第10話
足が軽い。今日の私の跳躍力はいつもと比べ物にならず、高い位置にあるボールも簡単に叩くことができる。ばしん、と音を立てて、ボールを相手のコートに撃ち落とす。その瞬間、チャイムが鳴った。
「くるみ、すごいね今日。どしたの?」
「今日、両親がうちにいなくて」
「ふーん……えっ、待って。もしかして、恋人とかできた感じ?」
結愛は驚いた様子で問う。私は笑った。
「違う違う。ただ久しぶりに妹と二人きりだから、ごはん何作ろうかなって思って」
「びっ……くりしたぁ。そういうことかと思っちゃったじゃん」
「そういうこと……?」
「てか、妹ちゃんにごはん作れるからって、そんなご機嫌になる?」
「なるよ、久しぶりだもん」
最近はみずきとゆっくり話す機会もなかったから、今日はちょっと楽しみなのである。両親が普通の時間に帰ってくるようになってからというもの、私がごはんを作ることもなくなって、みずきと二人で話すこともほとんどなくなったから。
彼女も今日は特に用事がないようだし、早く家に帰ってごはんの準備をするとしよう。
せっかくだし、彼女が一番好きなハンバーグを作ろうかな。ポテトサラダもみずきの好物だから、それも。
「好きだねー、妹ちゃんのこと」
「うん、それはもう。ずっと一緒だったからね」
両親の帰りが遅かった頃は、みずきと毎日一緒だったものだ。その分友達はあんまりできなかったけれど、みずきとの時間が楽しかったから問題はなかった。
友達と普通に遊べるようになった今も、楽しいといえば楽しい。でもやっぱり、ちょっと寂しいのだ。みずきも反抗期になってしまったし。
「はー。ゆめもお姉ちゃんいるけど、あんまり関わりないんだよなぁ。姉妹で仲良いの、ちょっと羨ましいかも」
「最近はみずきも反抗期っぽいんだけどねー」
「ありゃ、大変だねくるみお姉ちゃん」
そういえば、私は反抗期になったことがない。そもそも反抗する相手がいなかったせいかもしれないが。
私は着替えを済ませてから、教室に戻ろうとした。その時、空橋さんが前を歩いているのが見えた。相変わらず彼女は友達が多いらしく、廊下を歩くだけで他のクラスの生徒から何度も話しかけられていた。
私に見せるのと同じ、綺麗な笑顔。別に私が特別だなんて思ってはいなかったけれど、やっぱり彼女は誰にでも同じらしい。
少し、胸が変な感じだった。
「相変わらず人気だねー、空橋さんは」
結愛が言う。
「ね。どうしたらあんな色んな人と仲良くできるんだろうねー」
「ほんと。ゆめなんてくるみと仲良くするので精一杯だよ」
「私、そんな仲良くするの大変な感じ?」
「そういうわけじゃないけど……」
空橋さんは立ち止まって他のクラスの子と話している。その横を通り抜けようとした瞬間、目が合った。彼女はにこりと笑って、小さく手を振ってくる。私は少し驚いてから、彼女に手を振り返した。
「……空橋さんと仲良いの?」
「ちょっと縁があってね」
「縁かぁ……。くるみは裏切り者になったらだめだよ?」
結愛は怪訝そうに私を見ている。まさか彼女の飼い主になりました、なんて言えるはずもなく。私は曖昧に笑う他なかった。
教室に帰ってから、私は結愛と世間話をして過ごした。空橋さんが教室に戻ってきたのはチャイムが鳴る数分前で、特に話しかけられることもなかった。
授業中も今日の献立について考えていたら、あっという間に一日が過ぎる。今日は特に空橋さんに誘われることもなかったから、私はすぐに学校を後にして、地元のスーパーに向かった。
あんまり夕飯を豪華にすると、浮かれすぎって言われてしまいそうだから、気をつけて食材をカゴに入れる。
こういうの、本当に久しぶりだ。お父さんやお母さんが作ってくれるごはんももちろんいいんだけど。やっぱりごはんは、自分で作りたいって思ってしまう。そっちの方が、慣れているし。
私は二人分の食材を買ってから、家に帰った。
まだみずきは帰ってきていないらしく、家には誰もいない。夕飯を作るには早い時間だけど、準備しておく分には問題ないだろう。私は鍋でお湯を沸かしながら、玉ねぎを炒め始めた。
しばらく作業をしていると、家の扉が開く音が聞こえて、一度火を止める。
「おかえり、みずき」
「……ただいま、くるみ」
相変わらずの呼び捨てである。あんなにお姉ちゃんお姉ちゃんって呼んでくれてたのになぁ、と少し寂しくなるけれど、今日はそれもあんまり気にならない。
私は彼女に笑いかけた。
「寒かったでしょ。なんかあったかいもの飲む?」
「いい。すぐ出るし」
「……え」
「さっき、友達にお泊まり誘われたから。悪いけど、友達んち泊まる」
「あ……そうなんだ。楽しんできなよ。車には気をつけてね」
「ん」
彼女はそれだけ言うと、部屋に歩いていく。
私は一度キッチンに戻って、なんとなく再び火をつけた。すでにある程度食材の下拵えは終わらせてしまったし、じゃがいもだって一人じゃ食べきれないくらい茹でている。どうしたものかと思っていると、扉が閉まる音が聞こえた。
どうやらみずきは、もう行ってしまったらしい。
せめて行ってらっしゃいくらいは言いたかったんだけど、それも迷惑か。
私は料理を完成させる気力を失って、ソファに寝転がった。
そりゃあ、まあ。
みずきだってもう中学生なのだから、友達の家に泊まるくらいはするよなぁ。別に今日は絶対家でごはんを食べようね、なんて約束していたわけでもないし、予定が変わることだって普通にあるだろう。
……なんて、自分に言い聞かせてみるけれど。
少しだけ、もやもやする。久しぶりに二人でごはんを食べられると思っていたから、いきなり一人になるとどうしたものかって感じだ。
こういう時に連絡できる友達なんて、いないし。
とりあえず今日食べられる分だけ焼いて、残りは明日の朝にでも食べようかな。なんて思うんだけど、立ち上がる気が起こらなかった。
「……はぁ」
居場所がない、わけではない。みずきのお世話をしなくたって、私は私だ。家が前より賑やかになって、家族の時間も増えて、友達とも遊べるようになって。それは嬉しいことのはずなのに、しっくりこない。
これまで私とみずきが座っていた席には、お父さんとお母さんが座るようになった。
これまでごはんを作るのは私の役割だったけれど、今は二人の役割になった。
今まで私に苦労をかけたから、今後は自分たちがやる、とのことだけど。あんまり嬉しくはなかった。
私の役割がどんどん奪われて、することがなくなって。みずきからも、お姉ちゃんじゃなくてくるみって呼ばれるようになって。なんとなく、家にいても拒まれているような気がするのだ。ガラス一枚隔てた向こうに、家族がいる感じ。
なんて、私が勝手に思っているだけなんだけど。
少なくとも両親は、私のことを気にかけてくれている。
寒いなぁ、と思う。そういえば、まだエアコン、つけてないや。つけるのも、なんだか面倒臭いのだが。ずんとお腹が重い感じがして、立ち上がれないまま、ぼんやりとスマホをいじる。
その時不意に、スマホが震えた。
見れば、空橋さんからメッセージが送られてきている。
『今何してる?』
彼女からこうしてメッセージをもらうのは、初めてだった。そもそも連絡先を交換した覚えはないのだが、クラスのグループには私も一応入っているから、それ経由だろうか。
私はのろのろと返事をした。
『ぼーっとしてる』
『珍しいね』
そんなに珍しいかな、と思う。
彼女は私をどんな人だと思っているのだろう。よくわからないけれど、なんとなく私は立ち上がって、キッチンに戻った。ポテトサラダを作る予定だったから、せめてじゃがいもは潰してしまおう。
熱いうちにやらないと、後で大変だ。
人のためにごはんを作る時はこういう作業も楽しいのだが、自分のためだけにやると思うと少し面倒臭かった。
じゃがいもの皮を剥いて、潰していると、またスマホが震える。メッセージかと思ったがそうではなく、空橋さんから電話がかかってきている。私はちょっと迷ってから、画面をタップした。
「空橋さん? 何かあったの?」
『ううん。何もないけど、ちょっと声が聞きたくなって』
スマホ越しに、ざわめきが聞こえる。
どうやら彼女はまだ外にいるらしい。まだ遅い時間ではないから、家に帰っていなくてもおかしくはないけれど。
私は肩と頭でスマホを押さえながら、じゃがいもを潰していく。
みずきは滑らかになるまで潰したものの方が好きだけど、多分帰ってきても食べないだろうし、荒めのままでいいか。
「そうなんだ」
『うん』
沈黙が訪れる。
今私に話せることなんてなくて、空橋さんも特に用事はないみたいだから、会話が続かないのも仕方のないことだ。
少し腕が疲れてきたから、一旦作業を終わらせる。いっそこのまま、コロッケでも作ってしまおうか。いや、やらないけど。
「外、寒くない?」
ソファに戻って、なんとなく聞いてみる。
エアコンの効いていない部屋の中は、ひどく寒い。きっと外は、この部屋よりもっと寒いんだろう。
『平気だよ、マフラーしてるし』
「そっか。あんまりずっと外にいると、風邪引いちゃうかもだから。気をつけてね」
『心配性だなぁ、くるみは』
「……そうかもね」
最近は賑やかな家の中も、今はひどく静かだ。壁にかけられた時計の音だけが、カチカチと鳴り響いている。
私もどこか、行こうかな。といっても、あんまり遊び慣れてないから、どこに行けばいいのかわからないけれど。
『くるみは今家?』
「そうだよ」
『そっか。今日は妹ちゃんと二人きりなんだっけ?』
結愛との会話、聞いていたのか。
近くに空橋さんの姿はなかった気がするが、どうなんだろう。空橋さんって、耳がいいのかな。
「その予定だったけど、みずき、お泊まりするんだって。だから、一人」
『なるほど。だから声がちょっと沈んだ感じなんだ』
「私、沈んでる?」
『割と』
人に言われて初めて、胸の痛みに気づく。こんなことで胸が痛くなるって、馬鹿みたいだと思う。私だってもう子供じゃないのだから、一人でいるくらい平気なはずなのに。
私は小さく息を吐いた。
『くるみ、今時間ある?』
「え? あるけど……」
『じゃあちょっと、遊ばない?』
「遊ぶって……」
『今から言う場所に来て! えっとねー……』
強引である。彼女は私が来ると信じて疑わない様子で、今いる場所を教えてくれる。幸い電車で三十分もしない場所だから、行けないことはないけれど。
『じゃね! 待ってるから!』
「ちょっ……」
何か言う暇も与えず、彼女は電話を切ってくる。私は静かなリビングで、少し迷ってから、立ち上がった。作りかけのごはんにラップをかけてから、家を出る。最近は家に人がいることが多かったから、出かけるときに鍵を閉めるのも久しぶりな気がする。
私は空を仰いだ。
もうすっかり辺りは暗くなっているけれど、遠くに夕暮れの残滓が見える。息を吐くと瞬く間に白く染まって、それを見ているだけで体が震える気がした。
「……寒い」
マフラーに顔を埋めるようにして、早足で歩く。この時間に駅に向かうなんて久しぶりだから、足元がふわふわした。
心臓の鼓動が、いやに速い。
それが痛みのせいなのか、他の感情のせいなのかは、わからないけれど。
ただ、今は空橋さんの顔が見たい、と思った。
電車に揺られて、目的地の駅に着く。彼女はこの駅の改札で待っている、と言っていたが。帰宅途中と思しきスーツの人々に押されるままに歩いて、改札を通る。空橋さんはどこにいるか探そうとしたけれど、その必要はないようだった。
彼女は、目立つ。
学校でも外でも、彼女は人々の視線を集めるのだ。だから、ざわめきと人の視線の先に目を向ければ自然と、空橋さんを見つけられる。
目が合った。
見る角度によって色を変える瞳は、この世のものとは思えないほど綺麗だった。
知り合いを学校の外で見つけた時の、この言い知れない感じはなんなのだろう。退屈そうな顔をしていた彼女は、私と目が合った瞬間に花が咲いたような笑みを浮かべる。
「くるみ! こっちこっち!」
私を見つけるまでは大人びた表情だったのに、急に子供の表情になってぶんぶん手を振ってくるものだから、胸が変になる。
みずきが私のハンバーグを食べて笑ってくれた時のような、胸の鼓動。
私は今、どんな表情でいるんだろう。ちょっと疑問に思いながら、彼女に手を振り返す。たったそれだけのことで、胸がじわりと温かくなった。
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