ep.2 運命は交差する
アクリュースは立ったまま木にもたれ、暖を取る少女を見下ろしていた。
後ろ髪は短かったが、前髪は左目を覆って垂れるくらいに長い。
濡れていた服を全て脱がせてみると、その肌には大小様々な傷があった。
「お前は何者だ」
そう声をかけたが、意味が分からないのか、瞳は鋭くこちらを見つめるばかり。
不審感がさっと湧く、いくら忌み子であっても言葉くらいは話せるはずだ。
ひとつの考えが浮かぶ。黒髪は北方の蛮族クィンクに顕著だ。
蛮族の娘ではなかろうか。
メクネプ山脈を境界として、南には文明に生きるウルペクト帝国。
北には草原に生きる蛮族クィンクがある。
交流が行われた記録はない。
帝国は文字を持つが、クィンクは文字を持たない。
言語も全く異なり、通訳できる者すらいない。
草原とコルレアはかなり離れており、普通に考えればクィンクがここまで侵入してくることはあり得ない。だが万が一、億が一というものがある。
言葉が分からないのか。あるいは声が出ないのか。そう問いかけた。
黒髪の少女が理解できない言葉を発せば、間違いなく蛮族の娘だ。
鼓動の高鳴りを感じていたアクリュースだったが、少女はまるで声をしばらく出していなかった様子で、のろのろと掠れた声で感謝する旨を伝えた。
(クィンクではないのか……つまらん)
内心で舌打ちする。
クィンクが帝国の言語を使えるわけがない。少女が同じ言葉を用いたことで、アクリュースの中にあった蛮族ではという期待は霧散した。
だが話してゆくと別の違和感を覚えた。
この少女は自分の存在を知らなかったのだ。
少なくともこの周辺でアクリュースという名を知らない者はいない。
黒髪で忌み子扱いされていたとしても、そこまで巷から隔絶されて生きられるものだろうか。
試しに持っていた干し魚を渡すと、初めて見るような表情で匂いを嗅いでいた。
警戒されている。野犬のようだ。
毒ではないと告げると、少女はアクリュースが引くくらいの勢いでかぶりつき、熊のような勢いで食い尽くした。否、食い荒らした。
かなり大きな魚のはずだがと思っていると、渡した水も殆どが飲まれた。
しばらく少女は威嚇するようにこちらを見上げていたが、しばらくして両手を拳にしたかと思うと、それを地面につけて深々と頭を下げた。
たったそれだけの動作だったが、何かがおかしい。
礼の仕方が堂に入っている。下々の者達がとる礼とは明らかに雰囲気が違う。
まるで武門の家の子のようだ。作法はまるで違うが。
干し魚を食い荒らした者と同一人物とは思えない。
「食い物の礼は丁寧なのだな。お前、名前は?」
「╞乁⏊ ┪ˁ」
濁った音が混じる、不思議な響きだった。
上手く聞き取れず首をひねる。
トルカ? タウコ? サキュ?
いくつもの音が混じったように聞こえた。
様子をうかがうが、少女は頭を下げたまま動かない。
聞き逃したかと脳内で舌打ちする。
「トォクというのか」
耳に残っている音をつなぎ合わせ、多分これだろうと思うものを口に出した。
すると彼女は礼を解き、納得したような表情でこちらを見上げる。
「……うん。トォク」
当たったか……と内心胸を撫でおろす。
その反応を見てなのか、少女もといトォクは口元を吊り上げて笑う。
名前を聞き逃しそうになるなど自分らしくないなとアクリュースは自嘲した。
そのとき、トォクの表情から笑みが消えた。
眼球だけが動き、その金の瞳が冷たく光る。
何事かと思った瞬間、彼女は弾けるような勢いでアクリュースに飛び掛かった。
(刺客か!?)
アクリュースは咄嗟に剣を抜き払おうとした。だが抜けない。
柄を掴んだ手を抑えられている。
(くそっ! よりによって供のいないときに!)
口元を歪めた時には、既にトォクの片方の腕が首に引っかかっており、そのまま地面に押し倒されていた。
だが体格はアクリュースの方が上である。跳ねのけようとするが、馬乗りで自分を押さえつけるトォクの身体はぴくりとも動かない。
「お前には何もしない!」
アクリュースを強く地面に押さえつけながらトォクが叫んだ。
その刹那、何処からともなく飛んできた矢が頭上を掠め、木に突き刺さる。
「弓を借りる!」
そう一方的に叫ぶと、トォクは転がるようにしてアクリュースの弓を拾い上げた。
膝立ちになって矢を番える。鋭い眼光でぎりぎりと弦を引き絞り、矢が飛んできた方向とは全く別の場所へ向けて放った。
――ぎゃあっ!
短い悲鳴が聞こえ、地面を踏みしめる足音が各所から聞こえ始めた。
ここになってようやくアクリュースは、トォクが覆いかぶさるように自分を地面に伏せさせた意味を理解した。
狙ってきたのは一人ではなかったのだ。
木々に阻まれ、どこに敵がいるのかアクリュースには分からない。
トォクがどうやって敵を見つけたのか皆目見当もつかなかった。
そう考えている間にもトォクは次々と矢を放つ。いつ矢を番え、どうやって狙いを定めているのか分からない程に速い。
トォクが矢を放つたびに短い悲鳴が聞こえ、足音が減り、そして遠ざかってゆく。
六本目の矢を放った直後、馬の悲鳴のような
敵が去ったことを確認したのか、トォクは弓を地面に置き、乱れた布を整え始めた。整えると言っても布一枚なので、身体の全てを隠しきれるものではない。乱雑に腰を覆い、長く息を吐く。
「見事だな」
「弓は得意だ」
身を起こしながら呟くと、トォクはふんと得意げに笑った。
どう考えても得意という次元ではない。
「命を狙われる心当たりでも?」
「あいにくだが、腐るほどある」
トォクの問いに、アクリュースは立ち上がりながら答えた。
おおよその見当はついている。
とはいえ、ここまで露骨に手を出されたのは初めてだったが。
(郡府に戻って考える。それはさておき、何者だ)
興味は再びトォクに向かう。
先ほど自分を押さえつけた動きと、その後の身のこなしは素人のそれではない。明らかに鍛錬を積み重ねた者のそれだ。
それに矢を番え、弓を引き絞るスピードは尋常ではなかった。今までこれ程の腕前を持つ者は見たことがない。
加えて干し魚を食べた後の見た目らしくない礼の仕方。
どこかの諸侯か、あるいは貴族の子ではないか。
女が武芸において鍛錬を積めるという時点で、それなりの家柄であることは間違いない。明日の暮らしも危うい中で日々の鍛錬など不可能であるし、まして女ともなれば尚更だ。そんなことをするよりも娼として稼いだ方が速い。
トォクのような金の瞳を持っていた家はあっただろうか。
黒髪だから捨てられたという可能性もある。
答えの出ない疑問がとりとめもなく脳裏に浮かんでくる中で、アクリュースは口元を吊り上げた。
(……連れて行くか)
使えるかもしれない。
「トォク。行く当てはあるのか」
「……ない」
「ならば私に従え」
その技量や振る舞いに、黒髪という付属品あるからこそ、後々役に立つはずだ。
「共に来い、我が旗の下に加われ。衣食住は保証してやる」
「……分かった」
「口の利き方には気を付けろ。今一度言う、共に来い」
「でも」
「死ぬか?」
「……分かりました」
アクリュースはトォクが地面に置いた自分の弓を取ると、それを差し出した。
「これをやる」
トォクは戸惑う様子を見せつつも、両手を差し出し、それを受け取る。
「それで良い」
アクリュースは口元を歪め、ニヤリと笑った。
これが終生に渡る主従の始まりなどとは、両者共に想像すらしなかった。
♢♦♢♦♢♦♢
歳暦2031年にその墓所が発見されるまで、トォク・バリリウスは存在そのものを疑問視されていた。
発掘調査で被葬者が確定するまで、研究者間での通説は「あくまで伝説上の人物」であり、「実在するわけがない」とまことしやかに囁かれていたほどである。
彼女は突如として歴史の表舞台に出現し、そして唐突に姿を消した。
その生涯において数多の功を立てたとされるが、その殆どは死後、後世にまとめられた口伝、説話に由来する。実在可能性こそ否定されていなかったものの、その存在が証明されたことは無かった。
何せ墓からその遺体が発見されるまで、名前以外の全てが不明だった。
生年、没年、家系、性別に至るまで全てである。散発的な記述こそ残されていが、史料に足りうるものではなかった。
加えて子孫とされる人物が歴史の表舞台にほとんど出てこない。伝承が正しければ、初代皇帝の古参家臣であり、最側近の一人だったにもかかわらず、である。
トォク・バリリウスという存在は、建国期における様々な人物の功績が一つに結集し、結果生まれた架空の人格なのではないかとする説もあった。大陸に散った臣下たちが逸話を残し、それが時代を経るにつれて肥大していった結果ではないかと。
言うなれば歴史における虚数。物事の辻褄を合わせるために「あるかもしれない」というあやふやなまま定義された存在。
だが彼女の墓と遺骨が見つかると、全ての定説はひっくり返った。
連絡を受けた考古学研究所が調査したところ、玄室には生涯が刻まれた銅板が数多く収められていた他、石棺の表面に名が確認されたのだ。
レカタ帝国初代皇帝。
アクリュース一世。諡号・
遡ってアクリュース・ツィ・ペルマイヴィール。
レカタ帝国初代東征大都督。
トォク・テシュヴェル・ワナチュアトルムヌス・ベルクナト・レン・バリリウス。
ウルペクト帝国の元号にしてジューマ十八年。
そして現代、世界で最も広く使われている紀年法、歳曆にして紀元前769年。
数多の運命が絡み合い、彼女たちは出会った。
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