第2話
白鷺橋が近づいてきた。
幅二十メートル弱、アーチ型の防護策が施された、この町で一番大きな橋。白く塗り固められた柵の湾曲は、巨鳥が対の羽根を広げたように見えなくもない。
平日昼下がりだ。平素から閑散とした道路の同一車線上に、他の車はなかった。橋のすぐ手前の信号を待つ間に、女を降ろした。よろけることなく踵をアスファルトに突いて降り立ち、鼻歌の延長といった軽薄さで礼を述べドアを閉じた女が、再び唇を開閉した。読唇術を心得ない僕はその動きを濡れてぼやけた車窓越しに、うつけ顔で眺めた。鈍色の空と道路に挟まれた傘の赤が目を刺す。持ち手の複雑な婉曲具合が見たことない形状で、特注品か高級ブランド品だろうかと思った。
発進し、バックミラーからその姿が消えるまで、僕は傘を掲げ直立する女を視界のうちに捕らえていた。マネキンのような肢体は、橋に対峙したまま、一歩も動かなかった。
そもそもなぜ、あそこで降りたのか。家が近いのかと思ったが、なぜ歩き出さないのか。誰かを待っているのか。いや、ここはコミュニティバスのルートから外れている。予定外に通った道で到着時間の目処も立たないのに、予め人と約束を取り付けているとは思えない。ギャラリーから一緒だったが、その間一度も携帯電話を触っていなかった。
ある考えが降りてきて、喉仏が小さく上下した。
ただ、橋を見ているのではないか。目的などなく。
たった一人で。あの、調子外れな歌でもくちずさみながら。
百のキャンバスに、ありもしない橋を描いた女。
反射的に、助手席のシートに目を遣った。大量の雨水か何かで濡れているのではないかと二秒ほど目を凝らしたが、髪の一本も落ちていはしなかった。
古典的な怪談を思い出したのだ。
タクシードライバーが、人気のない道で一人佇む若い女の客を拾い、山道を行く。時間帯は真夜中、客は髪が長く、白いワンピースを纏っているのが相場だ。後部座席で、女は俯いて喋らない。運転手は後方から漂う奇妙な気配に悪寒を覚え客の目的を訝しむが、何も言えない。目的地に着いて「お客さん」と振り返ると、誰も居ない。女の座っていたシートが、ぐっしょり濡れている。
仕事中の合間に五嶋さんから聞いた話だ。五嶋さんの子供時代には、テレビでしょっちゅう怪談特集が組まれていたらしい。どういう理屈でシートが濡れたのかは詳細不明だが、客は雪女の類いか何か、そうでなくとも、とかく人でない異形だったと僕は解釈している。もとは人間だった心霊の起こす現象で、ただ大量に濡れる、という事例を聞いたことがないからだ。これが心霊だった場合、シートには生々しい血痕、後部座席の窓には複数の手形、運転手の首には後ろから絞められた痣、といった「ヒトならでは」の形で痕跡が残ると思う。
ともかく僕は、移動中の密室で奇異なものと居合わせた運転手と、深く心情を共有した気になった。
「戻りました。磨紀乃さんから、」
「冷蔵庫」
五嶋さんが、原稿から顔を上げず言った。ペンがのっているようだ。
「了解です」
作業机三つに占拠された居間をすり抜け台所に入り、冷蔵庫を開け、磨紀乃さん手製の品々で広い空洞を埋めていく。庫内灯のしらじらとした明るさに、変に安心する。
白米やカップ麺の供として、タッパーの主菜、副菜が消費されるのに一週間。出前を取ることもあるけれど、五嶋さんの栄養は磨紀乃さんに支えられていると言って過言ではない。
そして空になった容器を磨紀乃さんに返却し、新たに中身の詰まったタッパーを受け取るのが僕の仕事の一つだ。五嶋さんの連載誌の最新号か単行本最新刊がある場合、謝礼代わりに献上するのも。離婚して年月を重ねても、五嶋さんは彼女の料理を、磨紀乃さんは彼の漫画を、愛しているらしい。いい大人二人の間を伝書鳩のように往復するのは馬鹿らしいが、僕は磨紀乃さんに、唯一かつ大きな恩義がある。僕がここに居るのは、あの人の口利きのおかげだ。
エスプレッソマシンでドリップ珈琲を淹れ、五嶋さんのデスクに横づけられた台に音を立てないようマグカップを置く。
忙しなく稼働する五嶋さんの手。右薬指は、長年の負荷で変形している。糸を吐くように無数の線を生むペン先は、繊細、剛胆、流麗、千変万化の境界線を紙上へ刻んでいく。天地創造。彼が右手を振るうちに、たしかな息吹を宿した人間が立ち現れゆくのを初めて目の当たりにしたとき、感動したものだ。
今日も机上で、国を二分する大戦が展開される。
アストルム王国の王位継承者だった第一王子が第二王子の策謀により失脚し、誰もが彼のことを忘れ去った頃合いで、青い鎧を纏った「蒼星の騎士団」を率い、現れたのだ。
二軍がぶつかる三度目の戦。先陣を切った馬上の騎士たちが円錐形の槍を振り回し、敵兵を蹴散らしてゆく。胴を狙われ避けたはずみで落馬する者、兜ごと頭を貫かれる者、恐れを成して遁走を計る者。騎士と馬の躯があらゆる方向に躍動する。それは激しい舞踊のように。
攻める者、討たれる者、両者の眼は爛々と生気に満ち、致命傷を負ってさえも悦びを感じさせる。五嶋さんの持ち味だ。血飛沫は、後から僕が付け足す。
五嶋さんの漫画は、よく人が死ぬ。五年目に突入した長期連載であるこの「蒼星伝」もそうだし、前作の近未来SFでもそうだった。見せ場、山場でなくとも、どこかしらで血が舞っている。大抵の漫画は誕生より死が描かれがちだが、五嶋さんのは群を抜いている。登場人物たちは、求めるものの対価に命を投げ出すのを躊躇しない。死すら通過点と捉えているのか、創造主から与えられた肉体を惜しみなく使い倒す。狂ったように。そこが一部の読者に買われている。なのに「死なせず語れる作家(やつ)が羨ましい」と、五嶋さんは零す。息を吐くように殺し合わせておいて、よく分からない。
空いた作業机に置かれた原稿の消しゴム掛けをしていると、伸びをした五嶋さんが、冷めかけの珈琲を啜って言った。
「なんかあったの」
「はい?」
反復作業で痺れそうな腕を止め、原稿上に山積した鼠色のかすを羽箒で除けながら、五嶋さんを見る。
「顔が白い」
そんな指摘は初めてだ。締め切り前の缶詰で、寝不足と疲労困憊からゾンビの様相を呈したスタッフをとくに慮ることのない彼だ。原因に思い当たった瞬間、掌で頬を叩いていた。動揺を打ち消そうとしたのだ。五嶋さんは興味ありげにこちらを見守る。顎を軽く上げ、説明を促した。
洋館からの出来事を述べた。ペン入れを小休止する気らしい五嶋さんは、合間合間に的確な相槌を寄越す、良い聞き手だった。胡散臭い歴史書を紐解き、目を落とすときの笑みを湛えて。僕自身も処理できなかった心の縺れを言語化するうち、次第に体が軽くなる感覚があった。
珈琲の最後の一滴をあおった五嶋さんは、ほう、と満足気に息を吐く。
「おもしろい拾い物したね」
「おもしろいですかね?」
宮間恵麻の姿を思い起こし、首を傾げる。
うんうん、と首肯する仕草が、磨紀乃さんと被る。ペンを手放した彼は、日向で丸まる老猫に似て柔和だ。
「誰しも執着するものの一つや二つあるけど、対象が在りもしない橋なのは珍しい。拘りかたも偏愛的だし。けど確かに橋と女性は親和性があるね。いや、因縁かな。架橋の工事が難航したから巫女が人柱になったとか、干魃の村で巫女が雨乞いの舞を舞ったとかいう伝承は、其処此処に残ってる。橋の上で、龍神や水神への奉納にさ。京都の宇治川に架かる宇治橋には、橋姫伝説ってのもある。嫉妬心がいきすぎて人を殺める鬼に身を堕とした、貴族の姫君の話」
五嶋さんの話はよく飛躍する。
「それに、久我くんが見た絵」
まるで自身がその絵を鑑賞し、回想しているように、宙を見つめた。
「自分で描いた橋なのに“見たことない”、“無いことが許せない”と言うんでしょ、彼女は。例えばさ、その橋は彼女の前世で縁があった場所で、今もこの世のどこかに架かってるかもしれない。無意識に探している、とかね」
五嶋さんは手持ち無沙汰に右の人差し指と中指を擦り合わせる。物欲しげな二本の指は、煙草を挟みたがっているに違いない。かつての結婚生活で妻と約束した禁煙を、未だ守り続けているのだ。珈琲は煙の代用にすぎない。
「前世、ですか。なるほど」
思わぬ可能性の提示に、まっとうな返答が浮かばない。
前世、輪廻転生、再来。その考えで言えば、宮間恵麻は生まれ変わる前も日本か何処かの国で人間の女として生を受け、橋の絵は、映像として残った当時の記憶を写し取ったものだということか。そして宮間恵麻自身、茫漠とした記憶を持て余し、振り回されていると。
人柱に、雨乞い。神と繋がる巫女。
地表を圧する暴力的照射のもと、橋上でひらり舞う袖に、緋色の袴。身に纏う一種独特な雰囲気も、前世がそういう女なのであれば腑に落ちる、と言い聞かせられなくもない。たんなる漫画家の暇潰しの空想遊びにしても。
話を終えて満足したらしく、ペン先が原稿を削る音が再びたち始めた。僕も作業を再開する。肺あたりに燻っていた蟠りが晴れ、滑らかに手が動いた。
そちらの解釈のほうが好ましい、奇々怪々の類いよりも。
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