暠壌帝の形代

あおひしお

暠壌帝の形代

第1章 アクリュース・ペルマイヴィール

ep.0 プロローグ

 暠壌帝こうじょうてい形代かたしろ


 クワナシア大陸の長い歴史の中で、そう語り継がれる人物がいる。

 形代、すなわち皇帝の魂が宿った者と称され、死を迎えるその瞬間まで、その命も身も心も主君に捧げ、大陸に君臨するレカタ帝国の建国に大きく寄与した。


 ただ、語り継がれる伝承は御伽話おとぎばなしとされており、長らく伝説上の人物だと認識されていた。遥か後世の戦時下におけるプロパガンダにも用いられ、苦境に陥った国の反転攻勢を称する作戦名にも使われた。


 これは紀元前八世紀という遥かな昔。

 時代を切り開いた皇帝と、その形代が織り成した物語である。


♢♦♢♦♢♦♢


 崖の上、ひとりの少女が膝をついていた。

 その眼前には、追手と思わしき十人あまりの男達がにじり寄っている。


 風が荒々しく吹きつけ、土埃が舞う。

 膝をついた少女の髪は汚れ、乱れ、掠れた吐息が宙に漂う。乾ききった血潮によって衣服は赤黒く染まり、露わになった腕や足には赤い細道が幾本も這っていた。

 足元は断崖に迫り、その下には増水した河が濁音と共に流れている。


「は、は! ははっ! 見ろ、見ろ! 俺がやったぞ!」


 男の一人が引きつったような笑い声をあげ、仲間に向かって振り返る。

 手柄を見せびらかすような声色に、あるものは口角を上げ、あるものは安堵の表情を見せた。ようやく殺せる――長い追跡の果てにようやく獲物を捕らえたような感覚だった。


「ははは! 討ち取ったぞ! こんな小娘の何が左賢王だ、造作もない!」


 少女は迫る追手たちを睨みつけながら、足元に取り落とした剣を握りしめた。

 刃先に丸みのある反り返った曲剣。

 男は気付いていない。否、気付いていたとしても気にも留めなかっただろう。傷付き膝をついた少女が剣を取ろうとも、何ほどの脅威でもない。


「その首、貰った!」


 達成感に溢れる笑みとあわせ、男が剣を振り上げるとほぼ同時。

 少女は地面から跳ねるように腕を振るった。

 男の無防備な首が引き裂かれ、鮮血が噴き出す。糸の切れた操り人形のように、その身体は地に落ちた。


「コルグ!?」

「畜生ッ、よくも!」


 仲間を斬られ激高した別の男が、剣を振り上げて少女に突進する。


「やめろ! 不用意に突っ込むな!」

「この負け犬が! いい加減に死にやがれ!」


 仲間の制止も届かず、男は剣を前に突き出す。斬りかかって駄目ならば突き殺してしまえばいい、という考えだった。

 少女はひとつ歯を食いしばると、突き出された剣に向かって踏み込んだ。


「誰がっ、負け犬だ!」


 怒気に満ちた叫びと共に間合いを詰めると、常人であれば転ぶほどに低く取った身体をしならすように剣を振り抜いた。

 腹を抉るように斬られた男は力を失い、血を吐きながら倒れ込む。


「落ち着け、相手は手負いの小娘一人。囲い込んで四方から突き殺す」

「……負け犬に小娘か、相変わらず口だけは達者なんだな」

「せいぜい無駄にあがいて見せな。馬鹿な奴だ。単于ぜんう様に逆らうとは、身の程知らずもいいところだ」


 追手の男の一人が笑みを浮かべて吐き捨てる。

 その手は、子供でも持てるような小ぶりな弓があった。


「随分と嬉しそうじゃないか、ボルグト。私の前で無様に這いつくばったことが、そんなにも忘れられないのか?」


 絶望的な状況でありながら不敵に笑う。

 ボルグトと呼ばれた男はそんな少女を嘲笑った。


「ほざきやがれ。前から気に食わなかったんだよ。てめえみたいな小娘の指揮で動くのがな」


 長い間走っていたのか、少女は時折せき込みながらも言葉を返す。

 10人ほどの武装した男と相対しているにもかかわらず、その表情には恐怖も絶望も全く表れていなかった。


「私に挑む度胸もなかった腰抜けが、ご機嫌取りという口実が出来た途端にはしゃいてみっともない。手傷を負った私にお仲間を引きつれて。お前たちのような弱虫共、この身ひとつで十分だ」


 心底軽蔑するような口調で吐き捨てると、少女は今しがた斬り殺した男の背を踏みつけ、男たちと向かい合う。ボルグトは矢を番えようとし、別の男は鋭くカーブした太い剣をゆっくりと抜き払った。


「その首はな、みんなでわけっこだ。大人たいじん様の所に持っていけば大手柄、アンタはもう終わりなんだよ」


 また違う声の主に対して、少女の口元が嘲弄に歪む。

 一対多、少女と男、丸腰と武装。

 全てにおいて圧倒的に不利な状況にもかかわらず、なぜか追手の側が劣っているような空気が漂う。


 少女の堂に入った立ち姿は、決して恐怖から来る苦し紛れや自棄ではない。

 貴様たちなど恐るるに足らぬ、そんな絶対的な自信が生み出すものであった。


「そっくり返してやるよ。お前たちが私を討とうなんて、身の程知らずもいいところだ。この首はお前たちと違って軽くない。取れるものなら取ってみろ、臆病者」


 刃の切っ先を向け、小馬鹿にするような笑いに男たちが殺気立つ。

 ボルグトは番えていた弓を叩きつけるように放り捨て、太い剣を荒々しく抜いた。


「ああ、もういい。射殺すなんざ勿体ねぇ。寸刻みにして生まれてきたことを後悔させてやる」

「奴隷の子供は奴隷ってワケだ」

「アンタを産んでさぞ後悔しただろうなぁ、かわいそうに」


 男たちが武器を構えながら口々に言う。少女の表情が強張り、その口元が怒りに歪む。少女の目に一瞬ちかりと光ったものは、息をのむほどの獰猛さだった。

 少女自身の身体に感じる痛みや冷たさといった感触が、心の中に渦巻く灼熱した怒りと合わさり、固い憎悪へと収束してゆく。


 挑発だ、乗ってはならない。

 頭では分かっているが、感情の揺らぎはそれを圧し潰さんばかり。


 静寂が崖の上に立ち込めたその時、少女は突如として矢に貫かれた。


 突然の痛みが全身を駆け巡る中、少女は崖の端で崩れ落ちる。胸中に広がる鈍痛とともに視界が歪み、散った鮮血が地面に落ちる。

 少女の身体は崖から宙に投げ出され、河へと叩きつけられた。

 水しぶきが高く舞い上がる。波濤に揉まれ、少女は消えた。


「誰だ! 誰がやりやがった!?」


 思わぬ幕引きに多くが茫然とする中で、我に返ったボルグトが叫ぶ。

 釣られて辺りを見回した各々の視線は、やがて一人の男で止まる。その男は矢を放ったままの構えで固まっていた。


「トルガシュ! てめえっ、どういうつもりだ!」


 ボルグトは怒りを隠そうともせず、剣を向けてトルガシュと呼んだ男に迫る。

 しかし当のトルガシュは一切の動揺を見せなかった。


「何がだ?」

「何がじゃねぇ! いい所で邪魔しやがって!」

「邪魔?」


 トルガシュは平坦な声色でボルグトをすっと睨む。

 その目に宿る感情は一切読み取れなかった。


「謀反人を討つのが目的だったはずだ。ならば早い者勝ちだろう。ベラベラ喋っているのが悪い。俺の手柄だな」

「首を持って帰らねぇと意味ないだろうが!」

「どこへ持って帰るつもりだ。単于の命は出ていない。どうしても大人たいじん様が奴を殺したいと言うから、はるばるこんな所まで来たんだ。さっさと討って死体は捨てていく算段だったろ。お前らの独断に巻き込まれて単于に首をはねられるなんざ、俺はまっぴらごめんだぞ」


 そう吐き捨てると、トルガシュはボルグトに背を向け、自身の馬に向かって歩を進める。同時に突っ立ったままの仲間らに向けて声を上げた。


「お前たちもさっさと動け、草原いえに戻るぞ」

「待ちやがれ! なんでてめえが仕切ってやがる!」

「俺はお前のような弱兵を頭目と認めた覚えはないんでね」


 背後から肩を掴んだボルグトに、振り返ることもなくトルガシュは言う。


「そもそも石の国の領内に深入りしすぎだ。現地の兵隊に襲われたら武器が足りん。死にたいのか」

「はっ! 石の国の兵なんぞに怖気づいたか、トルガシュ」

「武器が無けりゃ戦えん。俺をお前の巻き添えにするな。この国の奴らが俺たち草原の民に持っている恨みは深い。楽に死ねないのは嫌なんでね」

「黙れ! 御託はいいから俺に従え! 河沿いに死体を探すんだ! 首を取るまであれは死なねぇ!」

「そんなに奴が怖いのか。気の毒に、生娘のように怯えて」


 くつくつと笑うトルガシュにボルグトの顔色が変わる。

 彼が思わず腰に備えた剣を握った瞬間、トルガシュは振り向きざまに剣を抜き放った。ボルグトの喉元で剣先が止まる。


「抜けば死ぬぞ、若僧」

「てめぇっ! あれの肩を持つのか! タダじゃ済まさねぇぞ!」

「ほぉ、どうするのか教えてもらいたいな。泣いて単于に告げ口でもしてみるか?」


 剣を突き付けたまま、トルガシュは笑う。

 そして遠くから立ち上るいくつもの黒煙へ眼球だけを動かした。


「お前ひとりくらいな、ここでぶっ殺して捨てて行っても構わないんだよ。左賢王を探すために村をいくつも皆殺したんだ。勝手にこれ以上石の国と事を構えるわけにもいくまいが」

「元だろうが! あれはもう賢王じゃねぇ間違えんな! 俺達の手で殺すんだ!」

「胸を矢でまともに貫かれ、その上で河にまで落ちた。これでも奴が生き延びるのなら、それは殺すなと全能たる天が生かすのだ」


 その言葉が最後となった。

 男たちはめいめいの馬に乗り、北へと去ってゆく。


(あばよ、左賢王。あばよ、トゥクォヴェルミシュ)


 トルガシュは心中で、河へ消えた少女の名を呼んだ。


(――我等の君ビドゥ・ハーンよ、生き延びろ。貴君の背に天の加護があらんことを)


 彼の手から放り投げられた矢尻は、弧を描いて河へと消えた。

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