桃の木と祓魔術師

兄場ユウタ

第1話

[堕]


 

 炎の魔物は揺らめいて、みるみる小さくなってゆく。

 深緑の森が湿気で満ちる。

 山ひとつ焼失してしまう前に、曇天の空から降り始めた雨は、まさに神の恩恵だった。

 ざあー。

 長い長い雨音は、森の生命たちの安堵の溜め息のようだ。

 もはや火の手は、割れたランタンの中で、燻るだけとなった。ランタンが割れ、その中から意気揚々と飛び出した時と比べれば、ちっぽけで弱々しい灯火は、ふうっと息を吹きかけようものなら、すぐに消えてしまうだろう。

 その護送馬車が崖から転落したのは、事故だった。

 突如として興奮した馬が、道を踏み外し、御者は立て直しを測ったが、叶わなかったという、ただそれだけのこと。

 2体の馬は真っ先に、十数メートル下の大地に、首を打ちつけた。

 馬に続いて、木製の荷台が落下し、叩きつけられて歪めば、粗末な小屋のようになった。

 消えようとしているのは、なにも火種だけではなかった。

 御者の男は、土の上に伏して、潰れかけた荷台を見つめていた。

 呼吸には笛のような音が混ざり、こちらもまた、いつ絶えてもおかしくない虫の息となっている。

 だが、彼の両目は、瞬きすら惜しいというように見開かれ、目の奥には執念の光が宿っていた。

 何がなんでも生きてやる。生気に満ち溢れた眼差しだ。

 その目は、正確には荷台自体ではなく、中にいるであろう3人の男に向けられていた。1人は護送中だった囚人だが、もう2人は同僚である。

 御者の瞳が、おそらく彼の人生の中で最も輝いた瞬間だ。

 大丈夫。自分は助かる。

 ヒョロガリの自分が生きているのに、厳つい同僚が呆気なく死ぬわけがない。潰れた荷台の板と板の隙間から這い出るなりして、大手を振って、助けに来てくれるはずだ。

 きっと来る。今にも来る。必ず来る。

 ほら、すぐに。

 御者は、今か今かと待ち望んだ。

 救いの瞬間を、歓喜の開花を、その目で見、体感したかったのだ。

 体温が下がろうと、手足の感覚が無くなろうと、御者はグッと堪えて待ち望んだ。

 その瞬間は、幸運にも訪れた。

 が。

 バリバリと引き剥がした木片を片手に、潰れた荷台から這い出てきたのは、目元に隈のある男だった。

 その時、御者の抱いていた希望は、木っ端微塵に粉砕された。

 “なんでよりにもよって、お前なんだ!”

 まるで蜘蛛の巣のような、籠目の模様の黒い小袖。煤けた肌と黒い蓬髪はじっとりと濡れ、幽鬼のように、ゆらゆらと立ちあがるその男は。

 男は、人殺しだ。

 それも、王国で最も罪深い殺人を犯した、逆賊だ。

 男の不健康そうな目元は、いかにもという感じで、処刑場への護送中、眠っているのではと窺えば、漆黒の両目がギョロリと見返してきて、御者は腰を抜かしかけた。

 あの目は、殺人者の目に違いなかった。

 そして、この男が生きているのならば、男と共に荷台に乗っていた、2人の同僚が生きている可能性は低い。

 仮に、落下直後は荷台の中で生き残っていたとしても、囚人である男がそれを見逃すわけがない。攻防があったかは定かではないが、この男だけが這い出てきたということは、そういう結果に違いない。

 あぁ。あぁ、終わった。

 短気な父親の皿を割った時より、奮発して買った婚約指輪を無くした時より、御者はそう思った。

 せめて愚痴や皮肉を言おうとしても、ぜぇぜぇという呼吸音に換えられてしまう。

 いつのまにか頭の近くに、囚人の男が立っていて、御者の心臓は、激しく打ち鳴らされた。あまりの勢いに、脈拍はふと途切れそうになる。

 情けなくも、奇跡を考えずにはいられなかった。

 もしかすると、ということもある。

 囚人と言えど、人の心は有るはずなのだから。

 そう、もしかしたら__。

 男の視線が、御者から逸れた。

 視線を戻したい、という切なる願いが、御者の身を震わせた。

 しかし、男は目線を遠くに向けたまま、緩慢な動きで方向転換をした。御者を見捨てて去る気だ。

 御者はふと我に返り、その瞬間に、憎悪を発芽させた。

 なぜ、お前なんだ。

 なぜ、私ではない。

 すぐ目の前を通り過ぎる男の足に、縋り付くことも出来ない。

 感覚器官で、唯一まともに機能している聴覚が喘鳴を拾う。耳は塞ぐことができない。痛ましい呼吸音が誰のものかを、突きつけられる。

 すなわち、死が、御者の元へ近づいてくる。

 男の草履が泥を跳ね飛ばす音は、少しずつ遠ざかる。

 やがて、御者に聞こえるのは、激しい雨音だけとなった。

 実家の近くの山中にある川の音に似ている、と思いを馳せれば、幼少の頃の記憶が蘇る。

 緑が芽吹き始めたばかりの森林。

 その景色の中で、御者は少年の姿となって立ち尽くしていた。視線の先には、踊るように岩の間を流れる川がある。

 白い泡の中で、兄弟達が楽しそうに遊んでいる。

 あんなにも深そうな場所に入るのは怖い。けれども、兄弟たちが羨ましい。妬ましい。

 だからあの時。

 かつて御者は。少年は。

 水位が上がっていることを教えなかった。

 

 ごぽり。


 半開きの口から、血の泡が溢れ出た。

 僅かに上下していた胸の動きは停止。

 しばらくし、御者は息絶えた。

 


****



[空っぽの鬼]



 この世を去ったのち、何処へ行くのかと問われれば大抵の人間が、審判を待つところへ行くのだと答えた。

 では、審判とは何処にある。

 地下にか、それとも天空にか。

 否、地上に違いない。

 人間だ。人間のいる、地上こそが審判の場なのだ。

 では、そこでひとたび悪だと断定された人間の魂は死後、何処へ行くのか。

 とても天には登れないだろう。ならば、地獄へ行くのか。

 否。

 その魂は、ずっと地上に在り続ける。

 盗んだ者。盗まれた者。殺された者。殺した者。

 彼らの魂は、肉体が朽ちようとも地上にへばりついて、時の流れを拒む。

 俗に言う無念が、人を地上に縛り付けるのだ。

 だが、魂だけというのは、肉体があった頃よりずっと脆く、風前の灯のようなもの。

 故に、既に死んでいる者が、自我を捨てるほどに死に物狂いで、まだ地上に居たいと願うのだ。

 死ぬに死ねない。

 取り残された魂に宿る無念。

 いつしか無念は生存本能に変わり、願いは恨みへと変わる。

 そうして生まれるのが、妖魔である。

 こうなった時、もう彼らに無念など存在しない。

 彼らは虚を探し、肉を欲する。

 ただ、本能のままに。

 


****



 分厚い雲の塊が、空を占めている。

 木の葉で蓋をされた森の中は、まるで黄昏時のように暗い。

 殆どの生物が気配を消していた。そこに居ることは確かなのだろうが、音も立てず、ひっそりとしている。

 それゆえ、男が枝を踏み折る音はよく響く。ただ、辺りが静か過ぎるのか、主役というよりは、邪魔者のようだ。

 その男は、死者だった。

 不運な転落事故さえなければ、男はとっくに、斬首に処されていたはずだった。

 それが図らずも、男1人だけが生き延び、堂々と歩いていようと、誰にも咎められない。

 普通ならば、千載一遇の逃亡のチャンス。しかし、男はこの事態を喜んではいなかった。

 なんと煩わしい神の手引きか。落下の衝撃で、手枷が壊れて外れたことに関しては、天罰とすら思っていた。

 男には、生きる気が無かったのだ。

 現に男の足は、山を越えた先の処刑場へと向かっていた。

 先ほどから、脳内で繰り返し再生されるのは、崖下への転落の瞬間、両目に焼き付いた映像だ。

 急に体が浮き上がったかと思えば、傍に座っていた監視役の男らも、同じように宙に浮かんだ。

 そして、床なのか側面なのかも分からない壁面に、何度も叩きつけられた。一瞬のことだった。

 最後には天井の板に押し潰された。その際、干し草が口に入ったことで、男は舌を噛み切らずに済んだのだが。

 監視役の屈強な男は、頭を打ちつけると、それっきり動かなくなり、その男の下敷きになったもう一人の監視役は、首があり得ない向きに曲がっていた。

 男は焦り、もがいて、なんとか外に出た。

 そこで、瀕死の御者と目が合った。

 色濃い軽蔑の眼差しはどこへ行ったのか。助けてくれ、と言わんばかりの御者の目は、神にでも祈るかのように輝いていた。顔は青白く、腹の裂け目から流れる血で不気味に染め上げられても、目だけは生を求め、キラキラしていた。

 だが、雨に溶け切らない濃い匂いと、その原因たるおびただしい量の血に__もう助かりはしない、と判断した。見殺しにした。

 これで男は、計4人を殺害した大罪人だ。

 だから、男は処刑場へ赴いている。

 自らの罪の告白と、永久的な解放を望んでいる。

 男は濡れた手で顔を覆った。

 涙は出なかった。

 雨は止んでしまったため、涙らしいものすら無い。

 「…………誰か、俺を殺してくれ」

 男の声は、誰もいない森の奥に消えていった。

 思い返せば男の人生は常に、規則に律されたものだった。囚人となってからは尚のこと、誰かに「歩け」と言われるまで歩いてはいけなかった。

 だが、それは心を楽にした。男にとっては誰かの命令こそが、生きる意味だった。

 故に、それが無くなってしまった男の、ふらふらと処刑場へ向かう様は、まるで飼い主を探し回る子犬のようだった。

 『人殺し!』

 幼い少女の声が脳内で反響し、男の頭蓋を揺らした。

 「……あぁそうだ。俺は最低最悪の人殺しで……だから、死ぬべきなんだ」

 男にとって命令に従うというのは、自分の虚な身に、意思や価値を詰めていく行為だ。

 何故なら、男自身には何も無いから。

 何も無いのなら、そうするしかないから。

 さぁ、処刑場へ行くのだ。行くしかないのだから。

 しかし男の足は、地面に突き刺さったかのように動かなくなった。

 やがて、息を吸うことしか出来なくなる。それに気づいて呼吸を止める。訪れる酸素不足にやむなく口を開け、新鮮な空気をゆっくりと吸い込む。

 しばらくして落ち着いた頃、また1歩1歩、死へ赴こうとするのだが。

 歩みは停滞する。

 「クソっ……!情けねぇ……」

 足はついに動かなくなり、男はその場に崩れ落ちるようにしてしゃがみ込んだ。

 ガクガクと震える泥まみれの両足が、まるで言うことを聞かない。

 __いまさら、俺は生きたいのか?

 __俺はどうしたら良いんだ!?誰か教えてくれ!

 男はこの時初めて、自分の天敵が孤独であることを知るのだった。

 


****



 男は、気が動転しそうになった。

 目を瞑ったら当然、暗い。しかし開けても、まだ暗い。

 失明したかと思ったが、そうこうしているうちに目が暗闇に慣れ、木々が生い茂っている風景が、ぼんやりと浮かび上がったため、やっと安心する。

 軋む体を起こし、男は近くにあった木の幹に寄り掛かって座った。

 どうやら寝ていたらしい。目覚めたのが夜となると、半日は眠っていたことになる。

 何処でも熟睡出来るのは、才能というべきか呑気というべきか。

 だが、どちらにせよ、夜の森林を灯り無しで歩き回るほど、無鉄砲ではない。

 男は息を潜めた。

 夜の森には、犬やら熊やら、野獣が獲物を求めて徘徊している。

 鉢合わせすれば男に勝ち目は無く、恐ろしいのは、奴らの襲い方である。肉を剥がされ、少しずつ食われる。想像するまでもなく惨い。幾ら死を望んでいようと、「そういうことではない!」と叫びたくなるほど惨い。

 だが、森を真に支配しているのは獣の類ではない。

 闇だ。

 闇は、草木の隙間でさえも塗りつぶし、森の端から端までを牛耳っている。

 今日のように、月の頼りも無くては、まるで鯨の胃の中のようだ。

 そこには、閉塞感と開放感が混ざり合っている。何処へも行けない苦しさと、何処までも続いていそうな期待が手を取り合って存在している。

 一般的に、それは恐怖を連れて来る。

 しかし男の場合、闇のもたらす恐怖とは和解済みであった。

 単純な話、慣れすぎたのだ。

 「……時間が分かるの、久々だな」

 そう口にした時。

 ふわりと風が、喉仏を撫でていった。

 もしかすると自然に起こった風ではなく、何者かの吐息ではないのか、という疑問が頭に留まり続けてしまうのも、闇の持つ魔力であろう。

 男は喉を摩りながら、

 「……誰かいるのか?」と振り返る。

 生温かい風は狙ったように、頸を掠めた。

 首全体を手で撫で回せば、妙な感触は消えたが、次は指先から何かが這い上がってくるような違和感があり、男の胸中でざわつきが起こった。

 __風じゃねぇ……!

 虫を落とすつもりで手を振り払った。

 しかし今度は素足に、こそばゆい感覚がある。何かの力に草履が引っ張られ、足から外れそうになる。

 もしや蟻の巣の近くに、腰を下ろしていたのかと考えた男は、立ち上がって全身を叩き払った。

 だが、気色の悪い感覚は無くなるどころか、徐々に体の表面を覆っていく。

 足から胴。股引きから、着物に這い上がっていく。胸を締め付け、肩から腕まで広がっていく。

 全身がずっしりと重くなったように感じられた。

 「なんだ!?何が起こって……っ!?」

 急に首が圧迫され、男は息を詰まらせた。

 咄嗟に伸ばした両手が掴むのは、空気ばかりだ。腕を滅茶苦茶に振り回そうと、何者かの体や、首を絞めてくる物体には触れられない。

 ではどうして苦しい。

 いったい、何に殺されるのか。

 男はカッと両目を見開いたが、注視すればするほど、朧げに見えていた草木の輪郭ですら見えなくなり、眼界は黒に埋め尽くされる。

 男は自らの死を予感し、そして恐怖した。

 その時。

 鼻先に息が当たった。

 すぐ近く、すぐ目の前で、何者かが低い声でこう言った。

 「なんで、お前が生きているんだよぉぉぉ」

 男の思考は一瞬停止し、それから絡まっていた紐が解けていくように、

 そうだった。

 そうだった。と。

 ふと気がつけば、男は、怒りの表情で小石を振りかぶる人々に囲まれていた。それが酸欠による幻覚だということを、男は自覚していたが、そんなことはどうでも良かった。

 衆人の視線に誘導され、処刑台の前に立つ。顔を上げる。処刑人の持つ刃の煌めきが、男の瞳孔を焼いた。

 「そうだったよ」

 男は納得した。

 誰が首を絞めているのか__そんなもの分かりきっている。

 人々の憎悪の念だ。念が集合し、首を絞めているに違いない。

 ふと男は、錆びた監獄の独房に置いていった、自分の名前を思い出した。

 イツキ。

 それは男の名であったが、男が忌み嫌われてきた証でもあった。

 これは宿命なのかもしれない。

 抗う必要など無い。

 男は眠るように、目を閉じた。



 ****

 


[ある日、ある場所、ある依頼]


 

 暗めの赤を基調として、調度品が揃えられた応接室。

 奥に置かれた執務机や椅子は質素なものだが、その代わり、天井から下がるシャンデリアがひときわ贅沢な輝きを放っていた。

 その真下で、黒糖のように艶めくテーブルが、窓から差し込む日に照らされる。

 テーブルを挟み、男女が向かい合って座っていた。

 男の方は、この部屋の主。

 女の方は、依頼人である。

 女は旅の装いで、随分と遠くから来たのか、草鞋は擦り切れ、手甲も足袋も砂まみれになっていた。

 「毎日、毎日、毎日、毎日ですよ!?夫はそんなの幻聴だって言うんです!でも、私には聞こえてきて……幻聴なんかじゃありません!確かに唸り声なんです!それで私、怖くて怖くて、眠れなくて……!」

 女は語り出すなり、顔を覆って泣き出した。

 堰き止めていた水が、一気に溢れ出したように、大量の涙は、指の隙間からも垂れ落ちるほどだった。

 正面に座る背広姿の男は、それはそれは優しげな表情で、純白のハンカチを差し出した。

 「えぇ。幻聴では無いでしょう。貴女を怖がらせるため、貴女にだけ声を聞かせているのですよ。そういう怪異もあります。誰にも理解してもらえず、お辛い日々でしたね」

 男は紳士的な微笑みを浮かべた。

 黒い髪に白い歯。鼻は高く、目も大きい。やや童顔だが、人の目を惹く整った顔立ちである。

 女は頬を紅潮させた。そして、受け取ったハンカチで目元を拭いながら歓喜した。

 「あなた様が、私ども平民の悩みを聞いて、そして信じてくださると……噂は誠でしたのね!あぁ、良かった……。此処まで来て本当に良かった……!」

 そして、此処__王都に辿り着くまでの苦労を思い出し、ふたたび涙を流した。

 女がようやく泣き止み、涙の染みたハンカチを大事そうに握り込んだところで、男は執務机に、羽根ペンと紙を取りに向かった。「さて……お住まいは確か、東南の……」

 女が答える。「鉢雲はちくもですわ」

 「おや、それなら良い術師が居ますよ。近場だから金額も安く済む。幸運な方だ」

 男はテーブルに置いた紙に、サラサラと文字を書き、最後に印を押して、封筒に入れた。

 「こちら、紹介状ですが……」

 男が封筒を差し出すと、女はそろそろとハンカチを返そうとした。

 「あ、これ、お返しします……」

 「あぁ、いえ。差し上げますよ」

 「えぇ?こんな上等なものを……本当に良いのですか?」

 「構いませんよ。それより、この紹介状を持って、雲九うんきゅう山の麓の、兎丸うさまるという家を尋ねてください」

 手渡された封筒を見つめ、女は眉を八の字に曲げた。

 「あの……不躾な質問かと存じますが……どんな方なんでしょうか?術師というのは……私、そうしたご職業の方とは、お会いしたことが無いもので……」

 「まぁ、ピンキリですよ。貴女が想像されるような詐欺師も居ます。しかし、“彼”の腕は本物です。私が保証しましょう。ふむ。あらためてどんな方と言われると……そうですねぇ」

 男は天井を仰ぎ見て、しばらく悩み、女の方に向き直ってから言った。「口の悪い子供ですかね」

 「こ、子供?子供が術を!?怪異を、子供に退治させるのですか!?」

 「ははは。どうやら、彼ら術師に年齢は関係無いようです……おや、奥様。申し訳ありませんが、本日はこれで」

 「あ……お時間ですね。私こそ、取り乱したりしてごめんなさい。今日は本当に、なんとお礼を申し上げたら良いものか……」

 「いえいえ。今の私に出来ることと言ったら、紹介状を書くことくらいですよ。良いところは兎丸殿に持って行かれてしまうからね」

 「ふふ、まぁ」

 くすくすと笑った女は、封筒を持って立ち上がった。

 男も立ち上がり、そして、ふと思いついたように口を開いた。

 「そういえば、今日の正午に予定していた死刑がまだ終わっていないみたいですよ」

 唐突な話に、女は怪訝そうな顔つきになった。

 田舎町からはるばるやって来た女にとっては、王都の広場で行われる処刑のことなど初耳だ。「どういうことでしょう?」

 「護送隊が到着しないらしいのですよ。もちろん死刑囚も。逃げた死刑囚がその辺を歩き回っているなんて噂もありましてね」

 「まぁ、怖い」

 「ですから奥様、帰り道にはお気をつけて。なるべく人気の無いところは避けて、お帰りください」

 男がそう言うと、女は覚悟したように頷き、深く頭を下げた。「本日はありがとうございました」

 男は柔らかに笑い、女を見送った。「怪異の件はご安心を。貴女の家の怪異は、必ずや祓われるでしょう」


 「さてと……」

 女が去ってから、男は椅子に腰掛け、執務用の机に伏せると、気の抜けた笑みを窓の外に向けた。

 それから、無遠慮に大きな口を開けて、欠伸をした。

 男が見つめる先には、霧のような雲に覆われた低い山__雲九山がある。

 「子供だし、顔は可愛いけど、性格には難ありって伝えておいた方が良かったかな……?」



****



[不可視]



 男__イツキはふと気がついた。

 酸素不足の脳内に、走馬灯のように記憶が流入する。しかし、自分のものではない。


 __これは誰の記憶だ?


 イツキの目の前に広がっていたのは、見知らぬ渓流の景色だった。

 川では、数人の子供たちが腰までを水に浸からせ、楽しそうに遊んでいる。

 勢いのある流れだったが、笑顔を見るに、それが子供達にとっては刺激的なのだろう。

 突如、轟音が聞こえた。

 そして次に川を見た時、上流から一気に押し寄せた濁流が子供を呑。

 「やめろ!!」

 何にそう言ったのか。

 自分でも理解にしないままに、イツキは叫んだ。

 その隙に走馬灯は消え去り、視界の情報は鮮やかな景色から、色濃い闇へと切り替わる。

 忘れてんじゃねぇよ、というように首の痛みと、酸欠の苦しみが現れた。

 生きているのか、死んでいるのか。

 はたして此処は現実なのか、幻覚なのか。

 判別がつかない。

 何故ならイツキには未だ、きゃあきゃあと騒ぐ、子供たちの声が聞こえていた。

 川遊びの幸せそうな笑い声から一変して、鼓膜を震わす彼らの声は、甲高く痛ましい。

 咄嗟に耳を塞いだが、声は止まない。頭の中で鳴り響いているのだ。頭蓋を内側から叩き壊そうとしている。

 子供達の無念の叫び。悲痛な戦慄き。怒りが。

 イツキの空っぽに、入り込んでくる。

 「ぐっ……!やめろ……!やめてくれぇっ……!!」

 刹那。

 黒い視界を、流星のような光が、一文字に横切っていった。

 残光の筋は、闇を上下に切り離すかのように輝きを増し、やがて闇は2つの塊に割れた。

 割れ目から差し込んだ光はイツキを迎え入れるかのように、四方八方に拡散した。

 ゴオッと正面から風が吹き、体は眩い光に包まれる。

 やがて目が順応し、イツキが辺りを見回した時、そこは緑の美しい森林だった。

 小鳥のさえずりが聞こえた。

 イツキは肩で息をしながら、火照った顔の汗を拭った。

 「昼……?」

 真上を見上げれば、地上の全てに活力を与えるように、太陽がある。

 「全部、夢だったのか……?」


 「幻覚だ」


 何者かが呼応した。

 人の気配を感じ、イツキは振り向いた。

 「誰だ。お前」

 背丈は随分、低い。

 現れたのは、おかっぱ頭の子供だった。


 __雪の精……?


 その子供は白い頭に白い着物、さらには、睫毛までも霜が降りたように白い。

 紺の羽織と帯が、危うく霧散してしまいそうなほどに儚い白色を引き締めている。

 声質や着物からして、成長途中の男児だろうが、日焼けを知らない肌と華奢な体つきは、少女のようにも見える。

 虫も殺せぬような顔立ちで、狩でもしていたのか、少年は弓を持ち、右手には青い手袋、腰には数本の矢の入った籠を提げていた。

 「あ……!」

 イツキは思わず声を発した。

 驚くべきことに少年の目は、碧い。硝子玉のようである。

 イツキは本当に妖精を見ているような気持ちになり、口を開けたままということも忘れ、少年から目を離せずにいた。

 「命の恩人に向かって、お前だと?訂正しろ」

 少年が言った。

 凍てつくような視線と言葉に、イツキは僅かにたじろいだ。「わ、悪かったよ。じゃあ、なんて呼べば良い?」

 恐れることはない。相手は子供なのだから、むしろ怖がらせないように笑った方がいい。

 そこでイツキは、少し困ったように微笑んだ。

 そう、相手は子供なのだから__。

 「思い上がるな。貴様に僕を呼ぶ権利は無い」

 イツキの口角が痙攣した。

 久々に笑ったためか。

 否。表情が引き攣ったのは、出会って数秒にして、少年の、厄介なことこの上ない性格を理解したからだ。

 互いが互いを相容れない存在だと認識し、重い沈黙が流れた。

 風に揺れた木の葉が、路上の喧嘩を見守る野次馬のように騒めいた。

 先に口を開いたのは、少年だった。イツキも喋ろうとしたが、少年の方が1秒早かった。

 少年はクツクツと笑いだした。

 「いや。命の恩人というのは間違いだったな。死にたがりだとは思わず、つい助けてしまったよ」

 「何だと?」

 イツキは片眉を上げ、少年を睨みつけた。

 だが、少年の異国の者のように大きな碧眼は、遥かに背の高いイツキに対し、全く怯まない。

 おかしなことに、イツキの方が見上げている気分になり、まるで少年ではなく、仙人を相手取っているようであった。

 「死を望む者は付け入る隙が多い。狙われやすい。混ざりやすい」

 そう呟いた子供の視線が、イツキの背後へと移動した。

 イツキはつられて背後を振り向く。

 だが、そこには何もない。静寂と深林がずっと続いているだけだ。

 少年の視線の意味を問いただそうと、顔を戻した時。

 「ん……?」

 ふと、イツキは肩に重みを感じた。

 倦怠感とは違い、誰かが肩に手を添えているかのような重さだ。暗闇の中、何度も振り払おうとしたあれにそっくりな、得体の知れない感触だった。

 手を翳したところ、何も無いはずが、掌は何かに触れた。

 見えない何か。

 拳ほどの大きさの何か。

 丸く歪で、表面がざらざらした何か。

 それが確かに、肩に乗っている。

 「視えもしないくせに触れるとは……よくわからない男だな」

 少年が呆れたように言った。

 「ふ、触れるって何だよ……此処には、何もない……」

 「この後に及んで惚けるのか?今、触っただろうが。それだ」

 「は……?それって?」

 「“そいつ”は、貴様を見ているぞ」

 イツキはもう一度、自分の肩を見た。が、やはりそこには自分の肩があるだけで、見返してくるものなどいない。

 少年がパタリと口を閉ざしてしまうと、イツキは何がなんだか分からず、

 「そいつって誰だよ……!?」

 と、振り上げた手で、肩の上を払った。

 手の甲に何かが当たったような感触があり、直後、肩は軽くなった。

 「いったい、なんなんだよ……」

 ぼとり。

 質感のある物体が、地面に落ちる音がした。

 砂埃が舞う。

 すると、何度も何度も砂埃は舞い上がり、その動きは蛇行しながらイツキ達から遠ざかって行く。

 少年は地面に向かって弓矢を構えた。「逃すものか」と、慣れた手つきで弦を引き、イツキには見えない何かを目で追った。

 放たれた矢は、一直線に大地に突き刺さる。

 だが不思議なことに、イツキにはその矢が、何かに貫通しているように思えた。

 少年は地面に刺さった矢を抜き、付着した土やら、あるいは何かの破片を落とすように、矢を振るってニヤリと笑った。「貴様は実に都合が良い。奴らがウヨウヨ寄ってくる」

 「や、奴ら!?」

 イツキは周囲を見回した。

 「おい!揶揄うのはやめろ!何がいるっていうんだ!」

 「妖魔ようまだ。視えない者に説明したところで無駄だろうが。貴様のように生に執着が無い奴ほど狙われる」

 「ようま……?」

 ふん、と少年は小さな鼻を鳴らした。

 「……じゃあ、何だ?俺に見えてないだけで、今も俺の周りにはその、妖魔ってやつがいるっていうのか?そんでもって、俺を狙ってるって?何のために?」

 イツキは空笑いした。

 対して、そんなイツキに向ける少年の目は冷ややかだった。

 「ついばまれているぞ」

 そう言った少年の指が、イツキの首を指し、イツキは蚊を叩くより素早く、自身の首元に手を当てた。

 イツキは驚きに目を見開き、そろそろと手の中を見た。

 「何だこれ、血……?」

 「何のためか、と聞いたか。決まっている。食うためだ」


 食うため。

 

 イツキの背筋を冷風が駆け上がっていく。

 「貴様は食われかけていた。そうだな、幻覚を見ていたならば5割くらいは、既に腹の中だったろう」

 少年が妖魔と呼ぶ、目に見えない敵の存在。

 さっきまでは子供の戯言と思っていた事が、じわじわと心を侵食していく。

 「ほら今も。あの木に隠れて、こっちを見ているぞ」

 少年が唇の端を引いて笑い、イツキは身を固くした。

 「お前をいつ食ってやろうかという顔でな」


 __食う?誰が?誰を?透明な化け物が俺を食うのか?硬いパンを齧るみたく、少しずつ食われるのか?

 

 イツキは少年の目を通して、木陰に潜む化け物を見た気がした。

 ぞわりと怖気が走り、すぐさま身を翻して、走り出す。

 その瞬間、後方から飛んできた矢が、イツキの脛を掠めた。

 「おい!何する!なっ……はぁ!?」

 イツキは唖然とした。

 なんと、足を掠めた矢が、そのまま地面に刺さるのではなく、紙飛行機のように旋回し、ひとりで空中に浮いているではないか。

 鏃の先端はイツキの方を向き、まるで進行を阻んでいるかのようである。

 「それ以上動けば、まず腹に穴が開くぞ」

 冷酷に言う少年の手元は、糸を手繰り寄せるような動きをしていない。

 つまり、飛行する矢は、絡繰ではないということ。

 イツキは降参の意味で両手を上げた。

 どうして矢が勝手に飛んでいるのか、という謎はこの際、置いておくとして、

 「何が目的だ?」

 尋ねながら、イツキは、鏃と少年がどちらも視界に入るように顔を傾けた。

 「貴様は、餌にちょうど良い」

 「はぁ?餌ぁ?」

 イツキが反射で睨み返せば、矢はイツキに向かって前進した。

 「うわっ!魔法か!?や、やめろ!」

 腹を目掛けて、今にも特攻してきそうである。

 鋭い鋼の表面には、一切の曇りがない。

 凄まじい切れ味、刺さり具合の予感がし、イツキの額には冷や汗が滲んだ。

 「僕に着いてこい。そうすれば、奴らは手出し出来ん」

 「着いてこいって……俺には俺の…………」

 「くだらん嘘を吐こうとするな。貴様には家族も生活も無い。金も無い」

 ピシャリと言い放った少年は、くるりと向きを変え、森の中へ歩き出した。傍の大樹が日光を遮っていて、少年の行先は薄暗い。

 イツキが少年を追うように歩き出せば、矢は背後に周って、催促するようにイツキの背中を突き始めた。微かに触れているだけの先端だが、背中はヒリヒリと痛んだ。

 やはり切れ味は凄いようだ。

 「ッチ……なんだよ」

 実際のところ、少年の言葉は全て当たっていた。

 収監された際、貯金に至るまで所持金は押収され、数ヶ月に及ぶ獄中の生活は、当然ながらまともではなかった。

 最後まで自分の無実を信じてくれる、家族のような存在があったら、何か変わっていただろうか。

 「なんで身内がいねぇことまで分かるんだよ」

 「愚問だな。そうでなくば、これほどの妖魔につき纏われるはずがない」

 少年の返答に、イツキは引き攣った顔で後ろを振り返ると、そこかしこを威圧的に睨んだのだった。




 まず少年が足を止め、イツキも足を止めた。ギリギリで矢も停止し、背中に穴が開かずに済んだイツキは、ホッと胸を撫で下ろした。

 そして目の前の、白く塗られた土塀に手を這わせると、塀瓦を見上げ、

 「古風だな」

 と、言葉を溢した。

 国内で最も栄える王都では今や、塀や建物の殆どが煉瓦造りである。

 この手の建築仕様は、王都から離れた町村に多く、馴染みが無いわけではなかったが、イツキが見たことのあるものといえば、長屋か、小ぢんまりとした二階建ての茶屋くらいだ。

 屋敷、というのは初めてお目に掛かるのである。

 広い土地と、それを囲う塀。

 庶民の金銭事情で手に入れられる代物ではないということだけは分かる。

 塀に沿って歩いていくと、古拙な木造の門が見えてきた。

 屋敷の表門だろう。

 「何をモタモタしている。こっちだ。早く入れ」

 少年が門の脇にある戸を開け、苛立ったように言った。

 __これが開くわけじゃ無かったのか……。

 3メートル以上の門が、開く想像をしていたイツキは、やや拍子抜けした。

 「さっさとしろ」

 少年が言うと、まるで忠犬のように、矢がイツキの背を突く。否、牧羊犬だ。

 「分かった、分かった。歩くから……」

 イツキは少年の後に続き、頭を下げて小さめの戸を潜った。

 「でけぇ屋敷……」

 平屋の屋敷の周りには、碁石のような白い石が敷き詰められていて、そこには、足跡ひとつ無い。

 屋敷もまた古風であった。色彩は少なく、飾りも殆ど無い。剥き出しの木目が、落ち着いた雰囲気を生み出している。

 まるで、イツキの来訪を「待っていましたよ」と受け入れてくれるかのようだ。

 しかし、石畳の道を歩き、玄関の戸に近づくにつれ、

 「……?なんだ?」

 息苦しさに気がついた。

 澄み切った空気が、どうも吸い辛い。精一杯に吸い込んでいるはずが、肺に流れ込むのは予想した量の、半分にも満たない。

 広大にして、贅沢な景色が肌に合わないのだろうか。それとも、獄中の荒れた内情に慣れてしまったせいで、逆に、無害な環境に体が落ち着かなくなってしまったのだろうか。

 だが、イツキは狼狽えることなく、深呼吸をした。

 __まぁ、大丈夫だろう。このくらい。死にはしない。


 ……待って。

 今、何を思った?

 …………死にはしない、だって?

 それじゃあまるで、生きていることに安心しているみたいな。

 俺が。こんな俺が、図々しく、生き延びようっていうのか?

 

 イツキは、背後の矢の存在も忘れ、覚束ない足で後退した。

 __あぁ。あの時、どうして馬車は落ちた?どうして自分だけが助かった?

 急に目眩がし、イツキは何かに掴まろうと、ぐにゃりと歪んだ景色の中に手を差し出した。

 だが、指先は空を掻き混ぜるだけだった。

 __何かに掴まらなくては……!

 心臓が素早く警鐘を打ち鳴らしていた。

 __何かに、何処かに、掴まっていなくては連れていかれる!

 強風の渦に吸い込まれるように、意識が後ろに引っ張られていた。

 まるで、何かに手繰り寄せられている。

 魂が、肉体から引き摺り出されてしまう。

 イツキの背後で、誰かが、乱暴に門を叩いている。

 ドンっ。ドンドンドンドンドンっ……。

 イツキは、少年を見た。

 少年は門を見据え、静かに言った。

 「やはり付いてきたか」



****



[妖魔]



 妖魔の誕生の謎を解き明かしたのは、他でもない妖魔自身だった。

 その妖魔は。

 その妖魔は、妖魔としての本能を持たずに生まれた。

 生物の死骸を見れば、飛び上がって逃げるほどの臆病者に、生者を襲って食らうことなど出来ようか。

 姿形は妖魔でありながらも、妖魔として生きる術を持たずに生まれたのだ。

 否、持たせてもらえなかった。

 神の試練、戯れ、手抜き__なんにせよこの妖魔は、生命としてあまりに脆弱な、悲運の個体だった。

 しかし奇跡的に、妖魔は生き延びた。

 本能より理性。衝動より感情。その妖魔は生き抜くために、人間らしさを求めた。

 そして、ついに自分たち__妖魔の成り立ちについて思考することになるのである。

 以下、この妖魔を“異端の妖魔”と呼ぶことにする。


 妖魔とは、死んだ人間の魂から生成される。

 異端の妖魔が、その考えに辿り着くため必要だったのは、途方もない労力や、ひと粒の雫のような閃きではなかった。

 “かつて”の記憶だ。

 人間だった頃の記憶。没する以前の情報。

 異端の妖魔には、自分の生命が生まれ、絶え、妖魔としてふたたび生まれるまでの記憶があった。

 ならば、他の妖魔も然り。

 その証拠に、多くの妖魔が無自覚に、生前の癖を繰り返している。

 例えば、緊張した時に何かを弄ったり、嘘を吐く時に目を逸らしたりと。

 群れる気質、孤立する気質。

 それらも、人間時代の面影なのかもしれない。

 異端の妖魔は考えた。

 全ての妖魔には、核となった魂の記憶があり、その記憶の片鱗は、妖魔と成ってからの行動に影響するのではないだろうか。

 妖魔とは、形は醜く歪み、理性は無い。

 だが、人間らしさがそこにある。

 しかし人間とは、違う。

 死者は生き返らない。

 妖魔が人間に戻ることはあり得ない。

 だとしたら、妖魔は初めから終わりまで妖魔なのか?

 それとも、人間に成れるのか。

 異端の妖魔はたった1匹で、頭を悩ませた。

 どうして、妖魔がこの世に存在しているのかを考え続けた。

 その、存在意義を考えた。

 自分のために考えた。同族のために考えた。人間のために考えた。

 人間と妖魔、その隔てを取り払うための希望を考えた。

 考えて考えて、考え続けて。


 ある日。

 見習いの術師に祓われた。

 


****



[碧眼の少年の胸の内]



 ドンドンドンドン!

 

 あぁ、うるさい。

 下品な妖魔め。

 術師の家の門を叩いていることに気がついていないとなると、妖魔の中でも低級の妖魔だろう。

 溝鼠よりも悪臭のする男を拾い、屋敷に連れてきて早々、これか。

 まぁ、何にせよこの先、僕が、奴らを探して、山の中を歩き回る必要は無くなるだろう。

 獲物は自らやってくる。甘い罠に引き寄せられて。

 ところで、妖魔を引きつけているのは、男の希死念慮に違いないようだが、それにしてはどうもおかしいことがある。

 妖魔が纏う瘴気しょうきは、病を誘発させ人を殺す。

 瘴気とは不可視の煙。故に、まず先に肺がやられ、それから頭痛。腹痛。吐き気、高熱、幻覚症状、などなど。

 要するに、一般の人間なら、妖魔が近くに居るだけで、体調不良は避けられないはずなのだ。

 しかし、男の顔色は至って普通だった。目元の隈は酷いが、あれは元からだろう。

 山中から、この屋敷まで歩いて来れたとなると、体力も十分。

 つまり男は、引き寄せた妖魔の数に見合った大量の瘴気に包まれていながら、その影響を一切受けていないのだ。

 まさか此奴も妖魔か?否、それはあり得ない。妖魔であれば、屋敷の敷地内には入れないからな。

 ならば特異体質__実に好都合だ。


 ドンドンドンドンドン!


 ……さて、早くあの煩わしい音を止めなければ。

 「退け」

 男を押し退けると、その大きな体はよろりと倒れた。

 ……瘴気の影響が一切無い、というのは言い過ぎだったか。

 良品なのか粗悪品なのか分からんな、この男は。

 しかし、妖魔にとって、生への執着が希薄な奴とは、何が何でも手に入れたい良品なのだろう。

 誰の屋敷の門を叩いているのか、気づかぬほどに。

 「判らせてやろう……」

 弓構えを済ます。

 両肘を上げ、ゆっくりと下ろしつつ、弦と矢を保持した右手を引く。

 門前に妖魔が居るのだと仮定して、距離は、此処から20メートルほど。

 このまま放つと門扉を貫通してしまうため鏃の先は、斜め上へ向ける。遠く見える杉の木の頂上に、的があるようなつもりで。

 「……ふっ!」

 弾き飛ばせば、弧を描いて矢は上空へ。

 塀を越えて、敷地の外へ飛び出す。普通ならば、緩やかに高度を落とすところだが、僕の矢はそうはならない。

 重力を無視して、ぐんぐんと天へ昇って行く。

 なにしろ、僕の家系に伝わる術は、祓魔術の中でも珍しい、禁制の術。条件さえ整えば僕の矢は、僕の思うがままに制御でき、飛空し続ける。

 無論、鏃の目指す方を、天から地へ転換し、加速して落下させることも可能だ。

 だから、矢は落ちる。風を切り裂くように落ちる。

 門前で戸を叩く標的に向かって、真っ直ぐに。

 そして、標的の脳天に、突き刺さる。

 「ギャ!」

 猫のような悲鳴が上がり、戸を叩く音は止んだ。

 「気づいたとて、もう遅い」

 僕の手は今、僕のものではない脈拍に触れている。

 妖魔の心音が、鏃を通し、術主である僕にも伝わってくるのだ。

 だが、この感覚は極めて気色が悪い。さっさと仕舞いにしてしまおう。

 心臓といっても、拍動があるとはいえ、所詮は瘴気と食らった肉を凝縮して作っただけの心臓もどき。

 鏃を少し捻ってやれば、すぐに霧散するような代物だ。

 「ギャァ!!」

 妖魔が発するけたたましい鳴き声。

 心臓__核を壊したのち、妖魔は跡形もなく崩れ去るため、痕跡も結果も、形として残るものは何も無い。

 しかし、これで祓魔完了だ。

 振り返ってみれば、なんということか、男は未だ、みっともなく座り込んでいた。

 そのすぐ側に、僕の矢が落ちている。

 まだ、2本を同時に操作することは難しいようだ。妖魔を祓うのに集中したため、もう片方の矢の操作が疎かになってしまった。

 「おい、いつまでそうしているつもりだ?」

 僕は矢を拾い、呼吸すら忘れている阿呆の喉元に突きつけてやった。

 すると奴は、夢から覚めたかのように瞬きをし、僕を見上げた。

 僕が最も嫌悪する種類の目で。

 「あ……俺……俺は、どうしたら良い?」

 と、ほざく男には、素晴らしき阿呆の称号を与えるとしよう。

 あぁ……この男の表情、喋り方、目の動かし方、全てが不愉快だ。

 「俺は死ぬべきなんだ……生きていてはいけないんだ……」

 よく言う。

 自力で死ぬ度胸など無いくせに。

 この男に出来ることと言ったら、生殺与奪を他者に押し付け、自分の不始末を誰かどうにかしてくれと、赤子のように強請ることくらいだ。

 ……違う、もっとタチが悪い。

 殺してみろ、と聞こえる。

 「ハッ。悪いが、僕にとって貴様など、いてもいなくても変わらん。殺す価値すら無い。気力も湧かない。至極どうでもいい」

 そう言ってやれば、男は息を呑んだ。

 どうでもいい。

 僕は此奴とは違うのだから。

 僕は1人で此処に立ち、1人で生きている。

 もうあの頃とは違う。

 罵声も慰めも等しく無意味で、無価値だ。

 価値があるのはただひとつ__妖魔を祓うこと。

 僕にはそれだけで十分だ。

 放った矢の回収に向かうとしよう。



 特に回収したいのは、鏃だ。

 厳密に言えば、僕の術は、矢を操作しているのではない。

 特殊な金属で出来た鏃あってこそ、術の効果は発揮されるのだ。

 しかし、この金属は、希少で量産が難しい。

 そんな貴重な鏃を、たかが低級妖魔相手に紛失したなら、どうなることやら。まず、叱られる。絶対に叱られる。

 そして、あのお祖父様のことだ。

 長い説教に加えて、若い頃の武勇伝を延々と聞かねばならない羽目になる。

 『未熟よ。未熟』と僕を揶揄うお祖父様の声は、いついかなる時でも蘇る。もはや、呪詛だ。祓魔術師が呪詛を吐いてどうするんだ。

 兎に角、紛失するわけにはいかない。

 実家を出て、まだ1ヶ月も経っていないしな。

 「あった……!」

 くぐり戸から出れば、探すまでもなく、矢は見つかった。

 ……まぁ、紛失したとは思っていなかったが。

 門から少し離れた場所に落ちていたところを見ると、妖魔は心臓に矢が刺さったにも関わらず、愚かにも逃げ出したらしい。

 叢の中まで入られていたら、矢の捜索は難航しただろう。それは……考えるだけで疲れる。

 今回ばかりは、運が良かったのかもしれない。

 

 __ガタン。


 「……なんだ?」

 目を離した隙に、後方で、くぐり戸が閉まった。

 まさか、あの男が内から閉じたのか?瘴気に頭をやられ、おかしくなったのか?

 否、敷地内ならあれ以上、瘴気による影響が進行するはずがない。

 瘴気が引き起こす鬱な症状も、徐々に消えることだろう。

 問題はそうではなく。

 問題とは、僕が、敷地の外に__“結界”の外側に締め出されたことだ。

 


 「見ーツけタ」



****




[祓魔術師 朝顔]



 「見ツけタァァァ!」

 1体の妖魔がニタリと笑い、甲高く叫んだ。

 門扉の色に同化していた体表が、青紫に変わり、その姿が現れる。

 背丈も、形も、人間の大人に似ている。

 が、頭部は人のものより遥かに大きく、まるで蛙のような面だ。さらに、垂らせば地面に付きそうな長い腕で、くぐり戸を押さえている。

 「アサガオ!アサガオか!」

 その妖魔は、眼球を膨れ上がらせ、興奮した様子で喚いた。

 鼓膜を破るような声量に、妖魔を見上げる少年の、碧色の瞳がギラついた。

 「気安く名を呼ぶな」

 碧眼白髪の少年__朝顔は理解した。

 死にたがりの男を利用して、妖魔を誘い出そうとした自身のように、この妖魔も餌を使ったのだと。

 この蛙のような妖魔は、門を叩く低級妖魔を利用し、自らは形を潜め、朝顔が外に出てくるのを待っていた。

 何のためか。それは勿論、朝顔を殺すためだ。

 「門から離れろ。穢らわしい」

 朝顔は眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。

 が、妖魔はさらに、背をピッタリと門扉に付けて、ケラケラと笑った。明らかに朝顔の言葉を理解し、その上で反応を楽しんでいる。

 その様子の、なんとも人間らしいこと。

 朝顔は怒りで唇を噛みそうになるが、妖魔の喜びに拍車をかけるだけと分かっているため、なんとか堪える。

 妖魔は力を増すにつれ、言語や感情を獲得し、形も仕草も人間のそれへと近づいていく。

 けれども、意思疎通が図れるからといって、交渉はするべきではないというのが、術師の共通認識である。

 覚えたての言語で喋る、知能を持ち始めたばかりの妖魔が、最も愚かで、最も危険だからだ。

 彼ら中級妖魔とは、邪悪の骨頂である。

 反抗期の子供のように無知で無軌道にして、新鮮な知恵から、閃きを引き寄せたかと思えば、時に自他を巻き込んで自滅する。

 さながら嵐のような生命体を前に、如何に老練な術師であれど、油断をすれば命を落とすことがある。

 中級妖魔の邪悪さは、忘れもしない記憶と共に、朝顔の心身にも焼き付いていた。


 __あれ以上の屈辱は無い……。


 「オマエ、マケル」

 蛙の妖魔は嘲笑い、朝顔は秀麗な眉の形を歪めた。「敗北するのは貴様だ」

 一度は策に嵌ったものの、朝顔には対妖魔の弓矢がある。

 はたしてどちらが優勢なのか、中級妖魔ともなれば判別ぐらいつくだろうに。

 「何を勝った気でいる?」

 朝顔がそう言うと、妖魔は水掻きの付いた手を口元で広げ、ケラケラと笑った。

 「シッテイルぞ。ケッカイ。壊セル。シッテイル」

 結界。

 結界とは、妖魔の侵入を拒む、透明な壁。術師の屋敷を守るための秘術だ。

 「……貴様、何故それを……誰の差金だ」

 「サシガネ?」

 妖魔のからだが、左右に揺れ続けている。ソワソワと、本当は動きたくてたまらないといった様子だ。

 注意力も散漫なようで、朝顔の背後に降り立つ鳥を見ては、追いかけたいのか足を踏み出す。が、妖魔は何かを思い出したように、からだを強張らせ、足を元に戻し、門から離れまいとする。

 朝顔は思った。

 一連の行動は、まるで言いつけを守ろうとする子供のようだと。

 そして黙考した。

 妖魔が、結界を傷つけることは出来ない。

 しかし、術師なら。

 結界は、術師の力ならば、簡単に破壊出来る。

 例えば、妖魔を仕留めようと朝顔の放った矢が、そのまま門扉を貫通した場合__結界は崩壊するのだ。


 __何者だ?

 

 朝顔は、自分に向けられた明白な殺意を感じ取った。

 「表門は結界の主軸。貴様が門を背後にしている限り、破損を恐れて、僕は迂闊に矢を放てない……そう貴様に教え込んだ者がいるな?」

 妖魔は数回の瞬きをした。図星である。

 

 __術師が秘匿する情報を、妖魔に教えた者……僕を恨む術師の嫌がらせか?それとも試しているのか。この僕を。

 

 結界が壊れれば、朝顔は無敵の領域を失う。山中に潜む妖魔は、好機とばかりに襲いかかってくるだろう。

 都合良く思っていた死にたがりの存在は、こうなると足枷に等しい。祓えど妖魔は引き寄せられて、集まってくるのだから。

 朝顔に残された選択肢は2つ。

 終わりの見えない戦いに身を投じるか__或いは、男を囮に、1人退散するしかない。

 妖魔から、逃げるために。

 

 「思い違いも甚だしい」

 

 朝顔は薄っすらと笑みを浮かべ、弓矢を構えた。

 両腕を水平に保ち、精錬された動作で弦を引く。鏃の先は、ブレることなく的に向けられる。

 「結界が壊れる?だからなんだと言うのだ」

 凄まじい朝顔の気迫が、妖魔を後退させた。妖魔のからだは、ますます門扉に密着する。

 射抜くべき妖魔の核と、射抜いてはならない門扉との距離は僅かだ。が、朝顔は弦を引き切った。

 この術師は、門扉に穴を開けることも厭わず、本気で矢を放つかもしれない、と。そんな予感が、妖魔の表情を引き攣らせた。

 「おい。何か言ったらどうだ?僕を脅しているんだろう?」

 「ア……アァ」

 妖魔は今更になって、自分の背中を託したものが、勝利の切り札ではなく、諸刃の剣であったことに気がついた。

 背後にあるのは結界だ。妖魔の存在を許さない聖域だ。

 それを証するように、結界内部の空気が、門扉の板を通り越し、妖魔の体内に染み入ろうとする。

 それがまた、妖魔を震え上がらせた。

 「ケッカイ、コワれルぞ!!」

 妖魔は充血した瞳をぎょろぎょろさせ、皮膚から油のような液体を流した。

 バタバタと垂れ落ちる油は、妖魔の足元を囲うように溜まる。

 「イイのか?!」

 必死の思いで絞り出した脅し文句は、朝顔の冷笑に受け流される。

 妖魔の心臓がドッ、と鳴った。

 「貴様を祓い、その後来る妖魔も1匹残らず祓うさ。それが、祓魔術師というものだ」

 輝く鏃と、暗い碧眼が、同時に妖魔を狙っていた。

 「イギィッ……!!」

 妖魔はついに、森の中に向かって駆け出した。

 同時に、朝顔が放った矢は直進し、門前でギュンと急旋回すると、妖魔の背中を追った。

 旋回後も速度を落とさない矢は、空間を裂くように飛び、草木の緑に同化しようとする、妖魔の体表を突き刺した。

 妖魔は金切り声を上げた。

 すると、自分の油が付着した足で、つるりと滑って、前転。その先の斜面を転げ落ち、木の幹に激突。

 衝突音。

 木が揺れ、数枚の木の葉がはらはらと落ちた。

 辺りが静かになってから、朝顔は斜面の手前ぎりぎりに佇み、叢に埋もれた妖魔を、冷淡に見下ろした。

 「言っておくが、貴様が門から動かなくとも、結果は変わらなかった。貴様の核だけを撃ち、門扉寸前で止まるよう、矢を操作すれば良いだけのことよ」

 朝顔の掌に伝わる鼓動は、次第に弱まり、やがて、言いかけた言葉のように動きが停止した。

 __足りない。

 祓っても祓っても足りない。

 足りるわけがない。

 朝顔は手の中をじっと見つめていた。

 

 ガコン。

 「おい!どうした?!」

 

 門を開け、そこから顔を出したのは、焦った様子の男。イツキであった。

 イツキは、門扉の隙間からするりと出ると、辺りを見回し、ホッと溜息を吐いた。

 「なんだよ。すげぇ悲鳴がしたから何かと思ったら、とくに何にも……って、また俺に見えてないだけか?」

 朝顔は目を見開いた。綺麗な碧が、溢れ落ちそうである。

 「貴様、何をしている?」

 「何って……お前を探しに……」

 「違う!何故、門を開けているんだ!」

 「はぁ……?門は開けるためにあるんだろ?」

 朝顔は、よろめいて頭を抱えた。

 絶対に、門を開けてはならない。閂を外してはならない。扉に穴を開けてはならない。

 この門は、封鎖されていることに意味があるのだから。

 それを、何も知らない男が。純粋にも、悪辣にも。

 「貴様は……」

 俯いたままの朝顔の声は、押しつぶされたように小さかった。

 「やってくれたな」

 瞬間。

 朝顔の体は、大風に煽られたかのように数十メートル吹き飛び、木に叩きつけられた。

 衝撃で木が揺れ、枝に止まっていた鳥たちは一斉に飛び立つ。

 「おいっ!!」

 喧騒が止まないうちに、イツキは、草の中に倒れた朝顔に駆け寄り、身を抱き起こした。

 パタパタッ。

 朝顔の後頭部から流れた血の粒が、葉を濡らした。

 流血に気づいたイツキの顔は、すうっと青ざめていく。

 「一体何が……!?」

 イツキは気がついていない。

 自分達を見下げる数十の眼に。

 それらは最早、憤りも、加虐性も持っていない。

 何故なら、相手があまりにも、ひ弱だから。

 もし、彼らの全てが喋れたのなら、こう口を揃えて言うだろう。

 __この時を待っていた。



****



[魔を迎える門]



 今、何が起きた?

 どうしてこの少年は、急に吹き飛んだ?

 まるで、何かに突き飛ばされたみたいではないか。

 分からない。

 見えない。

 「おいっ!起きろ!何が起きてるんだ!教えてくれ!」

 イツキは、少年の肩をがっしりと掴み、力を込めた。

 起こっていることの全貌は分からずとも、無数の気配には気がついている。

 それが少年の言う“妖魔”という敵だというのなら、恐ろしいことだ。

 その敵の姿ですら、目視出来ないイツキには、立ち向かう術が無い。

 「頼む!目を覚ましてくれよ!」

 「……っ煩い……!」

 白い睫毛が揺れる。少年はしかめ面で、薄く目を開けた。

 「良かった!おい!教えてくれ!どうしたら良い!?何かすごくヤベェ予感だけはするんだよ!」

 風は殆ど無いというのに、やけに森が動いている。

 木が揺さぶられ、木の葉がくるくると舞い落ちる。

 ピキリパキリと小枝の折れる音が、絶えず聞こえている。

 不穏な騒めきは、少しずつ近づいて来ている。

 __まずい。逃げなければ、まずい!

 イツキは返答を待たず、少年を抱えて立ち上がった。

 しかし途端に、両足が足枷をつけられたかのように重くなった。

 皮膚にしがみつかれる感覚は、記憶に新しい。

 「うっ!またこれか!離せよ!邪魔すんな!」

 イツキが片足を振り上げたり、身を捩ったりしていると、腕の中で「払い除けても無駄だ……!」と、少年が歯を食いしばりながら言った。

 「じゃあどうしたら良い!?」

 「とにかく……僕を降ろせ……」

 イツキはやむなく少年を降ろしたが、少年の体は、立っているのがやっとというように震えていた。

 少年が門の方向を向けば、その背後に回ったイツキは目を見張った。

 「っおい……!血が!」

 後頭部から流れる血が、白糸のような髪を染め、背中を覆う紺の羽織物は、土や血が混ざって付着し、どす黒くなっている。

 出会った頃の、美麗な姿は何処にも無い。

 振り向いた少年の顔も、よく見れば、唇は切れているし、白磁のような頬にも擦り傷が出来ていた。

 「なあ……本当に、大丈夫か?」

 「……能天気も大概にしろ。大丈夫だと思うのか?この状況が……っ」

 少年は、胸を押さえて背中を丸めた。

 痛みが酷いのか、呼吸を詰まらせながら、それでも少年は何処かへ進もうとし、イツキも後に続いた。

 だが、とうとう膝を折り、四つん這いになってしまったため、イツキは、

 「おい、やっぱり……」

 と、少年の背中に手を伸ばし、そして気がついた。

 少年の背に、触れられない。

 何か、透明で柔らかいものが少年の背中にくっついていて、イツキの手はそれに触れている。阻まれている。

 「クソっ!また妖魔ってやつか!?何がどうなってる!?いい加減教えろよ!」

 イツキは腕を振り上げ、少年の背中から不可視の物体を叩き飛ばした。

 そして、少年を乱暴に抱える。

 奇妙なことに、先ほどより倍は重い。

 ふと不自然に思ったのは、少年の着物の裾の皺。まるで、下へ下へと引っ張られているかのような。

 異様な重力が掛かっているのか、それとも何かがしがみついているのか、そうでなくてはあり得ない皺だ。

 「分かったよ!嘘じゃねぇってことは!妖魔がいるんだろ!?信じるよ!」

 少年の体が重さを増す。イツキの足もどんどん重くなる。

 __俺は今、こいつの他に、何を抱えているんだ……!?

 米神を冷や汗が伝った。

 「とにかく……!」

 山を降りて、集落に助けを求めよう。

 イツキは足を引き摺って、移動し始めた。

 だが行先には、すでに何者かの__人間以外の気配があり、その気配は、壁のような威圧を発し、イツキの進行を阻んだ。

 進行方向を塞がれては進路を変えてとやっていると、イツキは一向に屋敷から離れられず、山を降りるどころの話ではない。

 その場をぐるぐると回っているだけだ。

 イツキは直感した。


 __弄ばれている!


 その時、少年が小さな声で呟いた。

 門、と。

 「門!?門がどうかしたのか!?」

 「黙れ……五月蝿い、声を出すな……」

 「そんなこと言ってる場合じゃねぇよ……!」

 イツキには何も視えない。

 見えているのは、なんの変哲も無い森林。

 では、何がイツキを焦らせるのか__明白だ。

 幾つかの気配と、不審な物音。

 それから、少年の爪がイツキの肩に食い込んでいる。それがイツキの気を緩ませてはくれない。

 「教えろ!どうしたら良いんだ!」

 「どうしようもない……」

 イツキは少年の口元に耳を近づけると、ひと言も聞き逃さぬように呼吸を止めた。

 「……すぐに妖魔が……数え切れないほど、やってくる」

 「か、数えきれないって、何で、そんな急に……!」

 「貴様が門を開けたからっ、結界が壊れたんだ……!」

 「門って、たかが門だろ!?」

 少年は、信じられないといったように、表情を歪めた。

 「あの門は……元は、妖魔を集める意図で建てられたものだ。開けば、妖魔を迎え入れる。反対に、閉じれば侵入を禁ずる……。だが、今は」

 「……あ、開いてる……俺のせいで……」

 「僕はこのザマ……ッチ……!手の力さえ、戻ってくれば……!」

 小刻みに震える少年の手は、腰の籠から矢を掴み取ったが、拳はすぐに緩み、矢はスルスルと滑り落ちて、籠の中に戻ってしまう。

 「……ここまでなのか……」

 少年が目を閉ざした時、イツキはふと思いついたことを呟いた。「じゃあ、また門を閉じれば良いのか」

 少年は訝しげな表情で、イツキを見上げた。「簡単に言うな」

 「門を閉じれば、結界ってのが戻るんじゃないのか?」

 「……知らん……結界術の巻物は燃えてしまったから、結界の仕組みには詳しくない……お祖父様なら知っているだろうが……あの人は、人のためになるようなことをしないし……」

 「おい!起きろ!しっかりしろ!今は俺たちしか居ないんだ!なにか方法は無いのか?!」

 「……開けてはいけない門を、開けた阿呆を見たのは、今日が初めてだ……」

 「そういうことは!先に言ってくれれば良いのによ!」

 「くぐり戸があるだろうが……!」

 息も絶え絶えに、イツキを睨みつける少年の姿は、まるで手負いの獣。

 咳き込んだ少年が吐いたのは血だ。

 「……門を閉じて、一度壊れた結界が元に戻るかは、分からん……やったことがない。が……悠長に、結界を張り直している時間は無いな……」

 少年は深呼吸をすると、カッと目を見開いた。

 そして、イツキを押し退け、最後の力を振り絞るというように、ふらつきながらも立ち上がった様は、まさに__チャンスは一回限りであることを示していた。

 「目に入れろ」

 「は?」

 突如、少年が差し出したのは、土色の小瓶。栓がしてあり、中身も見えない。

 __何?何を目に入れろって?

 イツキが困惑しているうちに、少年はイツキの手を掴み取り、強引に小瓶を押し付けた。

 「点眼しろと言ってるんだ!」

 少年が手を離した瞬間、小瓶が落下しそうになり、「おわっ!」と慌ててイツキは小瓶を両手で包み込む。

 栓を開けて中身を覗いてみれば、

 「なんなんだよ。この……液体……光ってる……?絶対水じゃねぇだろ。どういうつもりだ?」

 「……平凡で阿呆の貴様でも、妖魔を視る方法がひとつ……ある。その薬を使えば……効果は1日持たないが……それでも、今の状況を認識するには、十分だ……だから早く点せ」

 「は……はぁ!?よくわからねぇ液体を!?」

 「一滴で良い……あぁ!さっさとしろっ!時間は無いと……っゲホッ!」

 「わ、分かったよ!」

 もっと冷静なった方が良い。と、イツキの胸中では、疑念の声が上がった。

 だが、その時既にイツキの手は、頭上に掲げた小瓶を傾けるところだった。

 ボタッ。

 睫毛に垂れ落ちた液体が、目尻を伝い、角膜に溶け込んだ。

 バチッ!!

 「いっ……っぎ……!」

 落とした小瓶を拾う余裕は無かった。

 目の痛みが尋常ではない。

 薬は毒にもなるという。はたしてこの薬が、目に入れて良いものかどうか。少なくとも、目の奥からやってこようとする涙は、排除すべきだと訴えている。

 __怖い!

 後頭部から、長い針のような物を差し込まれ、それが眼球を貫通して、目の表面を突き破って出てくるような痛みだった。

 悶絶しているイツキの横で、少年がせせら笑った。

 「うんざりするだろう」

 「お前な……!!」

 イツキは言いかけて、ハッと口を噤んだ。

 その理由は、何も改めて見た少年の姿が、あまりに満身創痍だったからというわけではない。

 __杉には、果実がなるんだったか?

 イツキの視線は少年を通り越し、屋敷を囲うように生える、数十メートルに及ぶ高さの杉の木々に向けられていた。

 杉の木には、赤黒かったり、紫だったりと、生々しさを感じるということ以外は、色も大きさもバラバラな丸い物体が、等間隔を開けてぶら下がっていたのだ。

 __そんなことがあり得るのか?

 果実といえば。

 ジュウジュウと、果実の蜜を啜るような音がする。

 音の方を振り向けば、そこには巨大なナメクジが1匹、地面にジュウジュウと吸い付いている。

 と、その奥には、塀よりも背の高い、毛むくじゃらの猿がいる。さらに向こうには、蛸のようにヌメッとした体表に、目玉だらけの生物が。

 __あれが妖魔か?

 見たことがない。考えたこともない。考えつくはずもないような見てくれの怪物たちが、自分たちを取り囲んでいる。

 妖魔とは、その姿形はさまざまだったが、共通するものがひとつだけあった。

 そしてイツキは、少年の言った「うんざり」という言葉の意味を理解した。

 「確かにこりゃあ、うんざりだ……」

 木々の不自然な揺れの原因は、木にぶら下がる小さな妖魔達の悪戯だったのだろう。

 行手を塞ぎ続けた威圧的な気配は、見物する妖魔達の戯れだったのだろう。

 __俺たちは獲物っていうより、玩具か。

 周りを囲む妖魔たち。形は違えど、等しく上機嫌に見えた。

 弱者を痛ぶる快感は、人間だけのものではないらしい。

 イツキはその場に屈み込み、少年の足に齧り付いている妖魔を残らず引き剥がした。「悪かったな。視えもしないで、色々言った」

 少年は答えなかった。代わりに、この状況を打開する方法を告げた。

 イツキは黙ってそれを聞いた。

 「__あぁ。だいたい理解出来たよ。少年」

 「……次、今のように呼んだら、貴様から殺すぞ……」

 「はぁ……じゃあなんて呼べば良いんだよ……名前は?」

 イツキは、少年が携える籠の中から、矢を1本引き抜いて、親の形見のように握り締めた。

 「……早くしろよ。もし失敗したら、死ぬんだぜ。俺は名前も知らないやつと心中するなんて御免だ」

 そう言いつつ流し目で、約10メートル先の、屋敷の門を確認する。

 握り飯のような妖魔たちが、ころころと転がって、開いた扉の隙間から出入りしていた。

 そのせいで、少しずつ少しずつ、門は押し開かれていく。

 故意にせよ、無自覚にせよ、妖魔が門を破壊した時、それは2人の敗死を意味する。

 __そうなりゃあ、降参しても、仲良く食われる他ないらしいな。もう、笑うしかない。

 イツキは、口の端を引き上げた。

 「……朝顔。おい、聞いているのか?2度は言わんからな」

 「……へぇ、朝顔か」

 「名前で呼ぶな。兎丸様と呼べ」

 「や、もう朝顔の方がしっくり来るから。これで良いよ」

 「良いかどうかを決めるのは僕だ!」

 人を凍てつかせる眼差しと、冷気の漂う風貌で、夏の花とは。

 朝顔。

 もしも。それが自分の名前だったら、こうはならなかったか?

 縊鬼とは、人に首を括らせる鬼だという。

 それを聞いた時、まだ少年だったイツキは腑に落ちてしまった。

 顔も知らぬ両親が、どういう気持ちで名づけたのかを悟った。

 自分の運命が、どうにも良いものでは無さそうだと、決めつけてしまった。

 だが、違う。

 名は、人を縛らないらしい。

 思ったより遥かに世界は深く、朝顔を背負った白い鬼も居るのだから。

 「俺は、イツキ。よろしく頼む」

 





 「おう!こっちだ!」

 イツキは走りながら、目に映る全ての妖魔に呼びかけた。「来れるもんなら来てみろ!野郎共!」

 まず、数匹の小さな妖魔がイツキを追いかけ始め、徐々にその数は増えていく。ナメクジに似た大型の妖魔なども、のっしのっしと、他の妖魔の移動に釣られて動き出した。

 朝顔の言った通り、低級妖魔は本能的に逃げるものを追うようだ。

 動きは波紋のように拡大し、やがて、妖魔たちは列を成して、イツキの後を追った。

 イツキは、小さな妖魔が足に飛びついてくるのを振り落としながら、塀の周りを駆け、ある場所を目指した。

 「あった!!」

 裏門だ。

 「来てみろ!」

 振り返りざまに、挑発することも忘れない。

 「えっ!?痛い!」

 頭上から、烏のような妖魔に狙われていることも、忘れてはならない。

 妖魔は「カァ!」と鳴いて、イツキの頭を突いた。

 “啄まれているぞ”と朝顔に指摘された時の恐怖が、記憶の淵からひょっこりと現れようとしていた。

 啄む、とは硬いクチバシの専売特許だからである。

 「やめろ!あっち行け……いや!こっちに来い!」

 頭を庇いつつ、チラリと後ろを見る。背後には作戦通り、ぞろぞろと妖魔が付いて来ている。

 几帳面に裏門を潜る妖魔もあれば、塀を乗り越える無礼な妖魔もあった。

 だがどちらも、逃げる獲物を我が物にしようと、互いに押し合い、敷地に雪崩れ込む。

 その飢えた眼光とイツキの目が、合う。

 「っやべぇ!」

 イツキは猛進した。裏庭を抜け、砂利を蹴飛ばし、屋敷の外周を駆けた。

 石庭を荒らし、柔い苔を草履の裏で擦り潰す。その際、滑りそうになったが、それでも足は止めない。止められない。

 いったい、どれだけの妖魔が付いてきているのだろうか。

 前へ前へと走り続けたイツキには、それを確認することが出来ない。しかし、背後からメキメキと木が裂ける音や、瓦が割れる音がし、おおよそ見当はついた。

 立ち止まるなど以ての外、数秒振り返るだけでも命に関わるであろう、大波のようなものが近づいてきている。

 屋敷をぐるりと一周したところで、

 「全部引きつけたか!?」

 と、イツキは雑音に負けない大声で、表門の前に置き去りにした朝顔に呼びかけた。

 十分だ__という返事の代わりに、イツキの手の中で、矢が振動した。

 矢の震えは、合図だ。

 イツキは門扉を閉めるべく、屋敷の正面に向かう。

 先ほど通った裏庭は、まるで別物のように変わり果てていた。竹林があったはずの場所は、隅々まで踏みならされ、荒野のようだ。

 敷地内に生える植物は、妖魔によって、ことごとく蹂躙されている。

 __俺のせいだ……。

 イツキは、唇を噛んだ。

 いよいよ角を曲がれば、表門が見えてくる。

 その時、ふと頭に過ぎったのは。

 

 __閉めても、何もならなかったら?


 門扉を閉ざしても、結界は復活しないかもしれない。

 やってみる価値はある、と朝顔は言ったが、結界が復活するか否か、その肝心な局面にイツキ達は触れられない。必死の努力の果てに待ち構えるのは、運だ。

 勿論、いまさら立ち止まることは出来ない。朝顔のためにも、走るしかない。諦めて良いわけがない。それは分かっている。

 だというのに、この土壇場で、不安が、イツキの思考を占領する。

 __もし、何もならなかったら。全部、意味が無かったら?

 そうなれば最初に妖魔に食われるのはイツキで、その後、朝顔も食われるだろう。

 イツキ達の奮闘は、妖魔からすれば食前の運動に過ぎず、策も熱意も破砕されてしまえば、あとに残るは無慈悲な最期。

 それは、道ゆく人の視線すら奪えず、路地裏で息絶える溝鼠のような。

 

 「っそれでも良い!!」

 

 イツキは叫ぶ。

 奇跡に賭けるしかなくても、外れを引いた時に待っているのが地獄でも、足を止める理由にはならない。

 自分に価値は見出せなくとも、作戦には価値がある。

 「あぁ!うるせぇ!!」

 妖魔たちの足音に紛れ、イツキの耳には罵声が聞こえていた。

 以前は、それらの言葉に頭を垂れるばかりだった。

 だが、今なら覚悟がある。意思がある。

 今なら言える。

 「罪人だ!?逆賊だ!?好き勝手に言いやがって!」

 門まで、あと十数メートル。

 「俺は殺してない!」

 

 『本当にそうか?』

 

 一段と鼓膜を震わせたのは、イツキ自身の声だった。


 『お前は殺したろ。見殺しにした。あの御者は、お前を恨んで死んでいった。馬も、監視役の男らも、そうだ。お前ひとりが、のうのうと生きてるなんて、あいつらは許さない。誰も許さない』


 陰鬱にして、邪悪な気配がイツキを絡み取ろうとする。

 すぐそこまで、妖魔が迫っていた。

 生温かい吐息が耳に当たるほどに、もう、すぐ近くまで__。



****

 

 

[死んでいる男]



 まるで死んでいるように、生きている自覚はある。

 俺には何も無い。

 だが、それでも体は息をすることを望んでいるらしく、この世の最低最悪を全て煮詰めたような、獄中の生活も、俺の体を殺す程じゃなかった。

 ぼーっと息をして、何十年も消費して、そうやって、死体みたいに生きて行くのかと、思うといっそ死んだ方が綺麗だろうか、なんて。

 死刑判決に俺は反論したんだったか、しなかったんだか、もう思い出せない。

 誰もが俺に死ねと言う。

 俺が死ねば、彼らの未来は明るいらしい。

 正直、馬鹿馬鹿しくて、人間の醜い部分を濾したような言い分だが、拒む理由が無い俺は、従うべきなんだ。

 俺には過去がない。

 俺は虚で、空っぽだから。

 

 「逃げましょう。此処から」

 

 記憶の中で、女の声が反響した。

 そう言えば、あの女は今頃、如何しているのだろう。

 侵入不可、脱獄不可の鉄壁の監獄に、わざわざ俺を訪ねてやってきたあの女は。

 あの時、あの言葉に俺は、なんと返したのだったか。

 馬鹿馬鹿しくて笑ったのだったか。それとも、子供のようにそっぽを向いたのだったか。罵倒したのかもしれない。

 覚えていない。

 血生臭くて湿った独房より、俺の方がずっと最低最悪じゃないか。

 思い出せ。あの女の言った言葉を。

 ……いや、よそう。

 あの女が、俺を訪ねてきたことを知っている奴は誰もいない。

 そもそも顔見知りではないし。

 俺がこのまま、女の語った言葉を忘れたとして、誰が俺を咎めるっていうんだ。

 だったら、忘れてしまえば良い。

 会話の内容など、あっても無くても同じ。

 俺と同じ無価値で無意味な__。


 ……良いのか?そんなところまで堕ちて。





 数週間前。


 煉瓦の壁に設置された燭台に灯る、ほんの小さな炎。

 向かいには鉄格子があり、幾つかの監房があるが、そのどれも、奥まで明かりは届いていない。

 中に収容された囚人は皆、自分の髪の伸び具合から時間の経過を自覚する。

 体表の異常を確認することも出来ない。配給される硬いパンも、手探りで食わねばならない。

 炎は、囚人にとっては、何の役にも立たない灯り。むしろ、恨みつらみを向ける存在であった。

 しかし、イツキの獄中生活では、唯一の支えと言えよう。

 異臭の正体も、手の甲に這う生物の全貌も、知らずに済むからだ。


 その日、イツキの独房の前に現れたのは、スラリと背の高い人影だった。

 音を立てず、気配を感じさせず、いつのまにか鉄格子の前に立っていた人影は、開口一番にこう言った。

 「此処から逃げましょう」

 それは、透き通る沢の水のような、女の声だった。

 「幻覚か……?」

 イツキは、自分の眉間を摘んだ。他にも、目を瞬かせたり、擦ったりしてみたが、高身長の人影が消えることはない。

 やがて、状況を理解したイツキは、まず、女の存在が、自分の欲と見栄が創造した、タチの悪い幻覚でなかったことに安堵した。

 女は確かに存在している。息遣いもある。

 しかし、そうなると気になるのは、女が自分を訪ねて来る理由。逃亡を手助けする理由。

 残念ながら、イツキには、心当たりが全く無かった。

 そもそも面会を望むからといって、囚人の収容階に立ち入ることは不可能なはずで。

 看守も連れずに居るところを見るに、無許可としか考えられない。

 つまり、監獄に単身で侵入し、イツキを脱獄させようとする女がいる__幻覚だった方が、まだ辻褄が合うだろう。

 イツキは女を睨みつけた。

 「……早く逃げろ。無断で侵入したのが見つかれば、ただじゃ済まない」

 「いいえ、それは出来ません。貴方と共に逃げるために来たのです」

 「そんなことを言いに、こんな所まで……馬鹿なのか?あんた、まだ、若いのに、人生を棒に振る気か?」

 「貴方だって、二十歳になったばかりです。今、逃げなくてどうするのです」

 「あぁもう……!早く行けよ……!あんたは、あんたはこんなところで、俺なんかのために、こんなところで……!」

 イツキは捨て鉢になって口走った。一向に引こうとしない女への苛立ちが勝り、救助を求める気は起きなかった。

 「貴方は人殺しではありません」

 「は?……いや、俺は人殺しだ……!何人も殺した……!」

 「それは上官の命令でしょう。貴方個人の意思で人を殺傷したことは無いはずです。此度の事件、世間は貴方を反逆者と言うけれど、それは違う……

 

 貴方は無実の罪で投獄されている」


 女は凛とした口調で言い切った。

 空間には、天井から滴る水の音だけが響いていた。

 それから少し時間が流れた。

 見回りの看守の足音を聞き、イツキが重い口を開いた。「もう、行け」

 女は悲しげに呟いた。「あなたは……生きたくなくなってしまったのですか?」

 イツキは一度、呼吸を詰まらせたあと、ゆっくりと咀嚼するように返事をした。

 「うん。もう俺、どうでも良いんだ。でもあんたが捕まるのは、嫌だ……。だから行ってくれ。そこに居られると、迷惑だ」

 イツキは女に背を向け、膝を抱えた。

 自分の見苦しさが、恥ずかしく、歯痒かった。女が立ち去ってくれなければ、どんどん身を縮めてしまいそうであった。「頼む。行ってくれ」

 「……今、貴方を責める人は大勢いるでしょう……しかしそれは、事件の真相を知らないからです……それを証明するためにも……!」

 此処から逃げましょう、と。

 イツキが背を向けようが、無視しようが、何度も何度も、女は呼びかけ続けた。

 だが時間は迫っていた。

 「また、必ず来ます……次こそ、あなたを自由にします。私は、貴方を信じていますから。永遠に」

 女は最後にそう言い残して去った。

 革靴でも履いているのか、女の足音はカツカツと鳴り響いた。

 通路はひとつだけのはずが、看守は何事もなく、イツキの独房に辿り着いた。

 「声がしなかったか?」

 看守の問いに、イツキは振り向くと、冷酷な視線で看守を見上げた。

 丸々と太った看守は、胃の辺りを抑えてイツキを見下ろした。

 「聞いているのか?声だよ声」

 「……するわけないでしょ。牢、全部調べた方が良いですよ。おそらく、殆どの囚人が、虫の息です」

 出来れば治療を__と続けたイツキだったが、看守は既に背を向けて、来た道を戻ろうとしていた。

 看守が片手に持ち上げた酒瓶の中で、液体がチャプリと揺れた。

 「虫の息!当然だ。お前らはゴキブリよりも浅ましい犯罪者なのだから!死んでも無意味。生きても無意味。まったく、虫のようだな!はっはっは!」

 久しく音の無かった空間で響く笑い声は、まるで爆発のよう。

 不快な笑声に耳を塞いだのは、イツキだけであった。

 死者は耳を塞がないからだ。



****



 __まずい!

 白い地面が一瞬にして目の前に迫り、イツキは玉砂利に顔を打ちつけた。

 うつ伏せの体勢のまま、ぷっと痰を吐き出せば、血を絡めた石が口の中から飛び出した。

 「くっそぉ!!」

 イツキは、玉砂利の上に拳を叩きつけた。

 表門まで、あと数メートルの距離だというのに。

 「離せお前ら!」

 小さな妖魔達が、葡萄の房のようになって、両足に纏わりつく。密集した無数の個体全てを振り払うのは、一筋縄ではいかない。

 さらには、他の妖魔も続々と追いついて、イツキの背中に乗り上げる。

 「ぐっ!あ、朝顔……!どうしたら……!」

 イツキは、右手に握りしめた矢に問いかけた。

 しかし当然、矢は答えない。しきりに振動しているだけだ。

 「……何だよこれ……ただ震えてるだけじゃ何も……あ、そうだ!動け!飛べ!」

 念じようとも、矢は動かない。

 「あの時は飛んでたのに……!」

 数刻前、イツキが森の中で見た矢の動きは、恰も生きているかのようだった。

 だが、今はどうだ。手の中に収まったまま、うんともすんとも言わない。とんだ鈍だ。

 「いざとなったら飛ぶんじゃないのかよ!」

 朝顔を問い詰めたくとも、本人は居ない。あるのは、託された器物のみ。

 「“この矢は僕だ”とか、意味わかんねぇよ!何が言いたかったんだ彼奴!」

 ふと、気がついた。

 __託された?

 そういえば、朝顔は、ひとことも「託す」とは言っていない。

 おそらく朝顔という少年は、たとえ体が動かなくなろうと、妖魔と戦う。あの目は、常に戦場の中央に居たがる者の目だ。


 『打ち出す道具が無ければ、僕の矢は効力を発揮出来ない』

 

 朝顔の言葉が、記憶の底から浮上した。

 矢が自由自在に飛ぶために必要なのは、きっかけとなる勢い。流れ。それを生む、例えば、弓のような代物。

 しかしそんな道具は何処にも__。

 「あるじゃねぇか。此処に」

 イツキが矢を振りかぶったのと、妖魔の大群がイツキを轢いていったのは、ほぼ同時。

 上からの凄まじい圧力に、イツキは歯を食いしばった。

 肺から空気が押し出され、しかし吸い込むことは出来ず、すぐに息が足りなくなる。

 「ゲホッ!ゲホっ!」

 幸いなことに、妖魔達はイツキを通り越し、表門の方に進んでいった。まるで暴走列車だ。

 ハッと我に返り、イツキは手を開いた。

 「矢は!?」

 空っぽの手の中を見た途端、作戦が、音も無く崩れたような気がした。

 このままでは妖魔は表門から飛び出し__イツキの想定と違うのは、最初に犠牲となるのが、自分ではなく朝顔ということ。

 門扉は閉まらない。

 結界は元に戻らない。

 妖魔に食われて、終わりだ。

 「朝顔!……ちくしょう!」

 その時、イツキの右横を、背後から風のように吹き抜けたのは。

 白い一閃。

 「あれは……?」

 見上げた先で、白く細長い物体は左に大きく旋回し、滑るように上空を飛んでいた。

 自由に空を翔ける、朝顔の矢だ。

 イツキは轢かれる直前に、矢を投げていた。投擲の勢いが、矢に命を与えたのだ。

 「あぁ良かった!」

 イツキは、自分の体の頑丈さを、初めて誇りに思った。足や背中に纏わりついていた妖魔は、先ほどの暴走列車に蹴散らされたらしい。

 そうとくれば、地べたに張り付いている暇は無かった。

 まだ、生きている。また、立ち上がれる。


 __やるんだ……!


 イツキは、「こっちだ!」と掠れた声を上げ、裏門の方に走り出した。

 もう一度、妖魔を集めて屋敷を駆け回ろうという魂胆だ。

 しかし妖魔達は、既に群れを崩し、敷地内を自由に彷徨いている。

 イツキの声に反応するのも、厄介なことに、足の速い小型妖魔ばかりだ。彼らは、反応するや否や、イツキの元へと直行する。

 対して、呼びかけに応じない妖魔達は、興味深そうに表門に近づいていく。

 「待て!そっちじゃない!」

 妖魔達の集団が、バラバラになりかけていた。

 これでは、門の外側で動けずにいる朝顔に、危険が及ぶ。妖魔を引き連れてきた意味が無くなってしまう。

 「おい!こっちだって……!」

 先程の猛追が嘘のように、妖魔達はイツキのことを見ない。

 「嘘だろ……!?」

 その場は、最早イツキの手には負えない。


 グォォ!


 刹那にして、1体の妖魔が雄叫びを上げた。

 それをきっかけに、時が止まったかのように、何者も動かなくなった。

 イツキは、叫び声のした辺りに目を向け、猿のような妖魔の巨体が、ゆっくりと傾いているのを見つけた。

 「あ……!」

 毛むくじゃらのぽっこりした腹の中央を、突き破って出てきたのは、朝顔の矢。

 墨汁のような液体(妖魔の血だろうか)を散らしながら、低空飛行すると、あっという間に妖魔達の注目を攫った。

 その隙を、逃すわけにはいかない。

 イツキの時が、進む。

 駆け出したイツキは、妖魔の間を通って、真っ直ぐに表門へ向かった。

 ざっざっと、玉砂利が蹴り飛ばされる音に、妖魔達の時も再開する。


 ギャァァァァァァ!!


 同族の死に触発されたのか、妖魔達は威嚇するように叫んだ。不協和音が空間を震わせた。

 そして、からだを大きく伸び上がらせ、門前に辿り着いたイツキに襲い掛かる。

 イツキは門扉に指を掛け、手前に引く。

 完全に閉じ切る前に外を見て、数メートル先で佇む朝顔と、視線を交わした。

 「朝顔……今のうちに、逃げろ……!」

 門を閉ざし、両扉に付けられた金具に閂を差し込む。

 同時に、大量の妖魔が高波のようになって頭上を覆い、イツキの視界は暗闇となった。

 イツキは達成感と絶望に身を浸し、力尽きたように門扉に寄りかかり、ずるずると腰を降ろした。

 門は閉じたのだ。もう出来ることは無い。やり切った。

 あぁ、だが。

 悔しくて仕方がない。

 「逃げろって……何処にだ、って話だよな……」

 妖魔の叫びは終わらない。一層、激しくなったようにも感じられる。

 門を閉ざしても、何も変わらない。

 イツキは肩を落とし、溜息を吐いた。「俺の人生……何もねぇな」

 もし、手元に紙と墨があったなら、朝顔が焼失したと言っていた巻物の代わりに、記録を残すことが出来ただろうに。

 書物の題名はこうだ。

 “門は閉めても意味が無かった”。

 

 「……ん?」


 妖魔の絶叫が止まないにも関わらず、イツキの身には何も起こらない。

 「何だ……?」

 突如、イツキの周りを囲んでいた妖魔が、どろりと形を崩した。

 外の眩しさに、イツキは思わず目を瞑り、少ししてからそろそろと開けた。

 黒い雨が降っていた。

 イツキは呆然として、上を見上げた。

 空を飛んでいた妖魔達が、次々に破裂し、墨色の液体と化して地上に降り注いでいる。

 さて、その地上に妖魔の姿は見当たらなかった。

 代わりに、郵便ポストほどの大きさの黒光りする塊が、ざっと、数十はあるだろうか。

 塊はどろどろと溶けながら、叫喚していた。

 妖魔だ。

 妖魔達が何故か液状化し、凹凸の無い塊になって、叫び続けているのだ。

 小さな妖魔も、大きいもので3メートルはあった妖魔も、蝋が溶けるように縮んでいく。垂れ落ちた黒い液体は地面に広がり、時間の経ったものから、やがて蒸発する。

 塊が全て溶け切ると、ようやくひとつ、叫びが途絶えた。

 妖魔の命が、均等に削られていく。

 これは、領域を侵した罰か。

 「結界なのか……これが」

 イツキ達は、賭けに勝った。

 妖魔たちが苦しんでいるのが何よりの証拠である。

 結界が効力を取り戻したのだ。

 だが、イツキは手放しで喜ぶことが出来ず、妖魔たちが苦しみ悶える様子に動揺を隠せなかった。

 __結界とは、本当に聖なる力なのか?だったらもう少し、楽に逝かせてはやれないのか?

 廃墟のような屋敷に黒い雨。叫ぶ塊たち。

 そこは、まさに地獄絵図のように思えた。

 人が呵責を受ける様子ではなく、魔物の方が金切り声を上げるという異様な光景ではあるが。

 最後の塊が消えたことで、音は無くなった。

 だがイツキの頭の中では、叫びはまだ、終わりそうにない。


 

 くぐり戸を使い、門の外側に顔を出せば、薄ら笑いを浮かべた朝顔と目が合った。

 「何笑ってんだ?」とイツキが問えば、朝顔は表情を硬くし、「笑っていない」と答えた。

 「笑ってただろ?」

 「笑っていない」

 「いや、笑ってたって」

 「笑っていない。貴様と一緒にするな」

 「ほうほう。そうか。まぁ、気も緩むよな。お前は何にもしてないもんな」

 イツキがそう言うと、朝顔の米神がヒクリと微動した。

 「俺が矢を投げなかったら、今頃どうなっていたことやら……なぁ?」

 「その矢の持ち主は?操作していたのは?貴様が無様に転倒したあと、誰が妖魔の気を引いたと思ってる」

 「……矢を操作?」

 イツキは首を傾げ、「これ、生き物じゃなかったんだ……」と、回収した矢を朝顔に手渡した。

 「そうだ。僕の巧みな操作に感謝しろ」

 「まぁ、矢の不思議な力には感謝してるよ。ただ、説明の仕方にはひと言、言わせてくれ」

 作戦を告げられた際の、朝顔の言葉を思い出してみれば、この通り。

 『これを持っていけ』

 『この矢は、僕だ。故に見ずとも、見える。貴様の行動、思考__これを通して、僕にも見える』

 『だが、僕の矢は、自発的には動けん。勢いが、流れが必要なのだ。つまり__』

 『打ち出す道具がなければ』


 「分かり辛いんだよ!」

 

 もし、イツキが咄嗟に閃かなかったら。矢を投げようとしなかったら。投げられなかったら。朝顔だって死んでいたというのに。

 イツキが視線で訴えかけると、朝顔は顔を逸らして、ボソリと言った。

 

 「…………知らない。理解出来ない方が悪い」


 「は、腹立つな!何だよそれ!こっちは初心者なんだぞ!妖魔も、術も初めて見るの!」

 朝顔は胸に手を当てて、堂々と言う。「僕は自分の基準でしか考えられないんだ!」

 「……え、はぁ?じゃあ尚更!非があるのはそっちだろ!?」

 「自分の未熟さを分かっているなら、貴様が僕に合わせるべきだ!」

 言い争いは延長線に突入しそうであったが、どうやら朝顔は妥協という言葉を知らないらしい。

 「……もういいや……」

 最終的にはイツキの方が根負けし、別の話題を切り出した。

 「お前の作戦通り……妖魔を敷地の中に引き連れて結界の力で倒す……あ、“祓う”だったか。とにかく、上手くいって良かったよ。あんなに酷いとは思わなかったけどな……」

 イツキは辺りを見回したが、土塀の周辺には妖魔1匹見当たらない。集まった妖魔はイツキを追いかけて、残らず敷地内に移動したのだ。

 「まるで鼠を追いかける猫のようだったぞ」

 と、朝顔は着物についた砂埃を払った。

 妖魔を挑発し、塀の内側に引き込んでおけば、結界が復活した時、妖魔を一網打尽にすることが出来る。立案したのは、朝顔だ。

 結界が復活しなかった場合は、逆に此方が死ぬ。万が一は無く、失敗すれば絶対に死ぬ。

 決死の博打であった。

 そう思うや否や、イツキは全身の力が抜けていくのを感じ、その場にしゃがみ込んだ。

 見れば、手足が細かく震えている。

 「はは……生きてんじゃん」

 イツキは、口元を歪めた。

 喜ぶべきか、怒るべきか、悲しむべきか。

 今の自分の感情を何と呼ぶべきなのか。

 妖魔たちの絶叫が、耳に残って離れない。

 これに責め立てられていると感じる自分は、卑怯な奴だろうか。

 「ま、善人じゃ、ないよな……」

 イツキはのっそりと立ち上がり、朝顔に近づいた。

 朝顔が白髪を掻きむしるように頭を押さえているのを見下ろし、そういえば怪我をしていたんだったと、今更になって思い出した。

 「おい。離せ、自分で歩ける」

 「強がんな。目眩がしてるんだろ」

 抵抗する朝顔を引っ張り、それでも最後まで朝顔が抵抗したため、半ば引きずるような形で、イツキはくぐり戸へ向かった。

 敷居を跨げば、空気の質が変わる。

 __やっぱり、なんだか息苦しいや。もしかして、これ……結界のせいか?

 玄関に向かう途中、イツキは、不意に腕が重くなるのを感じた。

 「おい。え?気絶……?」

 朝顔の下駄が、ころりと彼の足から離れる。

 四肢は力無く垂れ下がり、まるで人形のようだ。朝顔は明らかに気絶していた。

 ぼたり。

 赤い粒が、石畳の上に落ち、潰れて広がる。

 1滴、2滴と。

 「やべぇ!」

 イツキは朝顔を担ぎ上げ、何処にあるかも分からない医院を目指して駆け出した。

 

 

****



[執行]



 その日、1人の男の死刑が執行されようとしていた。

 男の罪は、殺人。

 高貴な人物を手に掛けた。死刑を免れる余地は無い重罪だ。

 男をひとめ見ようと、処刑場には大勢の民衆が集まった。

 ところが、肝心の男はいつまで経っても、処刑場に到着しない。

 とうとう日も落ちかけた頃、人々は不貞腐れたり、野次を飛ばしたりと好き放題し始めたため、処刑官達は対応に追われていた。

 そんな時、護送部隊も無しに、死刑囚の男は現れた。

 ボロボロの男は、道中で馬車が転落し、生き残ったのは自分だけだったと告げ、静かに断頭台に上がった。

 不運な事故はさておき、最も驚くべきことは、男が自ら処刑場に足を運んだことだった。

 男は、逃げるチャンスを捨て、処刑場にやってきたのだ。

 愚かにも、首を差し出すために。

 しかし男の愚かさに、民衆は怒りを捨て、同情した。

 普段は荒れた処刑場がこの日は静まり返り、斬首に処された男は罪人でありながら、善い罪人だったと、噂されることになる。

 しかしその噂も、しばらくすれば絶える。

 男の死は、やがて国の書庫の中でのみ、色褪せた記録として存在することになるのだろう。

 

 「替え玉に気づけるものか」

 彼は椅子に座り、カーテンの隙間から、冷然とした目で処刑場を見下ろした。

 人の生首を見終わって、次の瞬間には夕食のことを考えている民衆が、そそくさと帰り始める。

 残照が街の影を深めていた。

 夜の訪れに、広場を行き交う人の足取りはやや慌ただしい。

 「誰も他人のことなどよく見はしない。落ちた首なら、尚更な」

 彼はそう言ってカーテンを閉じ、片手に持った本のページに視線を落とした。

 だが、しばらくして、気がかりといったように顔を上げた。

 「何か言いたげだな。セツ。これで満足のはずだろう?」

 部屋の扉の近くに佇立した女性__セツが、じっと彼を見つめ返した。

 「……今更、何を思い悩む必要がある」

 彼は呆れを帯びた声で呟くと、丸いテーブルの上から、銀の杯を手に取った。

 「あの男は、無実の罪で処刑されずに済んだ。そして既に存在自体、消えて無くなった。それで良いではないか」

 乾杯。彼はあたかも祝杯のように掲げてみせると、杯を傾け、乾燥した唇を潤した。

 口の端から、琥珀色の液体が垂れ落ちる。それを舐め取った舌は、まるで蛇のように紫がかり、細くて薄い。

 彼は、酒のもたらす火照りに上機嫌だった。が、それを白けさせるセツの眼差し。

 「まさか替え玉の方に情が移ったわけではあるまい……いい加減何か言ったらどうだ?」

 やがて、セツは言葉を発すると決めたようだった。

 それが、あと1秒か2秒遅ければ、彼が杯を握り潰していた。

 「あの人は、祓魔術師と一緒にいて良い人間ではありません。このままでは……」

 セツは無表情ながら、声色には焦りが含まれていた。

 「このままでは、死ぬ恐れがあります……!」

 「だから?だからなんなんだよ」

 彼は舌を打ち、言い放った。

 セツは顎を引き、静かに俯く。

 「いいえ……私は……ただ」

 「セツ」

 「はい」

 「セツよ。妙なことを考えるな」

 「……はい」

 「お前は私に従っていれば良い」

 「はい」

 セツは、頷くしか無かった。

 だが、彼は、セツの相変わらずの無表情に、僅かな陰が潜んでいるのを見逃さなかった。

 そのため、念を押すように続けた。

 「だいたいな、兎丸の小僧の屋敷に妖魔をけしかけたとは、どういう了見だ。手を出すなと言っただろう?お前の勝手で計画を台無しにされては困る」

 「はい……」

 セツは声をくぐもらせた。申し訳なさを他所に、納得出来ないとでも言いたげだ。


 「イツキは死んだ。それで終わりだ」


 もう2度とこの話はするな、と付け加えたのち、彼は立ち上がった。

 そして、ふとその姿を消した。

 栞の挟まれた本と、湿った杯、揺蕩う黒煙のみが部屋に残っていた。



****



 [逢う魔が時]



 イツキは、診察室の前の長椅子に座り、片足に肘を乗せ、頬杖をついていた。

 貧乏揺すりが止まらない。

 「……っはぁ……ったく、なんであんな辺鄙なとこに住んでんだよ」

 最も近い医院といっても、屋敷のあった山麓からは、かなりの距離があった。

 さらに、土地勘の無いイツキは、道ゆく人に医院の場所を尋ねなければならなかった。

 モタついている間に、抱えた朝顔の体がどんどん軽くなっているような気がし、精神を擦り減らした。

 ようやく小さな医院に駆け込んでから、かれこれ1時間は経つ。

 「クソ……」

 イツキが呟くと、古びた音を立てて、診察室の扉が開いた。

 中から、長い白髯を生やした好々爺が顔を出した。

 この医院の医師だ。

 イツキは思わず立ち上がった。

 「酷い顔じゃな。お前さんの方が、よほど重病人に見えるわい」

 「……朝顔は?」

 「ちゃんと生きとるよ。肋が2本折れとるが」

 「でも、ちゃんと、生きてるんだな?」

 医師が緩慢な動きで頷いた。

 「まさか朝顔殿に、こんな良いお友達がおったとは、ビックリじゃのう」

 __友達?

 イツキは顔を顰めた。

 けれども、無愛想な朝顔との距離が縮まったのなら、照れ臭いが嬉しい気もする。

 医師の微笑みに、自然とイツキの顔も綻んだ。

 が__。

 「友達なっゲホっ……わけがあるか!!」

 診察室の中から、激しい咳き込みと共に、怒号が聞こえた。

 「おや。帰るのかい?」

 「……あぁ……なんか俺、嫌われてるんで」

 朝顔がジタバタと暴れているのが、見ずとも伝わってきて、部屋の中には凄い形相の白鬼が居るのだろうと考えると、イツキの足は、医院の出入り口へ後退していた。

 医師はキョトンとした後に、「そうかい、気をつけて」と言った。

 そこでイツキは、さていったい自分は何処へ帰るつもりだったのだろう、と足を止めた。

 イツキは振り返り、朝顔に呼びかける。

 「俺、どうしたら良い?」

 「ふん……!好きなところへ行けば良い!そして妖魔に食われろ!」

 「……じゃあ、帰るよ」

 医師と別れを交わし、出入り口に向き直る。

 すると、心の奥で分身が言う。


 『お前に居場所なんて無い!』

 

 「知ってる」

 医院の外に出て、すぐにイツキは立ち止まった。

 息を呑んだ。

 来る時は気が付かなかった__なんだこの景色は。

 夕空を映す田んぼの水面が、ゆらゆらと揺れていた。

 広い田畑のその向こうには、茅葺き屋根の民家が点在している。

 空気が透明で遠くの山々の形まで、くっきりと見える。

 隔てが無い。閉塞感が無い。何者かが身を隠していそうな怪しい場所も無い。

 呼吸が楽だ。

 イツキはこの田舎町の方が、長年暮らした王都よりも、馴染み深いような気がしていた。

 土を平にしただけの道を歩き始める。

 石畳とは違う、柔らかい感触が足裏に伝わった。それがなんとも心地良い。

 向かう先にあるのは、処刑場ではない。

 イツキはこの日初めて、自分自身で行き先を定めた。

 生きよう。

 残りの命を、無意味に終わらせてはいけない。

 監獄までやって来た、顔も知らない女の行動や思いまで、無価値にしてはいけない。

 時間のある限り、生き延びることで証明するのだ。

 貴女が救おうとしたのは、二十歳にもなって駄々を捏ねて、人の好意に意地を張り続けた末に終わった命では無いと。

 「……今頃、軍は俺を探しているかもしれないな……」

 転落した馬車が見つかれば、イツキの逃亡はすぐに露見するだろう。

 そうなれば手配書が出回り、それはいずれ、この辺境の地にも届くことになる。

 穏やかな医師の顔つきは、恐ろしいものを見るかのように豹変するだろうし、朝顔は嫌悪の表情で、イツキを軍に引き渡すだろう。

 幾ら無実を主張しても、取り合っては貰えない。

 挙句、ならばどうして馬車から離れたのだ。処刑を逃れようとしたに違いないではないか、と矛盾したことを言われるに違いない。

 言わずもがな、イツキの死を望む大人が多くいる。だがその中に、少なくともたった1人は、イツキの生を望む者がいた。

 いったいどんな人だろう。名前は?顔は?好きなものは何だろう。

 イツキは目を閉じ、微笑んだ。

 頬をくすぐる感触。

 「枯れて無かったんだな」

 イツキは忘れていた。

 自分が涙を溢すことを。

 獄中が、孤独で寂しかったことを。

 この世でたった1人、イツキを信じる者が語った言葉を。

 綺麗で純真なものを避けようとし、喜びすらも忘れていた。

 イツキは目元を擦り、それから、ぐんと伸びをした。

 「あー!従うのは金輪際やめだ。俺も信じる。信じて、生きてやる」

 彼女の覚悟と優しさ。朝顔の執念。妖魔の苦しみ。

 どれも、虚実ではない。

 「……」

 その時、イツキはふと顔を横に向け、視界の端で、歩いてきた道を捉えた。

 後を付けてくるものは無い。

 __妖魔って、なんなんだ。

 今見ている景色の中に、妖魔は見えない。

 それが、目薬の効果が切れたためなのか、それとも単に姿を現していないだけなのかは、朝顔が居ないと区別出来ない。

 ただ、気配だけが。

 すぐにでも首を掻き切っていきそうな気配が、背後にあった。

 夕闇の中から、誰かが呼んでいる。

 “こっちに来い”と。“代わってくれ”と。

 それが死の呼び声だというならば、イツキはまだ、逃げ切れていないのかもしれない。






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