ラストワルツ
かにりよ
第1話 春のピアノ
春風を入れようと窓を開けるとピアノの音が聞こえる。私はその音に目を閉じて耳を澄ませる。一目ぼれというものがあるのなら、一耳ぼれというのもあるだろう。ドイツの音楽の都だから音楽の留学生も多い。私はスイスにバレエ留学して、幾分か物価のましなドイツのバレエ団に入れた。幼い頃からバレエばかりで、嫌になることもあったけれど、誰よりも上手く踊れるのは嬉しかった。
「
親も先生も褒めてくれた。生まれつき手足が長いのも母曰く「神様に与えられたものだから」とその言葉を信じてずっとバレエを続けた。
最近、イギリス留学からドイツに来たというピアニストが同じアパートに引っ越してきた。軽やかな音が私を躍らせる。
欧米の人に比べると、いくら手足が長いとは言え、見劣りする。ステージで踊る時は少し気後れもした。部屋で、彼のピアノで踊るのは誰もいない私だけの世界で完璧だった。
浮き上がった鎖骨、筋肉以外は皮と骨、長い首。バレリーナらしい体系だ。自分の体を毎朝チェックする。つま先から頭のてっぺんまで。
ショパンのワルツが流れる。その音を聞きながら、私は殆ど具のないスープを温める。キッチンで少し回転をしたりする。
彼のピアノが聞こえて来てから、私は自覚した。
(私はそう、踊ることが大好きだ)
玉ねぎが薄く透明になって泳いでいるスープをカップに注いだ。
バレエ団の稽古場へ向かおうとドアを開けた時、ちょうどパン屋から帰ってきたであろう隣のアンナおばさんにはち会った。
「最近入居してきた人のピアノ、聞こえる?」
「ええ。素敵な音よね」
「それがピアノもだけど、男前だったのよ」
アンナおばさんはこのアパートのことを何でも知っている。
「シホ、彼も独身みたいよ」とウィンクをしてくる。
私は笑って、手を振った。二十六歳という年齢は若いとは言えない。私は最後のチャンスだと毎回エトワールになれるように努力している。恋愛をしている暇はない。
「そう?」
「あなたもバレエもいいけど、若いんだからデートぐらいしたら? あっという間に年取るんだからね」
若い。
私は分からない。
毎年、若いダンサー達が留学してくる。私も中学卒業後に留学した。もう十一年もいるのだから、と結果が出なくて焦ってしまう。小さな賞は頂けた。日本人としては素晴らしいと言われる。そう、日本人としては、という括りがついてしまう。
(私は欲張りだ。もっと、もっと。誰より素敵なダンスを踊りたい)
「じゃあ、行くわね」
「いい一日を」
「あなたも」とアンナおばさんに手を振る。
本当に綺麗なピアノの音が踊り場に広がっている。私のつま先は弾んだ。
その日、一日、久しぶりに軽やかな踊りが出来た。
「シホ、良い事あった?」と周りに訊かれる。
「特にないわ。でも…」
「でもなに?」
「ううん。私、やっぱり踊るのが好きだなって」
「あはは。面白いこと言う」とみんなが笑う。
みんなは口々に体重を気にしながら、何を食べようか、と相談したりしている。私は食べ物に執着がない。小さい頃からバレリーナを目指していたから、おやつを食べることもなかったし、美味しい食事というより必要な栄養素を取るための行動だと思っていた。
ずっとずっと願っていた。
(神様、私をエトワールにしてください。それ以外は何も望みません)
食欲も恋も、何もなかった。
バレエだけだった。
父親は冷めた目で見ていたが、私と母は二人で一緒の夢を見ていた。いつも二人一緒にレッスンに通い、二人でサラダを食べて、二人で歩いてきた。
母と父はそういうことで喧嘩をしたが、いつも私は母の味方をした。
衣装も母の手作り、送迎も母。誰よりも私を分ってくれる。放課後はバレエのレッスンで友達と遊ぶこともなく、バレエではみんながライバルで建前上は上手くやるが、本当に仲良くなるということはなかった。
日本では私はエトワールだった。
海外に来て、私は世界が広いことを知った。それでも必死に努力を重ねた。途中で帰って行く子たちを何人も見た。その後ろ姿を見送りながら、私はそうならない、と心に誓った。留学先のスイスは物価も高く、両親は経済的に苦しくなり、母も私のために働きに出かけた。だからこそ、私は日本に帰らなかった。
練習が終わり、帰宅する時に、例のピアニストと会った。スーパーに出かけたのか、買い物袋を手にしている。アパートの入り口のドアを開けて押さえてくれた。
「どうもありがとございます。日本人の方ですよね。私、五階に住んでる宮田紫帆です」
「そうです。
「いいえ。素敵です。その音で踊ってます。バレリーナなんで」
私は自分が珍しく喋っていることに気がついた。アンナが言うように整った顔立ちに、背が高い。少し色素が薄いのか、髪の毛も茶色がかっていて、目も薄かった。
「じゃあ、失敗しないように弾かないと」
「お願いします」と言いながらエレベーターを待つ。
待つ時間も何だか居心地悪くて、ドイツで分からないことがあれば、と余計なことまで口走ってしまった。
「ありがとうございます」
そう言って微笑む笑顔になぜか影があることに気が付いた。
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