意味(先生が誰を指しているのか)を頭の中で改めて咀嚼してから、生徒の方へ振り向く。

 だが反応が遅れたため、その女子生徒は怯えたような表情でこちらを見ていた。

 

 挨拶したのに、無視されちゃった。

 保健師の先生でしょ? 凄い冷たいっていう噂だし、関わるの辞めなよ。

 

 友達とそう話す二人の生徒の言葉を聞きながら、私は内心首を傾げる。

 ……今の発言は、どちらがどちら(・・・・・・・)のものなのでしょう?

 怪我の影響で私の耳は、何を言っているのかわかるのに、それ以外の情報(・・・・・・・)が聞こえない状態となっていた。

 聴覚情報処理障害の逆の様な状態だと、そう診断を受けている。

 聴覚情報処理障害は、音は聞こえるのに、何を言っているのかわからない疾患だ。

 私は、その逆。

 言っている意味は、理解できる。

 でもその音が、声色が、怒っているものなのか、喜んでいるものなのかが、わからない。

 文字が、直接頭の中に聞こえてくるようなイメージだ。

 その声が、自分に向けられるものだけであれば、そこまで大きな弊害はない。

 ……でも、日常には、無数に言葉が溢れているから。

 例えば、テレビから流れてくる声や、電話で話している人の声。

 学校であれば、クラスで少人数で集まるグループの単位で、会話が存在している。

 普通であれば、その声が自分に必要なものだけ取捨選択され、耳に聞こえてくるもの、なのだけれど――

 ……私の場合は、耳が拾ってしまう音が、全部等しく平等に音として認識してしまいますから。

 一秒毎に、小説のページを十ページ同時に読んでいる様な、そんな聞こえ方になるイメージだ。

 事故を経てから私の日常は、毎秒それだけの情報量との戦いとなっていた。

 そんな状態で、病院務めが出来るわけがない。

 保健所や保険センターで働くのも、同じ様に難しい。

 何故なら現在の医療は、その殆どがチームプレーで、そして取捨選択の連続だ。

 効率的に作業を割り振り、患者が罹っている病で確率が高いものを見つけ出し、それに効果的な治療を行っていく。

 そんな中、自分に割り振られた作業がすぐに分からないのに、看護師が続けられるわけがない。

 日常生活だって、先程の学生の挨拶を無視してしまった様に、すぐに反応する事が難しくなってしまった。

 ……明示的に自分に向けられた言葉だとわかっているものなら、違うんですけどね。

 例えば自分の目を見て話してくれるとか、そういう状況であれば、自分に話しかけられていると理解できる。

 でもそうでないのなら、反応がどうしても遅れてしまうのだ。

 だから、事故にあう前の自分を知っている知り合い達の多くは、私から離れていってしまった。

 ……事故のせいで性格が変わった、か。

 確かに、知り合いから見たら、事故をきっかけに私の性格が変わったように思うだろう。

 昔はもっと明るかったのにと言われれば、その通りだと言わざるを得ない。

 でも、その変わってしまった原因は、私の聞こえる世界(・・・・・・)が変わってしまったからだ。

 こんなにも世界が情報で溢れているなんて知らなかったし、こんなにも人の声色が聞こえないだけで世界が灰色になってしまうだなんて、知らなかった。

 聞こえる声が文字の様に感じるので、余程話し方に特徴がある人しか、私は聞いただけでは相手を認識する事が出来なくなっている。

 それでも、周りに人が大勢いる場所では、聞こえてくる文字が多すぎて、誰が何を言っているのか理解できなかった。

 ……だから私には、これが必要不可欠なんですね。

 スマホを取り出し、画面を操作する。

 スマホで録音した音声がAIの機能で文字起こしがなされ、理解できる内容になっていた。

 この録音機能のいい所は、機械の性能で音声を拾う範囲が限定される事だ。

 自分の耳は聞こえすぎてしまう世界でも、スマホを通せば余計な範囲にフィルターをかけることが出来る。

 だからこそ、学校の保健師の仕事を紹介してもらえたのは、非常にありがたかった。

 病院や保健所程患者数は多くないし、そもそも専任の養護教諭が、九曜先生がいる。

 学校として設置義務があるのは養護教諭だけなので、本来であれば保健師の設置は必要ない。

 それでも私が古矢井高校に雇われたのは、少子高齢化が理由だった。

 ……九曜先生は、だいぶお年ですから。

 怪我の影響で冷たく感じられる私とは違い、優しいおばあちゃんといった雰囲気の九曜先生は生徒からの人気も高い。

 だがおばあちゃんという表現からわかる通り、もう定年間近、どころか、延長して働いてもらっている状態だった。

 本来であれば学校側は、新しい養護教諭を雇いたい。

 でも、この古矢井高校は田舎だ。

 新しい先生は都会で仕事を探して、中々地方には勤務に来てくれない。

 九曜先生もお年なので、そう長い間保健室に詰めるのも難しい。

 そこで学校側は苦肉の策として、九曜先生のサポート役を、つまり保健師を雇う事にしたのだ。

 交通事故にあい、治療に当たってくれた病院の先生が古矢井高校とつながりがあったという縁もあり、今私はここにいる。

 ……まぁ、サポート役と言っても、実質的に保健室での業務を行っているのは、私というわけですが。

 養護教諭と保健師では必要な資格が違うのだけれど、看護師と保健師の資格がある私なら治療を行うのは何ら問題はない。

 この耳が原因で私の対応が難しい場合、最悪の場合九曜先生の力を借りる事もあるだろうが、保健室という閉じられた空間であれば、私の耳も拾う音を制限出来る。

 そこにスマホで録音した内容の文字起こしを使えば、仕事に全く支障はなかった。

 田舎という事で生徒数もそこまで多くないのも、個人的には嬉しい。

 その分お給与は多くは望めないし、田舎という事で不便な事も多々ある。

 でも、ここでの生活も、そう捨てたものではなかった。

 何より――

 ……私には、生きがいがありますから。

 そんな事を考えている間に、保健室が見えてきた。

 足が悪いので、歩いている最中に色んなことを考える癖が付いてしまっている。

 今保健室には不登校から、頑張って保健室登校をしてくれている生徒がいた。

 ……変なコミュニケーションをして、不安がらせないように気をつけないと。

 扉をノックしてから、私は保健室の中に入る。

 

 あっ、梨湖先生、おかえりなさい。

 

「はい。ただいま戻りました」

 表情を見るに、置鮎さんは私を待ち望んでいたかの様な表情を浮かべている。

 でも声色がわからない以上、彼女が演技をしている可能性もゼロではない。

 だが、置鮎さんがそんな演技をする理由も思い浮かばなかった。

 ……それと同様に、ただの学校の保健師を彼女が待ち望んでいる理由にも、思い当たらないのですが。

 ともかく、平常心で接するべきだと思い、私は扉を閉める。

 すると耳に入る声がぐっと減って、人心地ついた気持ちになった。

 緩やかな風が吹いて、心地よさを感じる。

 こんな風を浴びながらする散歩は、とても気持ちいいだろう。

 ……でも人が出歩いている時間帯は、私には辛いわね。

 特に今いる場所が学校であれば、特にそうだ。

 では私以外の人には適しているのかと言えば、そういうわけでもない。

 ……置鮎さんも、もう少し時間が経ってから帰った方がいいでしょうし。

 スマホで時間を見るまでもなく、まだ窓の外から部活の掛け声が聞こえてこない。

 彼女が保健室に登校出来るようになるまでの事情を鑑みるに、無理に早く家に帰す必要もなさそうだ。

 そう思っていると――

 

 お姉様っ!

 

 保健室の扉が開いた音がして、気付いた時には置鮎さんがツインテールの少女、汐湯さんにベッドに押し倒されていた。

 馬乗りになる彼女達を横目に、私は汐湯さんが開けた扉を再び閉める。

 二人のやり取りを文字として見ながら、私は嘆息した。

 ……本当に汐湯さんは、よくめげずに毎日来れますね。

 いや、毎日どころではない。

 朝、休憩時間中、お昼休憩に放課後。

 時間が少しでもできれば、迷わず彼女は置鮎さんに会いに行く。

 保健室を管理している身として、そして保健室登校をする様になった置鮎さんの状態を考えると、あまり一方通行の様な今の関係を継続させるのは、推奨し辛い。

 ……でも、彼女(・・)の身に起こった事を考えると、無理に禁止するのも良いわけではありませんから。

 何事も程々に、という単語が頭の中に浮かぶが、皆が皆腹八分目ですませれるのなら、生活習慣病がこれ程流行ってはいないだろう。

 そう思っていると、運動部の掛け声と思われる文字を私の耳が拾った。

 ……部活も始まったみたいだし、そろそろ頃合いかしら。

「じゃれ合うのは、それぐらいにしてもらえるかしら?」

 そう言うと、露骨に不満そうな表情で、汐湯さんがこちらに振り返る。

 彼女ぐらい言葉にも表情にも裏表なく私に接してくれればわかりやすいのに、と思うものの、ここまで大っぴらに置鮎さんへの好意を行為として出されると、注意せざるを得なかった。

 下手をすると、共依存になるかもしれない。

「勤務中、しかも私の眼の前で不順同性交遊をされるのは、流石に止めざるを得ないのだけれど」

 そう言うと、置鮎さんが慌てて立ち上がり、汐湯さんは私の方を睨んでくる。

 

 後からやって来て利紗先輩とボクのむつみごとを邪魔しようだなんて、一体どんな権限があってそんな事をするのさっ。

 

「保健師として通常の用途以外で保健室を使うのを止める権限は持っていますし、そもそも私は貴女がやって来る前から保健室にいましたが?」

 その後私は、置鮎さんと汐湯さんの会話を軽くいなしていく。

 彼女達との会話は眼の前で行われるし、やり取りも置鮎さんが保健室登校をし始めてから平日はほぼ同じ様なやり取りが続いているので、私には聞きやすい。

 悪意であれ好意であれ、事故の影響がある私にとって、この子達の会話は好ましいものだった。

 ……そんな事私が思っているなんて、この子達は考えもしないのでしょうけれど。

「もう放課後だし、そろそろ帰ったらどうかしら?」

 ワイヤレスイヤホンを耳に挿して、スマホを操作する。

 九曜先生との会話は、既に文字起こしで読んでいるけれど、話の文脈として私が誤って受け取っている部分がないか、改めて確認したかったのだ。

 汐湯さんが、いつもの通りまだ残りたいと駄々をこねる。

 先程述べた通り、彼女達との会話は好ましいものなので、多少なら融通してもいい。

 しかし――

「駄目よ。養護教諭の九曜先生にここの鍵を渡しに行かないといけないんだから」

 録音した音声を再生しながら、私は足を引きずって机に向かっていく。

 残念ながら、今日は私には用事がある。

 もちろん仕事は、きっちりこなす。

 とはいえ、その用事は私の生きがいに関係していた。

 出来うることなら、残業なんてせずに、すぐに家に帰ってしまいたい。

 そう思いながら、私は立ち上げたノートパソコンのキーを叩いていく。

 その間に、置鮎さんと汐湯さんの会話が続けられていくが――

「もう、十分でしょう?」

 作業が終わり、スマホで時計を確認する。

 ……もうそろそろ、いい時間ね。

 更にスマホを操作して、文字起こしした内容を読んだ。

 彼女達の話している内容と文脈がズレないよう気をつけながら、私は口を開く。

「今日は、用事があってね。定時で帰りたいのよ。まだ保健室に残っていきたいなら、職員室にいる九曜先生と相談して頂戴」

 

 ちょっと、そんな言い方――

 あっ、私も用事があるんで、もう帰りますっ。

 

 ……少し、言い方が冷たかったかしら?

 汐湯さんの反応を見てそう思うが、置鮎さんは特に気にした様子を見せず、帰り支度を終えようとしている。

 伝え方は考えなければと思うものの、それよりも何も言わない方が問題だ。

 何も言わなければ、相手には何も言わなかった、という情報しか与える事ができない。

 そうなればもう、そこには文脈も何もあったものではなかった。

 相手に勝手に想像され、見た目の印象で勝手に会話が進んでしまう。

 それよりも、たとえ冷たいと言われたとしたとしても、要件をしっかりと伝えたほうがいい。

 そう思っている間にも、汐湯さんが保健室を出ていく。

「廊下を走るのは感心しませんが、置鮎さんもそろそろ」

 ……置鮎さんも、用事があるって言ってたし、早く帰りたいんでしょう?

 そう思うが、彼女は申し訳無さそうに、私に二回も頭を下げて保健室を後にする。

 また、何か失敗しただろうか? と思う間もなく、開けられた扉の外から、一斉に声が私の耳から入り込んだ校舎に響く声が、文字となって頭の中を埋め尽くす。

 私はたまらず、スマホを操作してイヤホンから音楽を流した。

 川のせせらぎの音が流れてきて、聞こえてくる音がだいぶ制限される。

 人の声よりも、こうした環境音の方が情報量が少なくて、落ち着いた。

 保健室の施錠を終えて、職員室に向かっていく。

 九曜先生に鍵を渡すと、私は下駄箱へと向かっていった。

 足が悪いので、どうしても移動に時間がかかってしまう。

 用事があると、ついつい気持ちがはやってしまいがちになるのだけれど――

 ……時間的には、なんとか家に間に合いそうね。

 駐車場にまで行ってしまえば、後は車に乗って移動できる。

 私の様に足が不自由な人であっても、補助装置が付いた福祉車両であれば車の運転は可能だ。

 今は様々な技術が発達し、ハンディキャップを背負った人も他の人と変わらず生活出来るように、世の中にはいろんな工夫が凝らされたものが増えている。

 ……看護師として働いていた時は、まさか自分がお世話になるとは思わなかったれけど。

 しかし、いざ当事者になってみると、そのありがたさが身に染みた。

 本当に、思ってもみなかったタイミングで人に助けられる事がこの世にはあるんだと、改めてそう思う。

 ……そうよね。私が生きがいと出会ったのだって、本当に偶然に、あら?

 車に向かおうと引きずるようにして歩いていた足が、完全に止まる。

 駐車場に停めた車は裏門から出し入れをするのだけれど、その裏門に何人かの女子生徒が集まっているのが見えたのだ。

 ……あれは、置鮎さんに、明治さん達?

 スマホを取り出すと、やはり用事に間に合わせるためには、時間的な猶予がない事がわかる。

 自分の生きがいに関係するそれに間に合わないというのは、私のとって痛恨の極みと言わざるを得ない。

 ……でも、仕事はきっちりこなすべきですから。

 スマホを操作して音声の再生を切って、イヤホンをしまう。

 その瞬間、周りの声が文字となって耳に飛び込んできた。

 野球部の中継プレイの掛け声に、吹奏楽部の演奏に、サッカー部の連携の指示に、合唱部の歌声に、テニス部が壁打ちをしている声が、ディベート部が議論をしている声が、バレーボール部が体育館で騒ぐ声が、そうしたもの全てが文字の渦となる。

 それが読めてしまうが故に、その情報量に圧倒されそうになるのだけれど、それらを無視するように私はスマホの操作をした。

 画面には録音と、文字起こしのアプリを起動させる。

 耳から入ってくる文字と目から入ってくる文字で、頭の中が余計にぐちゃぐちゃになりそうだ。

 ハッキリ言ってしまえば、泣きそうだった。

 いくら保健師とはいえ、どうして自分がこんな辛い思いをしなくてはならないのだろう?

 こんな苦しい思いなんてしなくたって、学校側は私に文句は言わないはずだ。

 何故なら私の仕事は養護教諭ではなく、保健師だから。

 養護教諭と違って、保健師は実は先生ではない。

 だから私には生徒に対して、保険教育も保健指導も行う義務はなかった。

 学校側もそこまでは雇用契約に含んでおらず、ここで見て見ぬふりをして、家に帰っても何ら問題はない。

 ……ですがここで何もしなかったら、私は自分の生きがいに顔向けできませんから。

 つまりこれは、自分のためだった。

 自分のために、仕事をきっちりとこなす。

 だから置鮎さんは、私に対して何か特別な感情を感じる必要は、全く無いのだ。

 そもそも私には、置鮎さんを助けているだとか、そういう意識はない。

 置鮎さんは、問題を抱えていて(明治さんにイジメられて)いた。

 私の仕事の中には、そうしたメンタルヘルスケアも含まれている。

 置鮎さんに発生している問題を解決するのは、私の仕事に当たり前に含まれている事なのだ。

 誰かに言われたわけでもなく、私が私の仕事と、そう定めている。

 だから私は私のために、私の職務を真っ当する事にした。

 

 ウチが、何の腹いせをしたってー? それに、保健師にウチがビビってる? そんなわけないでしょーが。あんな障害者相手に、どーしてウチが――

 

「私が、どうかしましたか?」

 そう言うと、明治さん達は驚いたようにこちらを振り向く。

 ……また、冷たい言い方をしてしまったんでしょうか?

 今はただ、事実確認がしたいだけだったのに。

 明治さんに置鮎さんがイジメられているとしても、今まさにそれが行われていたとは限らない。

 私の頭の中には、相変わらずいろんな文字が入り込んできている。

 正直、今まで彼女達がどんな話をしていたのか、全く理解していなかった。

 そんな状態で、私の勘違いで要らぬタイミングで首をツッコんでしまったのであれば、彼女達の関係を余計に悪化させてしまう。

 ……そのために、明治さんが口にした保健師という単語が私の事を言っていたのか、確認したかったのですが。

 今この瞬間にも、様々な文字が耳の中に入り込んできて、余裕が全くない。

 文脈を読み解くのに必死で、思わず眉間にシワが寄ってしまう。

 そんな、人から冷たいと評される私の顔を見て、置鮎さんはどういうわけだか、心の底から安心した様な表情尾浮かべた。

 まるで迷子の子供が、知り合いにようやく会えたと言わんばかりの表情だった。

 ……どうして明治さん達と置鮎さんで、こうも反応が違うのでしょう?

 まさか、言葉の文脈を間違えてしまったのだろうか?

 だとすると、マズい。

 用事に間に合わないばかりか、彼女達の関係を悪化させてしまった可能性がある。

 なにせ明治さんは、今までイジメの証拠を残さない様に達振る舞ってきたのだ。

 ……置鮎さんが不利な立場になってしまうのだけは避けないと。

 内心冷や汗をかき始めた私の方に、明治さんが一歩前に出た。

 まるで私の視界から、置鮎さんを隠すような動作だった。

 

 あー、二之夕先生ー。今お帰りですかー?

 

 ……とにかく、まずは事実確認を続けましょう。

 本当に私の勘違いだったら、すぐに訂正しよう。

 だからとでも言うかのように、私は口を開いた。

「ええ。そう思っていたのですが、皆さんはどうしてここに?」

 話を聞いてみるが、会話の内容的に違和感がある。

「置鮎さんの用事とは、転校前から実施しているものだと、そう言っていました。それならば、やはり用事が歓迎会というのはおかしい。文脈に合いません」

 話す言葉が文字としてしか認識できない私にとって、相手とのコミュニケーションは読んだ文脈の内容に沿って行う以外出来なかった。

 それで冷たいと言われる事もあるが、どう言われてもそう反応する事しか出来ないのだ。

 ……別に、冷たくしようと思ってしているわけではないんですけれど。

 

 それじゃーこれ以上引き止めるのも悪いんで、ウチらはこの辺りで帰りますねー。

 

 そう言って、明治さん達はこの場を去っていった。

 結局、彼女が置鮎さんをこの場でイジメていたかもしれない、という疑惑は残ったものの、決定的な確証までは得られなかった。

 ……余計なお世話だったかも知れませんが、何も起こらなかったという事実を喜びましょうか。

 家にすぐ帰りたい用事はあったのだが、置鮎さんが一人で帰れるか確認する。

 すると彼女は帰れると言うので――

「……そうですか。では、お気をつけて」

 そう言って足を引きずりながら、私は駐車場に向かっていくのだった。

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 想定よりも時間がかかってしまったが、私はようやく家に到着する事が出来た。

 予定していた時刻に帰ることは出来なかったのだけれど、お相手も予定より遅れていたらしく、出遅れすぎた、というわけでもないらしい。

 ただそれでも遅れているという事実には変わりはなく、ワイヤレスイヤホンを耳に挿した状態で足を引きずりながら家の中を進んでいく。

 イヤホンから流れる音に焦燥感を得ながらノートパソコンの電源を入れ、OSが立ち上がっている間にバタバタと着替えを済ませてた。

 この時ばかりは、自分の不自由な足がもどかしい。

 着替えが終わった時にはOSも起動しており、すぐにパスワードを入力してログインする。

 すぐに動画配信アプリを立ち上げて、目的のチャンネルを画面に表示させた。

 イヤホンを外し、スマホで再生していたアプリを落としてからヘッドホンを装着。

 その瞬間、画面いっぱいに表示されたのはーー

 

「うぉぉぉおおおっ! サリアたん! 今日も可愛いよぉぉぉおおおっ!」

 

 自作したうちわを全力で掲げながら、私はVtuberの御雪サリア(・・・・・)の生配信に参加できた喜びに打ち震えていた。

 うちわが自作したものであるのなら、仕事着から着替えたハッピにハチマキも全て自作。

 作るのは確かに大変だったが、私の生きがい(・・・・)であり、推しであるサリアたんのためなのであれば、その苦労すら喜びに感じられた。

 ノートパソコンの画面上では、御雪サリアが嬉しそうに笑っている。

 ……あぁ、今日も本当に可愛いよ、サリアたんっ。

 聞こえる声が、全て文字として認識出来ていしまう私にとって、誰がどんな声で喋っているのかは、認識する事が出来ない。

 だからこそ私の取って可愛さとは、この目で認識出来るもの、それが全てだった。

 ……事故にあう前は、可愛い小物とかも集めてたんですけどね。

 古矢井高校の生徒にそう言ったとしても、今の私しか知らない彼らは、とても信じてはもらえないのだろうけれど。

 ただ、だからこそ、どうして私がわざわざ御雪サリアを推しているのか? と疑問に思う人もいるはずだ。

 何故なら可愛らしいVtuberは、大手の事務所に沢山所属しているからだ。

 見た目がいい、という意味合いであれば、プロの絵師が描いたアバターの方がいいに決まっている。

 でも、そうじゃないのだ。

 プロではなく、一目で素人が描いたアバターだとわかるチープさ。

 その、頑張って描きましたという感じが滲み出ている所が視覚で感じられる所が、たまらなく愛おしいのだ。

 ……そして何より、私が保健師として働こうと思えたのは、サリアたんのおかげですから。

 事故直後、私はかなり塞ぎ込んだ日々が続いていた。

 満足に歩く事も出来なくなったショックも大きかったけれど、それ以上にまともに人の声を聞く事が出来なくなったのがキツかった。

 もう人の声どころかどんな音も聞きたくなくて、常に耳栓をして生活をしていたぐらいだ。

 でも、全く音を聞かずに生活する事に慣れなくて、どうしても耳を使って文字を拾わなくてはならない場面が出てきてしまう。

 そもそも、聴力を完全に失っているのであれば耳を使わないと割り切れもするのだけれど、音を拾えているのに自分の機能を捨てるという選択が、どうしても私には出来なかったのだ。

 しかし、そう決めた所で、文字を聞く不快感は如何ともしがたい。

 保健師の仕事の話ももらっていたので、だからどんな音であればこの耳で読めるのか、少しずつ試そうと思ったのだ。

 でも、どれだけ試しても、人の声を受け付ける事が出来なかった。

 保健師の仕事どころか、もう普通の生活すら出来ないんじゃないか?

 次の動画で駄目だったら、もう諦めよう(・・・・)。

 そう、諦めかけていた。

 そんな時だ。

 私が彼女と、御雪サリアと出会ったのは。

 サリアたんを最初に認識したのは、本当に偶然だった。

 たまたま動画サイトでオススメに表示されたという、本当に何のつながりもない、ただの偶然。

 動画を再生した瞬間聞こえてきたのは、こんな文字だった。

 

 本当に大変だったら、辛いことから逃げてもいいじゃん。

 

 御雪サリアのその言葉は、衝撃だった。

 無理して人の言葉を読もうとしていた私には、特に。

 

 逃げる一歩だって、一歩には違いないよ。

 他の人と同じ様に歩けなくたって、どれだけ小さな一歩でも、その人にとっては、一歩には違いないんだから。

 無理して、人と一緒にしようとする必要なんてないでしょ?

 

 その時、ようやく気づけたのだ。

 そもそも私は、何も失っていなかったという事に。

 歩き辛いと言っても、足がなくなったわけでも、全く歩けなくなったわけでもない。

 声を聞くのは確かに辛いが、耳が全く聞こえなくなったわけではないのだ。

 そもそも人は生きれば生きる程、老いれば老いる程、体に不調をきたすもの。

 だから今の私の状態は、頑張って生きた証なのだ。

 そう思った、思えた瞬間、今までただの羅列だった文字が、ハッキリと読める様になった。

 今までは単語が直接頭に書き込まれる様な感覚だったのに、その連なりが、文脈として理解出来る様になったのだ。

 そこからだ。

 なんとか私が、この耳と折り合いをつけれる様になり。

 保健師として、新しい人生を歩んでいこうと思えるようになったのは。

 端的に言ってしまえば、彼女は私の恩人だった。

 でも、御雪サリアにとって、私はただの一視聴者でしかない。

 いや、それどころか、その時の私が視聴者だという事すら彼女は認識していないだろう。

 けれども御雪サリアこそが、私が新しい人生を歩むために、一番強く背中を押してくれた人なのだ。

 そしてそこから、御雪サリアの配信を視聴するようになった。

 今も彼女の配信時間を気にして帰宅している事から分かる通り、この週間は古矢井高校へ赴任する前からずっと続いている。

 だから、だろうか?

 保健師の仕事を始める前あたりで、違和感に気付いたのだ。

 それは、御雪サリアは何か悩みを抱えているのではないだろうか? というものだった。

 もちろん私は、御雪サリアの『中の人』を知るわけがないし、知っているわけがない。

 でも、彼女の強い言葉から、無理に自分を奮い立たせようとでもするような、痩せ我慢のような気配を感じたのだ。

 ……でも、それも私の勘違いかもしれませんから。

 声色が聞こえず、文脈でしか理解できないから、尚更だ。

 けれども、もし自分の思い違いではなく、本当に御雪サリアが何か悩んでいるのであれば、どうにかして彼女の助けになりたかった。

 そこで考えたのが――

『サリアたん。拙者、サリアたんが楽しまれているのは非常に喜ばしい事だと安心するのでありますが、そもそもこの配信枠はゲーム配信様に設けているものかと存じます。拙者、愚考致しますに、ここに集まったリスナーの御仁達はサリアたんのゲームを堪能するために集まったものかと。故に他の歌い手の話はこれぐらいにしておいて、本筋に戻っていただくのが吉かと存じます』

『出たよ、《こりのゆに》の投げ銭長文』

『もはやサリアの配信では名物になってるよな、《こりのゆに》』

 私(《こりのゆに》)のコメントを、他の視聴者がイジる。

 自分でも、空回りしているのは理解していた。

 しかし、空回りしていても、何か彼女に声をかけたかったのだ。

 ……とはいえ、百合しおりの話ばかりするのは癪なのですけれど。

 推しが楽しそうにしている事でしか、得られない栄養というのは、確かにある。

 だが、どれだけコメントしたとしても彼女を勇気づける事が叶わない自分がいる一方で、動画一つでここまで推しを元気づけられる相手に、どうしても嫉妬してしまう自分がいるのも確かだった。

 別に勝負しているわけでもないのに、なんだか負けたような気がしてしまい、私は今だかつて、百合しおりの動画を見たこともないし、見ようとすらした事がない。

 ……この考え自体が痛い事も、十分わかっているんですけどね。

 

 流石に長文でコメント欄を埋められると、他のリスナーさんのコメントが拾えなくてウザいわね。

 

 ……でも、やっぱり推しに認知してもらえるのは最高なんですけどねっ!

『おお、サリアたんにコメントを読んで頂けるとは、これ以上喜ばしい事はこの世にはありませんな! うひょひょひょひょっ!』

 その後も投げ銭を連打して、サリアたんの配信を十二分に満喫した。

 今日の配信はスマホでも最初から聞いていたけれど、夕食後にアーカイブをもう一度視聴しようと、心に決める。

 ……やっぱりサリアたんの配信は、最高ですね。

 どれだけ話しかけられても、誰の言葉も文字にしか聞こえない状況でも、頑張って仕事が出来る。

 明日も頑張ろうと思いながら、私はノートパソコンの電源を落とした。

 

 <汐湯 莉里>

 

 それは誰がどう見ても、イジメとしか表現できないものだった。

 始まったきっかけは、古堅(ふるげん)という先輩からの告白。

 でも、付き合うという事がよくわからなくって、ボク(・・)は古堅先輩の告白を断ったのだ。

 その翌日、明治先輩がバスケ部の友達と一緒に、ボクの教室にやって来た。

 そして古堅先輩の告白を断ったのかを聞かれ、そうだと答えると。

 翌日から、ボクの持ち物が泥だらけになるようになったのだ。

 最初は、自分がイジメられているとは思っていなかった。

 これは何かの間違いで、勘違いで起こった不幸な事故なんだと。

 でも、段々とイジメはエスカレートしていって、自分がイジメられていると認識した時には、もう事態は取り返しのつかない所まで進んでいた。

 そうなると、イジメられていた状態が定常化してしまっており、完全に誰かに助けを求めるタイミングを見失っていた。

 おかしな感覚だけれど、どうして今までその事を言わなかったんだ? と言われる事を気にしてしまう自分がいたのだ。

 ……だって先生達も、気付いていたはずだから。

 下駄箱の上履きを汚すためには、他の生徒に見つからない様に犯人は早朝に登校する必要がある。

 そんな時間帯に学校にいるのは、朝練前に来ている先生ぐらいなものだろう。

 それでも私は、先生達に助けを求めた。

 ……でも先生は、明治先輩達の方を信じたんだよね。先輩達が口裏をあわせてでっち上げた、アリバイを。

 そして、先輩達の味方になったのは、先生達だけじゃなかった。

 だって、教科書や体操服が汚されているという事は、ボクの教室に犯人は入った(・・・・・・・・・・・・)、という事になる。

 ……だから、クラスメイト達も明治先輩に協力していた、っていう事だもんね。

 それに気付いて、所属していた部活も辞めた。

 クラスには部活の友達もいたのだけれど、もう完全に誰も信用できなくなっていた。

 けれども、両親には迷惑をかけれないという変な意地があって、学校にだけはなんとか通っていたのだ。

 ……でも、お母さんに作ってもらったお弁当をぐちゃぐちゃにされた時は、キツかったな。

 弁当箱だけは、せめて綺麗な状態で家に持って帰ろう。

 そう思い、流し台で泥だらけの弁当箱を洗っていた時。

 

 綺麗になった弁当箱を、明治先輩がゴミ箱に投げ捨てた。

 

 そこで、ボクの中で何かが折れた音がした。

 怒りの感情すらわかず、悔し涙すらもう出なくて、膝から床に崩れ落ちた。

 人は本当に絶望した時、心の中は真っ白になるんだと知った。

 でもその白は、決して綺麗な白ではなく、太陽を裸眼で凝視するような、そんな強烈な白だった。

 自分を嘲る明治先輩達の視線や言葉すら、もはやボクには全く届かない。

 でも何故か、この言葉だけはボクの耳に届いたのだった。

 それは――

 

「何? イジメなんてダサい事してるの?」

 

 それは今まで耳にした事のある、どんな声色よりも美しい調べだった。

 神の啓示の如き言葉が聞こえてきたのは、上の階へと続く、階段の踊り場。

 その窓から差し込んだ光が後光にしかボクには見えなくて、そこにいた見知らぬ女子生徒の事が、女神にしか見えなかった。

 その偉大過ぎる存在の前に呆けてしまっていたボクは、その後どんな会話がなされたのか、全く覚えていない。

 そしてその状態は翌日まで続き、彼女にもう一度一目会いたさに登校したのだった。

 けれども、その時ボクは知らなかったのだ。

 ボクの前に現れた女神は、最近このあたりに引っ越してきた転校生の先輩だという事も。

 その日から女神が、ボクの代わりに明治先輩にイジメのターゲットにされたという事も。

 ……でも、ボクはお姉様がイジメられていると知っても、何も出来なかった。

 そしてボクが何も行動出来なかった間に、利紗先輩は引きこもりになった。

 何かしないといけないと思っていたのに、何をすればいいのかボクには全くわからなかった。

 だからボクは、自分に出来る事をした(・・・・・・・・・・)のだ。

 それはただの自己満足だったし、それで利紗先輩の何かが変わった、というわけではない。

 結局ボクは助けてもらった恩人に、何も出来なかった。

 何かしたのは、四月に新しく学校に赴任してきた、保健師だ。

 足を引きずりながら現れたその女性は、挨拶もそこそこにこう切り出した。

『貴女は、置鮎さんがイジメられる前に、明治さんにイジメられていましたね?』

 衝撃だった。

 この学校である意味聖域的な扱いを受けていたい明治先輩の事を、そんな風に言うだなんて。

 だから思わず、こう聞いてしまったのだ。

『二之夕先生は、明治先輩のイジメの証拠を持ってるんですか?』

『いいえ、持っていません』

『だったら――』

『ですが、文脈を読めば明らかですから』

 言っている意味は、わからなかった。

 でも二之夕先生は自分の発言に絶対の自信があるのか、不登校になった利紗先輩の家に行き、結果として、先輩は保健室登校をするようになったのだ。

 正直、悔しかった。

 ボクだけは明治先輩がイジメを主導していると断言できたのに、利紗先輩と同じくイジメを受けていたボクだけが先輩の味方になれるはずだったのに。

 結局明治先輩が怖くて、何も行動できなかった。

 助けてくれた恩人に手を差し伸べず、動けず、震えていたいボクをよそに、イジメの現場を見ていない保健師が利紗先輩を外に連れ出した。

 本当に、悔しかった。

 何も出来なかった、自分自身の不甲斐なさが。

 ボクが行動しなかった癖に、二之夕先生を妬む自分の小ささが。

 だから、もう二度と同じ悔しさは味わうまいと、誓ったのだ。

 ……次こそボクが、お姉様の力になってみせるっ!

 そこから先輩が登校する様になってから、空いている時間を見つけては、保健室に通うようになったのだ。

 だからボクは今日も今日とて、ホームルームが終わると荷物をまとめて、転げ落ちるようにして自分の教室を飛び出した。

 廊下を歩く生徒達が怪訝気な視線を向けてくるが、それはもう全く気にならない。

 この学校でどう見られるのか気にするのは、利紗先輩以外もういなかった。

 目に映るもの全てを置き去りに様な勢いで廊下を駆け抜けて、ボクは保健室の最寄りのトイレに飛び込んだ。

 鏡の前で髪の毛のほつれを直して、唇にリップクリームを塗る。

 先輩とは一秒だって一緒にいたいけれど、先輩と一緒にいる自分は、一番ステキな自分でいたかった。

 身だしなみのチェックを終えると、ボクは飛び込むように保健室の扉を開ける。

「お姉様っ!」

 部屋の中にはいつも通り、利紗先輩と二之夕先生の姿があった。

 利紗先輩はこちらを振り向き、驚いた様に両目を見開く。

 その姿すら神々しく見えて、ボクはたまらず先輩の胸に飛び込んだ。

 え? 整えたばかりの髪が乱れる?

 そんなもの、利紗先輩を前にして気にしている場合じゃないでしょう?

 ともかくボクは利紗先輩の胸にダイブして、勢いそのままに彼女をベッドの上に押し倒したのだ。

 先輩の体重を受け止めたベッドのフレームが軋み、マットレスのクッションが利紗先輩を押し返そうと反発する。

 その抵抗に抗うように、ボクは彼女の上にまたがった。

 ここまで走ってきたので、体が熱い。

 でも今心臓が激しく脈打っているのは、ここまで駆けてきた事以外の理由もあった。

 その理由とはもちろん、今しがた組み敷いた憧れの人を眼の前にした高揚感だ。

 眼下にある宝石の如き先輩の瞳を見つめて、思わず言葉が口から零れ落ちた。

「やっぱり、素敵です……」

 間近でそのご尊顔を拝見すると、やはり先輩の美しさを改めて実感する。

 整った顔立ちに、こぶりな鼻。

 形のいい眉に、アーモンドの様な瞳。

 パーツ一つ一つが、一流の職人が作った芸術に近い完成度でありながら、それらが調和して一つの顔を作り上げているという事実に、彼女の存在自体が奇跡だと思えた。

 その奇跡が目の前にあるのに、どうして手を伸ばさないという選択が出来るだろう?

 この人にもっと追いつきたいと、この人にもっと触れていたいと思う事は、間違っているのだろうか?

 いや、そんなわけがない。

 他の誰かが否定したとしても、ボクだけはそれを肯定する。

 何故ならボクは、気付いた時には、既に震える指を利紗先輩の方へと伸ばそうとしていたからだ。

「お姉様。お慕いしております……」

「いや、誰がお姉様か」

 思わず零してしまったボクの思いは、利紗先輩にけんもほろろに撃ち落とされる。

 それは先輩が、保健室登校をするようになってから続けられている、いつも通りのやり取りだった。

 そう、いつも通りだ。

 人によっては邪険に扱われていると思われるかも知れないけれど、ボクの認識は違う。

 ……いつも通りって事は、それが当たり前だ、って事だもんね。

 そうだ。

 当たり前に、利紗先輩がボクと話してくれている。

 その事実がボクにとって、とても重要だったのだ。

 先輩の日常に、ボクという存在が寄り添う事が。

 ……これだけ傍にいたら、次にお姉様に何かあった時、真っ先にボクが助けて上げれるから。

 だから、もう少し先輩とじゃれ合おうと、そう思っていたのだけれど――

 

「じゃれ合うのは、それぐらいにしてもらえるかしら?」

 

 その言葉が聞こえてきた方に、思わずムッとしてしまう。

 何か言い返そうと思った瞬間、ボクの体は利紗先輩に押しのけられた。

 悲鳴を上げて抗議するが、先輩はこちらの方なんて見向きもせず、二之夕先生に釘付けになっている。

 制服のシワを伸ばす背中を見ながら、思わず歯噛みした。

 先輩が保健師に憧れる気持ちは理解できるけれど、身だしなみを整える姿が、保健室に入る前の自分と重なり、悔しくなる。

 負け惜しみだとわかっていながら、ボクは思わず口を開いた。

「後からやって来て利紗先輩とボクのむつみごとを邪魔しようだなんて、一体どんな権限があってそんな事をするのさっ」

「保健師として通常の用途以外で保健室を使うのを止める権限は持っていますし、そもそも私は貴女がやって来る前から保健室にいましたが?」

 ……そんなの、知ってるってーのっ!

 保健室に二之夕先生がいた事は、最初からわかっていた。

 でもそれを認めると負けてしまった様な気がして、先生に対して素直になる事が出来ない。

 その後なんとか利紗先輩に味方してもらおうと思ったのだけれど、暖簾に腕押しの状態が続いた。

 だがそれも失敗し、二之夕先生から、今最も聞きたくない言葉の一つを聞かされる事になる。

「もう放課後だし、そろそろ帰ったらどうかしら?」

 ……嫌だよっ。

 反射的に生まれたのは、そんな感情だった。

 この時間が終わってしまえば、また明日にならないと先輩に会えなくなる。

 先輩の力になれないまま、またお別れをしてしまうのだけは、受け入れがたかった。

 利紗先輩が無理に保健室に来なくていいというが、ボクにとって保健室に来ない方が無理だった。

 もう少し保健室に残れないか粘ろうとするけれど、先輩からも用事があると言われてしまい――

「見ててくださいね? 明日こそ絶対、ボクがお姉様にとって必要な存在だって認めさせてみせますからっ!」

 そんな捨てゼリフを残して、ボクは保健室を逃げるようにして走り出す。

 下駄箱で薄汚れた上履きに履き替えると、すぐに家に帰るために、正門をあっという間に駆け抜けた。

 今から明日の朝までの時間というものは、ボクにとっては長すぎて、利紗先輩に会えないかもしれないという不安で押しつぶされそうになる。

 利紗先輩に求められず帰宅した今日という日が積み重なる度、先輩に必要とされなかったという、誰に対して感じる必要もない罪悪感が大きくなっていった。

 その自意識とも言えるような塊に押しつぶされないために、走りながらボクも、持て余した時間の使い方を決める。

 それは先輩が引きこもってから始めた、自己満足だ。

 自分しか満足できないそれを続けている理由は、ただ一つ。

 ……いつか先輩を支えられるように、お姉様に必要だと認めてもらえるように、なるんだからっ。

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

「ただいま」

「おかえりー。ちゃんと手洗いなさいよー」

「わかってるって」

 お母さんにそう言って、まずは洗面所で手洗いうがいを済ませる。

 ハンカチやタオル等、洗濯が必要なものを洗濯機の中に入れると、お弁当箱を台所に置きに行く。

 その流れで冷蔵庫からコップに麦茶を注ぐと、部屋着に着替えるために自分の部屋へ向かった。

 そして、すぐに部屋着に着替え始める。

 ……早速あれ、作り切っちゃおう。

 薄手のシャツに着替え終えた後、ボクはノートパソコンの電源を入れる。

 ログイン後はアプリを立ち上げ、パソコンに繋いだマイクが自分の声を拾うのかチェックを行った。

 打ち込みが途中だった曲を微調整し、メロディの均衡をとっていく。

 といっても、ほぼほぼ曲自体は完成していたので、そこまで時間はかからない。

 満足できるものが出来上がると扉を開けて、顔を出す。

「今から収録するから、大きな声出さないでよね? お母さん」

「はいはい。終わったら、また教えてちょうだいね」

「うん、わかった」

 そう言って部屋に戻り、足を肩幅ぐらいの大きさで広げるようにして、まっすぐに立つ。

 眼の前の机に設置したアーム型のマイクスタンドを眼の前まで移動して来て、ヘッドホンを装着。

 そして先程作り終えた曲を再生するため、そしてボクの声を録音するために、パソコンのエンターキーを叩いた。

 そしてヘッドホンの曲に耳を傾けながら、自分の作った歌詞で歌い出す(・・・・・・・・・・・・・)。

 ……あぁ、こうやって歌えるのも、自分の部屋だけになっちゃったな。

 元々ボクは、歌うのが好きだった。

 中学校でも合唱部に入っていたし、高校に進学して同じクラスになった子も同じく歌が好きな女の子がいて、一緒に合唱部に入部したのだ。

 歌が好きという共通点があって、その子とはすぐに仲良くなった。

 ボクの歌声は地声と全く違っていて、その子からはよく、君は七色の声を持っているんだね、なんて冗談を言い合う仲だった。

 ……まぁそれも、明治先輩のイジメでそんな話、する事もなくなったんだけどね。

 合唱部を辞めたけど、歌う事は好きだった。

 むしろ、歌う事ぐらいしか、ボクには残されていなかったのだ。

 利紗先輩を助けるための一歩を踏み出せなかったボクには、特に。

 ……前に進まなくても、この場でなら歌う事が出来るから。

 だから、明治先輩のイジメのターゲットが利紗先輩に移ってから(・・・・・・・・・・)、ボクはずっとずっと、曲を作っては歌っていたのだ。

 先輩に届け、って。

 貴女の味方はいるんだ、って。

 ……届くわけ、ないのにね。

 ネット上での歌い手は、もはや星の数ほど存在している。

 今でこそ登録者がそこそこいるチャンネルになったけれども、当時の無名だったボクの動画を、利紗先輩が観に来るわけがない。

 でも、それでも、ボクは曲を作り、歌い続けた。

 試しに、今まで作ってきた曲のフレーズを思い浮かべてみる。

 

 私はただ、何もすることが出来なかったけど

 優しいあなたは、一歩踏み出せた

 あなたの一歩があったから、救われた人もいる

 一歩踏み出した事で、あなたは傷ついてしまったかもしれないね

 それでも差し出されたその手があったから

 今、こうやって歌えるんだよ

 私は歌うことしか、出来ないけれど

 あなたの優しさが、あなた自身も救うと信じて

 歌うことしか出来ない私のことを

 優しいあなたは、どう思うだろう?

 

 外の光がきつすぎて

 暗闇に、助けを求めたいときもある

 どうすればいいのかわからなくて

 独りになりたくないのに、一人でいたい時もあるよね

 孤独感に苛まれて、何も出来ないあなたに

 寄り添えない私も、ひどく寂しい

 せめて今支えれないのなら

 今はただ、歌わせて

 今が最低だって思えるのは

 最高だった自分を、イメージ出来ているから

 

 自分から一歩を踏み出さない卑怯な自分自身の事であったり、歌う事で罪悪感を誤魔化そうとする卑劣さだったり、そしてそんな自分の歌を聞いてもらう事を恐れている自分の臆病さだったり。

 それらを全部込めて、歌ってきた。

 何曲も、何曲も作っては歌ってきた。

 けれども、どの曲でも、共通している事がある。

 ……それはどの曲も、お姉様の事を想って作った曲で、お姉様の事を想って歌った曲だ。

 今歌っている新曲も、利紗先輩のために作り、歌っている。

 録音を終え、自分の声が入った曲を聞いてみる。

 いつもの事ながら、こうして自分の声を自分で聞くという行為に慣れない。

 普段聞いている自分の声と違うのがその理由だけれど、七色の声と茶化されるぐらい地声と違う自分の歌声が、一向に自分のものだとは思えなかった。

 ……自分でも違和感があるんじゃ、まだお姉様には聞いてもらうのは早いよね。

 そう思うが、せっかく録ったのだから自分のチャンネルにアップする。

 といっても、アップする動画は非常にシンプルなものだ。

 作詞作曲もしているので、そこまで凝った動画を作れない。

 簡単なイラストに、自分の作った歌詞を描いた、単純なものだ。

 しかし、そんな簡素なものであっても聞いてくれる人はいるらしく、最近登録者数が一万五千人を超えた。

 コメントもそこそこ書き込んでもらっていて、御雪サリアとかいう、Vtuberさん? がこの前お祝いのコメントを付けてくれた、らしい。

 らしい、というのは、御雪サリアさんがコメントを書き込んでくれた、というコメントをたまたま見たからだ。

 皆に自分が作って、歌った曲を聞いてもらうのも嬉しいし、それを褒めてもらうのも嬉しいけれど――

 ……でも、やっぱりボクが一番聞いて欲しいのは、お姉様だから。

 そう思いながら、先程作り終えた動画が無事アップされている事を確認する。

 パソコンの画面に表示されたのは、百合しおり(・・・・・)という名前で、つまりはボクのチャンネルだった。

 ……今回の曲は結構自信あるから、好評だったら次の曲こそ、お姉様に聞いてもらおう。

 そう思うと、自然と口元に笑みが浮かぶ。

 一人部屋でニヤけている自分の事が気持ち悪いな、と思うものの、ボクの脳裏には次に作る曲について、ぼんやりとした構想が思い浮かんできていたのだった。

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