第1話 再臨Ⅰ
その少女はフラスコの中で生まれた。
比喩ではない。
いわば実験体としてガラスの容器の中で人工的に錬成された命。
実験が成功してなければ彼女が生まれることはなかっただろうし、またその後の長い生涯も初めからなかったことになっていただろう。
しかし結果として実験は成功し、彼女は生まれた。
あるいはそれが彼女の不幸であったかどうかは、本当の意味では彼女のみに決める権利があるだろうが、客観的に見て彼女は不幸だった。
恐らくこの世で最初に彼女の姿を目にした人物も、たしかにそういった感想を持っていた。
事実その男は少女を幸せにするために作ったつもりなどこれっぽっちもなかったし、これから先もそういった感情を持つことはないと確信していた。
彼の目的は全く別の、極めて利己的なところにあった。
その目的を達成するために、彼は今まで手段を選ばずに行動してきたわけで、少女を作ったのもその一環だった。
異世界から魂を召喚し、この世界の肉体に定着させることを目指した実験。
彼の最終目標の中でも極めて重要なピースを占めるその実験の最初の成功例となったのが、少女だった。
彼女の肉体は極めて繊細な調整を施された
ただ、最初からまともに前世の記憶をもとに思考出来ていたわけはない。
そもそも生まれた当初の彼女は、フラスコの中に満たされた液体に浸かってふよふよと漂うだけの肉の塊だった。
辛うじて人間の胎児に似た組織を備えていたが、それもまともに成長するか怪しいところといった不完全な段階だった。
少女がまともに生身の人間と同等以上の身体を獲得できたのは、ひとえに彼女を生み出した男の技術と執念によるものだと言えるだろう。
――やがて数年が過ぎ、ようやく自分の足で立って外の世界に出た彼女がまず思ったのは、ここが彼女にとっての異世界であるということだった。
少女には、いわゆる21世紀日本で生きていた成人男性としての記憶が宿っていた。
前世との人格の連続性こそなかったものの、少女の中では科学技術が発達した地球こそが世界のスタンダードであり、魔術の発達した世界はそれこそ創作物の中にしかないという認識である。
しかし転生した先の世界では、魔術は一般的な技術として広く普及していた。
歪な形で生み出された少女の身体が動いているのも、大本を辿れば魔術的な動力に支えられたものなのだ。
だからこそ、少女は割と早く己の認識のズレを修正することが出来た。
自分自身が魔術の申し子である以上、今さらソレを否定してもしょうがないだろうという開き直りである。
そして受け入れてしまえば、魔術というファンタジー自体が彼女の心の支えとなるのも早かった。
なにせ、他に楽しみが全くないのである。
来る日も来る日も、自らを生み出した男の実験体として酷使される日々。
反抗しようにも、用意周到な男からそういった心の働きを抑制する魔術的な縛りが施されている身体では、全くその気にはならない。
とりあえず従っていれば、少なくとも他の実験体のように即座に処分される身ではないということを理解していたのも大きかった。
少女の未だ情緒が育っていない精神でも、流石に死ぬのは嫌だった。
前世の記憶の中でも、最後の瞬間はトラックに撥ねられて苦しみながら死んだものだったのだ。
苦しいと分かっていることを進んで受け入れようとするほど、彼女は自分の痛みに無頓着ではない。
また、実験で日々苦しい思いをしているのも、これ以上の苦痛を回避させようという意思を強めていた。
そんな日々の中で、唯一と言っていい楽しみが、魔術だった。
調整されて生み出された肉体は魔術的な才能に溢れており、地球ではおとぎ話とされていたような現象を次々と再現できたのだ。
これには前世の男の記憶が大いに反応し、少女の意識もそれに釣られて魔術を使える自分に好意を持ち始めた。
主に自らの生みの親のせいで辛いことの多い人生だったが、魔術が使えるのならば生きてもいいかなという具合である。
――さらに暫くが経ち、少しの変化が生まれた。
その時点で少女が生み出されてから既に数十年の歳月が流れていたが、遂に彼女は男の実験施設から外に出ることを許された。
とはいっても、男の管理下から外れたわけではなく、あくまでも今まで行っていた実験の延長であったが、それでも彼女は嬉しかった。
前世の記憶にはない未知の光景の数々。
それらの美しい自然風景は、彼女にとって魔術の次に大事な思い出になっていった。
逆に、いわゆる人間と出会うことは皆無に近かった。
一応彼女の生みの親である男は人型であったが、そもそも何年経っても老けないので人間判定としていいところか微妙だろう。
たしかに男に与えられた知識の中によると、この世界には
ゆっくりであるが、いずれは老い衰えて死んでいくのだ。
そういった原則から、男も、少女も、外れていた。
物心ついてからの最初の数年は、たしかに少女の身体には成長という名の変化があった。
だが成長が止まり、外見の調整も終了すると、少女の外見年齢に変化をもたらす要素はなくなってしまったのだ。
前世の記憶はそのことに酷く違和感を覚え、しばしば彼女のストレスの一因となっていた。
意外なことに、人間であるという事実が前世の記憶にとっては強いアイデンティティであったらしい。
人間であったときは何とも思っていなかったが、いざ人間をやめると気づくものもあるようだ。
とはいえ、その違和感を克服させたのは結局のところ劇的なエピソードなどではなく、単に時間の経過だった。
慣れとは偉大なものである。
さて、少女を使って様々な実験を行っていく傍ら、男は少女の後継モデルを次々と錬成していた。
少女にとっては同じ遺伝子から生まれた、いわば妹のような存在にあたる。
なお、同じ遺伝子というのは、男が自らの血液から採取したものであるため、姉妹という表現はあながち間違ってもいない。
ただ、各個体ごとに細かく遺伝子調整されているうえ、様々な生物から抽出された遺伝子をさらに別々に追加して作られるため、外見が全く異なる個体が生まれることもそう珍しくない。
それこそ、もとになった生物の特徴が色濃く反映されたりなどだ。
流石に上半身が完全に獣になっていたりすると、あまりシンパシーは感じずらい。
まあ少女自身遺伝子の提供元の一つであるドラゴンの要素がそれなりに強く容姿に浮き出ているので、それで忌避感を持つということはないが。
割合としては一応人間の要素が強いとはいえ、彼女とて姉妹たちの外見をとやかく言えるようなものではなかった。
具体的に例を挙げるならば、尻尾、角、鱗、翼などは、彼女の身体の中でも竜の特徴として分かりやすい部分だろう。
さらに身体の細かい組織なども、竜のそれの影響を受けていわゆる
らしいというのは、彼女自身は男からそう教えられただけであまり実感を伴っていないからだ。
ただ自分なりの理解でいくと、ちょっと前世の記憶よりも体が丈夫だったり力が強かったりするな~という具合だった。
彼女はあまり物事を深く考えるタイプではなかった。
というより、深く考えだすと自分の状況に悲しくなるので、あまり考えないようにしていると言った方がいい。
ともかく、竜の遺伝子の影響と彼女の魂に内蔵された魔力炉から供給される無限の魔力によって、少女の老化は極限まで抑え込まれていたのだ。
これは、少女がそうあるようにと設計した男の予想の中でも、最上の部類に入る結果だった。
男もまた不老であったため、老化の完全な抑制という点にはさほど価値を見出さなかった。
しかし目的遂行のため莫大な魔力を必要とすることが予想されていたため、尽きぬ魔力には男も目の色を変えた。
いや男でなくとも、劣化することなく無限に魔力を生成し続ける魂には、誰もが計り知れない価値を悟るだろう。
ただし、少女がそう生まれたのは、あくまでも偶然の要素が大きかった。
男もまた魂という神秘を理解しきれておらず、それゆえにどうして彼女が奇跡を内包して誕生したかを測りかねていた。
もちろん解明しようと数えきれないほど実験を重ねはした。
しかし少女一人から取れるデータは、たかが知れている。
少女の姉妹に当たる存在を次々と作り始めたのは、要するに新たなサンプルの確保のためだったのだ。
少女もまた、男にとっての自分の価値を段々と理解し始めていった。
男の望みに添えなったのか、次々と生み出されては処分されていく妹たちを見ていれば自分が彼女たちとは違うと否が応でも悟る。
やはりその意味についてはあまり考えないようにしていたが、少しずつ不愉快な感情が澱のように溜まっていくのは避けられなかった。
だが結局何もできることはなく、少女は男に従い続けた。
――従い続けて、従い続けて、彼女の中から人間的な情緒はゆっくりと、しかし確実に削られていった。
もともと実感に乏しかった前世の記憶もまた、長い時間の経過とストレスにより薄れていく。
あまりにも単調な、色のない変わり映えしない日々が繰り返され、気づけば少女が誕生してから数百年の歳月が流れていた。
この頃になると少女の役目もまた以前とは変わっていた。
実験体としてデータを取られ続けることに変わりはなかったが、それに加えてもう一つ、男に対し敵対行為を行う存在の排除という任務が与えられた。
とはいえ、彼女の主観的には特に真新しいことはなかった。
もともと実験の一環として、与えられた力の性能テストを他の適当な生物相手に行うことは多々あった。
戦う相手の肩書に、生みの親に対する敵という文字が書き加えられたところで、結局殺す以外に選択肢はない。
むしろ、以前よりも作業が楽になったと感じるほどだった。
従い続けることが存在意義となっていた彼女にとって、生みの親を排除しようと試み続ける相手は、すなわち自らの敵であると変換された。
この時の少女にとっては、アイデンティティを脅かす相手に、容赦する必要などないように思えたのだ。
生みの親が彼に敵対する人々から【魔王】と呼ばれ、多くの命を脅かしているという事実を、彼女は見ない振りした。
義憤を抱くよりかは、何も考えず今までの生活を続けることの方が遥かに楽だったからだ。
ただ同時に、心のどこかでこんなことは間違っていると彼女が感じていたことは確かだ。
それは少女に残された僅かな人間性の残滓であり、ある意味では生みの親に対する最大限の反抗でもあった。
しかし想いはあくまでも想いに過ぎず、行動は伴わなかった。
彼女は変わらず生みの親の命令に従ってその敵対者を排除し続け――ついにその時を迎えた。
自分と同じ黒い髪に、自分とは違う黒い瞳。
そして自分を遥かに凌駕する莫大な魔力をその身に宿した
一目見て、魔王の娘はソレが自分の終わりだと悟った。
生きた年数で言えば、数十倍の開きがあった。
その少女が生まれる遥か前から魔王の娘は戦場で時間の大半を過ごし、それ相応の戦闘経験値を積み重ねてきた。
当然、戦闘に関する技術も心構えも、自分が大幅に上回っているという確信が、彼女にはあった。
だがそれを含めてもなお、まるで勝ち目が見えない相手だ。
他を隔絶し、恐らく自らの親以外に並ぶものがいないほどの魔力だけならば、そうは思わなかっただろう。
対峙する少女の真っ黒な瞳に浮かぶ、未熟ながらも硬い決意が、彼女に終わりを想起させた。
死ぬ。
今まで自らの生みの親以外から感じたことのない、その心の底から忌避しているビジョンが目の前にはっきりと形を成しているように思う。
戦えば間違いなく死ぬ。
……逃げたい。
ああ、最後に逃げたいと思ったのはいつだったろうか。
思い出せなかった。
少なくとも随分前であることは確かだ。
いつまでも終わらない悪夢の中にいるような感覚など、とうの昔に忘れてしまった。
いつしか心は麻痺して、この場から逃げたしたいなんて思うことなどなくなった。
そうしないと、おかしくなってしまいそうだったから。
……仮に自分が逃げ帰ってくれば、あの男はどんな顔をするだろうかと、彼女は想像してみる。
きっと、石のように表情一つ変えることはないのだろう。
もうだいぶ長い付き合いになるが、そんな彼女でさえ、今まで生みの親が感情を顕わにするところなど見たことがない。
いやそれどころか、考えてみればあの人について知っていることなど、なにもないのかもしれない。
そうだ。
結局彼女は、自分が何のために作り出されたのか、その本当の意味を知ることさえなかったのだ。
もっと自分から話しかけてみれば、何か変わったのだろうか。
などとこの期に及んで意味のないことを考えてしまう。
今さらだ。
どうせ彼女にこの先などない。
目の前の
どちらにせよこの長い悪夢が終わることに変わりはなかった。
それならばと、彼女は思う。
どうせ死ぬならば、最後に顔を見るのはどちらがいいかと。
……考えるまでもなかった。
彼女は自分の生みの親のことを嫌っていた。
嫌いな相手の顔を拝みながら死ぬよりかは、顔を合わせたばかりで名も知らないこの目の前の人間に倒される方が、まだましに思えた。
形だけ見れば、最後まで命令に従い続けたということになるのだろう。
それでも彼女にとっては大きな進歩だった。
魔術的な縛りと植え付けられた恐怖によって、今まで碌に抵抗らしい抵抗をしてこなかった彼女は、この瞬間、初めて自分の意志に従って戦うことを決めたのだ。
強制された命令に渋々従うか、命令に自分なりの意義を見出して実行するとでは、大きな差がある。
その差を自分の中でも感じて、彼女はそこでようやく自分の奥深くに怯えながら眠っていた勇気に気づき、少しだけ救われたような気がした。
何も変わらないと諦め、ただ過ぎていく時間に身を任せていた自分だったが、最後の瞬間になってまだ人間の欠片が残っていて嬉しいと、そう思えたことに。
――そして魔王の娘は
今まで彼女がその手で奪ってきた多くの命と同じように。
◆
「――ここは一体、どこだ?」
静けさを湛えた暗闇の中で、
夜闇を見通す眼を持つ彼女だったが、光源の一つもないこの場では流石に周囲の状況を把握することは難しい。
かといって、手持ちの道具で火を起こすことも、先ほどまでの窮地を思い返すと躊躇われる。
仕方なく、恐る恐るといった様子で伸ばした手が、何か硬い壁のようなものに触れた。
「これは……木か」
種族柄、
彼女の特性上、他の同族のように樹木に愛されることはなかったが、それでも触れたモノが木の肌かそうでないかくらいなら余裕で判別できる。
そして先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返り、蛍の僅かな光さえないこの空間。
察するにここは、
そうでなくては、あの忌まわしい白仮面たちに自分がまだ殺されていない理由に説明がつかない。
つまりあの最後の瞬間の賭けは、成功したと言ってよかった。
フウと、息を吐きたくなる気持ちを、グッと抑えた。
まだここは安全な環境ではない。
出口が一つしかな洞穴の中に追い詰められ、その外には熟練の狩人たちが待ち構えていると考えれば、むしろ絶体絶命ですらある。
この状況を打破するには、自分一人では駄目だ。
他の誰かの助けがいる。
彼女の記憶が正しければ、【爪牙】のメンバーは大半が殺されていたために、もうあてにすることは出来ない。
まあもとより彼らが五体満足だったとしても、対人戦に不慣れかつ、単純な実力を比較しても大きく劣る【爪牙】を頼る選択肢はなかったが。
彼女が賭けたのは、この遺跡のどこかにあるという棺だ。
正確にはその棺の中に入っているだろうナニカだが、その正体に関しては何もわからないまま。
まさしく賭けだろう。
何も知らない相手に、一時的とはいえ自分の運命を預けようなどと考えるなんて。
だがやはり、それ以外にこの窮地を抜け出す方法を思いつけない。
たとえどれだけ、か細い希望への糸だとしても、今の自分に諦めるという選択肢がない以上、掴むほかないのだ。
「チッ」
こぼれた舌打ちに内心で苛つきながら、懐から取り出した魔道具を起動させ、光源を確保する。
火属性の魔石を発火させ、錬金術で作られた液体を燃料として使う仕組みだ。
携帯式なためサイズが小さく、液体の容量も少ないため光源として使える時間はそう長くないのが欠点だが、本来は着火のみが目的なため仕方がないだろう。
とにかく、出来るだけ燃料を節約して効率よく遺跡の構造を把握しようと、彼女は周囲を見渡した。
「……は?」
再び困惑の声を漏らした彼女だったが、その原因は二つあった。
一つは、彼女が火を灯したのに呼応するかのように、周囲の木肌から光が漏れ出したこと。
一瞬、何か魔導具でも壁に埋め込まれているのかと思ったが、観察する限りそんなものは見当たらない。
正真正銘、木の肌が薄緑色の淡い光を放っている。
ちょうど、無数の蛍の群れに囲まれているような、そんな光り方だ。
そして、その仄かな光を頼りに目を凝らす限り、今いる場所はドワーフの掘る坑道のように緩やかなカーブを描くトンネルになっている。
このトンネルというのが、思っていたより大きかったというのがもう一つの驚きだった。
カーブしているため正確なところは分からないが、恐らくトンネルの長さは大樹の直径よりも大きいだろう。
流石にトンネルが円を描いているほどの曲がり具合には見えないため、長さ的には幹を横に貫通していてもおかしくないほどだ。
しかし外から見たときにはそうなっていなかった以上、どちらかの視覚情報がおかしいと考えるほかない。
「やっぱこれほんとに木なのかどうかすら怪しいな」
少し前の自分は
とはいえ今は考察している余裕など微塵もないと思い直した彼女は、頭よりも足を動かすことを決めた。
目指すは遺跡の最深部。
より魔力が滞留していると感知できる方向だ。
こういった遺跡の構造上、どうしても重要なものを隠している最深部にこそ魔力が溜まる傾向にある。
この遺跡が普通の遺跡よりもおかしな構造をしている可能性もそれなりにあるが、かといって他に頼りになる基準もない。
グズグズしていてはあの白仮面たちが何をしてくるか分かったものではないため、ここは手早く棺を探し当てたいところだ。
最悪、この巨木ごと丸焼きにされることもないとは言い切れないのだから。
「……着いたか」
走り始めてから暫し経ち、彼女は今までとは違った構造の空間へと到着した。
ちなみにここまでの道中で必要がないと判断した魔道具は、既に消灯したうえで懐へと仕舞い直されている。
木肌から発せられている光は弱いとはいえ彼女にとっては十分見通しがきくものであったし、それが消える気配もないのだからなおさら自前の光源は必要なかったのだ。
彼女は無駄が嫌いだった。
それにたとえ僅かな燃料であっても、ここで無駄遣いしてはこの後の展開次第で幾らでも不利な材料へとなり得る。
自分のミスでこれ以上不利な状況を作るのは御免だった。
「しかしこれは、凄いな」
その空間は、巨大なお椀を覗き込んだような形をしていた。
直径は恐らく大樹のそれと同じくらいだろうか。
同じ角度で両者を比べたことがないから正確なところは分からないが、そう間違ってもいない気がする。
そのお椀の縁の部分に、ちょうどトンネルの終点が位置していた。
つまり彼女の位置からは空間の全体が上手いこと把握できるということになる。
「……あれが、依頼にあった棺か」
必然、ソレを見つけるのも容易だった。
いや、たとえこの空間のどこにいたとしても、すぐに気づけたことだろう。
なにせその棺はお椀の真ん中――一番底に安置されていたのだから。
まるでこの空間自体が棺という主人を如何に相応しく置くか考えられて作られたかのように、その構図は似合っていた。
「ッ。なんだ?」
思わずその棺をまじまじと見つめていた彼女だったが、突如として空間全体に響いた轟音と衝撃でハッと我に返った。
衝撃は一度ではなく、連続して、かつ複数の方向から響いているように聞こえる。
だがその音自体は、空間に反響して響きこそ変化しているものの、つい最近聞いた覚えのあるものだった。
そう、あの爆裂する矢。
あの矢が炎を吹き上げるときに、同じ音を聞いていた。
つまり彼女という鼠を追い詰めて業を煮やした狩人たちは、追い詰めた先の洞窟を崩して彼女を生き埋めにするつもりなのだ。
いやこの巨木の場合、幹に火をつけて中の鼠ごと燃やし尽くすつもりといった方が正しいか。
何にせよ、あまり楽しい死に方ではない。
そもそも、死ぬこと自体真っ平ごめんなのである。
彼女には生きてこの窮地を切り抜け、やるべきことがあるのだ。
「クソッあいつら。流石にこのまま大人しくしといてはくれなかったか」
悪態をつきながら、彼女は木で出来た天然の階段を勢いよく駆け降りる。
その間も轟音は鳴りやむどころかむしろ激しさを増しており、どうやら向こうは本気でこの巨木を破壊するつもりらしい。
いやむしろ相手がそこまでしなければならないほど、この木の形をした
何にせよ、この状況ですぐに燃え上がらないのは彼女にとっては願ってもない幸運。
とはいえ流石に相当の負荷がかかっているのか、パラパラとこの空間を構成する壁が崩れ始めているあたり、あまり時間はないのだろう。
「――間に合ってくれよ!」
駆け降りた先にある棺の前に立った彼女は、小刀を引き抜いて、先ほどこの遺跡の結界を破ったときと同じように、掌を斬りつける。
裂けた肌から溢れた鮮血を吸い込み、小刀が赤黒い光を放ち始めた。
その光が消えないうちにと、彼女は渾身の力で棺に両手を振り下ろす。
パキリと、何かが砕けた音がした。
目には見えないが、確実に触れるものを妨げていた障壁を貫いて、両手に握りしめられた刃が棺へと突き刺さる。
精緻な模様が彫り込まれた木製の棺だった。
模様はそれ自体が魔術的な意味を持ち、様々な効果をもたらしていたのだろう。
中に収めたものの時間経過を止めることはもちろん、不用意に開けないように封印としての役割もこなしていたはずだ。
それを今、彼女が壊した。
つまりその結果が意味するところは、彼女にとっての希望が目覚めると同時に、もう棺の中にいるモノを抑える枷がなくなったということ。
ソレが彼女にとって本当に希望をもたらすものであるのか、今さらだが恐怖が湧き上がってくる。
その恐怖を、彼女は理性で押さえつける。
もう賽は投げられたのだ。
あとは出た目に従って最善を尽くす以外ない。
恐る恐る、棺に突き刺さった小刀を引き抜き、続いて棺の蓋に手を伸ばす。
そしてゆっくりと、意外なほど重く感じる蓋を震える腕でずらし、棺の中を覗き込んだ。
「……こいつが、あのオッサンが欲しがってた棺の中身?」
最初に浮かんだのは、疑問だった。
それほど、棺の中には彼女の朧げなイメージとはまるで違うものが入っていた。
ソレには角が生えていた。
そして正直なところ、その額から僅かに捻じれて突き立った黒檀のように黒い角を含めて、彼女はソレを美しいと思った。
たしかに仄かな薄緑色の光の中でさえ人形のように整い、
だが容貌だけで言えば、あくまでも目を惹かれる程度。
仮に街中ですれ違えば記憶に残るが、それ以上何を思うこともないだろう。
しかしソレには、単純な造形の美しさだけではないナニカがあった。
それは額から伸びた竜を思わす角や、頬の一部を覆う黒い鱗を加味しても説明しきれないものだった。
無論それらが総合的な評価に影響していることは疑いようがなかったが、それだけで済む話でもなかった。
敢えて言うのであれば、ソレの顔に浮かぶ人としての苦悩を重ねてきた表情にこそ、彼女が目を奪われた理由があったのかもしれない。
さらに言えばその表情は、蓋を開けるまで彼女が想像していた恐ろし気な化け物には、到底浮かべることのできないモノだった。
「――人の顔をジロジロと眺めて楽しい?」
「なっ」
突然聞こえてきた声と、自分を覗き返してくる黄金の瞳に驚いて、反射的に彼女はその場から飛びのいた。
「そんなに驚くことはないんじゃない? そっちもその気でボクのことを起こしたわけでしょ。こんなに滅茶苦茶に術式を破壊するなんて、よっぽど焦っていたのかな?」
一瞬前まで死体のように身動き一つしなかったのが噓のように、軽快な動きで棺から飛び出したソレは、自分を縛り付けていた棺の蓋をまじまじと眺めながらそう言った。
「まあいっか。この騒がしさで、何となく状況は分かった気がするし。とりあえず外の騒音を何とかしてくればいいんでしょ?」
興味を失ったのかポイと投げ捨てられた蓋が、凄まじい速度で木の壁に激突してガーンと大きな音を響かす。
その音に少しだけ非現実的な要素を感じた彼女だったが、その直後に響いた外からの轟音で、再び意識を現在の状況に向け直した。
そして今まで若干フリーズしていた脳にソレの言葉が急速に染み込み、慌てて言葉を紡ぐ。
「い、いや待て。外の連中に関しては別に倒す必要はないんだ。お前がアタシに協力してくれるんだったら、とにかくこの場からアタシを連れて離れることに力を使ってほしい」
これは本音だった。
確かに今見たように、目の前の竜と人間が混ざったような姿をした存在が、人外の膂力を持っていることは素直に頼もしい。
しかしそれだけであの白仮面たちに対抗できるとは思えなかった。
なにより、戦闘能力においてもっとも重要な要素である魔力が、目の前の存在からはさほど感じ取れない。
これでは突っ込んで言っても死体が増えるだけだ。
幸いなことに、此方にかなり友好的ではあるから、出来るなら囮として注目を稼いでもらいたいところだった。
しかしそう素直に言うわけにもいかず、どう誘導したものかと頭を悩ます。
ただもとからそんなに口の巧い方ではない彼女に、そう簡単に都合のいい文句が浮かぶ筈もなく、数秒の沈黙が続いた。
「――う~ん。よくわかんないけど、とりあえずこのままここにいてもしょうがないから、まずは外に出よっか」
「は? いやちょっと待っ」
口を開いては閉じることを繰り返していた彼女のことを面白そうに眺めていたソレだったが、そんなことを言うのと同時に彼女のことを勢いよく担ぎ上げた。
突拍子のない行動にどう対応すればよいのか硬直していた彼女だったが、流石に俵のように担がれた状況に抗議の声を上げる。
「お、おい! 馬鹿にしてんのか?! 幾らなんでも自分の足で歩けないような赤ん坊だと思ってるんじゃないよな?!」
「イヤだな~。そんなこと思うわけないじゃん。それくらいの常識くらい持ってるよ。でも君、歩けはしても飛べないでしょ?」
「は? ってまさか?!」
この日、生まれて初めて彼女は光になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます