第3話 お互い

 結局、昼休みにさっくんに電話をしてしまった。

 夕方に待ち合わせをしてレストランに向かう。

「あの、ごめん。私、たくさん食べれなくて」と言うと、さっくんは「体重管理?」と言う。

「うん。今度、オディール役をもらえたから」

「すごいじゃん」

 きっとオディールがどんな役かも分からない。だからこそ気が楽になることもある。さっくんは自動車メーカーに勤めていて、一月研修に来ているらしい。

「もっとすごいやつは半年留学とかするんだって」と教えてくれる。

「そうなんだ」

「まぁ、俺はちょっと優秀ってことかな」と笑う。

 バレエ以外の話をするのも久しぶりだ。

「車とか乗らないから分からないけど…。やっぱり大変なの?」と私が聞くと、さっくんは噴き出した。

「紫帆ちゃん、それ、俺がバレエ分かんないけど、大変だねって言ってるのと同じくらいふわっとしてる。昔からそうだけど。ズレてるよね」

 私は昔から少し人とテンポが合わなかった。だから友達がいないのはバレエのせいだけじゃない。

「あ…。えっと」

「ずっとそういうところ可愛いなぁって思ってた」

 思わず目を開いてしまう。

「紫帆ちゃんは自分の世界があって、周りと違ってたけど…」

 今、私は告白されているのだろうか。

「今も変わってないね」

「…そうかな。ちょっとは周りに合わせられるようになったと思うんだけど」

「まさか。海外に行ったらむしろそんなスキルいらないでしょ?」

 さっくんはそう言う。

 そうでもない。日本は言葉では言い表せない空気というのはあるが、海外だって、ないわけじゃない。

「でもよく頑張ったんだね」

 気安く頭を撫でる。

 大人になったさっくんは女慣れしてる。私がバレエだけを続けていた間、高校進学して、大学へ行ったり、就職したのだろう。いろんな人と出会って、もともと社交的だった彼はこうして私にまで話しかけてくれる。

「頑張ったわよ。バレエだけだから」

 本当に私にはバレエしかない。


 その日、私はサラダにビールを飲んだ。久しぶりに飲んだアルコールは回りが早くて、ご機嫌だった。

「じゃあね」と手を振ろうとして

「危ない」と腰を支えられた。

 自分ではそんなにふらついているつもりはなかったのに、ダンサー以外の男の人に支えられたのは久しぶりだな、と酔っていてもそんなことを考える。

 タクシーを停められて、家まで送られる。その間、ずっと手を繋がれている。その意味が分からなくて、でも聞く勇気もなくて、寝たふりをしていた。

(温かい)

「着いたよ」とタクシーを一緒に降りられるから、一瞬、びっくりしたけど、タクシーはそのまま待たせていた。

「今日はありがとう」と私はお礼を言って、ドアの方へ向こうとした時、抱き寄せられてキスをされた。

 心臓がどきどきする間もなく、その感覚を冷静に判断する。

(この後、どうするの? っているか、どうしたいの?)

 そんな戸惑いも瞬時に終了して、明日、早いことを思いだす。軽く胸を押すと、すぐに唇は離れる。

「あ…」

 言い訳を言おうとすると、分っているというように笑って「またね」と言った。

 そしてそのままタクシーに乗り込んで、私は間抜けな様子でタクシーを見送った。マンションに入ると、解散が早かったせいか、ピアノの音が聞こえる。


 翌朝、むくんだ顔を見て、私はもう二度とビールを飲まないと決心した。美しいピアノの音は相変わらず聞こえてくる。私はその音に耳を澄ませる。どうしてそんなにストイックに練習できるのかしら、と思ってから、一秒後に笑う。他人から見れば自分も同じだ。

 バレエしかない。だからバレエをしている。でも私はバレエが好きだった。踊ることも、飛ぶことも、美しさを表現することも全部が好きだった。

 舞台に憧れた少女時代。初めて主演をさせてもらった高揚感。まだ胸にある。

(大丈夫。できる)

 私はぎゅっと胸の上で手を握って、部屋を出る。

 途中、ピアノの音が途切れたかと思うと、扉が開いて、あのピアニストが出て来た。

「おはようございます」

「あ、おはようございます」と少しぼさぼさの髪を気にするように手を頭に当てた。

 それが見た目の美しさと反して可愛くなって笑ってしまった。

「すみません。整えてなくて。お腹空いてパンを買おうかと」

 並んで階段を下りる。

「いえ。…いつもピアノ素敵だなって思ってます」

「あ、やっぱり響きますよね」

「でも皆さん楽しんでいるようですよ」と私は適当なことを言った。

「後少ししたら、公演に行くので、しばらくは静かになります」

「公演ですか?」

「はい。ポーランドの方に…」

「すごいですね」と言うと、何故か困ったような顔で笑った。

「朝、早いんですね」

「えぇ。バレエで役をもらえたから」

「そうですか。お互い頑張りましょうね」

 何気なく言われた言葉が、初めて嬉しいと感じた。

『頑張ってね』『頑張ってください』と声を掛けられることはある。でも『お互い』と言われたのは初めてで、ずっと抱えていた孤独な気持ちが掬いあげられたようだった。

 一階について、ドアを開けて待ってくれる。

「ありがとうございます。私も頑張りますね」

 薄く笑った笑顔は透明な壁を感じた。

「あ、パン屋さんは角のお店じゃなくて、その先の右側のお店がおいしいですよ」

 そう言うと、また困ったような笑顔を向けてくれた。私は駅に向かって急ぐ。お互い頑張るように。

 春の陽気は空気が冷たくても感じられる。空は淡い水色で、私は顔を上げて歩いた。

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