第25話 木曜日のホームラン
この日の午後は曜子さんとゲームの練習をして、長谷に教わった成果を発揮し曜子さんに初めて勝つことができた。曜子さんは「むー」と言いながら悔しそうにしていたが、どこか嬉しそうでもあった。
火曜日は二人でバッティングセンターに行った。ホームランはならなかったが木島のアドバイスのおかげで空振りをすることがほとんどなくなり、惜しい当たりも何本か打つことができた。曜子さんは僕がいい当たりを打つたびに「すごい!」とか「格好いい!」とか拍手をしながら褒めてくれた。
水曜日は病院近くの公園に行った。木陰になっている散歩コースを一回りし終えると木田さんと初めて会った時に一緒に遊んだ少年たちと遭遇した。この日の曜子さんは先週の火曜日に着ていた白のワンピースと麦わら帽子という格好をしており、曜子さんに惚れていて僕のライバルとなっていた少年はその姿にすっかり見惚れていた。
また野球の勝負を仕掛けられたので無慈悲にもボコボコにしてあげると「曜子さんのことは文也に任せる。絶対に幸せにしろよ! いつか必ず倒してやるからな!」と熱い言葉をかけられ、僕らは固い握手を交わした。
そして勝負の木曜日。きりっとした表情でやる気十分の木田さんと一緒にバッティングセンターを訪れる。受付の人は短期間で何回も来て百五十キロに挑戦している僕の顔を覚えており「頑張れよ」と声をかけてくれた。
ホームランを打てるパワーと技術は持っている。あとは試行回数と運という木島の言葉を思い出す。気負うな、力を入れ過ぎるな。先に挑戦を始めている木田さん、というよりは球の軌道を見ながら僕は集中力を高める。
それでもホームランはそう簡単に打てるものではない。木田さんと交互に挑戦しながら約百球を打ち終えても、惜しい打球が四、五球といったところだ。
「少し休憩しよっか。さすがに疲れたー」
挑戦を終えた木田さんが大きく息を吐きながらベンチに座っている僕の隣に腰をおろす。
木田さんの分のスポーツドリンクのペットボトルを渡してあげるとにこやかに微笑みながら「ありがとう」と言ってグイグイと飲み始めた。美味しそうに鳴る喉、太陽の方を見たためかまぶしそうに細めた目、日差しを受けてきらめく頬を伝う汗の粒、髪を掛けたためむき出しになった形のいい耳、まるでスポーツドリンクのコマーシャルのよう。
一緒だ。小説の中の主人公が見ていた光景そのものだ。これまで仲の良い友人としか見ていなかった木田さんをいっきに女の子として意識し始めて恋に落ちる。そしてこのあとホームランを打って何でも言うことを聞かせるという権利を使って自分の彼女になるように要求する。
主人公は物語開始直後に事故で両親を失い、木田さんがいる施設で暮らすことになる。木田さんにとっては初めて身近にいることになる同い年の男の子で、両親のいない悲しみや苦労、これからの人生への希望を分かち合える存在となり、彼女は早い段階で主人公に思いを寄せていた。僕はこれからその思いを踏みにじるようなことをしなければならない。
もう覚悟はできている。だから原作通りいってくれ。
現実は非常なものでその後も百球ほど打ったがホームランは出ない。それどころか疲労によりまともにスイングができなくなってきていた。木田さんもやる気だけは十分だが曜子さんの体では体力が追いついていないようで疲れた顔をしてベンチに座っている。
「次が最後の挑戦かな」
もう時刻は午後五時を過ぎている。病院の夕食の時間もあるし、着替えなどの時間も必要なのでもうすぐ帰らないといけない。この挑戦で駄目ならまた来週に持ち越しだ。そうなると僕も曜子さんも木曜日に学校を休まなくてはならなくなるがそれは避けたい。僕は曜子さんに希望とともに平穏を与えたいのだ。
凡打を重ね残り十球ほどとなった時、昨日たくさん聞いた声が聞こえた。
「あ、曜子ちゃん、来てたんだ……文也と」
「
僕とライバル関係にあった少年、優貴君とその妹の優香ちゃんだ。そばにいる大人は両親だと思われる。昨日の言葉通り僕を倒すために練習をしに来たのだろう。
優貴君は木田さんといくつか言葉を交わしたあと、僕がいるケージのフェンスに寄ってきて凡打製造機と化した僕を見て誰にも聞こえないように言った。残りは五球ほどだ。
「へなちょこバッターに曜子さんは任せられないな。昨日言ったことはなしにしようかな」
今の優貴君の実力じゃバットにかすることさえできないくせに言葉だけは一丁前だ。でも、その言葉は諦めかけていた僕の心に火を灯し、体の疲労感も消し去ってくれた。バットを握る手に力が入る。いや、力を入れ過ぎてはいけない。昂る気持ちを落ち着かせる。
こんな展開原作にはない。しかし木田さんが出てくる小説【春風とウインドミル】は小学校高学年から中学生くらいを対象とした作品で、そのくらいの年齢であればライバルからの叱咤激励で謎のパワーを発揮する展開は大好物なはずだ。だからこれはいい原作改変。
最後の一球。自分史上最高のスイングで捉えた打球は、その軌道が放物線の頂点に達する前に半径を目測できないほど遠くのネットに取り付けられたホームランの的に直撃した。
『ホームラン! おめでとうございます! 係員より記念品の贈呈がありますのでゲーム終了後に受付までお越しください』
その音声が終わる前に僕はケージを飛び出す。口をあんぐりと開けている優貴君を横目に、ベンチに座りながら優貴君と同じように口をあんぐりと開けている木田さんの目の前に立つ。
「僕の勝ちだね」
「うん。すごいよ、文也君」
「負けた方は勝った方の言うことを何でも聞く、だったよね?」
「そうだね」
「僕の彼女になってよ。まなみさん」
僕が右手を差し出すと木田さんはおずおずと右手を差し出す。顔を赤くしながらうつむいていて、いつもの元気はどこへやらというくらいのしおらしさだ。
「好きだよ、まなみさん。僕は君の笑顔が好きなんだ」
そう言いながらもう片方の手も加えて木田さんの右手を包み込むように握ってあげると、木田さんは原作通りに、無邪気で太陽のようなはじける笑顔を僕に向けてくれた。
ホームランの記念品であるカードは優貴君にあげていつかまた勝負をすることを約束し、元に戻った曜子さんとともに病院に戻る。
「お疲れ様」
「曜子さんも、疲れてませんか?」
病院の前の大通りを渡るための横断歩道前での信号待ち。曜子さんは微笑みながら自分の左手をじっと見つめた。親指の中ほどの部分や他の指の付け根の部分などをいじくっている。木田さんが曜子さんの体でバットを振りまくっていたから手の皮が硬くなったりしているのだろうか。
「私は大丈夫。ね、文也君も左手出して」
言われた通り、マメができたり皮がはがれて痛々しくなった左手を差し出す。曜子さんは一瞬驚いた表情になったが、優しく、触ってもいたくなさそうな部分を選んで僕の左手を握ってくれた。信号が青に変わりそのまま歩き出す。
「すごく頑張ってくれたんだね」
「曜子さんのためですから、中学の時より素振りしましたよ」
建前は文音の自主練に付き合う、だった。夜、家の近くの公園で文音と二人で毎日素振りをしていた。文音を家に送り届けてからも一人公園に戻って素振りを続けた。すべては今日のためだ。
「あと二人だね」
横断歩道を渡り切ってから足を止めた。
手を繋いだからか。心地よい疲労と達成感に包まれているからか、いつもより少しだけ感情が漏れ出た。
「あと二人、もう算段はついています。だから、二人分終わったら僕の彼女になってください」
僕の手を握る曜子さんの手に力が入った。口を真一文字に結んだまま曜子さんは僕を見つめる。僕が曜子さんを好きだということは知っているはずなのに驚いているようだ。
「……本当に私でいいの?」
「曜子さんがいいんです」
「そっか……うん、そうだね。それじゃあ、明日も日曜日も文也君に会えることを楽しみにしてるよ」
「任せてください。絶対に僕が曜子さんを救いますから」
そのまま病院に入り、曜子さんが売店で絆創膏を買い、その場で貼ってくれた。そしてしっかりと手を握り直す。
病室に向かおうとすると誠司さんはすでに病院に来ていて、自販機コーナーで缶コーヒーを飲みながら奥空文子作のライトノベル【僕は天使の世話係】を読んでいた。金井さんが出てくる作品だ。僕らの繋がれた手を見て、ちょっとだけ複雑そうな顔をしている。
「お父さん、紹介するね。八雲文也君。もうすぐ私の彼氏になる人。とっても頑張り屋さんで家族思いで優しいの。ちょっとエッチだけどね」
誠司さんは一瞬だけ目を丸くした後、僕を見て優しく微笑んだ。
「そうか。これからも仲良くするんだよ」
「うん」
僕らのそばを口に手を当ててにやにや笑いながら看護師の杉本さんが通った、と思ったら空いた手で僕の肩を軽く叩いてそのままどこかに行ってしまった。自販機コーナーにいた他の人たちも、廊下を行きかう看護師さんたちも皆僕らを見て笑顔を見せている。恥ずかしい、けれどもどこか誇らしくもあった。
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