第二章

第一話

1.嫌んなるね。

「ごっへぇっ!?」

「ふぎゃあっ!?」

 汚い悲鳴と可愛らしい悲鳴が重なり、反響する。

 その汚い悲鳴が自分のものだと気付くのに、数瞬かかった。気付くと同時に左側頭部および左耳がジンジンと痛み、痛みに対する危機感が無意識に魔法を展開させた。スマホは何故か左手に持っていたからワンスワイプだ。魔法球が光り、身体に力が宿るのを感じる。

 だが、今更魔法を展開しても痛みが消えるわけではない。

「いてぇ……」

「ひ、ひう、あうぅ……」

 俺の右手側からさっきの可愛い悲鳴と同じ声で引き攣った呻き声が聞こえてくる。

 とりあえず状況を整理しよう。

 まず、痛い。

 つまり俺は生きている。

 多分、正しくは生き返った。

 ということはここはきっとあの森ではない。

 背中の硬く冷たい感触も森の腐葉土とは違う。

 黴臭く湿った匂いは似ているが、全然違う質感の匂いだ。今の匂いはただひたすら――くっさぁぁっ!?

 いきなり三週間洗ってない股間の臭いがしてきたぞなんだこれっ!?

 思わず目を開けて、後悔する。

 顔の側面を掠めて嫌なにおいの液体が滴る。

 仰向けに見上げた俺の頭上には、いきり立った御立派様が浮いていた。

「ぃぃやぁぁぁああっ!?」

 思わず叫んでいた。

「いやだって、目を開けたら知らない千畳敷だぞ! しかも臭い! 全俺が泣いた! 決定版!」

 心のうちを惜しげもなく吐き出している間も、頭の上では俺の顔よりでかい二つの袋がブルンブルンと揺れている。

「どれだけ肉体を強化しても視覚から入ってくる情報による精神的ダメージは防ぎようがない! もはや光学へいぶっ!?」

 言い切る前に腹に何かが乗ってきて息が詰まった。見れば黒い毛に覆われた飛節のある偶蹄が俺の腹を踏みにじっている。重い。

 どうやら、この蹄の持ち主が千畳敷の主のようだ。

「びぃっ!? し、死、知らない人がいきなり死んだっ!?」

 俺を押さえつけてる訳分らんものも謎だが、こんな状況で女の子の可愛い声がするのはもっと謎だ。

 上を向く要領で首を回すと、小柄な女の子が恐怖に顔を引きらせて座り込んでいた。

 わかりやすいくらい魔法使いな格好の女の子だ。きっと魔法使いなんだろう。

 丸い大きな鍔のとんがり黒帽子に黒いコートを羽織っている。コートの下はありきたりな制服っぽいブラウスとスカートだ。くそっ、暗すぎて開いた足の奥が見えねぇ……!

「し、死体がギンギンに目をかっぴらいてこっち見てるぅ、キモいぃっ!」

 キモい言われた。

「そもそもまだ生きてるよ?」

「びゃあっ! 死体が喋った!」

「生きぶぇっ」

 何か硬くて重いものに顔面を潰されて口をつぐまざるを得なくなる。

 さっきからなんなんだ。

「死んだっ!? びゃあああぁぁぁ――」

 女の子の声が遠ざかっていく。と、同時に俺を押さえつけていた蹄とそれに続いて顔面の硬いものがどこかにいき、俺はようやく身体の自由を取り戻した。

 取り敢えずさっきと同じように首だけ見上げると、ズシンズシンと重い足音を引きずる巨大な猫背が通路の暗闇の奥に消えていくところだった。

 どうやら、逃げた女の子の後を追っていったものらしい。

 はー、まったく。魔法を使ってなきゃ転生からの秒死するとこだった。

 さて、ここは一体どこだろな?

 どうやら何かしらの建造物の中、その通路の途中みたいだ。両手を広げても届かないが、三歩も歩かないうちに壁に届く程度の広さに左右を挟まれ、前後は深い深い闇が続いている。

 不思議なのは光源もないのに周囲が見渡せることだ。といってもせいぜい三メートル四方ってトコで、それ以遠は真っ暗闇の壁が立ちはだかって何にも見えない。

 一歩二歩歩あるいてみると、その真っ暗闇の壁も俺に合わせて前後する。どうやら、俺を中心にこの可視範囲は広がってるみたいだ。さっきの女の子の周囲もそうだったし、これも魔法使いの力なんだろうか。

 建造物の素材は床も壁も天井も石のようなもので、壁と天井には人の顔やら植物やらゴチャゴチャと彫刻が施してある。そのほとんどが風化やら物損事故やらで損傷していて、全体像の掴める部分が存在しない。まあ、そもそも興味もないからどうでもいいけど。

 ――っと、いけないいけない、のんびり観察してる場合じゃなかった。

 さっきの娘を追いかけなきゃな。少なくとも俺よりもここの事情を知ってるかもしれないし、なによりなんかデカいものに追いかけられてたから助けないと。

 まあ、正直もうあの千畳敷の臭いには近づきたくないけど……。

「四の五の言ってられないか」

 声に出して自分を励ます。音は思ったより反響しなかった。

「おーいっ、無事かーっ」

 腹の底から絞りだした声を、女の子が消えた闇の向こうに投げかけつつ、俺は走り出した。

 追いつくのは簡単だった。ぎゃあぎゃあと悲鳴を上げ続ける女の子に、ブモブモと牛みたいな興奮した界異物かいぶつの声、見失うほうが難しい。

 三度ほど曲がり角を曲がったところで、前方を走る女の子を見つけた。その娘の周りだけ俺と同じように周りが見えるようになっているから目立つことこの上ない。

 そしてその可視範囲ギリギリを追い縋る、天井に届きそうなほどの巨体は――。

「ミノタウロスだなぁ」

 意味も無く呟いてしまうほどミノタウロスだった。

 この異世界、モンスターが現実世界のイメージそのまんまなの何なの? わかりやすくていいんだけどさ。

 立派な二本角が湾曲した牛の頭、筋骨隆々な二足歩行の巨体、そして棍棒。なるほど、俺はさっきあの蹄に踏まれて棍棒で潰されたのか。

 そして申し訳程度の腰布から盛大にはみ出しているのが、俺の頭上でぶらぶらしていたあの千畳敷だ。

 なるほど、道理であんなに醜怪なわけだ。モンスターのアレだったか。

 女の子を追いかける界異物かいぶつの背中を認めた俺は、走る足を早めて一気に間合いを縮め、息を止めた状態で一息に追い抜いて前を逃げる女の子に並走した。

「びゃあっ! おばけ!」

「足で走ってるよ!」

「都市伝説の妖怪ターボババアだって走ってます!」

「それもそうだ!」

 俺は都市伝説と同列か。

 それだけ言葉を交わし、二人で並んで走ること数十メートル。背後からはしつこくミノタウロスが鼻息荒く追いかけてくる。

「いやなんで追い越してきたんですかっ!?」

 出し抜けに女の子が叫んだ。

「だってあんなデカいものぶら下げてるのに攻撃したくないもん!」

 そうなのだ。あいつ、俺の胸の位置くらいにイチモツがあるから、攻撃しようとするとどうしても怒張か四角い尻が視界の中央に入ってくる。

「耐えられない!」

「命に替えられるほどですか!」

「あれに顔面から突っ込んでいくなら死んだほうがマシだね! まだ七回死ねるし!」

「その覚悟でわたしを追いかけてきた意味が分かりません!」

「言われてみれば無視すれば良かったのか!」

「無視しないでください!」

「無視できなかったから追いかけてきちゃったんだよ!」

 我ながらなんて不毛で意味の分からない会話だろう。

「そもそもなんであいつ、あんなおっ立ててんの」

「なにかに興奮してるみたいです……」

「そういう趣味なのか」

 女の子を見て納得する。

 丸い大きな双眸に整った形の小さな鼻と口。そんな童顔に加えて俺の胸くらいまでしかない小柄な体格。

 パッと見、小学生にしか見えない。

「これでも成人してます……」

 俺の視線の意図を察してか、女の子が淡々と言った。その諦めきった表情は『慣れてます』と言わんばかりだ。

「なんかごめんなさい」

「いいです。慣れてますから」

 プイッとそっぽを向くが頬がふてくされたように膨らんでるのが輪郭でわかってしまう。そんな仕草がまたいとけなくて可愛いが、さすがに空気を読んで口にしない。

 逃走中でなかったらもっと堪能してたかったぜ。

 しかしまあ、あのミノタウロス、走るの遅いな!

 短い脚を忙しなく動かしてるけどコンパスが短いせいで全然前に進まない。とはいえ歩いてたらさすがに追いつかれるし、全力で逃げようにも女の子も結構足が遅くて逃げ切れる感じもしない。

 何より、たぶんこっちが光ってるのはミノタウロスにも見えているのだろう、とにかくしつこく追いかけてくる。

 走ってるだけじゃ逃げ切れないだろうから、何か別の手段で逃げ切る方法を考えないと、いつまでもこの追いかけっこが続くな……どうしたものか。

 それにしてもこの娘、遅いけどよく走るな。最初に見かけてから五分くらい走り続けているが、息の上がった様子がない。そういう魔法の持ち主なんだろうか。

「あ、あの……」

「うん?」

「限界です」

 言って、ぷしゅうと大きく息を吐いて女の子がくずおれた。

 痩せ我慢か!

 慌てて小さな身体を支えてお姫様抱っこで担ぎ上げて走り続ける。強化魔法のおかげでちょっとした荷物を持ってる程度の負担だ。余裕余裕。

「ず、ずびばぜん、い、いぎが……」

「いいからまずは呼吸してな?」

「あい……」

 ぜひゅうぜひゅうと喘ぎながら謝る女の子に言い掛けて、後ろのミノタウロスも息切れ起こさないかなと期待して窺ってみるが相変わらず向こうは元気にこちらを追いかけてくる。股座またぐらも相変わらず元気だ。

 んなるね。

 それにしてもこの娘の帽子、鍔が邪魔だな。顔にツンツン当たってくるし前が半分しか見えん。

 ふと、嫌な臭いが鼻を衝く。

 背後から迫ってくるアレによく似た匂いだが、走り始めてからは気にならなかった。タイミングは……そう、この娘を担ぎ上げてからだ。

「なんか君、臭いね」

 彼女は、無言でスマホを取り出すと、黙々と操作して魔法を発動させた。そしてそっと俺の頬に華奢な手を添える。

 途端に、ひどい虫歯のような鋭く重い痛みが彼女の掌を中心に全身を駆け巡る。

「いってぇっ!?」

 彼女を放り出さなかったのは褒めて欲しい。

 見遣ると、物言いたげな涙目がこちらを見返してくるものの、息が整わなくて何も言えないらしい。

「とりあえず怒っていることは察せられました。ごめんなさい」

 それで気は済んだのか再びそっぽを向く女の子。

「でも違うんだよ、君は甘くて良い匂いがするんだけど――ぁいったっ!」

 また何か魔法を使われた。特に外傷はできないのに凄まじく痛い。直接、痛覚を刺激されているかのような問答無用の痛さだ。しかも今回はさっきほど痛くない。痛みの強さも調整できるのだろうか。これが彼女の魔法なのか。

 ぶっちゃけ、使い辛そう……。

「な、なんか、この辺――ぎゃあっ!」

 コートのポケットに手を突っ込もうとしたらまた魔法を使われた。痴漢と勘違いされた模様。

「ほんと痛いからそろそろ勘弁して下さい……」

 彼女の魔法には俺の強化魔法も抵抗できないらしい。ある意味俺の天敵かもしれない、この娘。

「か、勝手に触らないで、ください……」

 息も絶え絶えに辛辣なこと言われた。折角助けてるのに……。

「これを確認したかったんだよ……」

 痛い思いはしたけれど、目的のものは見つけ出せた。

 匂いのもとはこれだ。口紐が細工のように綺麗に結ばれた小さな匂い袋。サシェっていうのかな。これから鼻が曲がりそうな匂いがしてる。

「そ、それ、お守り……匂い、なんて……」

「この匂いがわかんない?」

「匂いなんて、してません」

「いやどう考えてもこれなんだよ。これから、アイツとおんなじ匂いがする」

「ミノタウロスと……?」

「まさかアイツ、これに惹きつけられてるとかない? フェロモン的な」

「わ、わかりません、でも、それ、このダンジョンに来る前に、支給されたもので……」

「捨ててみていい?」

「……構いませんけど……」

 彼女は何か思うところがあるのか、やや躊躇いがちだ。

 でも大したものじゃなさそうだし、ほんとに最悪の最悪、アイツぶっ飛ばして回収すればいい話だし、物は試しに捨てさせてもらおう。

 折り合いよく、前方に十字路を発見。少し速度を上げて、駆け抜けざまに匂い袋を右方向の路地の闇に全力で放り投げ、俺は反対の左の路地へと駆け込んだ。

 ミノタウロスは――。

「い、行っちゃいました、ね……」

「まさかほんとにあれが原因だったとはなぁ……」

 巨体は、匂い袋を放り投げた闇の中に消えていった。

 気が変わるかもしれないし、早くここから離れたほうがいいな。

 女の子を抱えたまま俺は、この場からなるべく遠ざかるように、右に左に曲がりながらダンジョンの闇を掻き分けていった。

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