第6話 分離
優しくしてくれるけれど、さっくんといると私は居心地が悪い。朝食のようなご飯を気持ちよく食べてくれた後、早速ベッドの上にいる。居心地が悪いと思うのに、私はつかの間の温かさが欲しくなってしまう。
「紫帆ちゃん、可愛いよ」
そう言って、私を柔らかく抱きしめてくれる。でもまるで私は何も知らない子みたいな気持ちになる。
「ねぇ…。私…何にもできないよ」
「いいよ。一つ一つ覚えてくれれば」
「…きっと常識もない。最終学歴が中学だよ?」
「でもドイツ語はできるでしょ?」
「できるって言ったって…話すだけで。書くことはそんなにできないし」
「いいよ。別に。ドイツ語書く必要ないよ」
髪に頬にキスをしてくれる。その心地よさに溺れたくなるのに、私は不安だった。
「一年待つから」
そう言ってくれるさっくんに私はなぜか首を横に振りたくなった。
「好きな人いるの?」
途端に首が振れなくなる。
「ううん。そうじゃなくて。不安なの」
「分かるよ」
(本当?)
さっくんといると、自分に欠けたものが多いことを気づかされる。
背中に回った手で強く引き寄せられるから、何も考えたくなくなった。さっくんが酷い人なら良かったのに、と思いなが目を閉じる。一月だけの恋人だったら良かったのに、と思いながら、はっきり断らないからそれを利用しているのは自分な気がする。
「分かる?」
「分かるよ」
私は何が分かるのかすら分からなくなってきて、結局、流されるままでいてしまう。口づけを繰り返しながら、どこかアパートで聞こえるピアノの音を探していた。
そしてさっくんは本当に一月後に帰ったのに、私の公演を見るためだけに戻ってきてくれた。花束を抱えて。公演は大成功だった。誰よりも私は拍手をもらえた。日本から取材も受けた。その時は、バレエファンの間では少しは名前が売れたかもしれない。
お正月、日本に帰って来た時、さっくんが私の実家まで来てくれた。もともとの幼馴染だったから、両親も喜んでくれた。
「結婚を前提に」とさっくんが言う時は私は息を飲んだ。
両親も喜んでいて、私は何も言えずにただ作り笑いを浮かべていた。どうしてか何も言葉が出て来なかったからだ。
二人で初詣に行って
「今年中には帰ってくる? もう満足したんじゃない?」とさっくんに言われた。
「…満足」
「雑誌にも載って…。舞台にもたくさん出れて」
バレエには階級がある。バレエを始めた人は誰だって団の顔であるトップ、エトワールを目指したくなる。
「それにそろそろ二十代後半に入ってくるし…子供とか」
ヨーロッパでは年金がもらえるという理由で四十代までバレエを続ける人も多い。でも私は日本人で、ずっとドイツにいるのかも分からない。
「子ども…」
「まだ紫帆ちゃんは若いから分からないだろうけど、俺はもう三十だし、今子供を作っても、成人するときは五十だし…。いろいろ考えるとそろそろって思って」
さっくんが言うことが少しも分からないのに、私は微笑ながら頷いた。自分が五十歳になることなんて少しも想像したことがなかった。
その日の夜、母親が上機嫌で
「よかったわね。さっくんなら安心よ。大手にお勤めだし。紫帆ちゃん、本当によかったわね」と言う。
「お母さん、でも…バレエは」
「バレエ? 素敵じゃない。日本で教室を開いてもいいでしょ? それに外国で日本人がプリマなんて無理でしょうしね」
「え?」と私の声が全く耳に入らないのか、楽しそうに言う。
「良いときに再会したのね」
『紫帆ちゃんが一番よ。紫帆ちゃんなら絶対プリマになれるわ』
ずっと言ってきたのは母親だった。
「お式はどこかしら」
浮かれている母親を見て、私は固まった。
『誰よりも紫帆ちゃんが綺麗。踊りも上手よ。ママの誇りね。世界一のバレリーナになれるわ』
頬ずりされたことを思い出す。
おしろいの匂いがした。
「お母さん? 私、まだ…」
「そうね? バレエ団の人ともちゃんと話をしないとね? 勝手には辞められないでしょうし」
母親はバレエから結婚へシフトしたのだ、と分った。
ドイツへ戻るのがこんなにも嬉しいと思った日はなかった。疲れる長距離飛行機乗った時、心から安堵のため息が出た。
(そうだ。私、日本が息苦しかったんだ)
初めてそう思った。
身体は長距離移動で疲れているけれど、私はアパートにスーツケースごと戻ってきたとき、涙が零れた。そこにピアノの音が漂っていたから。
私の居場所だった。
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