暁光
暁光。それは明け方に東から昇る太陽から放たれる光。後藤ちひろは、その光を恐れていた。昼間であったら、光に照らされると白い壁は反射し、室内を明るく照らすが、今は違った。ひっそりと立ち上げたパソコンの人工的な光だけが彼のかける細縁の銀色眼鏡へと反射する。全身は皮が骨に引っ付いただけのように細く、二年前まで健康的だった顔は頬がコケることによってまるで骸骨になってしまっていた。一日中寝ているせいか、起き上がると猫背になってしまう。筋肉が衰弱してしまっているせいだ。そんな彼が夜中に一人でパソコンを使っている。客観的にみれば彼は怪しいことをしていると思われるかもしれない。だが、彼にとってそんなことはどうでも良かった。
つい先日だって、「ちひろさん。パソコンを使うのはやめて下さい!」と、二十歳ほど年下の看護師に言われたばかりだった。さらに彼女は新人だ。さすがにあんなに若い女性に叱られるのは心に響く。なんたって、かれこれ十年近く年下の人には怒られたことはない。さらに言えば、身体を壊したこの二年間は、誰にも怒られたことなんてないのだ。だからこそ、若い鞭は確実にちひろの心に跡を残した。
ちひろをお見舞いに来る人は、皆が揃って同じ態度をしてみせた。大丈夫ですか。元気そうで良かった。これならすぐに退院できそうですね。心の底から安心した顔とセットで言ってくれる。ちひろ自身も、そう言ってくれるのは嬉しく思った、本当に。だが、ちひろは胸のどこかに穴が開いたような気分だった。ストレスが欲しいというわけではない。こんな体にストレスなんて重荷を与えれば、すぐに潰れてしまう。しかし、ちひろは単純に日常を感じたかった。慰められたり、励まされるだけではなく、普通に話してほしかったのだ。だからこそ、あの看護婦の言葉はちひろの言葉を揺さぶった。
とはいっても、ちひろはパソコンを夜間に操作するのをやめなかった。幸いこの病室はちひろだけの部屋となっている。特別広くはないが、窮屈さは全く感じない。それどころか、他の人に気を遣う心配がないから居心地はいい。小さなテレビ、椅子とテーブルが一組、そして二人がけのソファまである。そこそこの値段がするが、これまで真剣に働いてきたのだから、これくらいしてもいいだろう、とちひろは奮発したのだ。
だが、寂しいと思う時もある。今、病院が消灯時間に入ってからがまさにその時だった。誰も周りにはいない。月光が窓から入ってくるが、ガランとした部屋が一層寂しさを駆り立てた。
こんな時に限って、ちひろは起きてしまう。ここ一ヶ月は毎晩そうだった。きっと動かずに、外に出るのも一日たったの一時間程度だからだろう。猫や犬でも外へと散歩に行けるのに、ちひろは窓からジッと外を眺めることしか出来なかった。そのせいで二度寝も出来やしない。目が覚めたら最後、ビルの隙間に佇む空が橙色に染まり、太陽の光がゆっくりとこの部屋へと入ってくるのを待つしかないのだ。
それを見届ければ、ちひろは枕に重い頭を沈めこませ、昼頃まで熟睡することができた。
だから、ちひろは目が覚めてから朝を迎えるまでパソコンを開いていた。寂寂たる空間の中にカタ、カタ、とキーボードを打つ音が響いた。
だが、この病院にはインターネットに接続することは出来なかった。ポケットWi-Fiなどの機器を使えば、色々と検索もできるのだろう。ちひろの好きな野球中継だって見ることができるはずだ。だが、ちひろは別に必要ないと思っていた。たしかに、外の世界と繋がることは魅力的ではあったが、今のちひろにとっては自分の頭に浮かんだことを文字に残すことさえ出来ればよかった。自分の生きた証を残せれば、それでよかったのだ。
だが、それは遺書ではない。自分の人生を書き写したものだ。
その物語は幼少期から始まる。消えかけた記憶を必死に辿り、写真のように一瞬だけを切り取った記憶を並べ、線にしていく。特に大したことのない幼少期だ。書き記すことといえば、自分と五つ離れた姉がよく喧嘩していたことくらいだ。内容も幼稚で、テレビで何を見るかで揉めていたのだろう。振り返ってみると喧嘩していたことだけではなく、姉がアイドルを好きだったことまで思い出す。五人組の男性アイドルグループで、ファンクラブにも入っていたはずだ。何かに没頭する姉が少し羨ましく、それでいて遊び相手だった人がいなくなって寂しかったのかもしれない。それが変に腹が立ってしまう原因となっていたのだ。今思うと笑えてくる。笑うと、全身に電流が走ったような感じがするので、本当には笑わない。ただ、ちひろは心の中でクスッと微笑んだ。
幼い頃に比べて、中学から高校にかけては書くことが何倍もあった。学年のマドンナである女の子に恋したことは一番の思い出だ。彼女の笑顔は四十年ほど経った今でも思い浮かんでくる。無邪気な笑みを溢すと、彼女の白い歯が華麗な口の中に現れた。その笑顔を見るために、ちひろは教室でいつもふざけようとしていたのだ。流行っていた一発ギャグをしたり、大声で話したり、とにかく彼女の気を引こうとしていたのは覚えている。彼女を思い出す理由はもう一つある。その女の子を巡って親友だった人と殴り合いの喧嘩をしたからだ。放課後に校舎裏で本気で殴り合った。誰も見ていないのに、自分たちのプライドと彼女への思いの強さを競ったのだ。今の子供たちはそんな事はしないのだろう。携帯なんてない時代だったからこそ、拳で語り合いたかったのだ。青春とは自分たちのようなことを指すのだと当時思っていたのを、ちひろはパソコンには残さなかった。結局、その親友とマドンナが結婚して十年が経った。遠距離などで数回別れた結果、お互いに愛しているのだと気付かされたらしい。今、あの日を思い出すと、これまた笑いが込み上げてきた。些細なことで好き嫌いがジェットコースターのように激しく入れ替わり、その度に一喜一憂していた自分はやはり若かったのだと思った。今では働きすぎたせいか、病気になってしまったせいか、感情が大きく動くことはない。常に恐怖と安心を往復しているだけだ。
ちひろは何度も記憶を辿っていた。もう何週したかも分からない。だが、飽きるなんてことはなかった。繰り返すたびに、新しい記憶が掘り出されるからだ。それに興奮し、話を書き足した。だからなのか、話は一向に進まなかった。
何度も話を書き換えてはいるが、ちひろはこの話のラストをすでに決めていた。その章の始まりは医者の一言から始まる。
「あと二年ほどが限界でしょう」
白髪が混じった髪の毛で、ちひろと同じような銀縁の眼鏡をかけた医者が渋い声で言った言葉だ。
入院と闘いの章だ。闘いとっても誰かと殴り合ったりするわけではない。また、病気と闘おうとするわけでもない。今でも心の中に蔓延しつづける孤独と不安との闘いだ。
余命宣告をされてから二年が過ぎた。毎日の変化は小さいが、月を重ねるごとに自分の身体が病に蝕まれていることを思い知らされた。生まれたての子鹿のような脚では、もう自分一人でも歩けはしない。呼吸も時々できなくなる。誰かに肺を思いっきり握られたかと思えば、次は喉を絞められたように息が吸えなくなるのだ。暗闇の中で眩しく光るパソコンのキーボードを打つ時も、人差し指で時間をかけながら文字を打たなければいけなくなってしまった。
病弱な身体でいつまで耐えられるだろうか。ちひろにはもうあまり時間は残されていないのだと直感していた。まだみんなは言ってくれる。すぐに退院出来ると。だが、自分の状態は自分が一番理解できているのだ。もう時間はない。明日には自分はこの世にはいないかもしれない。それを思うと、ちひろの垂れ下がった厚い瞼を閉じることはできなかった。一度寝てしまえば、もう二度と起き上がれないかもしれないと無意識のうちに思ってしまうからだ。何もしていなければ、今まで感じたことのない不安が津波のように襲ってくる。そんな現実から逃れるために、ちひろはパソコンに自分の人生を書き写していた。
朝の五時半。暁光が部屋へと入ってくる。空は明るくなり、鳥たちはそれを待っていたかのように大声で歌いはじめた。
今日も始まる。私はまだ生きている。
そう思うと、一気に眠気がちひろを襲った。だが、まだ寝てはいけない。水中に入った時のようにぼやけた視界でしっかりと、保存のボタンをクリックし、パソコンを閉じた。
パソコンは閉じなければいけない。また明日、自分を語るために。
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