第9話
「本、好きなの?」
「うん。だって、普通じゃありえないような世界がたくさんあって面白いし」
「……確かに」
こうして空橋さんと二人で放課後に遊びに来ること自体、私にとっては普通じゃありえないようなことだ。そもそも同級生の飼い主になるなんて、ついこの前までは思ってもみなかった。いや、思っていたら怖いけれど。
「私、毎日楽しく生きてはいるけど、たまーに退屈だなって思うんだ。張り合いがないっていうか、もっと大変なことがないとつまんないっていうか」
「なるほど?」
空橋さんくらいの人になると、そういうこともあるのだろう。私には、よくわからないけれど。
「……うん、面白そうだし、これ買っちゃお」
「決断早いね」
「こういうのは一期一会だからね。ビビッときたらすぐ買うくらいがちょうどいいんだよ」
らしい言葉だ。
なんに対しての「らしい」なのかは、私自身よくわからないが。
「くるみもなんか買おうよ。私、くるみの好きなジャンルとか知りたいな」
「うーん……私、あんまり本読まないから」
「そっかー。じゃあ、いい機会だね!」
彼女はにこりと笑う。なんというか、ポジティブだよな、と思う。
私は彼女の明るさに後押しされるように、店内を歩いた。だけどいまいち、しっくりこない。本の表紙を見ても、あらすじを見ても、どうにも食指が動かないというか。雑誌を見てみても、頭に入ってこない。
何を買うか期待した彼女の視線が、痛い。
せっかく空橋さんの好きな場所を教えてもらったのだから、私も一つくらい、好きなものを教えたいのだけど。思えば私は、人に教えられるほどの「好き」がない。料理は好きだけど、どっちかというと作るのが好きってより、自分の料理を人が食べているのを見るのが好きなのだ。
空橋さんと同じように、これが好きって胸を張って言えるものがあればいいのだが。
思わずため息をついた時、絵本のコーナーが目に入った。
懐かしい本を見つけて、なんとなく手に取る。
ちょっとだけページをめくってみると、思わず笑ってしまった。昔、みずきに読んであげたことがある絵本だ。あの頃のみずきを思い出すと、自然と笑顔になる。
「あ、絵本。好きなんだ?」
「うん、好き」
私の言葉に、彼女が目を丸くする。
私も驚いた。
絵本が特別好きってわけではないはずなのに、即座に断言した自分に。
「……そっか。くるみ、すごく優しい顔してる。もしかして、みずきちゃんとの思い出?」
私は小さく頷いた。
「寂しくて泣いてる時でもね。絵本を読んだら泣き止んでくれて、それが嬉しくてね。この本、まだうちにあるかなぁ」
昔の絵本、どこにしまったっけ。
そう思っていると、横から手が伸びてきて、絵本を攫った。
「せっかくだし、買っていこうよ。もしかしたら、新しい発見があるかもしれないし」
私は少し目を丸くしてから、笑った。
「そうだね。今見たら、前より色んなことに気づくかもしれないし、買おっかな」
私が笑うと、彼女も笑う。
それだけのことが、嬉しかった。
それから二人で店内を一度ぐるりと見て回ったけれど、特にこれという本には出会えなかった。私は会計の列に並びながら、彼女の買おうとしている本を眺めた。よく見ればそれは、最近流行っている恋愛小説のようだった。
視線に気づいたのか、彼女は私のことをじっと見つめてくる。
「どうしたの?」
「ううん。小説、恋愛ものなんだね」
「普段は読まないんだけど、なんとなくね。私、恋したことってないから、あんまり共感できないんだけど……今なら楽しく読めるかなって」
「それって……」
彼女は意味深に笑って、本をレジに持っていった。
彼女が私を好きになる理由なんてなから、違うと思うけど。今のはそう言いたげな笑みだったな、と思う。
だからってドキドキするほど、私は単純ではないが。
やっぱり彼女は、不思議な人だと思う。そんなことは飼い主になって、と言われた時からわかっていたことではある。
……でもなぁ。
彼女が会計を済ませた後、絵本の代金を彼女に渡そうとしたものの、断られてしまった。無理に渡そうとするのも良くないかと思って食い下がるのはやめたが、少し気まずかった。
書店を出ると、寒さが身に沁みた。コートを着ていても、首から上は守りきれないわけで。冷たい風に、少し鼻が痛くなるのを感じる。血は止まっているが、まだ少し痛みは残っている。怪我をして血を出すのなんて久しぶりだから、やや体力を奪われている感じがした。
空橋さんは寒さの中でも変わらず、堂々と歩いている。
もう結構いい時間だけど、まだ帰る気はないらしい。私はその背中に、ついてこいと言われているような気がした。
この時期の都会は、何かと輝いている。
イルミネーションもそうだし、人の表情もそうだし。やっぱり皆、クリスマスにはワクワクするものなのだろう。私がクリスマスに興味を持てないのは、誕生日と被っているせいなのかもしれない。家で誕生日プレゼントをもらうことはたまにあったけれど、クリスマスプレゼントはもらったことがほとんどないし。
ここ数年はみずきへのクリスマスプレゼントを選ぶのに夢中で、自分の誕生日すら忘れかけていたが。
「ね、くるみ」
不意に、彼女は振り返ってくる。
イルミネーションが、痛いくらい輝いていた。並木に取り付けられた数々の電飾は、夜を昼に近づけるくらいの輝きを秘めている。
イルミネーションを見に来たらしい人々が、私たちの横を通り抜けていく。
「今日はくるみの好きなもの、知れてよかった!」
彼女はそう言って、無邪気な笑みを浮かべた。
その笑みに、目を奪われる。まだわからないことの方が多いし、よく知りもしない同級生に飼い主になって、なんて言ってくる変な人ではあるんだけど。それでも今の笑顔は綺麗で、可愛くて、見ていると私も自然と笑顔になる。
「うん、私も……空橋さんの好きなもの知れて、嬉しかったよ」
「なら、もっと教えてあげる!」
「え? あっ……!」
触れる。
彼女の手が、私の手に。ひんやりして、さらさらしている感触に、緊張する。人と手を繋ぐことなんて、普段ないから。それでも引っ張られてしまったら、進むしかなくて。
自然と体が、前に進む。たくさんの人々の隙間を縫うように、彼女は軽やかに駆け出す。ローファーが地面に触れる音が高らかに響いて、耳が非日常で満ちた。彼女の姿が、奏でる音が、私の日常になる日はきっと来ないんだって、なんとなく思う。だって彼女は、日常に溶け込むにはあまりにも綺麗すぎる。彼女はきっと、誰の日常にもならないのだ。
金色の髪が、眩しい。
この奇妙な関係がずっと続くのか、そのうちただの友達になるのか、今の私にはよくわからないけれど。
彼女にもたらされる非日常を、今は少しだけ、楽しみだって思う。私はもしかすると、彼女にすでに侵食されているのかもしれない。
「見て見て! クリスマスマーケットだって! 平日でもやってるんだねー。見に行ってみようよ!」
「……ふふ、そうだね。でも、あんまり急いだら危ないから、ゆっくりね」
私と彼女の住む世界は交差しないと思っていたのに、今だけは少しだけ交わっている。気づけば私は自然と、彼女と会話ができるようになっていた。
イルミネーションの中に、いくつかお店がある。
私が知らないだけで、毎年きっと、こうやってたくさん人が集まる場所が地元にもあるんだろうな。空橋さんを見ていると、自分が狭い世界で生きていることを実感する。井の中の蛙も、それはそれで悪くはなかったけれど。
「大人になったらこういうとこでホットワインとか飲んでみたいなー」
「空橋さんとワインって、合うかもね」
「くるみはー……カシスオレンジとか似合いそう!」
「どういうイメージ?」
「イメージっていうか、可愛いから、なんとなく!」
可愛いという言葉の感触は、不思議だ。耳から直接心臓に落ちてきて、心をドキドキさせるような感じ。心が心臓にあるかは、わからないが。
「待って、ホットチョコだって! 飲んでこうよ!」
「そうだね」
今日の空橋さんは、いつもより少しテンションが高い気がする。もしかしたら、私以外にはいつも、こんな感じなのかもだけど。
私たちは二人で列に並んで、ホットチョコを買った。今度はさすがに、奢ろうとする彼女を止めておいた。私はあんまり、奢ったり奢られたりが得意じゃないのだ。まして相手は、空橋さんなわけで。
マーケットを抜けた先の広場で、私たちはホットチョコを飲むことにした。
「あ、待って待って。写真撮ろうよ、今日の記念に」
「いいけど……」
彼女は私に肩をくっつけて、何枚か写真を撮る。
文化が違うなぁ、と思う。
私のグループでは、ものを食べる前に写真を撮ったり、皆で写真を撮ったりする文化がない。別に恥ずかしいってわけではないのだが、純粋に、ルーティンに組み込まれていないというか。
結愛は何かと、私と一緒に写真を撮りたがるけれど。
私はそっと、容器に口をつけた。
ちょっと熱いものの、甘くていい香りがして、美味しい。ホットチョコは初めて飲んだが、クリスマスって感じの味がする。どんな味かって聞かれたら、具体的には答えられないけど。
「あちっ」
珍しい声がした。
思わず声のした方を見ると、空橋さんが舌を出しているのが見えた。
相変わらず、鮮烈な赤。
「大丈夫?」
「熱いね、これ。私、猫舌だからちょっと冷まさないと」
意外な言葉に、驚く。
なんだかおかしくて、つい笑ってしまう。空橋さんは珍しく、不満そうに眉を顰めていた。
「……人の体質笑うって、ひどくない?」
「ごめん。でも、いつも犬になりきってるのに、猫舌って……あはは」
「もしかしてくるみって、笑いのツボ浅い?」
「わかんないけど……ふふ、可愛すぎ」
「……は」
私は容器に息を吹きかけてから、中身を口に含んだ。まだまだ熱そうだけど、さっきよりはぬるくなってきた気がする。
「はい、どうぞ。口つけちゃったけど、ちょっと冷めてきたから。飲めると思うよ」
「え、あ、うん。……ありがと」
友達と飲み物をシェアすることくらいは、たまにある。結愛は隣の芝生を青く感じるタイプらしく、私の食べているものや飲んでいるものを欲しがるのだ。昔からみずきとは色んなものをシェアしてきたから、その辺は抵抗がない。
「……美味しい」
「ね。ホットチョコ初めて飲んだけど、こんな美味しいんだね」
思えば、この前彼女に出してもらったお茶が妙にぬるかったのは、猫舌だったからなんだな。意外な弱点を知って、少し親近感が湧く。私もそういうの、何かあったっけ。あんまり思いつかないけれど。
「そうじゃなくて……」
彼女は何かを言いかけて、やめた。いつも色んなことを直球で言ってくる彼女にしては、珍しい。私は目を丸くした。
「やっぱ、いい。……あったかいね」
「うん」
一度、会話が止まる。だけど温かいものを飲んでいると、沈黙もあまり気にならない。ぼんやりとイルミネーションを見ていると、周りの人たちの楽しそうな声が耳に入る。幸せそうな声は、聞いているだけでこっちまで幸せになるような感じがした。
「私、イルミネーションって好き。キラキラだし、見てるだけで楽しいし、雰囲気いいし」
「そっか。私も見に来るのは初めてだけど、ちょっと好きになったかも」
「よかった。私の好きなもの、くるみにも好きになってもらえると嬉しいよ」
彼女はふわりと笑う。
チョコの甘い匂いが、まるで彼女から香ってきているみたいな、そんな気がした。可愛くて、甘やかな笑顔だ。
「ね、くるみ。私も絶対絵本、好きになるよ」
「どうして?」
「くるみの好きなものだから」
一瞬、息が止まった。なんでこんなに綺麗なんだろう、と思う。同じクラスにいるのに、同じ人間とは思えない。だけどこうして私は、彼女と肩を並べて同じものを飲んでいる。
私は彼女と交換した容器に口をつけた。まだちょっと、熱い。
「……そっか」
「ね、ね。手、また繋いでいい?」
「いいけど……飲み物、こぼさないようにね?」
「そこまで子供じゃないよ」
何もかもが楽しくてたまらない子供みたいに、彼女はにこにこ笑っている。私はそんな笑顔に共鳴するように、くすりと笑った。
今日だけで、空橋さんにずいぶん近づけた気がする。
わからないことは、まだ多いけど。みずきの名前を知っていた理由とか、私を選んだ理由とか。
最初から彼女は私に対して、妙に好意的な気がする。誰に対しても同じだけかもしれないが。
ひんやりした手と手を繋いで、温かい飲み物を飲む。
こんな経験は初めてで、ちょっとそわそわして、ドキドキして。だけど彼女から、目を離すことができなかった。
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