第13話 ありがとう
帰国して、私はごく当たり前のように入国して、バスに乗ろうかと思ってたら、桜木君が出口で立っていた。
「あ…」
身長が高くて見た目のいい彼はすぐに分かる。でも彼の方は気が付かないようで、私はスーツケースを引きながら、彼の前に立った。
「おかえり」と少し驚いた顔をされた。
「ただいま」と言うのが照れくさくて、少し伏し目になる。
「髪の毛切ったんだ。だから分からなかった」
日本の美容院の技術が間違いないから、私は帰国したら美容院に必ず行く。もうバレリーナじゃないから、ずっと憧れていたボブにしてもらった。
「そうなの。変かな?」
「ううん。素敵だよ」
そんなことをさらっと言うから、頬が熱くなる。
「バスで帰る?」
「そのつもりだったから、わざわざ迎えに来なくても」
忙しいのも分かってたし、練習する時間を削ってまで迎えに来てもらうのは何だか悪い気がした。
「夫婦だし」
そう言われて、緊張する。
「…夫婦ですけど」ともごもご言ってる間に、私のスーツケースを引いてくれる。
スーツケースを引いてくれる手と反対側に回って、私は自分から手を繋いだ。少し驚いたような顔をされたけど、夫婦だから、と自分に言い聞かせて、並んで歩く。
「手続き…ちゃんと出来たから」
「そっか。じゃあ、桜木になったんだ」
「パスポートも超特急で変更したし、カードもぎりぎりだったけど、ちゃんと名義変更できたし」
「ありがとう」
愛してるって言われてないのに、結婚したから、半分は友達のような感覚だった。私が勝手に片思いしている人と結婚できるなんて、幸せなことだから、あまり深く考えないようにして、彼の生活を支えていきたいと思った。
部屋にお花を飾ったり、苦手だけど彼のために料理をしたり、と考えただけでわくわくしてきた。
「晩御飯は…何か作ろうか」
「え? いいよ。今日は疲れてるだろうし。適当に買って来て食べてもいいし」
「カフェ行く?」
「まぁ、カフェでも…」
「私、ビール飲んでもいいし」
「お酒飲めるの?」
「飲めます。今までは控えてただけ」
相変わらず外食しても私は大して食べないけれど、私は桜木君が豪快に食べるのを見るのが好きだった。
結局、家の近くのカフェで食事をしてから帰る。私は赤ワインとザワークラウトを少し食べた。ご機嫌な気持ちで部屋に戻る。久しぶりに入った部屋は桜木君の匂いでいっぱいだった。
「あ…」
「どうかした?」
「当たり前だけど、私の部屋じゃなかった」
「え?」
「同じアパートだから、自分の部屋かとうっかり思ってしまって」
「紫帆さんの部屋、もう誰か住んでるみたい」
「…そっか」
「でもここも紫帆さんの部屋だから」
「うん」
そう言ってくれる優しさに甘えてしまっている。私がホテルで捨てようと思っていたドライフラワーを壁に掛けてくれていた。それだけが私の居場所だと言ってくれている気がする。
「ドライフラワー飾ってくれてありがとう」
「ほとんど荷物捨てたのに、これだけ持ってきたから、大切なのかと思って」
「うふふ。それ、桜木君がくれたやつ。初めてもらって、嬉しくてドライフラワーにしたの。私の名前が紫帆だから紫色にしてくれたのかなって思ったりして」
「あ、ごめん。えっと」
慌てる桜木君を見て、私は分ってると言った。
私の名前なんて思わず、たまたま紫色だったってこと。
「似合う色だと思って選んだんだ」
「え?」
「綺麗な薄紫色が似合ってる」
私の好きな色だった。ブルーグレーと、薄紫色。
「嬉しい。ありがとう。大好きな色だから」
「紫帆さん」と言って、腰に手が回って引き寄せられる。
眩暈がしそうになった。私たちはキスもまだしていない。桜木君が家にいるときは私はエラの家で寝たりしていた。公演でいないことが多かったから、その時はソファで寝させてもらって、同じベッドで寝ることすらなかった。
キスは柔らかくて、優しくて、それだけで溶けそうになる。私の指の間に長い指が滑り込んできた。
(求められてる)
体温が上昇した。
その晩、私は恥ずかしくて仕方がなかった。さっ君の時はそんなこと思わなかったのに、身体を見られるのがとてつもなく恥ずかしくて、両手で桜木君の目を覆ってしまった。
「どういうプレイ?」と言われたけれど、それどころじゃなかった。
「全然、色気のない体だから」
「ふむ」と言ったかと思うと、そのまま首の匂いを嗅がれてしまう。
同時に私にも桜木君の匂いが伝わる。
「匂いも…恥ずかしい」
「いい匂いしてるけど。ラベンダーみたいな?」
入浴後につけるボディミルクの香りだ。いつまでも目を塞いでるわけにもいかなくて、降参して手を外す。じっと見られて恥ずかしくて、横を向いた。
「細くて折れそう…だけど、大丈夫?」
「細いけど…強いし、柔軟性は高いから」と言うと、桜木君は「間違いない」と笑い出してしまった。
恥ずかしいのと少し腹立だしいのと相まって、私は枕を取って軽く頭を
「もう、笑わないで」
「ごめん。でも…綺麗だ」
突然、そんなこと言われて、私はフリーズして、手にしていた枕を横に落とした。
「なめらかな肌」
肩口にキスを落とされる。
「細い腕」
大きな手が何度も往復した。
「艶やかな髪」
髪にもキスが落ちて来る。
そんなに褒められるなんて思ってなかったら、なんだか涙が零れそうになる。
「瞳も黒目がちで」とじっと覗き込まれる。
色素の薄い目に私が映っているのだろうか。
私は手を伸ばして柔らかい髪に指を滑らせた。この人を幸せにしたいと思いながら、その感触を堪能する。
「全部綺麗だから、見せて」
彼にそう言われて、否定できる人がいるだろうか。
私はもう何も抵抗せずに、素直に肌を重ねた。
朝、目を覚ますと、桜木君が私を抱き寄せて「おはよう」と言ってくれる。幸せで泣きたくなった。
「おはよう」と言って、彼の胸に唇を押す。
「くすぐったい」と言いながら、お返しされた。
最初に懸念していた不安なんてどこにもなかった。キスを何度も繰り返す。
「ご飯、作るから」と私がベッドから出ようとすると
「作れるの?」と引き戻される。
「もう、朝ごはんは作れるから」と言いながら、長いキスが始まった。
結局、私達は朝ごはんではなくて、朝ごはんのような昼ごはんを食べることになった。私は相変わらずスープとサラダだけど、桜木君は潰れた目玉焼きとハムとパンとコーヒーだった。
昼の光が充満する部屋で、お互い少し照れながら夫婦としての一日を始める。
「ありがとう」
不細工な目玉焼きを食べながら、そう言ってくれる。
(相変わらず豪快に食べてくれるあなたのことを一生、私は大好き)
「いいえ。こちらこそ」と微笑む。
「え? 何もしてないけど」
(あなたが私の側にいてくれること)
「お湯沸かしてくれたでしょ?」
「ポットが沸かしたんだから」と困ったように笑う。
「それでもありがとう」
私はそう言わずにはいれなかった。
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