第6話 妖しい冬紅葉が人と狸を惑わせる

 木枯らしが吹く十二月。今年はゆったりとした気温の変化だったので、過ごしやすい冬になるかなと思っていたらまったく見当違いだった。まず、海沿いの町は寒い。太平洋側気候のくせに寒い。冬はとくに曇っているからさらに寒い。そんな寒い強風が吹くのに気温は〇度まで下がることはない。

 現在、外気温は六度。意味がわからない。体感温度ではすでにマイナスだ。まぁ愛知も寒かったんだけど。

「あったかいとこに行きたい」

 平日の夕方、バイトが終わってすぐ風呂に入り、自室で毛布にくるまってストーブの前にいながらつぶやいていると、大地が後ろから「ふーむ」と唸ってきた。

「いつの間にいたんだよ」

 寒いので振り返らず訊くと、大地は当然のように言う。

「眞魚が風呂から出て部屋に入ってすぐかな」

「いつもいつも思うけどさ、一旦声かけろよ。急に静かにのそっと入ってきて怖いんだけど」

「悪い。自分の家なもんで」

「お兄さんがいたころもそんなだったの?」

「まぁね。学校から帰ってきて俺はなぜか兄さんの部屋で昼寝しとったくらい、ここは俺の部屋でもある。いわゆる別荘だ」

 何やら得意げに言うけれど。

「お兄さんの部屋だろ!」

 僕は振り返って、つい毒づくも大地はケラケラおおらかに笑うだけ。僕はため息をつき、ストーブに向き直った。

 そりゃ僕も居候の身ですから、そんな大きな声で拒絶なんてできないけど。そうだな……僕、いつまでこの家の厄介になるんだろ。いい加減、自立するために部屋借りないと。

 そうぼんやり考えていると、大地が言った。

「なぁ、眞魚。南に行こうか」

「南? どういうこと?」

「あったかいとこに行きたいんやろ? じゃあ南に行こ。いつものキャンプだ」

 そんなわけで、僕たちは最後の撮影キャンプのため、鹿児島へ行くことになった。


 当日の朝は早く、七時に出発する。冬場の朝がすこぶる弱い僕は大地に叩き起こされ、ベッドから引きずり出され、車の中に放りこまれた。幸い前日に荷物を用意していたので、あとは僕が車に乗れば済むだけだったけど、極寒の車に乗せられては震えるばかり。九州自動車道に入るまで車内の温度は上がらず、とにかく僕らは無言で出発した。

 眠気と寒さで半ば失神していたようで記憶があまりない。気がつけば時刻は九時に差し掛かっていた。出発から二時間も経てば僕の頭もようやく回転する。

「……えっと、今から行くとこってなんだったっけ」

「いちき串木野くしきの市。冠獄園かんがくえんっていう庭園があるとよ。そこで撮影する」

 大地が血色のいい顔で機嫌よく答えた。新陳代謝がよすぎるんだよ。本当に羨ましい。

 対する僕はバックミラーで見ると青白くて眠たそう。クマが目立つし、髪の毛はボサボサだった。とりあえず前髪を整える。服装はこの前新調したので、インナーから寒さ対策はバッチリだ。発汗対策も兼ねた速乾性の素材のインナーシャツに、トレーナー、その上に軽量のダウンジャケット。色は基本的にモノトーンだけど、差し色に赤を取り入れているので遊び心も忘れない。

 大地はモスグリーンのダウンジャケットで、前を開けて山吹色のフリースが見えた。一見、かぼちゃだなと思うカラーリングだ。

「今、ちょうど紅葉が見頃ばい」

「へぇー、十二月初旬に紅葉か……同じ日本でも季節感が違うね」

 大地の穏やかな顔を窺い、僕はシートにもたれながら景色を見た。

 これから行くところは、あたたかい場所らしいのでもしかしたら完全防備しなくても大丈夫なのかもしれない。とはいえ夏の山キャンプの二の舞にはなりたくない。

 さて、鹿児島といえば桜島や霧島温泉が有名だ。あとは種子島たねがしま奄美大島あまみおおしまかな。食べ物は、なんとなくさつまいもを思い浮かべ、焚き火で焼き芋ができたら楽しそうだなと考える。

「焼き芋」

 思わずその単語だけ飛び出すと、大地は残念そうに言った。

「あー、焼き芋かぁ。考えになかったわー」

 これは残念。

「焼き芋もうまかろうばってん、今日はもっといいのを用意しとるけん、楽しみにしときぃ」

「ふぅん。それじゃ楽しみにしておこうかな」

 大地の料理はなんだっておいしいもんな。

 ちなみに七時出発で四時間半の車旅を烏森くんも誘ってみたけれど、さすがに無理だと返事がきた。まぁ、四時間半もこの寒空にスクーターで着いてこさせるのは忍びないし、福岡から来るとなるとさらに時間がかかるだろう。なかなか予定が合わないものだ。

 しかし、十時頃になるとスマホに通知が入った。トークアプリを見る。噂をすれば烏森くんだ。

「ふふっ」

 思わず笑うと、大地が「どうした?」と気づいた。

「いや、烏森くんさぁ、僕らが二人でキャンプ行くのに嫉妬して、別の場所でソロキャンしてるみたい」

「えー、なんそれ。どこにおるって?」

「今は……なんだろ、羽犬塚はいぬづかってとこにいるみたい」

「あぁー、ってことは八女やめ市の星野村ほしのむらに行くんかなー。さっき八女市ば通り過ぎたけど」

 大地はすぐにピンときたらしく、運転しながら烏森くんの目的地を推理する。

 そういえば、さっき福岡県を通り過ぎたな。佐賀から直通で下るのかと思いきや、一旦福岡を経由して熊本からさらに南下していくようだ。

「福岡にあるとよ。名前のとおり星がキレイなとこでねー」

「ふうん……そういえば、星の写真は撮ってなかったな。大地、星空はいいの?」

 いつか行ってみたいなぁと思いながら訊いてみると、大地はあっけらかんと答える。

「そうやなぁ……カレンダーにするにはちょっと地味かなって思っとったけん避けたんやけど。それに星の撮影は難しいけんね。ま、カレンダーば完成したらそのお祝いにいいとこ連れてっちゃるよ」

「おぉー。それは楽しみだなー」

 カレンダーのデザインはすでに仕上がっている。大地の写真はダイナミックで、色彩の切り取りが上手い。だからそれを活かしたカレンダーを大地と話し合って作った。

 そして昨晩、やっと自分でもいいものが仕上がったような気がした。あとはこれを安澤さんに見せるだけ。データの送信を先にしておき、原寸サイズに印刷したものを後日持っていく。

 まだまだ不安はあるけど、大地と一緒に作ったものだから、何か言われてもそれを跳ね除ける説明もできると確信している。

「大丈夫さ。俺が『これがいい』って言や、あっさり通るって」

「うん……そうだね」

 僕の思考を読むな。そして以前出したやつをさりげなくディスるのもやめろ。それはつまり、最初の案は大地も気に入ってなかったってことだろ。

 なんてそう思うけど、最近の僕はこののんびりとした生活に慣れたからか、もしくは前回浅葉部長との邂逅で憑き物が落ちたのか、物事をマイナスに考えることが減った。

 ぽんぽこ是好日。大地のおまじないがかなり効いている。


 さすがに四時間半座りっぱなしだとキツイので、トイレ休憩を挟みながら移動する。僕も運転を代わろうと思ったけど、行ったことのない場所への運転に自信がないし、無謀なので黙っておいた。その代わり、よそよそしく「帰りは僕も運転するよ」と言ったが、大地は片眉を上げて笑うだけだった。

 それは多分『また気遣おうとしてる』という表情なのだろう。大地は「そうやねぇ」とだけ言った。

 山と海から市街地、また山という景色を何度か経て、十二時になる少し前に目的地にたどり着いた。そういえば、鹿児島に着いたあたりからだいぶ気温が上がっており、巻いていた毛布がいらなくなった。ダウンジャケットでもちょっと暑いかな、と感じるくらい。でもトレーナーでうろつくほど迂闊ではない僕は、ダウンジャケットの前を開けておくだけに留める。

 車を降りると同時に僕のスマホも鳴った。烏森くんも目的地に着いたらしく、さっそく温泉に行こうとしているのか、温泉の看板を指差すだけの写真が送られてきた。星野村にある温泉らしく、大地の予想は的中していた。

「こがんして見ると、山へ修行しに行く天狗にしか思えんね。顔写っとらんけど」

 大地が冷やかすように笑うので、僕もつられて笑った。あの子、自撮りするタイプじゃないからね……。

 僕も自撮りは苦手だ。しかし大地は平気で自撮りするタイプ。

「よーし、じゃあ俺らも対抗して写真送ろ!」

 そう言って大地は一眼レフで僕の後ろ姿を撮影した。

「おい! 勝手に撮るな!」

「なんよ、いつもは怒らんくせに」

「いつもは……いつもはって何!? まさか、いつも僕の写真を盗撮してるのか?」

「盗撮とか人聞き悪い。俺、たまにお前を撮っとるとよ」

 ケロッとした顔で言う大地。僕はこれまでのことを思い返していた。そういや、この前の湖での撮影もなんか僕から遠ざかって撮影してたし……あのときか! ということは今までも遠くから撮影してたんだな。こわっ。

「写真は撮っとったほうがよかよ。眞魚は今まで、あんまり写真撮ってもらうことなかったやん。やけん、いいやろ」

「反省の色もなければ開き直ってやがる……まぁ、でも、そう言われたらそうだな」

 親がいなかったり、祖母の介護をしたりで忙しくしていたこともあったけど、ちゃんと修学旅行とか校外学習は行けてたので、そういう写真はある。でも普段の写真はない。友達も中学以降は遠ざけていたから学生時代の写真は本当にごくわずかかも。

 そう考えていると、大地はさっさと歩きだして庭園の方へ向かっていた。

 すると、背後がなんだかガヤガヤうるさくなる。駐車場に大型バスが停まり、年配客たちがぞろぞろ降りてきた。

「はい、皆さん。こちらが冠獄園ですー!」

 ひときわ元気で若い女性の声が辺りに響き渡り、年配客たちが「はぁい」とまばらに返事する。

「私についてきてくださいねー!」

 その女性は色白の整った顔立ちで、髪の色が太陽に透けるくらいキレイな金髪を一つに結んでいる。その髪は下ろせば肩くらいだろうか。ゆるくウェーブがかかっていてかわいい。そんな美人を包む淡い水色のパーカーと、ストレッチ素材のスキニーという出で立ちが快活なオーラを醸しだしており、これがかなり似合っている。全体的に光属性を思わせ、年齢は軽く見積もって二十代前半から僕らと同じくらいか。

「ツアーガイドかな」

 僕のつぶやきに大地も気づき「みたいやね」と言う。そして、まばたきをして首をかしげた。

「どうした、大地」

「ん……うーん、いや、なんもない」

「大地が女性に見惚れるの、珍しいなぁ」

 僕はここぞとばかりに冷やかした。しかし大地は連れない。頭を掻いて「そういうんやないよ」とすぐ目をそらし、さっさと庭園に入っていく。

 それにしてもあのツアーガイド、本当に美人だな。思わず目がいってしまうのも無理はない。

 どうも彼女たち一行も冠獄園に用があるようで、僕らが門から入っていく様子を眺めながら、しばしガイドさんの説明を聞いていた。

「ここは平成四年に開園された中国風の庭園です。不老不死の伝説が残る冠岳かんむりだけの縮景と……」

 冠獄園は足を一度踏み入れれば、異国を思わせる風景が広がっていた。ガイドさんの言うとおり中華風の建物や装飾があり、色合いも鮮やかな赤が多い。

 そして庭園の背景には冬とは思えないほど見事な紅葉と緑が広がっている。池にかかる橋やその周囲に整えられ植えられた庭木を通り抜ければ石畳。赤い建物は古く見慣れないもので、厳かな雰囲気に少し緊張してしまう。

 開け放された廊下の窓に複雑な文様が施され、そこから外が見える。僕はその一つ一つをじっくり眺めた。スマホで撮影するのも忘れており、ガイドさんたちに追いつかれてやっと気がつく。年配客も皆、デジカメやスマホで写真を撮っていたので、僕は大地を追いかけてからスマホを出した。

 庭園の様子を撮影する。大地は一眼レフを持って、その場にしゃがみ、下から建物と紅葉を見上げるように撮影していた。随分本格的な態勢だ。しばらく彼は何度もアングルを変えて撮影していた。大地のすぅっと小さく息を吸う音の向こうで、賑やかな団体客の声が近づいてくる。

「いいの撮れた?」

 なんとなく、双方の板挟みになっていた僕は大地に訊いてみる。大地はカメラのデータを何度か確認し「んー」とマイペース。そしてもう一度、ファインダーを覗いた。その間に団体客たちがこちらへ寄ってくる。

 僕はどうにもうろたえ、ガイドさんを見た。すると彼女は僕らに気が付き、一歩近づいて話しかけてくる。

「すみません、お邪魔してます」

「あ、いえ……大地、一旦ストップ」

「え? あ、そうだな。ごめん」

「すみません、占領しちゃって。どうぞ」

 僕の誘導に、ガイドさんは上品に会釈した。朗らかな年配客たちが写真を撮る最中、僕と大地は脇に避けておく。その間、大地はカメラの中を覗きこんでいた。

「皆さーん! それじゃあ、もう少し先に行きますよー!」

 彼女の大きな身振り手振りに従うように一行は、僕らを追い越していった。ざっと二十人程度かな。ガイドさんの声はよく通る伸びやかな高音なので、年配客たちもすぐ反応して歩いていく。

 ようやく静かになったところで、大地は再びカメラを構えて撮影を再開した。

「どこから来たんだろうな、あのツアーは」

 僕は何気なく言った。すると撮影に集中していたはずの大地が珍しく応じてくる。

「さぁなぁ……でも、あのガイドさんのイントネーションは佐賀やな。福岡かもしれんけど」

「ガイドさんって基本的に地元民じゃないの?」

「いや、資格があればどこでもやれる仕事なはず」

 そう言う大地は頭を掻いて唇を曲げた。

「あれは鹿児島の訛りとは違うもんやった」

 確かに同じ九州地域でも方言やイントネーションは違う。僕と大地は首をかしげた。

「まぁ、どっちでもいいな」

 互いにそんな結論が出て笑い合う。しかし、僕はすぐに笑いを引っこめた。

「あの一行、まさか今から僕らと同じキャンプ場に行かないよな……」

「え? あー……どうやろ。今から行くところ、無料のキャンプ場やし、トイレもそう多くないし。それにあの人たち、グランピングツアーってわけやなさそうやったけど」

 僕の心配に大地は安穏と答える。

「それにしちゃ、みんな山登りするような格好してたよ」

「そりゃー、今からハイキングに行くんやろ? 万が一、一緒やったとしても困ることないよ。ただ、場所取り合戦になるかもしれんね」

 大地がケラケラ笑い、カメラを仕舞う。場所取り合戦はだいぶ一大事じゃないか?

「まぁ、どのみちキャンプ場には行くやろうな。あそこ、ダムやし」

 大地が呑気に不穏なことを言う。まぁ、いいんだけどね……楽しいことはみんなで共有するべき。これもプラスに考えればなんてことはない。

 そう思いながら冠獄園を出ようと動き出すと、大地が振り返ってニヤリと笑った。

「眞魚の人見知り、まだ治っとらんかったんやねぇ」

「……いい大人が人見知りとかありえないだろ」

 そう言い返したけど大地の推察は正しい。人が大勢いるところは、どうにも苦手だ。でもキャンプに行くようになってからは知らない人とも挨拶を交わすことはあるし、それがキャンプのマナーだ。でもそれ以上に交友関係が続くわけではない。烏森くんが特殊なだけ。

 そんなことを考えていると、烏森くんからトークアプリの通知が入った。

「なんて?」

 大地が興味深げに訊いてくる。僕はスマホを開き、烏森くんの様子を見せた。

「温泉から出て、ひとまずサイトに行って拠点作ったら山に入るみたい」

 添付された写真は、烏森くんが今夜泊まる場所の様子がある。誰もおらず、また拠点もでき上がっていない。芝生と林があるだけ。

「それじゃ、俺らも行くか」

 そう言って大地が車に乗りこむ。僕も車に乗り、ぼちぼち今夜の拠点へ向かった。


 キャンプ場へ行く前に温泉に立ち寄り、今日の入浴を先に済ませた。そして予約がいらない無料のキャンプ場についたのは十六時前だった。誰もいない。

「ソロキャンが流行っとった頃は、ちらほらおったけどなぁ。まぁ夏になりゃ人もおるよ。公園があるし。それでもやっぱ設備がねー、よそに比べたらまぁまぁまぁ」

 大地が気まずそうに言葉を濁しながら荷物を下ろしていく。

 確かに無料のキャンプ場は設備が十分とはいえない。トイレも仮設トイレみたいで、きれいなトイレまで距離があるみたいだし。

 本当に野営のためにやってきたといっても過言じゃない。しかし、いいように捉えたら人がいなくていいし自然も豊かで、のんびり過ごせるということだ。近くに東屋があるし、地面も渇いてるし、気温は少し下がったけど申し分ない。

「こんな時間だし、ご飯食べてのんびりして、あとは寝るだけだろ。十分だよ」

 僕のあっさりとした言葉に、大地は面白そうに笑った。大方、僕の思考がはじめの頃と百八十度変化したことに笑ってるんだろう。僕もそう思うので照れ隠しに笑った。

「さぁ、今日はしゃぶしゃぶだ!」

 えらくはしゃいだ様子の大地はクーラボックスをぱかっと開けて、パックに包まれた薄切りの黒豚を見せてきた。僕も冬キャンプで鍋を囲むのが楽しみだったので、素直に「わーい!」と両腕を上げる。

「しゃぶしゃぶだー! これは焼き芋に匹敵するごちそうだよ! やったー!」

「すげぇ喜ぶやん。でもまぁ、一人でしゃぶしゃぶ食うこともないし、久しぶりやろ」

「そうなんだよ。しゃぶしゃぶはやっぱり誰かと食べるのがいい」

 そうして僕と大地は手早く拠点を築き、のんびりと夕飯の準備に取り掛かる。

 僕は烏森くんに拠点を見せるため、写真を撮ってトークアプリに流す。そんな風に過ごしていたときだった。青いキャリーカートを従える女性が一人、僕らの拠点の方へやってくる。それが誰なのかは遠目でもよくわかった。

「あれ? あの人……」

 僕が気づき、大地も「ん?」と視線を向ける。その先にいるのはあのツアーガイドさんだった。

「やっぱりこっちでキャンプするのかな……」

 確かにここは穴場だし、貸し切り状態だから二十人ほどのキャパも受け入れられそう。しかし年配客向けではないように思うけど……。

「いや、一人みたいやね」

 大地の言うとおり、あの一行がおらず彼女一人だけだった。

「声かける?」

 大地が訊いてくる。僕はすぐに首を横に振った。

「ダメ。ナンパだと思われる。だいたい、どういうつもりで声かける気なのさ」

「普通に用心棒として、大丈夫ですよーって言おっかなって」

「それがダメだってば。あっちもそれなりの装備だし、ソロキャンくらい心得てんだろ」

 近年では女性のソロキャンパーも少なくない。彼女たちもそれなりに注意しながら楽しんでいるというのを聞いたことがある。そこで僕らみたいな男性が近づくのを絶対によしとはしない。むしろ不審者扱いされてアウトだ。こういうときは下手にさわらず、各々無関心でいるほうが正解だ。

 僕の結論に大地は「なるほど」と手をポンと打った。ほんと、こういうところは気が利かないやつだよ。

 ただ、彼女の方から話しかけられたら話は別。ガイドさんが僕らのサイトに入ってきた。

「あのー……こんにちは。先ほどはお騒がせしました」

「あ、いえ……ぜんぜん」

 身構える暇もなく話しかけられたら、人見知りの僕は挙動不審になってしまう。対し、大地は平然としている。

「あの団体さんはどこか別のとこに泊まるとですかー?」

 人懐っこく言う大地に、ガイドさんは微笑を浮かべた。

「えぇ、はい。近くの宿泊施設に。私はこの近辺のガイドなだけで、今日はもうこれで終わりなんです」

「そっかぁ。せっかくのソロキャン、邪魔してごめんね」

「いえいえ! こちらこそです」

 ガイドさんは笑顔のまま離れた。そして僕らから距離をとった開けた場所に立ち止まると拠点造りを始める。近いけど、適切な距離を保っている感じだ。

 テキパキと一人でテント設営した彼女は銀色のランタンをテントの脇にくくりつけると、テントの前にレジャーシートを広げ、座椅子を置いて座った。そしてキャリーカートから茶色の酒瓶を取り出した。ソロキャン用のシングルバーナーを出し、火をつける。酒瓶の酒をマグカップに入れ、バーナーで温めた。

 見かけによらず酒豪か。僕は酒が飲めないので、キャンプでの晩酌にちょっと羨ましさを感じる。彼女はヘッドホンをつけ、くつろぐように足を伸ばす。靴下まで脱ぎ、スキニーをまくりあげ、開放的になるとおいしそうに酒を飲み始めた。これが不思議と様になっている。

「眞魚、米研いでくれー」

 大地が鍋の準備をしながら僕に言う。そうだった、しゃぶしゃぶの準備をしなきゃ。

 気温の高い地域とはいえ、日が暮れたら少々冷える。いい鍋日和だ。

 焚き火の上にいつものグリルネットを乗せて、そこに鍋を置き、出汁を煮立たせる。その間、大地はあらかじめ切って持ってきていた野菜、皿などを焚き火台の近くに置いた。

「しゃぶしゃぶは準備に手間取らんでいいなぁ。シメは雑炊だよ。その研いだ米は、鍋が終わった後に出汁で炊く」

 大地の指示に僕は素直に従い、クッカーに入れたままにしておき、脇に置いた。スタンバイオーケー。あとは出汁が煮えるのを待つだけだ。

「そういえば大地、僕に夕飯の準備させるの珍しいね」

 肉のパックを持たされた僕は気になって訊く。今までは「いいから座ってろ」と言って準備をさせてくれなかったのに。

「眞魚が俺に仕事の手伝いさせたけんなぁ。やけん俺も、自分の領域を解放した感じさ」

 大地の言い方は回りくどい。多分、大地は僕が「手伝って」と言ったのが嬉しかったんだろう。そんなことで喜ぶなんてどうかしてると思うけど。僕は「あっそ」とそっけなく返した。

 大地はまだ煮えきってない出汁に千切りの人参やキャベツ、大根を入れた。

「まだ早くない?」

「早くない」

 そんな会話をしていると、なんだかただならぬ気配を感じた。僕が悪寒を感じるくらいなので、大地なんかはかなりビシビシ感じたに違いない。怪しげな妖気を垂れ流したガイドさんが僕らの近くに立っていた。だいぶ酒が入っているようだ。

「ど、どうしました……?」

 僕が訊くと同時に、大地がすっと立ち上がる。すると、ガイドさんはその場にしゃがんで項垂れた。

「す、すみません……私にも、分けてもらえませんか?」

 そう言うと彼女の腹から盛大な音が鳴った。

「うっ、すみません……こんな意地汚いお願いしたくなかったんですけど! でも、やっぱり空きっ腹で酒を飲んだらダメだなって思いまして! でも、お酒のあてとして持ってくる予定だったおつまみを忘れてきちゃって!」

 さめざめと泣き始める。そんな彼女に僕と大地は顔を見合わせて安堵した。

 なんだろう。さっきの胸のざわつき。風邪を引いたときの悪寒に似ていて、不安を感じたんだけど。

 一方、大地は変わらない表情で彼女を慰めた。

「そっかそっか。そりゃー残念でしたね。売店も近くにないやろうし、かわいそうに。腹いっぱい食べてってください」

「ありがとうございます……もうほんの少し胃に何か入れられたらそれでいいので!」

 彼女は情けなく顔をくしゃくしゃにして言う。本当にかわいそうだった。

 そして自分の陣地から座椅子と酒を持ってきて、僕らと一緒に鍋を囲む。

「私、明海あけみ鱗歌りんかといいます」

「明海さん。よろしくねー」

 大地は友好的に手を差し出した。明海さんはおずおずと手を出し、フレンドリーに笑う。よかった。セクハラに思われずに済んでいる。

「それ、芋焼酎? さすが鹿児島県民ですねぇ」

「あ、はい。これがないと眠れないんですよねー」

 大地の軽い問いに明海さんも柔和に返すが、どことなく仕事中の明るさはない。人が変わったようにだんまりで、ただただ鍋の中を見ている。

 そろそろ出汁も煮えてきたので、大地が僕の手から肉のパックを奪った。菜箸で肉をすくい、黄金の出汁にくぐらせる。

「はい、めしあがれ」

 大地の掛け声とともに、僕と明海さんが同時に肉をすくう。僕と大地はまずストレートで、明海さんはポン酢で肉を食べる。

 まろやかで旨みたっぷりな昆布だしと甘みのある脂がのった薄切り肉。うまいに決まってる。

「はわぁ……」

 僕と明海さんが同時に声を上げると、大地がクスリと笑った。

「目が輝いとる……うまいようで何よりです」

「これはいいな。昆布だしもうまい。そのままでも全然うまいよ」

「そうやろー。まぁ、薬味もタレも用意しとるし、よう食べりー」

 僕は次の肉は野菜を巻いて食べた。これもおいしい。素材本来の素朴な味が活きている。大自然で食べるからか、薄味でも飽きずに食べられてしまうから不思議だ。とはいえ三回目はゴマだれをかけちゃう。

 明海さんは遠慮がちに食べていたので、大地がしゃぶしゃぶした肉を彼女の皿に入れた。

「綿貫さん、いいんですか!?」

「いいに決まっとるでしょ。困ったときはお互い様です。それに、君に訊きたいこともあるけんね」

 さすが大地。寛大な心で他人に食べ物を分け与えている。そんな彼の言動に明海さんも感動したのか、大事そうに肉を頬張った。

「うぅっ、この御恩は一生忘れません……って、私に訊きたいこと?」

 一歩遅れて反応する彼女。僕も聞き逃していたので食べる手を止めて大地を見る。

「うん。ちょっとね、これはごまかさずに答えてほしいんだ。肉のお礼だと思って」

 なんだろう。やけに策士的な大地だな。僕の不穏と彼女の不穏が混ざる。そのとき、急に空がゴロゴロと嫌な音を立て始めた。空を見上げると、流れの速い雲が山の向こうからやってきている。

「え、嘘、今日雨だったっけ?」

 僕がうろたえるも、大地は呑気に「どうだっけな」と言う。

 言ってるうちに空は急激に態度を変え、分厚い雨雲に覆われた。雨がポツポツ降ってくる。

 僕と大地、そして焚き火台を含む食材などはちょうどタープの下にあったので無事だが、外側にいた明海さんが雨の餌食になってしまう。

「きゃあ!」

 明海さんが悲鳴を上げ、酒とお椀を持っておろおろする。

「こっち入って!」

 大地が彼女を招き入れ、自分は逆に外へ出た。僕もお椀を置いて車の中に置いていた傘とタオルを探す。

「大丈夫ですか?」

 明海さんに差し出そうとすると、彼女はひどく狼狽した様子で大地にお椀を預けた。そして、まくっていたスキニーのすそを急いで下ろす。

「風邪引くから、タオル使ってください」

 僕は彼女にタオルを渡し、大地に傘を渡す。幸い、ずぶ濡れになるほどではない、ぱらついた雨だったけど明海さんは熱心に足をタオルで拭いていた。

「すみません。タオル、ありがとうございます」

 落ち着いた様子の彼女はタオルを握りしめて、どんよりと項垂れた。

「いやいや、急に雨降ってくるんやもん。そりゃびっくりするよね」

 大地が優しくフォローを入れるも、明海さんのテンションは下がるばかり。

 僕と大地もタオルで体を拭いた。あらかた拭き終え、僕はスマホの天気予報を見る。

「今日の予報、やっぱ晴れなんだよなぁ。ほら、鹿児島、晴天」

「ほんとだ。じゃあ一時的なやつやろうね」

 大地がため息混じりに言う。すると明海さんがへこんだ声でつぶやいた。

「これ、きっと私のせいです……私、最強に運が悪くて」

「え? なんば言いよると?」

「だって、いつもそうなんです。私一人だったら別に普通なんですけど、誰かと一緒にいるときは雨が降ったり、友人が倒れたり、なんかとにかく不運で」

 あまりのネガティブ発言に、僕らは顔を見合わせて気まずくなる。やがて大地はため息をつき、僕に言った。

「そうだ、眞魚。烏森くんにちょっと聞いてくれん? そっち、雨降っとらんかって」

「わかった」

 僕はすぐに言うとおりにし、スマホで烏森くんに連絡する。その間、大地はサラリと明海さんに説明した。

「烏森くんは天狗の友達でね。多分、天気のことはあの子に聞いたほうがいいとよね」

「天狗? そうなんですか……」

 明海さんは困惑気味に返した。僕も大地の言動に呆れ、顔をしかめておくしかない。ただのボケただけだと思われてそうだからいいけど。

「足、大丈夫です?」

 僕は話題をそらそうと明海さんに訊いた。彼女は困ったように笑ったが、その笑顔があまりにも下手だった。聞いてほしくないことを聞かれたような張り詰めた表情をする。

「職業柄、水には慣れてるのでお構いなく」

「水? ツアーガイドなのに?」

 今度は大地が訊ねる。今日の大地はやけに積極的だ。僕は彼をたしなめようと口を開いたが、明海さんが「あはははー」と笑うのでやめた。

「私、夏場はダイビングインストラクターをやってるんです。冬はフリーのツアーガイドをしてます」

「あー、そういうことかぁ」

 大地は納得したのか朗らかに笑った。意味がわからない僕は大地の横に立ち、雨音に紛れるほどの小声で訊く。

「おい、大地。さっきからお前、変だぞ」

「だってさ、眞魚。あの子、あやかしやもん」

 大地は少し声を低めて言う。僕は目をしばたたかせた。え、何このデジャブ。

「ってことは烏森くんと同じ? 彼女もお前の狸に気づいてるとか?」

「いや、それをちょっと探りたいなぁって。あやかしの中にも、いいもんと悪いもんがおるし」

 そうか。みんながみんな大地や烏森くんみたいに友好的というわけじゃないんだ。いつになく慎重な大地の言葉に僕は素直に反省した。

 そして、ここからうまく聞き出すなんて芸当は僕には不可能なので、ここは大地に任せるしかない。

「向こうも俺のこと警戒しとるかもしれんし。手を握ったときとか、地味ぃに妖気を互いに感じたはず」

「おぉ……妖気とか言うと本当のあやかしみたいだな」

「本当のあやかしなんやけど……眞魚も、あの子見て、なんか強くゾワゾワってしたやろ?」

 言われてみるとそうだ。妙な怖気というか、そういう空気を一瞬だけ感じた気がする。

「それで烏森くんは、どがん言いよる?」

 大地の問いに僕はすぐにスマホを見た。

【すみません】

 それだけ書いてあり、手を合わせて拝む烏天狗のスタンプが送られてきた。

「どういう意味?」

 首をかしげて大地に見せると、彼はにんまりと笑う。

「この雨雲、烏森くんのせいだよ」

 その答えは想定外だった。ほどなくして雨がやむ。次から次へとなんなんだ。


 ひとまず僕と大地は周辺の渇いた土をスコップですくい、ふやけた地面の上にかぶせた。大地の車にはなんでもそろっていて大変便利だ。

 明海さんも雨に濡れたテントの様子を見に行き、しばらくテントの中にこもって着替えをしていた。そんなに濡れてないはずなのにえらく用心深いのは彼女もあやかしとしての特性があり、何か不都合があるからなんだろうか。

 彼女が戻るまで、僕と大地はしゃぶしゃぶを再開しようと仕切り直す。

「それで、烏森くんってなんなの? 雨雲使いなわけ?」

「あのへんの天狗ってさー、雨を降らすことができる神通力を持っとるとって」

 大地がさらっと説明する。

「ただ、烏森くんは雨雲を蹴散らしちゃうらしい。それでピーンときたね。星を見るために雨雲を払ったと、これが真相」

「そんな話、いつの間に……って長崎のキャンプか」

「そうそう。眞魚が寝とる間に聞いた」

 突然の謎解きに感服しそうになったが、なんてことのない情報だった。

「ていうか、烏森くんってすごいんだな……」

「そりゃ烏天狗の五代目やし、それなりに修行もきちんとしとるしね。俺と違って」

「大地だって狸に化けられるじゃん?」

「狸にしか化けられんとよ。本来の化け狸はいろんなもんに化けられる。うちの祖父ちゃんは壺に化けるのが上手いし。でも俺はほとんど人間やけんね、狸だけ」

 そう寂しそうに言うが、大地も結構すごいと思うけどな。

「それに力を使えば使うほど人間から遠ざかるっていうよ。烏森くん、髪の毛から羽が落ちてくるやろ。あれって、修行してるせいなんよ」

 なるほど。思い起こせば確かにそういう場面をよく見たな。

「だから、明海さんもおんなじかなぁと思ったんやけど……」

「私がどうかしました?」

 明海さんが後ろから声をかけてくる。僕は驚いて口をつぐんだが、大地は軽やかに応じた。

「しゃぶしゃぶ食べながら話しよ」

 肉と野菜はまだまだある。さっきの続きを再開しよう。

 明海さんは首にマフラーを巻き、ジーンズとロングカーディガンを合わせたスタイルで、靴下もきちんと履いていた。さっきとはえらい違いの完全防備だ。

「じゃあさっきの雨というのが、烏森さんのせいということなんですね?」

「そうそう。あの子、優雅に星を眺めるためにやったんやろうねー。やけん、明海さんのその不幸体質は気のせいよ」

「はー、にわかには信じられないけど、綿貫さんが言うとありえそうなの、なんでだろ」

 そう言って彼女は持ってきていた焼酎とソーダをマグカップにそそぎ、ごくごく飲んだ。

 酒がすすんでいるからか、明海さんはだんだん打ち解けてきた。

「お二人とも、仲よしさんでいいなぁ。幼馴染だったりして」

「当たり。ようわかったねぇ」

「そんな気がしたんですよ。それに綿貫さんって、なんだか妙な感じしますし、ただ者じゃないですよね」

 彼女は曖昧な言い方をした。僕と大地は瞬時に目を合わせる。まぁ、この人はそんな悪人っぽくないし、ヤバいあやかしだったとしても、酔ってる状態じゃあんまり手強くなさそうだ。

 そう侮っていた僕だが、大地はいつもより慎重だった。

「酒、飲むと力が増すよね」

「力? うーん、どうでしょう? 確かに、お酒の力で私の人見知りは治っちゃいますけど」

 酔っているふりをしてしらばっくれてるのだろうか。そんな気がしなくもない。ていうか、人見知りだったらガイドなんてできないだろ。いろいろツッコミを入れたいが、僕は出汁を飲むだけに専念する。

「明海さんって泳ぐのが得意なん? だったら水泳選手のほうがよかったんやない?」

「そうですねぇ。泳ぐのは好きだけど、私が好きなのは泳ぐことより海なんですよ。なんでだろ。昔から……物心ついた頃から、ずっと海に帰りたくて、仕方なくて」

 明海さんの声はだんだん尻すぼみになっていく、ごまかすように笑うとマグカップの酒をぐいっと煽った。

「なんででしょうね。海に潜るのが好きなんです。もうずっと子供の頃から、私はいつか海のお仕事をするんだって思って。人魚姫が好きで、よく読んでましたよ」

「へぇぇ、人魚姫か。そういや、どことなくそがん雰囲気あるもんね、明海さん」

「そうですか? ふふっ。そうなのかなぁ。私、親とうまくいかなくて、もしかしたらどこか違う場所からやってきた子供なんだって、思ったりして。えへえへ。馬鹿ですね。あー、酔ってる。空きっ腹で飲んだらそりゃ酔っちゃうよね」

 僕は大地をちらりと見た。あまり詮索しないほうがいいと判断する。大地も気まずそうに僕を見て、口をつぐむと肉を鍋に入れた。しかし、明海さんの口は止まらない。

「いやもう、こういう話、誰にもしたことがなかったのに。なんで今ここで話しちゃうんだろ。なんか、綿貫さんって変な吸引力ありますよね。ね、米持さん! そうじゃない?」

「えっ!? あ、えーっと……そうかも。そうなのか?」

「ちょっと幼馴染ー! しっかりして! 二人とも、大人になってもキャンプするくらい仲よしなんだから、こういう真面目な話だってするでしょ!」

「あ、はい、しますします。しますとも」

「そうだよね! いいなぁ……私も、わかり合える友達ほしー!」

 こうして見ると、ただの酔っ払いを相手にしてるようなんだけどな……。

 でも、僕はこの異様なテンションの高低差に覚えがある。大地も遠慮がちに口を開いた。

「明海さんは友達おらんと?」

「いませんよ。悩みとか気軽に話せたら苦労しないし。お母さんともうまくいってただろうし」

「じゃあ、僕らに話してみるってのはどう?」

 なんだかもどかしくなり、僕も口を出してしまった。それでも彼女は手強く、急にテンションを下げる。

「や、でも……ねぇ、そんな重たい話になっちゃいますし」

「わかった。腹を割って話そう。そのお酒、僕にもちょうだい」

 自分のマグカップを彼女に差し出す。明海さんは素直に酒とソーダを注いでくれ、僕はろくに混ぜずに一口飲んだ。

 強いアルコールを感じ、瞬時に体が熱くなるも構わず飲み干し、一息つく。

「明海さん、僕もね親いなくて、育ててくれたおばあちゃんも高校で認知症になって介護して施設に入れてさ、一人で生きてたんだよ。で、なんとか入った会社も今年の春に辞めて、つらいくせに強がって笑ってごまかして、それが周りに心配をかけていることに気づいてなかったんだ」

 そうだ。彼女は少し前の僕に似ている。

「人に頼っていいんだよ。そして自分のことも大事にしなきゃいけないって気づいた。だから、今日偶然会っただけのやつに話すことかはわかんないけど、僕は明海さんの話を聞きたいって思うよ」

 パチパチと火花が爆ぜる音が響く。大地も明海さんもただ黙って僕の話を聞いていた。なんだか恥ずかしくなってくるけど、酔いが回って気分がいいのでどうでもいい。

 すると大地が噴き出しながら言った。

「眞魚の重たい話ついでに、俺も妙な体質持ちなんよ。そういう感じで、知らないやつにほど重たいもん吐き出してもいいっちゃないかな」

 明海さんは真剣な顔つきになり、マグカップの酒をぐびりと一口飲んだ。そして少し逡巡し、ためらうようにボソボソ言う。

「……おふたりとも、口説いてるわけじゃないんですね」

「くどっ……ないないない! そういう感情とか一切ないんで!」

 すぐに僕は否定した。そうだ、今の僕らの発言はそういう風に見られても仕方なかった! って、大地は全然動じてないんだけど!

 明海さんはくすくす笑って息をついた。

「そうですね。今日だけの関係ってことだし……別にいっか」

 彼女はうつむくと、マグカップに酒を注ぎながら話を始めた。

「えーっと、私はさっきも言ったように、母と不仲で。父はいません。母はいろんな人と付き合ってて、私が生まれた後に父とは別の男性との間に妹を生んで……ね、あー、重い重い。話が重いよぉ!」

「大丈夫。わかる、そうやっておどけて話しちゃうの」

「やだ、米持さん、話がわかる! こういう話、誰にもできないし……それに私、なんだか普通の人間とちょっと違くて」

「どういう風に?」

 大地が前のめりに訊く。彼女は「えーっと」と恥ずかしそうに、靴下を脱ぎ、マフラーを取った。

「さっきごまかしちゃったんですけどね……私、水に濡れると皮膚に鱗みたいなのが出ちゃうんです」

 顕になるその白い肌に、薄い銀色の鱗が浮き出ている。焚き火の明かりでつややかになったそれを、彼女はすぐに隠してゆっくり話を始めた。

「そのせいか、母と妹とうまくいかなくて。結構ひどいことを言われてました。それで家を出て今は鹿児島に流れ着いて、自分の好きなことをしてる感じです」

 これもかいつまんで話しているのだと思う。僕はふと大地を見た。その穏やかな表情にわずかな動揺が走っている。

「明海さん、その体質のわけ、知ってる?」

「いいえ。生まれつきみたいですけど、なんでなのかは知りません」

 大地の問いに彼女は顔を上げて答える。そこに暗さはないけれど、口元が笑ってない。

 その瞬間、大地はその場で狸に化けた。

「大地!?」

 思わず驚き、隠そうとしたが時すでに遅し。目の前で起きた出来事に明海さんが両目をしばたたかせて驚く。

「え、あれ? 私、そんな酔ってるつもりないんだけど」

「これは現実だ。俺はあやかしの血筋で狸に化けられる。これが大変な体質のこと」

 大地の静かな説明に、僕まで酔いが覚めてしまう。大地はすぐに人間の姿に戻ると、ため息をついて明海さんをじっと見た。

「君も俺とおんなじ、あやかしの血筋なんやと思う」

 まさかこんな風にカミングアウト合戦になるとは思わなかった……。

 明海さんの顔が強張っている。あ、これもしかしなくてもあやかしのこと絶対に知らない顔だ。

「えーっと、どうですかー? 地酒のお味は」

 そう言って僕に酒瓶を向けてくる。

「え? あ、なんか……とろっとしてて、まろやかだけど……芋でした」

 あまりに下手くそな食リポを披露したのが恥ずかしくなり、マグカップの上に手を置いて拒否を示す。彼女は「むぅ」とむくれた。

「眞魚、出汁を」

 すかさず大地が助け舟を出してくれたので、僕は素直に温かい出汁を飲んだ。アルコールで痺れた口の中が出汁によって和らぐ。

 そして大地は何事もなかったかのように、残った出汁に生米を入れてかき混ぜ始めた。一方で明海さんは「えへへ」とぎこちなく笑う。

「すみません、さっきのことに頭がついていかなくて……混乱しちゃって」

「そうだよね! ごめんね! 急に大地が狸になるとか、どうかしてるよね!」

 慌てて言うも彼女は首を横に振った。そして、目尻にそっと指を持っていく。

「あやかし……そっか。私のルーツ、そこにあったのかなぁ。そうだったら、これまでのことも納得できちゃうし」

 彼女が家族から言われたというのは、僕の頭では思いつかなかった。でも彼女の涙を見ていると、かなりつらいことが多かったのだと想像する。

「自分が何者かわからんって、つらいに決まっとる。君は俺と同じ体質なんだ。俺も、たまに山の中で生きていきたいって思うことあるしね」

 大地は優しく言いながら炊けた雑炊をお椀によそい、それを明海さんに渡す。彼女は小さな涙を拭い、お椀を受け取った。

「あったかい……」

 立ちのぼる湯気を受けて彼女は安心したように笑う。僕も雑炊をよそい、熱さに気をつけて食べた。

 煮詰まった昆布だしと肉の脂、野菜の出汁が米と卵に絡んで、ほっこりとした味わいになってておいしかった。


 やがて明海さんが船を漕ぎ始めたので、僕と大地は彼女をテントに誘導して寝かせた。空っぽの酒瓶を抱いて寝る彼女に可憐さはない。だが、勘の悪い僕ですら、彼女の正体がなんとなくわかっている。

 僕と大地は夕飯の後片付けをしながら「いっせーの」で答え合わせをした。

「カッパ!」と僕。「人魚」と大地。おい、勢いよく言った僕をじっと見るのはやめろ、大地。

 でも「人魚」と言われたらそうにしか思えない。

「まぁ、カッパだったら海じゃなくて川だよな……」

「カッパに鱗があったかは俺もわからんけど、あの子は人魚だと思うよ。各地に伝説もあるし、子孫がおってもおかしくない」

 大地の冷静な分析に僕は素直に舌を巻いた。

「はじめから、自分があやかしだってわかってたら楽だったのかな」

「どうやろう……純粋な人間やないことを母親も妹も知らんわけやし」

 大地は泡だらけの椀を持ったまま寂しそうに言う。

「そっか。大地は狸の自分に不満はないんだろうけど、他の人間と違うことに傷つくことはある?」

 なんとなく訊いてみると彼は椀をすすいで、ゆっくり考えるように答えた。

「んー、生まれたときからそうやったし、親も兄さんもそうやしね……」

「でも、明海さんがあやかしのことを知らないで生きてきたことに、少し動揺してただろ」

「そーね……知らんまま生きるのは、果てしなくつらいやろう。俺ももし、あの子とおんなじように育ったら悩んだかもしれんなぁと思うよ。あの子を見て初めてそう思った」

 どうも大地はへこんでいる。そんな彼に、僕はおどけた調子できっぱり言った。

「好奇心で探るもんじゃなかったよな」

 これに大地は「あぁ」と小さく頷いた。

「でも危険なあやかしやったら俺も眞魚も危ないけんなー。いやー、俺もまだまだや……って、あっぶね!」

 皿を落としかけた大地が叫ぶ。その瞬間、彼の尻から尻尾が飛び出したので、僕はシリアスな気持ちが一気に飛んでしまい、盛大に噴き出した。

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