第2話「届かない距離、募る気持ち。」

佐伯一は、会議室のテーブルに並べられた資料を眺めながら、静かに息を吐いた。


明日は、初めて一人で任された広告案件のプレゼンテーションだ。


クライアントは業界でも有名なスイーツブランド。

成功すれば、営業としての評価は間違いなく上がるだろう。


しかし、一が心のどこかで気にしているのは、もうひとつ別のことだった。


「……リノさんか。」


資料の端に添えられた、工藤リノの手書きのコメントを指でなぞる。


彼女は今回の案件で一緒に仕事をしているフリーランスライター。

文章のセンスは抜群で、クライアントの希望を的確に捉えたコピーを書き上げる実力派だ。


だが、それだけではない。

リノには、どこか謎めいた雰囲気がある。


いつも冷静で、感情を表に出さない。

誰に対しても丁寧で柔らかい態度を取るが、それ以上は決して踏み込ませない。


最初は「仕事に徹している人なんだな」と思っていた。

だが、何度も顔を合わせるうちに、一は気づいてしまった。


――リノは、他人との間に見えない壁を作っている。


なぜなのか。

それが気になってしまう。


(美人だから、だけじゃない。俺は……もっと知りたいんだ。)


考えれば考えるほど、仕事に集中しなければならないのに、気持ちが揺らいでしまう。


「……ダメだ、今は仕事に集中しろ。」


小さく呟きながら、一は改めてプレゼンの準備に意識を向けた。



しかし、翌日。

プレゼンの直前に、予想もしなかったハプニングが起こる。


「佐伯くん、大変!資料が……!」


リノが駆け寄ってきた。


「え?」

「資料のファイルが、開かないの。」


なんと、肝心のプレゼン資料のデータが破損していたのだ。


「……嘘だろ?」


一は一瞬頭が真っ白になった。


「とりあえず、できる範囲で修復を……」


リノは冷静に言うが、時間はもうほとんど残されていない。

このままでは、プレゼンが台無しになってしまう。


「……俺が話します。覚えてる範囲で。」

「え?」

「リノさん、俺が話す内容に合わせて、簡単なメモを書いてくれますか?」

「……わかった。」


リノはすぐに頷き、手元のノートを開いた。



プレゼンが始まる。

一は、これまでの準備と、リノと積み重ねてきた時間を信じて、堂々と話し始めた。

リノはそんな一の姿をじっと見つめながら、時折メモを書き足していく。


その姿を見て、一は改めて確信した。


――彼女の力になりたい。


だが、それと同時に、彼女の心に踏み込めないもどかしさも感じていた。



プレゼンは無事に成功し、クライアントからも高評価を得ることができた。

しかし、一の心には、まだ整理のつかない感情が残っていた。


「リノさん、ありがとうございます。」

「ううん、佐伯くんがすごかっただけ。」


そう言いながらも、リノはどこか遠い目をしていた。


(……やっぱり、彼女にはまだ見えない壁がある。)


彼女が何を抱えているのか、まだ知ることはできない。


だけど。


「……また、一緒に仕事できるといいですね。」


一は、そう呟くしかなかった。

もどかしいまま、次のチャンスを待つしかないのだ――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る