第11話 洗濯

 母親にドイツで結婚すると言ったら、電話越しに初めて泣かれてしまった。ピアニストと結婚すると言ったら

「紫帆ちゃんには幸せになって欲しかったのに」と涙声で言う。

 私が望んだ事なのに、桜木君に迷惑をかけてしまうのが嫌だった。だから親が反対してるなんて言えないままだった。


 今は部屋を解約してしまって、早速、桜木君の部屋にお邪魔している。スペインから戻ってきたかと思ったら、すぐにオーストリアに出かけてしまった。

 私は一人残されて、アンナに事情を話す。

「え? な…結婚?」

 驚いた顔のアンナを見て、やっぱり驚くべき話だと思いながら、間借りしてるだけの不思議な生活だとアンナに言った。

「そんなはずないじゃない。きっと好きだったのよ」

 そうだといいな、と思いながら私は首を傾げた。


 プロポーズをされたものの、予定が立て込んでいるらしく

「オーストリアから帰ってから話をしよう」と言われた。

「私、今日はホテルを取ってるから」と慌てて部屋を出ようとする。

 部屋の解約手続きのため、二、三日ホテルを取っていたのだ。

「待って」とドアと私の間に回り込まれた。

 そして部屋の鍵を渡される。

「七日後に帰ってくるから、ここで待ってて」

 距離が近すぎて、酸欠になりそうになる。何か有益なことを言わなければと私は焦る。

「あの、洗濯しましょうか?」

 何を思ったのか目に入ったスーツケースを指差す。

「洗濯?」

「そう。洗濯してる間に練習とか? 洗濯終わったら、私、ホテル行くから。アイロンだって得意だし」

 急にそんなことを言う私に驚いた彼の顔は相変わらず綺麗だった。

「あの…今日はとりあえず、突然だし、私のできることしようかと思って」

 沈黙の後、少し顔が緩んで

「じゃあ、お願いしようかな」と言った。

 スーツケースを開けて

「下着…あるけど」と聞かれた。

 予想外だけど、当然の事だった。

「あ、それはもちろん…」と言いながら、自分で『もちろんってなに?』と心の中で自問する。

 息を止めて、何も感じないように、自分はクリーニング屋の店員だと言い聞かせる。洗濯物を受け取って、そのまま洗濯機に入れて、洗剤と柔軟剤を入れ、スイッチを押す。すぐにピアノの音が流れだしたが、私はそれ以上、何をしたらいいのか分からなくなって、洗濯機の前に座り込む。ぐるぐると回る洗濯物を眺めながら、本当に結婚するのだろうかと不安になる。

「あ、パンツ…」

 洗濯物が回転するのを見て、私は下着にも手が触れたことに思い至る。

(本人に触れる前に下着に触れることがあるのだろうか…)と類い稀な経験をしている気がして、少しおかしくなった。

 好きな人からプロポーズされてしまったことがあまりにも実感がない。片思いの相手からまさか結婚を言い出されるなんて思いもしなかった。

 私が帰りたくないと言ったから、かわいそうに思ったのだと思う。

(でも好きでもない人と結婚しようなんて思う?)

「でも…私のこと、好きなわけじゃなさそうだし。むしろ事務的な感じだった」

 膝を抱えながら考える。

「結婚してメリットあるのかな?」

 私はビザの問題があるから、桜木君と結婚する意味はある。でも桜木くんは?

「分からない」

 頭を膝につけて悩む。

 正直、嬉しいのに。

 でも付き合ってもないのに。

 話だって、ろくにしたこともない。

 名前しか知らない。

 誕生日も知らないのに、いきなり結婚なんて。

(あー。でも嬉しい気持ちが溢れてくる)

「冗談って言われるかも」と頰を軽く叩く。

 私は帰国作業で疲れていたのかいつしか眠っていた。洗濯終了のブザー音で目が覚める。ブランケットが掛けられていた。

 彼が何を考えているのかは分からない。でも優しい人だと思った。


 洗濯物を取り出してタオルや下着は乾燥させる。シャツは濡れたままアイロンをかけることにした。

「あの…アイロンありますか」

 ピアノを弾く手を止めさせるのは悪いけれど、私は仕事をこなして、ホテルに行きたい。いろいろ一人になって落ち着きたい、と焦っている。

「おはよう」と少し笑いながら、洗面所まで歩いて行く。

 背も高い、背中も広い、足が長いから歩幅も大きい。

(こんな人が私と結婚?)

「あの…」

 アイロンとアイロン台を抱えて設置してくれた。

「何?」

「結婚するとかって本気?」

 じっと見られて、私は慌てて喋る。

「あの…えっと。冗談なら、帰国するし、一応、どうして私と結婚するのかなって…分からなくて。お互い、良く知らないわけだし」

「嫌なら…」と言われて、私は思わず首を横に強く振った。

「全然、嫌じゃなくて…」

(むしろ憧れてたけど)

 そんなことは言えずに、目を伏せた。気まぐれでプロポーズしたのかもしれない。

「良く知らない? 僕は君の気遣いを知ってる。作ってくれるスープも練習の邪魔にならないようにドアノブに掛けてくれたり…。優しい人だって分かってる」

「…それは…好きでやってたことだから」

「じゃあ、考えといて。もし帰国するなら、鍵はポストに入れてくれたらいいから」

 結局、私は理由が曖昧なままアイロンをきちんとかけて、シャツをハンガーにかける。

「おじゃましました。他のものは乾燥させてるから」と私が言って部屋を出ようとする。

 立ち上がって、玄関まで来てくれた。

「ありがとうございます。助かりました」

「いえ…。あの…私、お役に立ててよかったです」

 そう言うと、表情が柔らかくなって、微笑んでくれた。

「ビザが切れるまで、考えてもいいし」

 やはりビザのために結婚なんて言ってくれたのだ、と私は戸惑った。頭を下げて、扉を閉めるとすぐにピアノの音が鳴り始める。

 理由はどうあれ、好きな人と一緒にいられるなんて、夢のようだった。私はホテルに向かうと、どうしたものかとエラに電話する。

 エラは帰国して欲しくないと言ってくれたし、この申し出は「チャンス」だと言ってくれた。

 そして三日ほど悩んだけれど、私は帰国したくなかったし、桜木君と結婚したかった。結婚という形ではなくてもいいから、彼と一緒にいたいと思ったのだ。

 彼の理由がどうであれ、私の気持ちは固まっていた。


 オーストリアから帰ってきたら、彼の気持ちが変わっているかもしれない、と思いつつも私は帰国しなくなったことを母親に伝えたが、泣き出されてしまった。

「紫帆ちゃん、騙されてるのよ。ピアニストなんて…どうやって生活していくの?」

「どうやってって…」

 それは私も分からないし、答えることはできなかった。

「一旦、帰ってきなさい。勝手に結婚なんてぜったりだめよ。顔合わせだってしてないじゃない」

「違うの。私が彼と結婚したいの」

 母親の息を飲む音が聞こえた。それは辛かったが、同時に私は心から彼と一緒に居たいと理解した瞬間だった。


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