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 私が類のことを思い出さなくなったのは奏叶さんの功績が大きい。日常のあらゆる場所で、奏叶さんの事を思い出すからだ。綺麗な双眸の奥にわずかな軽薄さがある人。自身の美貌を理解しているがゆえの傲慢さが垣間見える、あの強気な視線を。


 私は、初めて類とからだを重ねたときのことを、あまり覚えていない。けれど付き合うきっかけは一夜の情事だった。飲み会の帰り、二次会に行くよりも家で飲み直そうと言われて彼の家に行った。他にも来ると言われたのに居合わせたのは私と類の二人だけで、泊まるつもりはなかったのに、たくさんお酒をすすめられて、だらしなくともひどく酔ってしまって、気づくと服を脱がされていた。過度に酔った頭は既につかいものにならずぼんやりとして、まともに感情を拾うこともままならなかった。ずっとこうしたかった、そんな言葉を彼はつぶやいたけれど、私は、半身の圧迫感によってアルコールを戻してしまわないように、ただひたすら必死で浅い呼吸を続けていた。だから記憶は散漫で、あるとすればつらいという感情だけ。


 けれども、奏叶さんのことはよく覚えている。


 招かれたのは彼が予約している……私が荷物を預けた、彼の部屋だった。怖い?と聞かれて、少しと言えば、彼は私のからだに腕を回し、優しく抱きしめてくれた。


 そう、あの夜、奏叶さんはずっと、優しかったように記憶している。彼は私の髪の毛をいつの間にか解いて、片手一つであやして、やわらかく解した。


 ふと、泣く私を見て『あいつのために泣いてんの?』と、私の裏側を見透かし『あんま、妬かせるなよ』と低く深い声を寄越した。


 それから、自分の思い描く通りになる私を見て、彼はずっと楽しそうにしていた。からかうように私をついばみ、舌先で可愛がり、その涼しい顔が、欲を吐き出す時だけ歪むのを見ればわるいことをしているみたいで、悪人にはなりたくなくて、一度目でやめようとした。やめるのを許さなかったのは、奏叶さんだ。


 あれから奏叶さんはどうしてるだろう。また海外で仕事をしているのだろうか。恋愛は?失恋したと言っていた。好きな人がいるとも聞いた。彼の恋は実ったのか。知る術はあるけれど、その手段を私は選ぼうとしない。


 失恋相手って……もしかして有馬のことじゃないのか。


 脳内に過ぎる“ハテナ”の答えは奏叶さんしか知らない。なのに、その可能性を見捨てることも私は出来ない。




「おはよう、お父さん」


 朝、いつものように店舗である一階に降りると、黒いTシャツと、店名入りの長い腰エプロン姿の父が出迎えた。


「おう、今日は少し遅かったな」

「うん、今日会議で使う予定のプレゼンの資料作ってて。ちょっと徹夜しちゃった」

「飲み会帰りに資料なんか作ったら余計失敗しそうだけどな」

「そんなへましませんよ~、だ」


 カウンターの向こう側で父が笑うので、椅子にコートをかけてその隣に腰を下ろした。いつもの場所で微笑む、写真の中で微笑む母に「お母さん、おはよう!」と言って手を合わせた。父は写真を撮るのが趣味で、その趣味に一番付き合っているのは私と母だ。私が16歳の時に亡くなった母は生前一生分の写真を撮っただろう。おかげでカウンターに飾られた母の写真は日替わりだ。


 母が急逝してからというもの、開店前や閉店作業を手伝うことが私の日課になった。食事以外の家事も可能な範囲でしている。就職してもそれは変わらない。


「あやみ、今日の朝食は何にする?」


 にかっと朝から爽やかに微笑む父は、店主と父、両方が混ざっていると思う。


「ん〜……肉味噌!」

「よしきた。具だくさんで作ってやる」


 私の父は甘やかし上手だ。出勤前のおにぎりとお味噌汁、だし巻き玉子付きの朝食を用意してくれるのだから間違いない。

 後ほどSNSのお店専用アカウントでアップする用の写真を撮って、冷めないうちに手を合わせる。


「んん〜っ……!美味しい……!」


 あつあつのおにぎりを頬張り、磯の香りが芳醇な焼き海苔の粒の立った甘い米を噛み締める。昨夜の疲弊をほんの少し残した身体におにぎりとお味噌汁が沁みる。身体の節々で私はこの島国で生まれたんだとそのルーツに触れる。


「じゃあ、行ってくるね」

「おう、行ってらっしゃい」


 父に見送られ、出勤する。


 オフィスビルの隙間から朝日が差し込み、街全体が青白い光で包み込まれる慌ただしいオフィス街。颯爽と行き交う人々の一人となり、オフィスが入るビルへと向かってヒールを鳴らした。


 回転式のゲートを潜り、乗車率90パーセントのエレベーターを100パーセントにするべく乗り込んで、ドリンクバーみたいに色んな人の香りが混ざったエレベーターを耐えて、上層階のオフィスへとたどり着く。


 都心の一等地に構える高層ビルの一角に、近年世界進出を果たした化粧品メーカー“Ivy”はそのオフィスを構えている。親会社はシャンプーや石鹸と言った日用品から食品、化粧品まで出かける業界最王手の企業で、数ある傘下の中、弊社は化粧品に特化した会社だ。私は広報企画室のオフィスで働いている。


「結城さん、前回の投稿、評判よかったみたいだね」

「おかげさまで。企画を通してくれた部長のおかげです」

「若い子の発信力には適わないな。無理だといわれていた目標もあっさりやり遂げてくれるし……新商品の売れ行きは、もはや結城さんの腕にかかっているよ」

「そんなことありません。力を貸してくださる皆さんあってのことです」


 憧れの化粧品会社に就職できて、しかも、一度は羨む広報室。ただ私は、その年新設されたSNS担当を新卒から任された。就職試験で実家の話しとなり、父が経営する【おにぎり 結び】をSNSで毎日更新して発信し、集客に貢献していることを自分のアピールポイントとしたことを覚えられており、話し合いで決定された。


 必死だった。実家の飲食店は半分趣味のようなもので気軽に、炎上に気を付けて発信できたけれど、仕事となれば別だ。どう運営すればいいかわからないのに「若者に一番近い、フレッシュな君に任せるよ!」と、押し付けられた言葉がさらにプレッシャーになった。


 SNSのアカウントは自分の分身のようなもの。顔も分からない、性別も年齢も、住んでいる地域も知らない第三者から気軽に石や卵、時にはナイフを殴られた気分になる日もあった。美容アカウントを徹底的に調べた。共感について、言葉の表現について、何冊も本を読んだ。情報経営論の講演会にも参加した。寝る間を惜しんで練った企画は鼻で笑われた。たまにバズると「楽でいいよね」「写真撮ってあげるだけだもんね」と、労力に対して軽めの賛辞をくれた。


 努力の甲斐あって四年で30万フォロワーまで成長させた。社内表彰された。けれど、今でも過小評価は変わらず「私もSNS担当がよかった」と同期は飲みの席で簡単に言われるので「いつでも変わるよ」と答えている。なお、本気で変わってくれた人はいない。


「あ、そうそう。共同開発商品のプレリリースの日が決まったよ」

「本当ですか!いよいよですね」

「結城くんにも期待しているよ。今日、産休に入られる方の後任の方がいらっしゃるそうだからくれぐれも頼むよ」

「分かりました」


 部長から労われ、自分のデスクに座る。弊社は二年前、とある大手ブランドから化粧品の共同開発のオファーが届いた。大いに賑わった。上層部で打ち合わせが重ねられ、ようやくプロジェクトの方向性が決定し、開発に向けての共同会議が始まった。


 私は、開発の時点から会議の同席を求めていた。より生の声を発信したいと希望したのだ。こんな共同開発の現場に居合わせる機会めったにない。完成された商品だけをピックアップするのではなく、ぜひ会議の時点で同席し、開発に掛ける生の声も発信したいと提案したのだ。

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